季刊かすてら・2005年夏の号

◆目次◆

奇妙倶楽部
軽挙妄動手帳
編集後記

『奇妙倶楽部』

●発明王の地図●

 国の名は残紫(ざんし)。二人の兄弟が治めていた。南方には更に暑い国もあったが残紫も暖かい国で国民は雪を見た事がなかった。土は肥え水は豊かであり暖かい気候のため食物は良く獲れた。しかし、鉱物資源や貴金属は産出せず珍しい特産品もなかった。背後を密林に囲まれ、前方に広がる海も遠浅で大きな船が着ける港を作るのは難しく、他国との交通は不便であった。そのため外国の注意を引く事は少なく、ごく希に旅行者がある以外貿易も外交もほとんどない。最後の戦争があったのは祖父王の代で兄弟王は戦争を見た事がなかった。温暖で肥沃な土地の住民がしばしばそうであるように残紫の国民もひどくのんびりした性格だった。争い事は少なく統治はた易かった。兄弟王は暇を持て余し発明道楽にいそしんだ。兄王は着想に優れ、弟王は機械設計に優れていた。二人が工夫した機械を製作するために数十人の鍛冶、石工、木工の職人が抱えられていた。二人の発明した物は数知れないが、中でも自慢は惑星の運航を模擬(シミュレーション)した天象儀だった。大地を中心にさまざまな天体が天球上に配置された宇宙模型で、幾つもの輪や円盤が歯車仕掛けで連動して動き、惑星の運航を再現して見せた。しかし、流石の兄弟王も太陽を中心に置けば、もっと単純な仕組みで惑星の動きを再現できる事にまでは思い至らなかった。この例で判るように二人の発明品はあまり実用的な物ではなく、二人の興味を満足させる事を主な目的としていた。兄王は二十二歳、弟王は十九歳になっており、後宮に多くの寵姫を置いていたが、相変わらず発明に現(うつつ)を抜かしていた。二人が今取り組んでいるのは地図の一種である。移動しながら常に自分の位置が中心に表示される地図であった。特定の道を往復するための物は簡単にできた。それは一種の荷車で、車輪の動きから距離を割り出し、それに合わせて長い紙に描かれた地図が巻き取られていく物であった。二人はこれを牛に引かせて移動したが、常に周辺の地図が表示されるので非常に便利な物であった。二人の発明品としては珍しく実用性があり、主な街道毎に一台ずつ牛車が置かれ、物売り、運送などに利用された。脇道に入ると使えなかったが、これは地図を差し替える事である程度克服された。この装置の国民の評判は良く、気を良くした二人は更なる改良を加えようとした。街道に関らずに何処でも使え、地図を差し替える必要もない物を作ろうと思ったのである。地図を巻き取るという方法では無理な事はすぐに判った。縦にも横にも巻き取る、という事は不可能だからである。最初に考案されたのは拡大鏡を使う方法であった。凸レンズや凹面鏡を使えば小さな物を拡大して映し出せる事は既に知られていた。拡大鏡の下に小さな地図を置き、牛車の移動に合わせて動かして常に自分を中心とする地図の部分が拡大表示されるようにする物であった。この方法もすぐに限界に突き当たった。この当時、残紫では未だ硝子(ガラス)は製造技術が未成熟で、レンズは水晶などの透明な鉱石を磨いて作っていたため、あまり大きな物はできず拡大率も低かった。このため地図を見るにはレンズに目を当てて覗き込まねばならず、非情に見づらい物となった。この問題を克服するため弟王は幻灯の技術を採用し、車全体を黒い天幕状の物で覆って光を遮断し、内側に取り付けた画面に地図を投影した。これによって地図はかなり見易くなったが拡大率の低さは依然として解決されなかった。牛車に乗せる事ができる地図の大きさには限りがあり、拡大率の低いレンズでは僅かの面積しか対応できなかったのである。大きな地図は差し替えるのも大変だった。この問題を解決したのは兄王である。大きな地図を使うのではなく、歌留多の札のような小さな地図を多数用意し頻繁に差し替える事を発想したのであった。さっそく二人は移動に伴って自動的に札を差し替える装置の開発に取り掛かった。弟王にとってその機関(からくり)自体の工夫は難しい事ではなかった。木製の腕と指を歯車や発条(ばね)で組み合わせた機械の手で、札を摘まみ取って差し替えるのであった。試作品もすぐにできた。確かに設計した通りに動いたが実用性があるとはとても言えなかった。まず耐久性が低くすぐに壊れた。細い棒や小さな歯車を多用し、糸で吊ったり引いたりする機械の手は部品の数が多くあまりにも繊細だった。また正確さにも問題があった。一本の街道を往復するのとは違い、この装置では距離の他に方向も車輪の動きから割り出さなければならないが、この精度が低かった。長く移動すると誤差が蓄積して実際の場所と地図の表示は位置も方向も出鱈目(でたらめ)になった。車内は遮光されて外の景色が見えないので、肉眼で修正する事も困難だった。牛の動きが速すぎて機械が付いて行けないのも故障と誤差の一因であったので、弟王は牛で引くのを止め人力で動かす事にした。踏み板を両足で交互に踏んで漕ぎ、車輪を回転させるのである。機械の動力も全て車輪の回転から得ていたので踏み板を漕ぐには大きな力が必要だった。遮光のため分厚い黒幕で覆われた車内は風通しが悪く、残紫の気候では何もしなくても汗が吹き出すほどの暑さになった。踏み板を漕ぎ続けると汗が滴り気が遠くなった。多数の歯車を組み合わせ、梃子の原理で僅かの力でも漕げるように改良したが、今度は速度が著しく遅くなり、外から見る者は立ち止まって暫く見詰めていないと動いているのかどうか判らなかった。兄弟王は試作車を作っては試走(と言うよりも試這)を繰り返した。椀を伏せたような形をした黒い大きな物が、太陽の動きに連れて影が動くような速度で僅かずつ僅かずつじりじりと動いて行くのを王宮の周辺で毎日のように国民は目にした。王たちの奇矯な発明には既に慣れていて、見掛けても、ああまたかと思うばかりである。その大きな椀の中では兄弟王のいずれかが暑さ故に裸形となり、足下に汗の水溜まりを作りながら踏み板を漕いでいた。踏み板を踏む力は僅かで済むようになったが風通しの悪さは相変わらずで車内には熱気が籠った。その上、幻灯の光源には油のランプを使用していたので炎が熱を発し、更に漕ぎ始めると作動する機械が摩擦熱を発し、漕ぎ手の体温までもがそれに加わった。移動による誤差の蓄積はなかなか解決されなかった。そのため試作車はしばしば木や岩や建物に突き当たったが速度が遅いので事故にはならなかった。外が見えない漕ぎ手は、前に進めなくなったので物に当たったのだと気付くだけである。しかし、池や川に落ちた事は数回あった。落ちそうになったら見ている者が教えてやれば良さそうな物だが、何しろどちらに進んでいるかを判断するには暫く見続けなければならない上、国民は南国特有ののんびりした性格なので、気付いても落ちるまでぼんやりと見ているのだった。椀を伏せたような形の車は上も横も視界が遮られるが下方は開いているので注意していれば池や川の岸に来たのは漕ぎ手に判るはずなのだが、暑さに朦朧としているためにそのまま進んで落ちるのである。誰もが傍観している中、ただ一人忠告したのは十二になるひねくれ者の妹姫であった。
「意味がないわよ全く。地図を持って歩いた方が楽だしずっと速いじゃないの」
 正論であった。兄弟王の言い分はこうである。
「改良を積み重ね、いずれは小型化して持ち歩けるようにする」
 職人型の弟王は地道な改良を繰り返したが、ひらめき型の兄王は漕ぎ手の交代要員以外にあまりする事がなく退屈の虫が騒ぎ出し、新たな発明品の開発に取り掛かった。同様の物を船で造れないかと考えたのである。既に羅針盤は知られていたが、天然磁石を産出しない残紫では手に入り難かった。残紫の船乗りは外洋航海で方向を知るのには星や太陽に頼っていたのである。また、羅針盤で判るのは方向だけで距離や位置は判らない。常に自分が中心になる海図があれば、その便利さは計り知れなかった。しかし肝心の距離を測る方法がなかった。船には車輪がない。そこで、兄王は灯台の利用を考えた。灯台の位置で方向を、光の強さで距離を割り出そうというのである。灯台の見える場所でしか使用できないが、将来的には錨で固定した浮灯台のような物を外洋にも設置しようと思っていた。しかし、未だ電気はもちろん石油も瓦斯(がす)も利用されていないこの時代、遠くまで届く強い光を安定して発し続ける光源を作るのは困難だったし、光の強さを正確に測定し、そこから距離を割り出す事は更に困難だった。そこで兄王は発想を変え、灯台が間を置いて繰り返し光を発すると同時に大きな音を出し、光と音の到着のずれから距離を割り出そうと考えた。雷の光と音のずれから、光の方が音よりも速く進む事には気付いていたのである。残紫の遠浅の海に三つの灯台を建て、実験を開始した。灯台の天辺の部屋の中央では炎を焚いて置き、大きな水時計を利用して一定時間毎に窓を開いて光を発すると同時に大きな太鼓を叩いて音を発する装置を設置した。