季刊かすてら・2004年春の号

◆目次◆

軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●ちょっと似てるシリーズ●

狂信と狂言

●田園物語●

 女は都会の税理事務所に勤めておりました。女は有能であらゆる仕事を人並み以上にこなし、税理の仕事も所長以上に良くやってのけましたが、税理士の資格がないので手柄は全部所長の物になりました。それでも女は黙々と文句も言わずに働きました。待遇の改善を要求する訳でもなければ、嫌味の一つも言いません。かと言って愛想が良い訳でもなく、元々姿形の良い女なのですが、いつも憮然とした硬い表情をしているので魅力がありません。人付き合いが悪く同僚と飲みに行く事もありません。無口で必要な事しか喋らないので何を思っているのか何を考えているのか誰にも判りません。普通の会社員なら反感を買う態度ですが、その事務所は女の力で保っているという事をアルバイトの学生も含めた全員が知っていたので皆機嫌を取ってちやほやしました。特に所長は女に腫れ物に触るように接し、お給料も所長に次ぐお値段でした。女はそんな扱いを受けても別に傲慢になる訳ではなく相変わらず少し不機嫌にも見える硬い表情で黙々と仕事をし、いつもとても優秀でした。そんな女がどこで知り合ったのか工場勤めの技術者と結婚しました。しかし数年経つと別居してしまいました。そのまま撚りを戻す事はなく、籍こそ入ったままですが事実上離婚状態でした。所員たちは陰でこそこそと「やっぱりな」「あの女に結婚は無理」などと言い合いましたが、もちろん女の前ではおくびにも出しません。
 そんな女にも夢がありました。女は都会生まれでしたが、あるいは都会生まれだからこそ田舎暮らしに憧れておりました。何時かは畑を借りて自給自足の生活をしようと思っておりました。そのために好きでもない仕事に精を出していたのです。金を貯め株式売買で運用しました。女が専門学校を卒業してすぐその税理事務所に勤めてから十数年が経ち、年齢も三十代半ばになった時の事でした。女は大金持になりました。株で当てたのです。女は事務所を辞めました。所員たちは皆引き止めました。所長は泣いて土下座をしました。しかし女は一顧だにせずに去って行きました。事務所はたちまち倒産しました。女は農村に土地を買いました。借りたのではありません。買ったのです。少しの畑と少しの田圃を。そして少しの牧場で家鴨と豚を飼いました。作物を売るのが目的ではありません。自分の食べる分だけ作るのです。余った作物を直販所で売ったりしはましたが、本格的に農業をするつもりはありません。必要な現金は株式運用で産み出しましたが、女の暮しは質素だったのであまりお金は必要ありませんでした。女はその土地の豊かな自然を愛しました。農作業を愛しました。自分の手で作った食べ物は涙が出るほど美味しい物でした。でも女は百姓が大嫌いでした。ご多聞に漏れずその村でも過疎化が進んでおり、若い者は皆都会に出てしまい、住んでいるのは古い因習に縛られた頭の固い年寄りばかりでした。女は特に「しきたり」という物が大嫌いでした。年寄りが「そんな事言ってもあんた昔からこうして来たのだから」と言うと殺してやりたくなりました。誇張や比喩ではありません。許される事なら鉈で頭を叩き割りたいと思うのです。女は役場を通じて課される村民の義務はきちんとこなしました。村会費も滞りなく払いましたし、農業用水路の掃除も畦の草刈も丁寧にしました。ごみの分別の完璧さは並ぶ物がありません。経理事務所にいた時同様、女は何をやらせても非常に有能でした。しかしそれ以外の村の寄り合いには一切関りませんでした。近所付き合いもしませんでした。季節毎の村祭りには皆がする寄付もせず手伝いもせず、当日は家から一歩も出ませんでした。当然女は村人から嫌われました。引っ越してから一年も経たない内に女は村の人たちから一切の付き合いをされなくなりました。それでも女は一向気にしませんでした。却ってせいせいするくらいでした。村人同士は村祭りを始めとした冠婚葬祭などで協力し合い、また農作業を手伝い合ったり農業機械などを貸し借りしたりして助け合っているので、付き合いを絶たれるととても困るのですが、女は全く自律的に暮し、農作業も自分一人でできる規模でしかやらなかったので困らなかったのです。女のしれっとした態度が小面憎く、村人たちは益々女を憎みました。また、女が金持ちであることは村人に嫉妬を起こさせました。村人たちの多くは農業機械などを購入するために借金をしていました。更に、村の畑では不作の野菜が女の畑では豊作という事がしばしばありました。村人たちは皆で話し合って同じような方法で畑作をしておりましたが、女は自分の考えで独自の方法で畑作をしていましたから、同じ天候でも作物の出来が食い違う事があったのです。逆に村人の畑が豊作で女が不作という事も同じくらいあったのですが、それは村人の目に入らず、村人たちは女への憎しみと妬みを募らせたのでした。形式的には女に責めるべき非がない事が村人たちの憎しみをより強く深くしていきました。