この程度なら弟の手を煩わせるまでもなく自分で設計し職人に作らせる事ができた。太鼓の音色はそれぞれの灯台で違っており、光を見、音を聞くための見張り番を三人船に乗せて、光と音の到着時間の差を記録させた。理論的には三つの灯台からの距離が判れば船の位置は割り出せるはずである。時間を計るのには砂時計を利用したが、揺れる船の上で砂の量を正確に読み取るのは至難の業だった。見張りがその技術に習熟する前に実験は中断した。呑気な残紫の国民であったが、太鼓に驚いた魚が皆逃げてしまうのには漁民が閉口し苦情を申し立てたのであった。兄王も人の力で光と音を読み取る方法は気に入っていなかった。機械で自動的に割り出したかったのである。兄王が次に考えたのは糸を使う方法だった。それぞれの灯台に糸の端を結び付けて置き、船に取り付けた糸巻から移動に伴って糸を繰り出す仕掛けである。糸をぴんと張って置けば繰り出された糸の長さが即ち灯台からの距離である。糸を常に真直ぐに張って置くためには、弛まないように糸巻に巻き戻る力が掛かっていなければならない。力の加減が難しかった。常に糸をぴんと張って置くほどに強く、糸を切ったり船を引き戻したりしない程度に弱い力でなければならなかった。最初は護謨(ごむ)や金属の発条を使おうと考えたが、ねじられた護謨や発条が元に戻ろうとする力は、ねじれが進むと共に強くなっていくので上手くいかなかった。兄王は水車を利用する事でこれを解決した。糸巻の軸に水車を取り付け、流れ落ちる水の重みで糸巻を巻き戻すのである。海上の事とて水車を回す海水に不足する事はなく、時折汲み上げるだけで安定した力を出す事ができた。次の問題は丈夫で細く軽い糸を見付け出す事である。外洋航海にも使用するとすればその長さは大変な物になり、細く軽くなければ船にとって負担となる。尚且つ長距離を引き回しても切れない丈夫さを持ち、海水に濡れ潮風に曝されても変質しない物でなければならない。兄王はありとあらゆる植物の繊維、鳥や獣の腱を試してみたが、満足のいく物は得られず、探し始めてから一年半も経った頃、漸くそれを発見した。それは密林の奥深くに棲む大人の掌ほどもある巨大な毒蜘蛛の紡ぎ出す糸だった。その巣を取り外して粘りを洗い落し、数本を撚ると絹糸よりも丈夫になった。引っ張る力に対しては充分な強さがあったが摩擦にはやや弱く、兄王はやはり密林に生える南洋杉の一種が分泌する脂(やに)を油で溶いた物を塗布してこれを克服した。兄王は王宮の外れに毒蜘蛛の飼育場と製糸工場を造った。毒蜘蛛は珍しい生き物で密林でも滅多に見付からなかった。丈夫な生き物なので飼育自体は簡単だったが繁殖力が低くなかなか数が増えなかった。おまけに糸を洗い紡いで樹脂を塗るのは大変な手間であった。兄王は国民の中から手先の器用な者を選び出して従事させたが、国民ののんびりした、有り体に言ってしまえばやや怠惰な性格もあって生産性はあまり上がらなかった。また、蜘蛛の扱いを間違えるとその毒で怪我をしたり場合によっては死ぬ事もあった。兄王は作業者に高給を与えたが、怠惰な国民はこの危険な職業に就きたがらなかった。そのため、実験に必要な量の糸が得られるまで毒蜘蛛の発見から更に二年を要した。もちろん、この間も弟王の車の改良は休む事なく続けられていた。ちなみに、この糸および糸で作った織物は残紫国の特産品となり輸出が富を齎(もたら)すのだがそれは遥かな未来、兄弟王の死後の話である。こうして得た糸を使った実験が開始された。糸を繰り出す仕組みその物は、札を差し替える仕組みに比べれば単純な物で故障も少なかったが、やはり誤差が問題となった。距離が長くなると、ぴんと張らずに糸自体の重さで撓(たわ)んでいくのである。この撓みは予想して織り込む事もある程度できたが、風による撓みは安定せず対処が難しかった。兄王は解決法方を求めて実験を繰り返した。ある良く晴れた日の午後、海上で実験をしていた兄王の船は突然の突風に煽られて転覆した。兄王は泳ぎを良くしたが、水中で丈夫な糸が首に絡まり浮き上がる事ができずに溺死した。何と愚かな、と妹姫は思った。莫大な金と膨大な時間と多大な労力を費やして役に立たぬ物を作った挙句、その発明品に縊(くび)り殺されてしまうとは。弟王はふやけた兄の遺体の前で号泣していた。妹姫はこれで独り生き残った兄の発明熱も冷めるだろうと思った。しかし弟王は、必ずや地図の車を完成させて見せると泣きながら兄に誓って、後ろに立つ妹を呆れさせた。元々職人型の弟王は地道な努力を苦にせず、僅かな改良を積み重ねていった。配下の職人たちも残紫国民らしい怠惰な性格とはいえ、やはり技能を職とする者で物を造る事に興味はあり、さまざまな工夫を発案して王に示した。兄王が死んで六年が過ぎようとする頃、車は一応の完成を見た。長く移動を続けても壊れにくく、速度も老人がゆっくり歩く程度にはなった。誤差も、漕ぎ手が疲れて休む時ついでに外を見て修正すれば問題にならない程度に少なくなった。弟王はこれを兄の墓前で報告したが、もちろんこれで開発が終わった訳ではなかった。車内の暑さも解決されていなかったが最大の課題はその大きさである。車は大きく、密林に設けられた猟師小屋の中にはこれより小さい物もあった。妹姫の言う通り、製本された地図を持って捲りながら歩いた方がどう考えても楽だし速かった。弟王はより小さく軽い物を目指して新たな車を設計し、試作し、試走する事を繰り返したが、開発は遅々として進まなかった。妹姫が悪戯を思い付いたのは退屈故である。少なくとも発明や機械製作に関しては誠実な兄たちと、この臍曲がりの妹との間に似た性格はなかったが、奇妙な事を思い付く能力だけは共通していたようであった。この時代は残紫に限らず世界中の何処でも神や妖怪の存在が信じられていた。未だ科学と宗教が未分化だったのである。残紫では、天国や地獄のような異世界ではなく、地続きの大地に妖魔精霊が棲む魔法の世界があると信じられており、神話によるとそれは国の背後に広がる密林の向こう側にあった。その日も外の見えない車の中で幻灯に映し出される地図だけを頼りに踏み板を漕ぎ続けていた弟王は、突然自分がその魔物の国に居る事に気付いた。暑さに朦朧となりながら漕ぎ続ける内に迷い込んでしまったのだ。そう思った。地図の表示によれば、弟王が居るのは残紫国民が最も恐れる人面鳥身の人を食らう魔物の住処の真っ只中だった。弟王は震え上がった。人喰い鳥に発見されるのを恐れて車の外に出る事も儘ならず、一刻も早く魔物の国を抜け出し帰国しようと地図を頼りにさ迷った。しかし、幾ら踏み板を漕ぎ続けても残紫に帰り着くことはおろか魔物の世界を脱出する事もできなかった。弟王は暑さに汗を流しながら同時に恐怖に震え、必死で踏み板を漕ぎ続けた。魔物の注意を引きたくないので大声で助けを呼ぶ事もできず、外で物音がすればこちらは動きを止めて息を潜め、音が去るのをじっと待つのだった。元々車にその土地の地図札は装備されていなかったのだから、そんな地図が表示されるはずはない事は、少々浮き世離れしているが聡明な弟王に判らないはずはなかったのだが、何時までたってもそれに思い至らなかったのは、やはり暑さが思考力を混濁させていたのであろう。妹姫が地図札を擦り替えていたのである。弟王は恐怖に眼を剥き顔を引き攣らせた必死の形相であったが、厚い黒幕を被せた半球状の車の中は外から見えなかった。国民たちは大きな黒い椀を伏せたような物がのろのろ動いているのを見ても、ああまたかと思うばかりである。やがて車の動きは止まったが、以前は動いているのか止まっているのか判らぬ速度だったのをのんびりした国民たちはまだ覚えており、別に怪しむ事もなかった。王宮では何日も王が戻って来ない事を家臣たちが流石に気にし始めていたが、実験の邪魔をする事は厳しく戒められていたので、車に手を出す事はできずにいた。残紫国民の例に漏れず呑気者揃いだった家臣たちの間にも漸く不安の色が濃くなり出したのは、王が車に籠ってから十日も経った頃だった。この頃には家臣たちも王の黒い車が完全に停止している事には気付いていた。落着きをなくした王宮の中で、妹姫一人がなぜか上機嫌だった。実は、弟王は車の改良に専念していて政治向きの事は全て家臣に任せていたので、王が居なくても統治にはどうと言う事もなかったのだが、遂に王に最も忠実だった老家臣が叱責を覚悟の上で食事と水を持って車の外壁を叩いた。
「王様。もし。王様」
 三度叩いて三度呼んだが返事がなく、老家臣は意を決して幕を捲った。水も食料も豊かなこの国の真ん中で、弟王は干乾びて死んでいた。こんな風になるまで車外に出なかったのは、飢渇の苦しみよりも魔物への恐怖が勝ったからという訳ではない。通気の悪い車内でランプを燃やし運動をし続けたために酸欠になって身動きできなくなったのである。こうして、世界で最初のカーナビゲーションシステムの技術は廃れた。この後、王位を継いだ意地の悪い妹姫によって残紫国は大混乱に陥るのだが、それはまた別の物語である。

●秘密集会●

出席者 さらさら:女子小学生
    かすてら:男子落伍者
「(『雨の中の二人』の節で)♪雨があ〜祇園精舎の鐘の声ぇ〜、恋はあ〜娑羅双樹の花の色ぉ〜」
 あ、さらさら。滅茶苦茶な歌歌いやがって。大体選曲も替え歌も小学生らしくないよ。
「ほら、あたし棟方志功の生まれ変わりだから。おら、埼玉のゴッホになるだ」
 だから小学生らしい冗談言え。
「お手々の皺と皺を合わせて皺寄せ。なーむー」
 それが小学生らしい冗談か。
「違ったかしら」
 何しに来たんだお前。
「あら、御挨拶ねえ。しんちゃんが来られないから代わりに来てあげたんじゃないの」
 何だ、新之輔忙しいのか。
「かすてらの所為だって言ってたわよ」
 うっ。
「あんまりしんちゃんに頼っちゃ駄目よ。あたしが手伝ってあげるから。今度は何」
 地図を主題にした話を考えてるんだ。発想のきっかけになりそうな言葉を作ってあるんで一緒に考えてくれ。
「了解」
 最初は『腹話術地図』。
「違う所から声が出ているように聞こえるのが腹話術だから…。騙し絵みたいな物かしら。地図には見えないけど実は地図、みたいな」
 何が地図だったら面白いかな。
「地図じゃない物を地図だと思い込んでいる、というのも面白い。宝の在処が隠されていると思い込んで血みどろの争奪戦が行われるけど、実は宝は地図自体でした」
 それじゃ綺麗に纏まり過ぎる。何か山彦みたいな物ができねえかなと思うんだが。
「残像ね。残像地図。サブリミナルはどうか知らん。サブリミナルマップ。無意識の水準に刷込まれていて意識できないの」
 自分でもなぜだか判らないんだけれどこっちへ行こうと思う。行くと何があるんだ。
「また地図」
 半村良の処女作は人間を一ヵ所に集めて収穫する話だったが。
「実は残像だと思っていた方が現実で残像は自分の方でしたっていう落ちは」
 悪くないけど、何か別の発想と組み合わせないと弱いな。次は『機械地図』。
「カーナビ?」
 いや、そういう電子的な装置じゃなくて機械的に動く奴。
「歯車や軸が一杯あってがっちゃんがっちゃん動くのね」
 そうそう。
「天象儀ってあったわね。天体の運行を模擬できる奴。地球が中心になってるから無闇に複雑なの」
 そうだな。そういう相対位置が変化する物を模倣するんなら機械にする意味があるよな。
「交通機関とか」
 それじゃ鉄道模型だ。
「かといって人や動物は動きを予測するのが難しいっていうより不可能だし。何か、人の動きを数学的に予測するっていうのがあったわね」
 ああ。アシモフだろ。統計学と集団心理学の応用で歴史が予測できるという。
「機械的に再現するのは無理そうね。中世の人が当時の技術だけでカーナビを作ろうとするのはどうかしら」
 カーナビって、そもそも車が馬車しかねえのに。
「だからね、常に自分の位置を中心に表示する地図のような物よ。例えば四方を紙芝居みたいな画面で囲んで、動いた分だけ地図が巻き取られて行って常に今いる位置を中心にした地図が表示されるの」
 車輪が付いていて軸の回転数で距離を測るんだな。線上を往復するだけなら可能だが広く二次元的に動く物は作れないな。
「巻き取るのじゃなくて一定距離毎にカードを差し替えて幻灯で投影するのはどうかしら」
 ジュークボックスみたいに機械的に差し替えるんだな。それだと四方に画面を付ける必要はない。前方だけに付けて置いて横を見たらまたカードが替るようにすれば良い。向きはどうやって測定するんだ。ジャイロの原理は中世に知られていたのかな。
「いずれにしても大掛かりな装置でしょうね」
 馬で牽くのかな。
「あんまり速く動くと機械の動作が追い付かない。動力源は何かしら。蒸気?」
 車輪が動いた分だけ発条を巻く。幻灯で映すんだから装置の内部は暗いんだろうな。
「窓がないから外が見えない。映し出された地図がずれていても判らないわね」
 窓のないドームみたいな物が馬に牽かれてゆっくり動く。そして自分が思っている場所には居ない。
「速く動かないのなら馬じゃなくても良いわ。驢馬とか牛車とか」
 絵的には象が面白いけど。自分で歩いたって良いよな。完全に人力。
「自転車みたいなペダルがあって梃子の原理で重いドームを動かし、同時に機械に動力を齎(もたら)す。意味がないわね全く。地図持って歩いた方がずっと楽だもの」
 いずれはもっと小型にして馬車に乗せようという。船にあれば便利だろうが距離を測る方法がないな。
「GPS」
 それがあればこんな物は作らない。昔は灯台がGPSの人工衛星の役割をしていた訳だが。灯台と連携するのは難しいだろうな。
「光を反射させて発光から反射光が戻って来るまでの時間を測る」
 レーザーの技術がないからなあ。
「レンズを使えば平行光線は作れるでしょう」
 どうかなあ。いずれにしても反射光を捕えた瞬間を記録する方法がないし、灯台の反射板を常にドームの方に向けて置くのも難しいよ。むしろ灯台から光と同時に大きな音を出してもらって光と音の到着のずれで距離を判断した方が良いんじゃないか。
「騒がしいわね。自動的に記録するのも難しいでしょうから見張り役が何人か必要だし。灯台との間に常に糸がぴんと張っているようにするのはどうかしら。ドームから何本もの糸が放射状に延びていてその長さを測るの。糸がぴんと張るように糸巻の軸に巻き戻す力を掛けて置けば良いのでしょう。それで巻き戻されたり繰り出されたりする糸の長さを測るの」
 糸が引っ掛かる障害物は全部取り除いて置かなきゃならんな。海上ならできるかも知れん。灯台のある島に囲まれた海域。理屈で言うと糸は三本あれば位置を特定できる。
「幻灯の光源は何かしら。電気はないのでしょう。蝋燭?」
 油を使ったランプかな。瓦斯が燃料として使われ始めるのはいつ頃だっけ。
「ドームは窓がないから火を使うと暑いでしょうね」
 機械の摩擦廃熱もあるしな。
「操縦者は裸ねきっと。通気にも気を付けないと」
 酸欠で死ぬのが落ちかな。
「目的は死ぬ事だったりして。すごく手の込んだ自殺」
 わはは。馬鹿馬鹿しい。
「ドームを知らない人が見たら何だと思うかしら」
 UFO。
「飛ばないUFO。地上や海上を這い回る」
 未確認歩行物体。
「中世や古代の人だったら神秘的な妖魔精霊の類だと思うかしら」
 いくら古代人でも動いてるのを見りゃあ中に人か動物が入っている事を疑うだろう。
「作ったのはどんな人。財力と科学知識がある訳でしょう。機械は人に作らせるにせよ自分で鍛冶仕事をするにせよ」
 王様とか貴族とか。
「そうね。幾らお金があっても盗賊はこういう物は作らないでしょうね」
 まあ昔は王様なのか盗賊なのか曖昧な事もあっただろうけど。
「じゃあ、領民はそれが王様の道楽だと知っている訳ね」
 また始まった、とか思ってんのかな。
「裸の王様だわ。愚者には見えない。て言うかドームの中だから誰にも見えない。誰かが悪戯でカードを摺り替えちゃったらどうかしら。外が見えないから自分が知らない土地に来たと思うんじゃない」
 外に出て確かめるのは簡単だろうけど、外に出られないような恐ろしい場所だと思わせる。王様は裸で震えている。
「さ迷った挙句に酸欠で死んじゃう」
 こうして世界最初のカーナビゲーションシステムは朽ち果てたのでした。次は『意味地図』。
「地図の意味じゃなくて意味の地図ね」
 そう。
「単純に考えると類語辞典みたいな物よね。こう、意味の分類と関係を表した関係図みたいな物。やっぱり言葉を探すために使うのかしら。チャート式類語辞典」
 地図の使用目的は、目的の物の在処を探す事と目的地までの経路を探す事、が主だよな。
「そうね。その外には統計地図みたいな物もあるけど、共通しているのは、ある場所にどんな特徴があるか、が表されている事よね。だから特徴から場所を捜したり場所から特徴を知ったりする事ができる」
 意味地図は意味の場所が表されている訳か。意味の場所って何だ。関係、みたいな事か。
「だって、意味って関係の事でしょう。言葉の意味と言ったら、その言葉が他の言葉や物や事とどんな関係にあるか、という事だわ」
 お前、やな小学生だな。意味という言葉には他の意味もあるだろう。
「価値っていう意味でも使うわね。あたしたちの会話には意味がない、とか」
 主題と言う意味もあるな。この作品の意味は、とか。あんまり発想が広がらないな。チャート式類語辞典じゃ詰まらないし。
「小説に書くより実物作った方が面白そうね。ワーカムってあったでしょう」
 神林長平だな。文章作成支援装置。ワープロが知性化したような奴。自分が何を書きたいか教えてくれる。
「あれを素朴な技術でできないかしら」
 機械でがっちゃんがっちゃん?
「そういうんじゃなくて、チャート式に質問に答えながら進んでいくと自動的に立派な文章ができ上がる、みたいな」
 俺はそれが欲しいよ。つーか、実は新之輔やお前にそれを期待しているんだ。
「ひどいっ。あたしを利用したのね。絞り取られて捨てられるんだわ」
 お前も楽しんでるだろ。
「えへへー。でもあんまり上手くいってないわね。しんちゃんと話している内にできた小説ってないでしょう」
 まあな。でも刺激にはなってるよ。
「しんちゃんじゃ上手くいかないからあたしを造ったの?」
 俺はお前の父親じゃないよ。
「でもママはかすてらがお父さんかも知れないって言ってたよ」
 そういう冗談は言うなっ。
「違う意味のパパにしてあげようか」
 馬鹿野郎。どんな小学生だ。意味地図も地図と言うからには地べたとの関連が欲しいよな。
「地面の意味…風水?」
 あれは要するに地面の気功だろ。人間も土地も気の巡りを整えると健康になるという。
「中国って魔術や神秘主義も論理的よね。神様の御機嫌が悪いから、とかそういう気まぐれな事じゃなくて、何がしかの因果関係があって操作の手順がある」
 漢民族は合理的なんだろうな。近代西欧の合理とは違うんだろうけど。大体類推だよな。人間の体を土地に当て嵌める、みたいな
「宇宙は亀さんに喩えられるわよね。あれも天が湾曲していて地面が平らなのを亀の背中の甲羅とお腹の甲羅に当て嵌めているのよね」
 いずれにせよ地面の風水的意味を描いた地図というのは既にあるだろう。知らんけど。