 ある日、女の家に泥棒が入りました。借金が返せなくて困った村人の一人でした。前にも言いましたが女の暮しは質素で、貴金属などの金目の物はなく、現金が余り必要ないので女の家にお金はなく、カードや通帳なども常に身に着けていて家には置いてありません。更に言えば、蓄えはほとんど株の形にしているので通帳にもあまり残高はありませんし、株券はもちろん証券会社に預けてあります。仕方がないので泥棒はコンピュータを盗んで行こうとコードを抜いて担ぎ上げた時、畑に出ていた女が帰って来ました。泥棒を見付けると女は金切り声をあげて絶叫し、すぐに携帯電話で百十番しました。泥棒はコンピュータを捨てて逃げようとしましたが女がむしゃぶりついて引き倒しました。女は殴られても蹴られても泥棒を放しませんでした。お巡りさんが駆け付けた時、女は殴られて顔を腫れ上がらせ、これは後で判った事ですが蹴られて肋骨にひびが入っておりましたが、泥棒にしがみ付いたままでした。泥棒は村でも真面目な働き者で知られる男で、妻と年老いた母と暮しており、都会に出た二人の息子が居りました。村人たちは女の家に集まってこうお願いしました。「魔が差したのだと思う。取られた物はなかったのだし、村で充分なお詫びをするから告訴はしないで欲しい」しかし女は許しませんでした。被害届を出し、告訴し、慰謝料と賠償を要求しました。そればかりではなく、周囲の村々に泥棒の事を知らせ、村の主な取引先である農協にも知らせ、息子たちの勤める会社にまで電子メールで報せ、インターネットで公表しました。泥棒があったのは事実ですから嫌がらせとも言えず、村人たちは悶々としながら女を更に更に憎みました。泥棒をした家はとうとう居たたまれずに村を出て行きました。
 それからしばらくすると女は強姦されました。農作業中に覆面をした男に襲いかかられたのです。女が憎まれていたためもありましたが、その仏頂面さえ何とかすればなかなか器量が良く姿形の良い女だったためでもあるでしょう。三四十年前までは夜這いの習慣の残っていたような地域だったので、そういう事にあまり罪悪感がなかったせいでもあるでしょう。村人の一人が普段の憤懣をそうやって晴らしたのでした。もちろん泣き寝入りするような女ではありませんでした。すぐに警察に通報しました。村人がかばいだてするので始めはなかなか捜査が進みませんでしたが、女の身体に残された精液の遺伝子鑑定で犯人が判りました。数年前に妻を亡くした六十過ぎの男でした。女は烈火の如く怒り狂い裁判でも「死刑にしてください」などと喚き散らしました。そんな女に裁判官も辟易したのか、初犯でもあり充分に反省もしている男は実刑は受けませんでした。しかし男は女の要求した慰謝料を支払う事ができず、女に家と田畑を取り上げられて村を出て行きました。村人は皆男に同情しましたがどうしようもありません。法律の上では悪いのは男の方だからです。実は女はそんなに土地があっても仕方がありません。一人ではとうてい耕せないからです。女は新たに手に入れた土地で果樹を育てる事にしました。
 村人は皆これ以上はないほど女を憎みました。そのためうっかり嫌がらせをしたり、衝動的に暴力をふるってしまう事が時折ありました。もちろん女は決して許しません。必ず警察沙汰にし、慰謝料や賠償金を巻き上げました。女が事実上悪い事は何もしていないので村人たちには怒りのやり場がなく、憎しみの圧力は村人たち一人一人を破裂させそうに高まっていました。とうとう村人たちは皆で女を殺す事にしました。ある晩、村人たち総出で女の家を取り囲み、何事かと女が跳び起きた所を押さえ付け、全員で殴る蹴るの暴行を加えて殺しました。包丁で胸を一突きにすれば簡単だったのですが、それでは「殺したのは誰か」がはっきりしてしまいます。村人たちは「みんなで殺した」事にしたかったのです。こういう妙な平等主義も女の嫌う所でした。何しろ村人全員が口裏を合わせているので決して真相は判るまいと思われたのですが、村人たちも個人住宅に防犯ビデオが設置されているとは思いも寄りませんでした。女は自分が憎まれている事を充分に知っていたのでした。このビデオが証拠となり、村人たちはほぼ全員がお縄となり、村の主だった者は実刑となりました。近来稀に見る集団暴行事件として報道され、実刑を受けなかった者も皆村を去り、離れ離れになって人目を避けるようにして暮しました。こうして村には誰も居なくなりました。
 女には身寄りがなかったので、女の遺産は丸々離婚状態の夫の物になりました。その金額を聞いた夫の知人たちは驚きました。そのお金があれば、わざわざ大嫌いな農民のいる村に住まなくても、廃村のような所を買い取って一人で住む事も、その気になれば新たな農地を開拓する事だってできる金額だったのです。それを聞かれると夫はちょっと困ったようにも見える悲しそうな笑顔になりました。
「あの人は意地悪がしたかったんだよ」
 遺族への賠償として村人の土地は全て夫の物になりました。住人が一人ではもう村とは呼べませんが、かつての村全部が夫一人の物となったのです。また、女は夫に莫大な生命保険金も遺しました。夫はその土地で妻と同じような質素な暮しを始めました。広大な田畑は雑木林にする積りで少しずつどんぐりの苗を植えています。夫には利殖の事は判りませんでしたが、コンピュータに残された記録を見て研究し、妻と同じ方針で株の売買を行いお金を稼ぎました。もっとも生活にお金は必要なく、稼いだお金は手に入れた土地の莫大な固定資産税を払うために使われました。夫はやがて後添いを貰ってその広大な土地でたった二人で暮しました。新しい奥さんは前の奥さんに良く似た意地悪な女でした。幸せであったかどうかは良く判りませんが、夫はいつもちょっと困ったようにも見える悲しそうな微笑みを浮かべていたそうです。