「機械的にがっちゃんがっちゃんて動く地図にすれば。風水的状況が模擬できるの」
 中国の地震予知装置があったな。作り物の竜の頭が沢山並んでぐるりと輪を描いていて、咥えている玉を落っことした方で地震が起こるという。風水ではない何かの状況を模擬していると面白いんじゃないかな。
「今から風水の事を調べるのが面倒なんでしょう」
 むっ。まあ、それもある。
「意味地図と言うからには何か言葉と関係があるのかしら。あるいは哲学思想とか」
 哲学地図は欲しいよなあ。お前、現代哲学の全体像って思い浮かぶ?
「(黙って首を左右に振る)」
 なあ。判んねえよなあ。細分化された個々の分野はある程度見えるのに、全体の構成みたいな物が判然としねえんだよなあ。何か哲学的な話題に興味を持ってもそれが全体の中でどういう位置にあるのか見えてこなくて居心地が悪い感じするんだ。
「全体を見ようとしないで手の届く範囲で処理すれば良いのじゃないの。ドゥルーズとガタリの言うリゾームというのはそういう事でしょう」
 まあ、そうなんだけど。大体ドゥルーズは第一者を立てないんだ。西欧哲学では珍しく究極を問題にしない。端っこはないと思っているんじゃないかな。始まりを見付けようとすると無限に後退してしまうと思っている。だから自分のいる所から四方八方に広がって行く。
「全体というのも一種の端っこでしょう。詰まり究極」
 そうだな。真ん中、とかな。
「拠り所がないから不安定な感じがするけど、だからこそ変幻自在である、というのが遊牧民(ノマド)の思想でしょう」
 そう言われればそれで良いような気もするし釈然としない気もするし。
「ドゥルーズとガタリの思想の良い所は誤魔化しが効く所よね。哲学的な議論に有り勝ちな厳密に一致しないから駄目だ、みたいな事にはならなくて、この辺には目を瞑って手を打ちましょう、みたいな事ができる」
 緩いんだ。遊びがあると言うか。
「だからドゥ・ルーズ」
 駄洒落かよ。遊牧民にも地図は要るだろう。
「でも砂漠には目印がないから」
 砂丘の位置なんか風でどんどん動いちゃうもんな。星と太陽が道しるべ。
「大洋の船と同じね」
 待ち合わせは難しそうだな。でもおおよその当たりで動く訳にもいかんよなあ。移動距離が長いから角度が一度ずれたら飛んでもない所に行っちゃうだろう。
「私たちには均質に見えるけど砂漠にも地相があるのかも知れないわね」
 風水で。
「ダウジング」
 こっくりさんとか。砂漠に眠る意味を描いた地図か。難しいな。その意味をどうやって拾いあげるか。
「そもそもそこにあるのはどんな意味か」
 最初に戻った。別の発想と組み合わせないと無理かな。
「これまでの発想と組み合わせると、意識下に眠るサブリミナル地図を呼び覚ます事を支援する心理学的呪術的地図機械。悪くないんじゃない」
 意識できない心の奥底に地図があるという事が前提だな。宗教みたいな物か。
「魂は浄土への道を知っているのだけど意識的には思い出せない」
 それを呼び覚ますための怪しい道具や儀式があるのか。次『地図いじめ』。
「何じゃそれは」
 いや、俺にも判らんけど。
「地図でいじめるんじゃなくて地図をいじめるのね」
 多分。
「お前の言う通りに歩いても目的地に着かないぞって怒る」
 米国の地図を見て埼玉の道が判らないって怒る。
「迷子のカーナビ」
 わはは。いじめられた地図は仕返しを考えるかな。ループに誘い込んだり。
「自殺したりして」
 今流行の誘い合って集団で。地図同士でいじめたりいじめられたりするかな。
「地球儀は差別を受けている。あいつは地図じゃない。模型だ。でも地球儀はマゾなの。いじめのための地図ってできないかしらね」
 いじめる相手を探すのか。
「話題のいじめスポットを紹介する」
 地図いじめと言うよりいじめ地図だな。
「いじめ易い人を紹介する」
 酷い。少数民族とか差別されている人。
「それから弱い人。体の弱い人。立場の弱い人」
 ネットで示し合わせて一斉に集中して。本当にありそうで嫌だな。
「いじめのための地図と福祉のための地図って似ているわね」
 どちらにも弱者の位置が描かれている。基本的には同じ物だな。
「古い地図ってどうやって処分するのかしら。地図供養はないのかしら」
 今、古地図は人気あるだろう。
「じゃあ地図の地位が逆転する事もあるわね。情報が古いといじめられていたのに古さも重なって来ると価値が出て威張り始め、新しい地図をいじめ返す。かすてらも高校生の時の地図帳とか持ってるでしょう。ソ連が描いてある奴」
 俺のは価値がないよ。太平洋にムー大陸が描き込んであるから。
「そういう事するからいじめられるんじゃないの」
 次『地図映画』。
「地図を撮った映画」
 地図が映し出される、延々と。
「旅行の計画立ててるのかしらね。カーナビの画面がずっと映ってるとか」
 それでいて波乱万丈で観客を飽きさせない。
「最近のカーナビは喋るから利用者と喧嘩になったりする事はあるわね」
 俺は蕎麦屋に行きたいんじゃない。
「でもここの蕎麦は名物ですから食べておかないと後悔しますよ」
 いちいち干渉して来る。コントには成るな。
「最近は自動販売機とかいろいろな物が喋るから困るわね」
 困らねえだろ別に。地図としての映画。
「画面を見ながらその通りに進む。地図と言うより案内ね。DVDの表に地図がプリントしてあるのはどう。それで録画されている映画の内容とは無関係なの」
 何じゃそれは。
「本当は映画なんだけど自分は地図だと思い込んでいる」
 映画撮ろうとしていたのにでき上がってみたら地図だった。あるいは地図のための映画。
「地図に見せる。ポルノとか」
 主人公は地図なんだろ。
「地図が二枚ベッドに入ってる。地図に男女はあるのかしらね」
 捻子には雄雌があるけどな。二枚組み合わせて使う地図。アニメのセルみたいな透明なシートに描いた図や文字を重ねる奴はあるけど。
「パズル的に組み合わせて使う地図。切り込みを相互に差し込んだりして」
 知恵の輪地図。どんな意味があるんだ。
「実際に町もそうなってたりして。状況に応じて変形する町なの」
 町は無理だろうが建物ならできるかな。歌舞伎の回り舞台みたいな物があったりして。ハウルの動く城。
「そうすると地図も立体的になるわね。折り紙みたいに折り畳んだりして」
 動く世界を再現する動く地図。
「どうして動くの。動物の上に乗っているのかしら。古代人の宇宙観みたいに象とか亀とか」
 街全体が天象儀になっていて惑星の相対位置を再現している。
「ははあ、類推呪術の一種ね。真似る事で宇宙の力を取り入れようとする。惑星や衛星は回り舞台みたいな円盤を幾つも重ねればできるけど、彗星は難しいわね。他の惑星の軌道の面に対して傾いてる惑星もあったでしょう」
 冥王星は軌道の歪みが大きくて海王星軌道の内側に来る事もある。彗星や冥王星は空中に吊ったモノレールみたいな物で表現できるんじゃないか。
「外出する時は目的地との相対位置を考えないと無駄に遠回りする事になるわね」
 谷甲州の航空宇宙軍史みたいだ。
「馬鹿ね。あっちが本物の太陽系なんじゃないの」
 話を映画に戻そう。
「地図に見せるんじゃなくて地図を作るための映画」
 測量映画。
「モニタがいろんな所に隠してあって、地図を片手に捜しながら映画を見るのはどう」
 映画の断片が映し出されるんだな。順番に全部捜し出さないと最後まで映画が見られない。オリエンテーリングと言うかラリーと言うか。現代美術にありそうだな。探す行為を含めて表現であるという鑑賞者参加型芸術。
「それで映し出されるのが地図映画。人間とカーナビの喧嘩とか」
 次『地図遊園地』。
「普通に考えると地図で遊ぶテーマパークだけど、地図で遊ぶんじゃなくて地図が遊ぶのだったりして」
 人間で。迷っている時は地図に遊ばれているような気がする時もある。人間と地図が逆転しているというと『注文の多い料理店』みたいだが。
「地図が人間を読む」
 人間は地図から土地の形などを読み取る訳だが、地図は人間から何を読み取ろうとするんだ。
「人間が立つ場所としての土地、に対して地図が成立する基盤としての人間」
 ははあ。地図にとっての環境としての人間。地図に心や知性を持たせようと思うとどうしてもカーナビ方面に行くよな。
「山田正紀の小説でカーナビから怪獣が出て来る奴があったわね」
 インターネットやGPSは、全体を管理している人が居ないから偶然訳の判らない物が生まれて勝手に進化していそうな感じはある。
「人格を与える手段としては霊が憑くというのもあるよね」
 日本では近世くらいになると道具の妖怪が増えて来るんだ。唐傘お化けとかな。長い年月を経た道具には霊が宿ると考えられたらしい。
「長く使っていると情が移って来て人格的な物を感じるのかしら」
 大工道具なんか職人が長年使っている内に握りの部分が手の形に磨り減って手垢でてかってたりするだろう。ああいうの見ると何か風格のような物は感じるな。それと、物心付いた時から身近にあった物というのは感覚として自然環境に近い感じもあるんじゃねえかな。だから、沼の主とか樹木の精とかいうのと同じ感覚で公園の守り神とか電話の精とか自動車の霊とか考える。その地図を使うと見慣れたはずの町が遊園地になる、というようなのはできねえかなあ。
「戦場になった方が面白いわ」
 確かに。地図の示唆で物の配置などを解釈していくと見えなかった無意識的な敵意や悪意が見えて来るというのはどうだ。
「解釈って何を解釈するの。カーテンの色とか庭木の種類とか?」
 町を読むとか言うとまた風水になっちまうな。町を競技場にしたゲームみたいな物。オリエンテーリングみたいな。ゲームの中では道路や建物は我々の日常とは違う意味を持つ。
「どんな意味かしら。盤上遊戯には二種類あるわね。将棋のように王様を取ったら勝ちの機動戦と囲碁のように面積を沢山取った方が勝ちになる陣地戦」
 戦略シミュレーションゲームとロールプレイングゲームというのもあるな。地図を使って町を舞台にゲームをしていて、最初は遊園地だったのが段々戦場になる。
「最後はバトルロイヤル」
 次『地図テニス』。
「テニスのように打ち合うのかしら」
 何を。
「いや、判んないけど。球の役割をする物が地図の上を移動して行くのじゃないかしら」
 地図の規模で動く物と言うと、交通機関か。
「渡り鳥とか」
 大陸間弾道弾。
「打ち返せないじゃないの」
 そうか。
「案外人間かも知れないわね。手紙か何か渡されて何度も往復させられる」
 どうなったら勝つんだ。
「打ち返せなかった時よ」
 ある条件になったら打ち返せない。それはどんな条件か。
「地図を使うんだから単純な往復じゃないわよね」
 経路が重要。空間だけじゃなくて時間的にも規模が大きい。
「何世代にも渡って。交通機関なんかどんどん進歩しちゃうわね」
 世代…それかな、子供ができないと打ち返せない。
「試合をしているのが甲家と乙家として、甲家から男子が婿養子に来る。妻の妊娠が確認できたら今度は乙家から甲家に婿養子を送る。期間を区切ってその間に妊娠しないと負け。結婚させるための子供が沢山必要ね」
 実子じゃなくても良いだろう。近親相姦になるし。家対家じゃなくて村対村とか。
「国家対国家。戦争もそうやって勝ち負けを決めれば平和で良いのに」
 少子化対策にもなるし。最初は戦争だったのかも知れん。戦が長引いて双方疲弊して来たんで武力で争うのは止めてやり方を変えたんだ。親戚同士になれば仲も良くなる。地図はどんな役割を果たすんだ。
「お婿さんは地図を頼りに徒歩でやって来るのよ、野を越え山を越え。ロマンチックだわ」
 そうかなあ。それにも期限があるんだろうな。敵側は経由地点を一ヵ所指定できるんだ。できるだけ敵選手の苦手そうな経路を選ぶ。経路となる地域の開発状況や天気予報も参考にして。体力と精力のありそうな選手を選ばなきゃならんな。練習はするのかな。どんな練習だろう。
「スコアが受け継がれているわね何世代にも渡って」
 嫁が不妊だとルール違反だよな。それはどうやって確認するんだ。
「それはね…。まずお嫁さんが妊娠する所から始まるのよ。やっぱりお婿さんが来るんじゃなくてお嫁さんが行くんだわ。お嫁さんが来て、妊娠が確認された所から競技が始まるのよ。それから旦那さんは家を出て、奥さんの実家に懐妊を報告して帰って来るの。出産までに帰れなかったら負け」
 早産の場合もあるからできるだけ急いで往復しなきゃならん。流産や死産の場合はやり直し。
「一年以内に子供ができないと奥さんの実家側が負けになるから、できるだけ健康そうなお嫁さんを選ぶ」
 それじゃあ亭主側は避妊しちまえば勝てる。
「そっか。避妊具を使ったり膣外射精をすればお嫁さんに判るけど、パイプカットしてたら判らないわよね」
 競技に勝つために断種する奴も居ねえだろうけど。
「判らないわよ。家対家くらいならともかく、村対村とか国対国の水準になって来たら、その家の血統を絶やしてでも。でもまあそれは一年経った所でお医者さんに確認して貰えば良いわね」
 こっそりパイプカットして失格になったり。
「むしろ旦那さんは急いで妊娠させようとする仕組みなってると良いわね。えーっとね。お嫁さんは必ず春に来るのよ。だから半年以内に受精させないと旦那さんは真冬に旅する事になっちゃうんだわ。それでお嫁さんが来た其の日からもう昼も夜も必死で」
 体温や排卵日を記録して。長くかかると体力も消耗しちまうな。世代が進んで交通機関が発達して来たらどうしようか。あくまで徒歩で往復する方法と、経由地点をより遠くにする方法があるけど。
「競技としては徒歩の方が面白いけど、乗り物を使っていない事を確認するのが難しいわね。敵側の誰かに同行させる?」
 妨害されるだろう。無銭で行かせるというのは。
「あっそれ面白い。それだとヒッチハイク以外乗り物は使えないわね」
 盗むという手もあるが。金がないと行き倒れる可能性も高くなる。
「中立的な第三者を頼むのも新たな不正の元になりそうだし」
 選手を信頼するしかねえのかな。
「そうは言っても長年続ける中には不心得者も出るでしょうし。お金を制限するしかないんじゃないかしら。出発の時と経由地点の何ヵ所かでそれぞれで少しずつお金を渡すの。食費と宿泊代には足りなくて天気の良い日は原則野宿しなければならないくらい」
 途中で使い果たしてアルバイトしたりする奴も居るだろうな。落ちはどんなんだ。
「第二次対戦後、両地域は東側と西側の支配地域に別れて行き来ができなくなってしまうの。戦後何十年かたって、また自由に行き来ができるようになり競技が復活する所で終わる。どう、ちょっと感動的じゃない」
 何が感動的な物か。この競技だと一人の男は一往復しかしないけど、本当のテニスの球みたいに一人の男が何度も往復するようにできねえかな。
「両方の土地に奥さんが居て、一回ずつ交互に性交する決まり。一人の奥さんと続けて性交はできないの。早くセックスしたいから必死で急ぐ」
 期限の内に射精しなかったらそっちの家の負け。
「そうしたら新しい球に替えるのね。サーブ権が移る。奥さんに魅力がなくて最初から射精しなかったらサービスエース」
 球の選び方も難しいな。長持ちしそうな奴を選ぶか…。
「すぐ打ち止めになりそうな奴を選ぶか」
 面白いけど地図の関りが薄いな。次『地図民族』。
「地図を作る民族じゃあ詰まらないわよね。地図のような民族。代々案内人なのかしら」
 何を案内するんだ。ストルガツキーのストーカーか。
「案内が必要だって言う事は迷う可能性があるのかしら。迷路みたいな物」
 案内には名物を見逃さないようする役割もあるだろう。危険を避けたり。
「何かすごく頓珍漢な案内をするのも面白いわね」
 日本列島を世界地図に当て嵌めるのがあったよな。神秘主義かなんかで。九州がアフリカ、本州がユーラシア、四国がオーストラリア、北海道がアメリカ大陸に対応するっていう。
「ははあ。それでここがナイロビです、ここがメルボルンです、ここがパリですって案内する。オーストラリアは讃岐うどんが名物。京都はフランスかしらね」
 あそこら辺はもう西アジアじゃねえか。
「歴史も古いし。チグリス、ユーフラテスあたり」
 そういう当て嵌める作業を代々行っている民族。北海道がアメリカなら経済的にもっと強くなっても良さそうだが。
「アメリカって言っても米国の事じゃなくて中南米も含んでいるのでしょう。北極圏もあるし。ロシアはどこかしらね」
 東北かな。そうすると関東が中国か。
「中国は中国じゃないの」
 わはは。下らねえな。次『地図プラナリア』。
「切ってもすぐに再生する。自己修復地図。生きている地図かしらね」
 間違いを発見すると自分で修正したり。
「土地の方を自分に合わせちゃったり」
 プラナリアって移植が簡単で双頭や双尾の個体が簡単にできるんだって。
「簡単に移植できる地図」
 移植って何を。
「東北を南フランスに」
 そんな事してなんの意味があるんだ。
「東北弁てフランス語にちょっと似ているわよね」
 似てねえよ。
「かすてらは方言が好きで東北弁も良く知っているからそう思うのよ。知らない人が聞いたらフランス語みたいよ。あんまり口を開かないで、ごじょごじょごじょ〜って喋る」
 語意も文法も無視して言葉を耳で聞いた感じが似ている所を繋いじゃう。タモリが得意そうな。
「いずれにしても意味がないけど」
 切り張りした結果が現実に繁栄すれば少しは面白いけど。
「地図を操作したら現実がその通りになるという話は既にありそうねえ。大体呪術はそういう発想が多いでしょう。呪いたい相手の姿に似せた人形に釘を打ち込んだり」
 仮想現実なら簡単にできるな、東北の隣りにフランスとか。
「よく観光地を日本のニースとか言って広告するけど、本当のニースがすぐ傍に来ちゃったら困っちゃうわね」
 常磐ハワイアンセンターがホノルルと地続きに。
「今はスパリゾートハワイアンズというのよ。ハウステンボスはオランダに繋がっていて、志摩スペイン村はスペインに繋がっている」
 仮想現実なら歴史も飛び越えられるからウエスタン村は開拓時代の西部に、日光江戸村は江戸時代に繋がる。
「架空の世界でも良い訳よね。ムーミン谷とか」
 地図コラージュ。オブジェのような地図。ドラマの水戸黄門て日本中に現れるだろ。だったら海外にも歴史を越えて古代や現代にも出てきて良いんじゃないかと考えた事があるけど。
「徳川幕府なんか影も形もないんだけど最後に印篭を出すとなぜか皆ははあ〜っと平伏す。水戸黄門タイムスリップ編」
 仮想現実世界の水戸黄門。仮想現実って何でもできちゃうから詰まらないね。
「制約がないと緊張感がない。でも制約はあるでしょ。処理速度とか記憶容量とか電力とか」
 処理速度が遅いと昔のテレビゲームみたいに単純な記号のキャラクターが動き回る。
「ドットの水戸黄門。平伏した奴は色を変えて表現する」
 次『地図妊娠』。
「地図が妊娠するのかしら」
 地図で妊娠する。
「地図を妊娠する」
 地図を孕む女。
「そういう話なかったかしら。道具みたいな物を遺伝子操作で女の人が産むの」
 覚えてないけどありそうだよな。工場人間。何でも自在に産めるんじゃなくて特定の者しか産めないのかな。
「カーストがあるんじゃないかしら」
 一番上の階層だけが人間を産む事ができる。
「一番上は神じゃないの」
 何を産むかは遺伝的に決定しているのかな。それとも資格を取れば上の階層に上がれるのかしらん。
「それだけ遺伝子工学が発達しているのなら遺伝子に変更を加える事自体は技術的には可能でしょうけど、制度的にどうかって事よね」
 あ、何に似ているか判った。『家畜人ヤプー』だ。道具人間。産んだ物に対して愛情はあるのかな。道具側には人格があるのか。
「ヤプーでは道具化された人間は殆ど人間的な人格は持たなかったみたい。ただ道具として刺激に対して反応するだけ」
 意識があった方が面白いよな。道具として使われる事に屈辱を感じるんだ。
「そういう感情は人間であった物が道具として使われるから起こるので、最初から道具じゃあね。生きている道具は傷付いても自分で治るから便利ね。餌やったり排泄物始末するのが面倒だけど」
 植物なら陽に当てて水やっておけば良い。知性があると便利な道具は多いだろう。最近はマイコン仕込んだ道具も多いし。
「生きているカーナビ」
 地図妊娠で違う方向はないか。
「地図が妊娠する」
 地図を妊娠して殖えるのか。
「人間を産んだ方が面白いけど。僕のお母さんは世界地図です」
 地図を犯した男が居るんだな。
「地図女房。子供は迷子にならない」
 次『オセロ地図』。
「地図が遊戯盤になっているのね。その上でオセロをするのかしら」
 神様が二人で陣取り合戦をしているんだな。
「白の神様の支配地域と黒のそれでは何か変るんでしょうね。気候か何か」
 駒が裏返る度に暑くなったり寒くなったり。気温以外に何が変化したら面白いかな。
「倫理観」
 さっきまではみんな善良だったのに突然悪人になっちゃって強盗したり強姦したり。
「また善人に戻って自分のやった事の恐ろしさに自殺しちゃう」
 どんどん人口が減る。ゲームが終わる頃には滅んでる。貧乏神と福の神だったら景気が急変する。貧乏神を応援する民話があったな。
「付き合いが長いから情が移っちゃうのね」
 次『歌地図』。
「歌としての地図、地図としての歌」
 アボリジニは文字を持たないけど何でも歌として記録して伝えていくんだって。旅の道筋も歌にするらしい。
「音痴はすぐ迷子になる。地図は楽譜ね」
 地図だけじゃなくて本はみんな楽譜だ。
「文章即歌。地図みたいな実用的な物はそれで良いけど、小説みたいな味わうための文章は音楽としても優れていないといけないわね」
 と言うより音楽と文学が未分化なんだろう。もっと言うと古代は芸術と科学と宗教が未分化だったんだろうな。
「それらが日常生活とも地続きだったんでしょうね。分ける方が不自然な感じもするけど。アボリジニは何かを評価する時、例えば地形の美しさを評価する時、常にその音楽性を含めて評価している事になるわね」
 森羅万象皆これ音楽。
「色即是楽」
 日本の地形はメロディーは良いがリズムが良くない。
「そこに道路を通すと不協和音が」
 そんな所に飛行場を作ってもそんなに高い声は出ない。
「ギリシア哲学では音楽と数学は関係が深いと信じられていたのでしょう」
 ピタゴラスだな。調和する音程には数学的比率があるという。厳密に言うとずれてんだけど。ピタゴラスはあらゆる物に数学性を見出したんだ。
「現代物理学もそんな感じね。数学は音楽に変換可能なら、あらゆる物に音楽を見出す事もできる訳ね」
 アボリジニは歌を数学的だとは思ってねえだろうけど。
「どんな物だと思っているの」
 アボリジニに聞いてみなきゃ判らんけど、生命に近い感じはあるんじゃないかなあ。
「言霊ならぬ歌霊。呪文としての側面はあるでしょうねきっと。記録とか、誰かに聞かせるとか、歌う事を楽しむとかそういう事以外に何か神秘的な機能が」
 日本だって昔はそうだったんだぜ。清水の舞台ってあるだろ。あんな下から見えない所に舞台を作って芸能をやったのは神様にお見せするためだったんだ。
「お供え物ね。形にも神秘的な機能があるわよね。『帝都物語』に出て来たドーマンセーマンとか」
 ピラミッドパワーとか。ナスカの地上絵は誰に見せる物か、という議論があるけど、あれも見せるための物じゃなくて形その物に何かの力が宿るっていう発想なんじゃねえか。
「空間的な形を時間的な変化に変換した物が呪文かしら」
 情報化しちまえば何だって変換可能だけど問題は変換の仕方だよな。手順と言うか変換式と言うか。
「類推魔術で言うと、どこがどう似ているか。アインシュタインの関係式があったわよね。物質とエネルギーは相互に変換可能だという」
 時間、空間、エネルギー、物質、情報。
「そして意識。物から意識が出て来るかっていう議論があるわよね。意識を物質の構造と機能に還元できるかという。物質から意識が出て来るのなら意識から物質を出す事もできるのではないか」
 歌から物質。歌は地図だったのではなくて、歌が土地を生み出していた。次『鋏地図(切る事によって初めて使える地図)』
「パズル地図の一種ね。変形して使う」
 変形する事によって見えなかった物が見えて来る。
「切ったり貼ったりする事によって。大陸移動説ね。切ったり貼ったりする事ができる土地を描いた切ったり貼ったりできる地図」
 地図の図法というのは要するに丸い地球をどう平面上に切り貼りするかという話だよな。
「布の上に暮している微生物にとっては、裁断されて縫い合わされて洋服に仕立て上げられるのは地面が切り貼りされるような感触かしら」
 ルービックキューブってあったな。
「流行ったのは私が生まれる前よ。ルービックキューブの地球。大陸移動は神のルービックキューブ説」
 遊んでるんだろうな神様は。生態系の設計なんか面白そうだもんな。
「進化の歴史で何度も大量絶滅が起こるのは飽きちゃうからかしらね」
 リセットするんだな。人類にもそろそろ飽きてるかな。
「むしろ他の多くの動物と共に絶滅させるために人類を創った。リセット装置としての人類」
 沢山の種を絶滅させてるし、環境も破壊してるもんなあ。
「米国が京都議定書離脱したのなんか神の思う壷」
 今、米国が一番神に忠実なのかも知れん。
「近代的な軍隊による大規模な戦争してるの米国だけだもんね。あ、イスラエルもか」
 神の軍隊だ。
「人類のための軍隊じゃないけど。ねえ、地球がルービックキューブだとして色が揃ったらどうなるのかしら」
 色が揃うというのは秩序立つという事だ。エントロピーが低い状態になる。閉鎖系を放置して置けば必ずエントロピーは高くなるが、地球表面は内部からの熱や太陽光線によってエネルギー、詰まり負のエントロピーを供給されている。生物というのは局所的にエントロピーが減少した物、言い換えると地表エネルギーの余剰が蓄積した物と考えられる。
「詰まり、生命進化はエントロピーの極小を目指すという事? エントロピーの極大は熱死だけど、極小は何」
 エントロピーってどうやって測るんだ。熱力学的には定義があるけど、今はもっと広い意味で使われる言葉だろう。
「エネルギーを取り出し易いのがエントロピーが小さい状態で、取り出し難いのが大きい状態よ。エネルギーの全く取り出せない均一化した状態がエントロピー極大でしょう」
 それじゃあ、エネルギー効率が最大の状態がエントロピー極小か。
「最も効率の高いエネルギーって何」
 知らん。反物質エンジンかな。物質と反物質を反応させれば質量はアインシュタインの変換式にしたがって全部エネルギーになる。
「生物は反物質反応系を目指すという事?」
 どうかな。自然状態では反物質は存在しないからなあ。
「ブラックホールはエントロピーが高いのかしら」
 知らんけどエネルギーは取り出せるだろう。引っ張ってるんだから。
「♪ひっぱれー、ひっぱれー、みーんなでえーらーぶー」
 だから小学生らしい冗談言え。
「究極はともかくとして、これから生物はどう進化するのかしら」
 均質ではなく複雑というのがエントロピーの低い状態だよな。だから生物はより複雑に進化して終には意識を産み出した。
「じゃあ、次はもっと複雑な物を産み出すという事?」
 生物は最初化学的な反応系だった。今でも基本的にはそうだけど。やがてそれに遺伝子という情報系が加わり、さらに神経系という情報系が加わり、神経の一部が大きくなって脳になり意識が生まれた。
「方向としては更に何かの系が加わるという事かしら」
 進化というのは基本的には変形するんじゃなくて付け加わるんだ。脳の進化がその典型で、人間の脳の中には今でも魚の脳に相当する部分があり、爬虫類に相当する部分があり、獣の部分がありその上に人間特有の大脳皮質が付け加わっている。
「個体発生は系統発生を蒸し返すって言うもんね」
 蒸し返さねえよ。付け加わるとしたら何だろうなあ。意識の次に来る物。
「ありきたりなSFだと神。宗教的な思想やSFでは、物質的肉体的な存在から精神的霊的な存在へ進むという類型があるけど、これまでの進化の延長線上で行くと肉体性は失われずに何かが加わっていく。複雑になるのが進化だとすると、進化するというのは高級になるという事じゃないのね」
 さらさらが高級という言葉をどういう意味で使っているのか知らねえが、複雑さというのは真善美のいずれの価値にも当て嵌まらないだろうな。
「かすてらは神という主題には興味がないの?」
 人間はなぜ神や宗教を産み出したかとか、なぜ祈るのかとかいう事には興味があるけど、SFで問題にする神って宗教一般じゃなくて基本的にキリスト教の神なんだよなあ。エヴァンゲリオンとか。いずれにしても人類を継ぐ者を予測するのは俺の手に余る。鋏地図に戻そう。
「かすてらは子供の時、日本地図が都道府県毎に分かれたパズルをやらなかった?」
 ああ、あったねそんなの。道州制が採用されたら簡単になるな。
「そういう国境や県境というのは人為的な物だからいくらでも変更できる訳よね」
 実際国境なんか随分変わる。今は東欧が目立つけど、アフリカとか、パレスチナとか、台湾とかな。日本では市町村が再編の真っ最中だし。簡単に動かせるのが川や山や海岸線と違う所だ。そうか、それが鋏か。
「人為的に線を引いて分けるからアフリカみたいに定規で引いた真直ぐな国境線。だったら地域の分け方って何種類もあって良いのよね」
 そうだな。人間は国境を絶対的な物のように感じているけど、動物は全く意識せずに自由に行き来している訳だろう。
「だとしたら、人それぞ自分の都合や趣味に合わせた自由な区切りを設定しても良い訳でしょう」
 自分の国境。自分の世界地図。自分を中心に置いた地図。対馬に住んでいる人から見りゃあ、東京よりも松浦よりも釜山の方が近い訳だし。自分地図か。面白いな。実際にいろんな地図があるはずだよな。いろんな人が地図に書き込んで自分用の地図を作ってるはずだ。どんな地図が有り得るかな。
「よく文化の切り替わる所を探すような企画があるわよね。おうどんの出汁が関東風から関西風に変わるのはどこかとか。そういう何かが切り替わる所が境界でしょう」
 境界って不安定だよな。動植物の生息圏は気候などによって変動するし紛争も多く起こる。
「やっぱり異質な物が直接触れ合っているから。境界が曖昧な事も多いわよね。国境みたいにすぱっと切れなくてぼかしになっている。固定して置く方が不自然なんじゃないかしら。国境も曖昧な領域を設けてグラデーションにすれば良いのに」
 いっそ国境をなくしちゃったらどうかな。これだけ交通と通信が発達しているんだから、世界中のどこに住んで居ようと自分が所属したいと思った国の国籍を取ってそこに税金を支払うとその国の行政サービスが受けられる。
「交通と通信で届けられる福祉しか受けられないわね」
 次『神経繊維地図(神経繊維の配列を描いた地図ではなく神経繊維で描いた地図)』。
「神経繊維で地図を作るのにどういう意味があるのかって事よね」
 道路や線路が複雑に絡み合っていて迷路状になって居る時、神経の一方の端を刺激してやるとそれに繋がっている神経が順々に興奮する。
「経路は見易くなるけどそれくらい電線を繋いだってできるでしょう。意識を持っているのかしら、地図が意識を持っている。あるいは交通網を神経繊維で置き換える事によってその性格が判る」
 何だ性格って。
「内向的とか外向的とか。呑気とか短気とか」
 怒りっぽい交通網は嫌だな。やっぱりさわやかな性格の方が流れが良いのかな。交通性格学。地図性格学。これもなんだか風水の匂いがするな。
「そうやって作った神経回路をまた動物の中に戻してやったらどうかしら。行動を見るの」
 ひえ〜。コンピュータシミュレーションでやれば残酷じゃないけど。行動を見てどうするんだ。
「制御し易い性格を探す」
 烏賊の神経って太くて扱いやすいからよく実験に使われるんだって。
「じゃ、烏賊から取り出して烏賊に戻すのね」
 烏賊や蛸はすごく賢くて一説には犬くらいの知能がある。
「じゃ、人間に懐くかしら。芸を仕込んだり」
 社会性の動物じゃないから懐きはしないだろうけど。
「神経って感覚器官で受け取った情報を筋肉の動きに変換する物よね」
 また偉い大雑把な事を。まあそうだけど。刺激に対応した動きを作る物が神経だ。コンピュータで言うと入力が刺激で動きが出力。何かを変換する物としての地図、あるいは道路を考えているんだな。
「そう、入って来る時と出る時で違っている。宗教体験をすると人格が変わるっていうわよね。啓示を受けたりとか」
 宇宙飛行士は宇宙から帰って来ると人が変わるらしい。
「脳のシナプスが繋ぎ変わるのかしらね。宗教体験をするから人が変わるんじゃなくて、脳に何かの変化を受ける事が宗教体験なんでしょうね、きっと」
 脳のシナプスを繋ぎ替える装置としての地図、あるいは道路。入力と出力が滅茶苦茶に繋ぎ変わっちゃったら困っちゃうね。異常性欲とか。
「異常食欲とか」
 まあ、発狂も一種の人格変換には違いないけど。
「天才や超人を作り出そうとして失敗するという話は一杯ありそうね」
 天使を悪魔に変換したのがルシフェル。
「出る時には二人に増えているというのはどうかしら」
 筒井康隆のショートショートにそんなのがあったな。電車の線路に位相幾何学的な効果があって空間を歪ませているんだ。環状線を一周して来る度に乗客が殖える。
「童謡の不思議なポケットみたいね」
 マイ・フェアレディみたいに浮浪者を貴婦人に変える。
「いろんなコースに別れていて、インテリになるコース、マッチョになるコース、セクシーダイナマイツになるコースなどがある」
 入口を選んで入って処置を受けながらコースを進んで出口から出て来ると望みの人格になっているはずが、途中で迷う。
「全部ホルスタインになって出て来る。うっちゃんのミル姉みたいな。神経とは関係ないんだけど、形状記憶合金の針金で道路地図を作っておけば、紙を畳むよりも小さく丸めて置けるわね。お湯を掛ければたちまち元通り」
 地図を見たい時そう都合良くお湯があるかどうか。
「お湯のある所を探したいんだけど肝心の地図が開かない」
 次『地図のように見えるが実は本物の土地で小さな人間が住んでいる』。
「あっ。この地図は絶対間違いないわね。だって地図が地面その物なんだもの」
 地図が近過ぎて見えない。上空に鏡を浮かせて置けば良いな。ハーフミラーなら暗くならないし。
「♪月ぃ〜が鏡であったなら」
 ……。
「はいはい。小学生らしい歌歌えって言うのね」
 住人は地図に住んでいる事に気付いているのかな。
「どうかしら。都市は地図みたいな物だけど。自然の地形は地図じゃないけど都市は頭の中にあった地図を外に出した物でしょう」
 その地図が都市計画だよな。俺たちも地図の中に住んでいるような物か。
「どこの国でも、清潔で健全なお上品な都市を造ろうとしても、たいてい周辺に歓楽街や貧民窟ができちゃうでしょう。あれなんか人間の意識と無意識の関係がそのまま投影されているような感じするわよね」
 抑圧された物は見えなくなるけど、なくなった訳ではなくて、何かのきっかけで噴出したりする。言われてみりゃあそっくりだ。
「都市をプレスしてそのまま地図にしたらどうかしら」
 圧し潰して。正確だろうけど元の土地がなくなっちゃうから地図が役に立たないよ。
「魚拓は。魚拓。墨を塗って上から紙を」
 航空写真の方が簡単だよ。
「でも、ポンペイなんて石膏で型を取ったような物よね。上からこう、ざーっと流し込んで」
 ざーっとじゃない。確かに火山灰に埋まった人体の方は朽ち果てたのに、その形が穴になって残ってたりするけど。次『売国奴地図』。
「売国奴専用の地図。売ってたりして」
 すいません、売国奴用の地図ください。売国奴って戦時中の言葉だな。
「侵略者に味方する裏切り者と言う意味ね。現在の日本の法律では外国人の土地所有に制限はないのかしら」
 聞いた事ねえな。
「じゃあ法律的には私有地は全部外国人に売却可能なのね」
 今、役所はどこも財政難だから公有地も結構売りに出たりしてる。日本売却。確か小松左京の短編にそんなのがあったよ。宇宙人が日本を買い取る。日本人の物じゃない日本。
「土地を所有したり売り買いしたりするという事に何か不自然さも感じるのだけれど。例えば古里と言う言葉があるでしょう。その土地の所有者が誰に替わってもその場所がある人の古里であるという事は変わらないわよね」
 ネイティブアメリカンやアボリジニには土地の私有という概念がなかったらしい。それを良い事に白人がただ同然で買い取ったんだ。
「政府は日本を売り払いたいと思っているかも知れないわね。借金付きで」
 カルロス・ゴーン総理大臣にすりゃ良いんだ。ロシア大統領並の強権を与えて。次『メシア地図』。
「救世主用の地図ね」
 救世主にも地図が必要。
「迷子にならないように」
 救世主って迷ったりしない印象あるよね。自分のやることは全部判っている。
「実は思い付きばったり」
 思い付きばったりも迷いないもんね。目的も計画もないから迷いようがない。
「なるようになれと思ってるから自信満々に見える。逆に物凄く迷う救世主は。何だかいつも自信なさそうに地図見てるの」
 説教しても語尾が曖昧なの。多分、とか連発して。不安だよね。本人以上にそういう救世主を頂いてしまった民が。
「最後は賽子(さいころ)で決めてたりして」
 ゲーム。人生ゲームみたいな救世主ゲーム。次『地図植物』。
「地形を写し取る植物ね」
 どうやって地形を知るんだ。
「植物同士はお話してるって言うわよね。化学物質を交換して」
 植物の見た世界。植物にとって地形はどういう意味があるのかな。距離とか方向とか。成長や繁殖に大きな影響を与えるだろうけど移動できないから他と比較した所で意味がないし。
「でもダーウィンによると、植物は枝や蔓を伸ばす時、探すようなしぐさをするらしいわよ」
 自分の手の届く範囲の地図。自分の届くだけの世界。成長するに連れて広がる世界。まあ、動物だって人間だって移動できる範囲がその世界だけど。植物も手の届かない世界に憧れたりすんのかな。
「だって進化というのはそういう事でしょう。憧れと言ってはロマンチックに過ぎるでしょうけど。今でも細菌みたいな生物が生きているという事は、無理に進化して生存範囲を広げなくても生き延びる事はできたという事でしょう。それがこんなに広がっちゃったのは、何かそう仕向ける力が掛かっていたという事だから。突然変異と自然選択と言ってしまうとあまりにも不粋だけど」
 進化のための地図か。しかし進化の時間でいくと陸地もどんどん動いちゃうから、紙に描いた地図は役に立たないね。
「よく、災害の前に動物が逃げ出すというでしょう。スマトラ沖地震の前にも動物の異常行動があったらしいけど。植物も大陸の移動や地形の変化、それに伴う気候の変化を予測して生長したり繁殖したりしているのじゃないかしら。それでなくてどうして一個体で何千年も生きるような生物が繁殖できるのよ」
 数千年の生活設計か。まあ実際には沢山種を蒔いて、たまたま風土の合った奴が生き残るんだろうけど。
「判んないわよ。植物をよーく調べてみればどこかに未来の地図があってそれに合わせて生長したり種を蒔いたりしているかも知れないわよ」
 未来地図。そうか。植物にとって距離は時間なんだな。動物や人間も移動には時間がかかるけど、それよりももう歴然と距離は時間。
「だって別の場所に移るという事は世代が替わるという事なんだものね」
 次『地図床屋』。
「地図の形に刈っちゃう。道に迷わないように」
 わはははははは。自分じゃ見えないじゃんか。
「鏡を持って歩かないと」
 地図を持って歩いた方が良いと思うな。
「刺青しちゃえば消えないから便利ね」
 便利な物か。自分の町の地図刺青して引っ越したらどうするんだ。
「古地図になったら価値が出る」
 その頃には死んでるよ。
「人は死して地図を残す」
 残さねえよ。
「どうして散髪屋さんの事を床屋さんと言うのかしら」
 昔の散髪屋は屋台だったんだ。簡単に折り畳んで移動できる仮設店舗の事を床店と言って、それが俗称になったんだな。
「男の人が井戸端会議する場所だったんでしょ」
 そう。浮世床。
「西洋ではお医者さんも兼ねていたのよね」
 そうだ。専門の医者より一段劣る簡易的な治療者と見なされていたらしい。今でも床屋にある赤青白の螺旋が回転する看板は、それぞれ動脈、静脈、神経を表した物だと言われている。衛生知識があり鋏や剃刀の扱いも上手かったから外科もやったらしい。
「大雑把な話ねえ。じゃ、やっぱり刺青もやったんじゃないの」
    ・
    ・
    ・
    ・
「お手々の節と節を合わせて不幸せ。なーむー」
 だから小学生らしい冗談言え。

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句鑑賞会●

出席者 さらさら:女子小学生
    かすてら:男子落伍者
・新しい権利の発明
 昔はなかった新しい権利みたいなのが生まれているよな。
「人間には定住する権利があると主張している人も居るわね。動物にも人権に準ずる権利があるって言う人も居るし」
 どんな権利があったら面白いかな。
「性交権」
 いきなり下ねた。
「誰でも平等にセックスする権利がある」
 性交機会均等法。具体的にはどうするんだ。
「もてない奴ばっかり一ヵ所に集めて……」
 乱交か。
「一応、衝立で仕切った個室がある。もてない同士だと見苦しいから」
 性交権が一般的になれば、役所主導で官営の乱交パーティー。乱交パーティーとは呼ばんだろうけど。
「公的な催しなら出会い系サイトみたいな詐欺にも遭い難いし。健康診断もするから性病の心配もない」
 でもみんな行きたがるかな。参加するって事は詰まり、もてないけどやりたいですって表明する事に成る。
「そりゃあもうプライバシーはばっちり保護されております」
 仮面付けても良いよね。
「フランケンマスクじゃ雰囲気出ないけど、ヴェネチアの仮面祭りみたいな奴なら却ってセクシーかも」
 渋さ知らズの歌で平等な性交を主張したのがあったな。
「君よ答えよ〜っていう奴ね。『どうして今すぐパンツを下ろさないんだ』って言ってたわね」
『セックスプロレタリアート』とも言ってたな。
「セックスブルジョアジーとセックスプロレタリアートがある。もてない人同士をくっつけてもあんまり平等な感じしないわね」
 もてる事はそれだけで罪なんだな。セックスが平等に行き渡るようにしなければならない。
「相手を選んじゃいけない。性交可能な年齢に達した者は一定期間誰の要求も拒んじゃいけない。義務教育成らぬ義務性交。そういう物だと思えば案外抵抗ないんじゃないかしら。日本でも昔は若者が乱交するお祭りが各地にあったでしょう」
 うん。旅人に性を提供する歓迎方法もあった。性的倫理というのは案外普遍性がない。今みたいに貞操を重要視するのは西欧文明の影響だろう。詰まりキリスト教。
「でも、貞操が緩いと病気が流行っちゃうわね。今エイズが問題になってるけど」
 だから公の管理の下で乱交する。それがきっかけでカップルができれば少子化対策にもなるし。
「学校でやれば良いわね、授業の一環として。先生がやり方を教えたりして」
 生徒の方が良く知ってたりして。
「そういう場合は生徒同士で教え合って。今はビデオが一杯あるから必要ないか」
 いや、ビデオは見かけで面白おかしく誇張されているから、そのままやっても案外気持ち良くなかったりする。セックスは趣味の問題も大きいし。
「そう言えば最後は顔に掛けるのが正しい遣り方だと思ってる男の子が居たわ。テレビで教えるのも良いわね。教育テレビで」
 専門学校もあるなきっと。スペシャリストを育てる。表に出て来ないだけで今でもあるんだろうけど。
「おこと教室の看板を見てどきっとするのは私だけか知らん。星新一で挨拶として誰とでも性交するのがあったわね。顔を合わせるとするの」
 星新一は下ねたが少ないから俺も覚えてる。犬ともしてたな。
「服の構造なんかもすぐやれるように工夫されてるんでしょうね。あんまり簡単にできちゃうと、それはそれで詰まらないような」
 勝手な事言うな。小松左京の短編で『売主婦禁止法』と言うのがあった。フリーセックスが当り前の社会では、特定の相手としかしないのは不道徳な事とされるんだ。そして禁じられるほど隠微な魅力を発する。
「やっちゃいけないと言われた方がエッチな感じするわよね。最近、命名権を売り買いしたりしているわね」
 新しい建物とかね。商標登録というのは昔からあったけど。人間の赤ん坊の名前を付ける権利って売れるかな。親にあるんだろうけど。
「悪魔ちゃん事件ってあったわね」
 その頃お前生まれてねえだろう。役所には適当な名前出しておいて家では悪魔って呼べば済む事だった気がするんだが、まあ、こだわりがあったんだろうけど。檀ふみは家でみんながふみ子って呼んでたから自分の本名がふみだと知らなかったらしい。さらさらも妙な名だな。
「ほっとけ。自分で付けたんじゃないし。子供に商品名とか付けてもらって宣伝にするのはどうかしら」
 子供は良い迷惑だな。山田コカコーラ。鈴木ペプシコーラ。いしいひさいちの漫画で子供に八百万円とか五百万円とか名前付けてたけど。
「昔みたいに成人したら名前変えるようにしたらどうかしらね。元服」
 新しい商品名付けるのか? 看板の掛け替えだな。戒名を付けるのって仏教だけかなあ。
「戒名に商品名を…」
 罰が当たるぞ。
「死んじゃった人と生きている人って繋がってないよね」
 うん。不連続。靖国参拝がこんなに問題になるのは、生きている人と死者が繋がっていないという感じが外国人には判りにくいからかも知らん。
「生者が使者となり死者が聖者となる」
 何言ってるんだお前。
「もっとうんと短い時間で名前が変わる文化ってないのかしら」
 毎年名前が変わる。まあ、年齢が判って便利か知らん。
「毎月名前が変わる。曜日毎に呼び名が違う。朝昼晩で呼び名が違う」
 ややこしくて敵わんな。出世魚というのがあるけど、時期で区切るんじゃなくて形態や性質の変化で名前が変わるのもありそうだ。元服なんかは通過儀礼だけど。
「生理中は違う名前」
 子供が生まれると夫は父に妻は母になるけどな。逆に何世代も変わらずに受け継がれる名前もある。
「一つの名前を多くの人が共有するのはどうかしら」
 誰が誰だか判らねえじゃんか。
「ピカソのフルネームは凄く長かったけど、名前って長さに制限はあるのかしら」
 どうかな。字数や音数に制限はなくても届出用紙の書き込み欄に限りがあるだろう。じゅげむか。
「小説一冊が丸々名前とか」
 あ、その場合著作権はどうなるんだ。役所に届ける名前には振り仮名が必要ないらしい。モンティパイソンのコントみたいに出鱈目な読み方でも良い。
「対応する音はない、というのでも良いのかしら」
 て言うか、書類を受付ける時に読み方は聞かないんじゃないの。個人的な興味は別にして。
「人間には発音不可能な楽器の音みたいなのとか」
 超音波とか。『スプラッシュ』という映画で人魚が本当の名前を発音するとガラスが割れたりする場面があったけど。
「忌み名ってあるわよね」
 口にすると良くない事が起こる。言霊信仰。ユダヤ教でもやたらと神様の名を口にしちゃいけないんだろう。呪文の一種だ。
「合言葉ってのもあるわね」
 ははあ。鍵としての名前。田中開け胡麻。パスワードだ。
「歌としての名前」
 元々名前には耳で聞いた時の響きの具合が考慮されているだろう。字に書いた時の形とか、勿論意味も重要だし。単なる識別記号なら規則に従って付ければ良い訳だろ。ほの十六番とか。
「呪文としての名前が宗教的側面なら、歌としての名前は芸術的側面か。昔は宗教と芸術と科学というのは未分化だったのでしょうけど」
 その三つは再統合されるべき時期に来ているんじゃないかなあ。
「どういう事? 単純に昔に戻れっていう事じゃないでしょう」
 うん。科学は実証主義的な物で主観を排する物だという事になっているけど、そこには芸術的興奮に通じる様な多くの驚きや美しさが詰め込まれている。宗教の神秘体験、畏れや祈りも同様だ。科学、宗教、芸術はそれぞれ真善美という価値に対応するだろうけど、それらは単純に分けられる物ではなく複雑に絡み合っているから、近代になってから別々に発展する傾向にあったそれらをもう一度人間の全人格的な価値として捉え直すと言うか…。
「言いたい事は何となく判るわ。近代文化は分析的な方向には優れて発達したけど統合的には却って物が見えなくなっているのではないか。そのためには意識と無意識、養老孟司風に言えば脳と身体の連絡を良くしてやるような事が必要だと思うのだけど、具体的にどうすれば良いのか良く判らないわ」
 それは俺にも判らない。
「大抵の国では名前は家系を表しているわね。どうして皆そんなに家系が大事なのかしら。封建制社会では血筋が地位や職業を固定しているから大事だけど、どんな社会制度の下でも家系を大事にする傾向は普遍的よね。直接の親や子が大事なのは動物的本能として理解できるけど、遠い過去の祖先や遠い未来の子孫はほとんど抽象的な存在でしょう。そんな物に愛情が持てるのかしら」
 家系は自分の延長なんだよ。
「あっ。自我に取り込まれている」
 うん。だから倫理観や美意識ではなくもっと利己的な感情として家系を大事にするだろう。
「家系の他に名前が表している物は何かしら。太郎とか花子とか言えば日本人だとすぐに判るから国を表しているわね」
 クリスチャンネームというのもある。
「宗教も表す場合がある。でも仏教名や神道名というのはないわね。大抵の国では男と女の名前は違う」
 かおるとかまこととか曖昧な名前もあるけど。芸名や筆名もあるけどこれは別に芸能人である事や文筆家である事は表していないな。
「歌舞伎や能だとある程度判るけど、あれは職業というよりは家系を表すわね」
 日本のビジネスマンは名刺を交換すると先ず役職をみる。
「本人よりも肩書が大事。どうせなら年収とか取引先とかも書いとけば良いのに。人柄や能力よりもそっちが重要なんでしょ」
 そういう情報が全部書き込まれたICタグを名刺に付けておけば良いな。携帯電話でぴっと読み取って記憶するんだ。
「何か本当に成りそうで嫌だわ。愛煙家と嫌煙家はすぐに判るようにできないかしらね」
 これからは禁煙が標準で、吸っても良い場所が限定されるように成るんだろうけど。性経験があるかないかが判るのは。
「処女膜再生した場合はどうなるのかしら。未婚か既婚かが判るのは便利かも知れないわね。指輪が嫌いな人も居るし金属アレルギーの人も居るから」
 そんな風に名前が履歴書みたいに成っちまったら個人情報や差別の問題が出て来るだろうけど。…孤独権。
「私それ欲しい〜」
 俺も。

・奇妙な遺伝情報の楽器
 遺伝情報を読み取って楽曲に変換する楽器。
「それはセックスの事じゃないの」
 まあ確かに遺伝子を受け渡しながらいろいろ妙な声は出すけど、遺伝情報を音楽に変換する訳じゃない。実際に遺伝情報を曲に変換する試みは既にある。遺伝情報は四種類の塩基、詰まり四つの文字で構成されているから四進法の数字と考える事ができる。メロディーは出て来る音の高さと長さで決まるから、四進数をこれに変換する法則を設定してやれば数値は自動的に曲に変換される事に成る。
「性交しながら歌えないかしらね。大勢で合唱したら凄い事に…」
 俺の話聞いてなかったのか。
「聞いてる聞いてる。でもランダムな数値を音に変換しても雑音にしかならないでしょう。変換する時に上手く音楽になるような操作をしてやらないと。遺伝子の四進数は三桁ずつ区切られてアミノ酸に対応し、アミノ酸が幾つも繋がって蛋白質に成る訳だけど、単純な変換ではそういう意味も抜け落ちちゃうわ」
 生物の身体は、遺伝子→アミノ酸→蛋白質→細胞→器官→個体という階層構造になっている。更に言えばその上に社会→種→生態系→地球→太陽系→銀河系→宇宙という階層がある。遺伝子の下にも分子←原子←素粒子という階層もある。そういう物を音楽の構造の中に取り入れるなどという事が可能かなあ。
「性交の合唱ではクライマックスを揃えるのが難しいわね。みんなで指揮者を見ながら…。あっ、後背位じゃないと男女同時に指揮者の方を向けないわ」
 だから話を聞けと言うのに。
「聞いてる聞いてる。人間みたいな複雑な生き物の遺伝子全体(ゲノム)には、実際には形態として発現しない無駄な部分が沢山含まれているのでしょう。遺伝子の『意味』まで音楽に入れようとすると、その部分をどう扱うかも課題に成るわね。やっぱり数値を単純に機械的に変換して、その雑音みたいな物をどう音楽に仕上げていくかを考えた方が現実的かしらね」
 むしろ、機械的に変換した筈なのにそこに意味みたいな物が現れてきたりすると話しとしては面白いけど、現実にはそうはならんだろうな。数値を曲に変換するだけの装置なら、食わせる数字は遺伝子でなくても何でも良い訳だ。電話帳とか。
「壮観でしょうねえ、雛壇に裸の男女が大勢後背位で一斉に…」
 ……。
「聞いてるってば。電話番号には元々意味がないから『食わせて』も詰まんないわよ。文学作品が良いのじゃないの。文字を一旦コードに戻してやれば良い訳でしょ」
 シェイクスピアは詰まんなくてハーレクイン・ロマンスがすんごい良い曲になったりして。言語に依っても違う曲になるだろうな。表音文字と表意文字で違うかな。
「オナニーなら男女の数が揃わなくてもできるわね」
 わざとやってるだろ。
「えへへー。音楽にはメロディー、詰まり順番に出て来る音の高さ長さの他に、どういう周期でアクセントを付けるか、詰まりリズムとか、どんな音で演奏するかという音色とか、どんな音色を重ね合わせるかという編曲という要素もあるわね」
 それらの全てを数値から変換する。変換式みたいな物を作る事自体は簡単だろうけど、出て来た物がある程度鑑賞に堪える音楽となるようにするのは難しいだろうなあ。むしろ音楽から遺伝子を逆変換して生物を作った方が面白い。あれ、この話前にもしたな。
「出産しながら歌えないかしらね。それを合唱で…」
 馬鹿野郎。

・詩歌の幽霊
「動物でも人間でもなく詩歌の幽霊」
 江戸時代になると道具の妖怪が現れるだろう。
「唐傘とか提灯とか。長く使った道具には霊が宿るという考え方ね。詩歌というのは言葉、つまり音や記号を連ねた物で物質的実体がない所が面白いわね」
 でも、日本には昔から言霊という考え方もあるから。
「ああそうか、言葉や音や文化みたいな物にも普通に霊は宿るのか。何か抽象的な物に霊が宿ったら面白いわね。ナショナリズムの幽霊とか」
 そりゃもともと幽霊みたいな物だろう。人に憑くし。
「ナショナリズム狐憑き説。原理主義の類はみんなそうね」
 なんか、自分に疑いを持ってないのは胡散臭い感じするよね。
「かすてらは単に天邪鬼なのよ。自信に満ちている相手ほど信用しない」

・ホームページの幽霊
「URLが召喚呪文になっているのね。接続すると取り憑かれる」
 ワンクリック詐欺か。

●不定形俳句●

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2005年4月〜6月までを編集したものです。

◆次号予告◆

2005年10月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2005年春の号
季刊カステラ・2005年秋の号
『カブレ者』目次