●世界虚事大百科事典●

ノンセンスバーコード

 2002年の暮れ頃から流行し始めた奇妙な遊び。身の回りの雑貨や小物などに一種の装飾として貼り付ける黒、青、緑などのバーコードのシールである。値段などを記録した一般の商品管理用のバーコードではない事は長さがやや長いので判る。バーコードリーダーで普通に読み取っても何の情報も得られないのでノンセンス(無意味)の名がある。リサイクルショップ、雑貨店などで売られていた。個人が持ち込んで委託販売しており、当初は製造元も流通経路も全くわからなかったが、主に埼玉県南部の小学生の間で流行し始め、インターネットを含む口コミで全国に広まり、愛好年齢層も幅広い物になった。知らない人がちらりと見ただけでは一般的なバーコードと見分けが付かないので、流行と言っても華やかさに欠けるいたって地味な物であった。これを物に貼り付けて楽しむ方も全く無意味な一種の偽物ジョークであると考えていた。製造元が一般に判明したのは2004年になってからである。ある雑誌の追跡調査で、川越市に住む老女、秋川よし(明治43|1910 -)が一人で製造していた事が判った。この時、このバーコードが全くのノンセンスではない事も判った。暗号化された彼女自作の俳句だったのである。

アウィディウス・カッシウス ?‐175

 ローマの総督。シリアのキュロス出身。ルキウス・ウェルス帝のパルティア遠征に指揮官として従軍した後、シリア総督、全アシア総督となる。172年エジプトにおける反乱を鎮圧。175年、マルクス・アウレリウス帝がドナウ川で死亡したという噂が広まると自ら皇帝と称し、ビテュニアとカッパドキアを除くオリエント諸属州とエジプトを約3ヵ月間支配したが、マルクス・アウレリウス帝のローマ帰還により反乱は失敗し、自分の兵士により殺された。
(かすてら注:この項全て真実)

サカモト

 ミクロネシアの小さな島国、ウマグ王国三代国王。在位は十八世紀前半と推定される。実在を疑う説もある。樹皮に記録された王室文書によるとサカモトは二代国王の実子ではない。王国の海岸に流れ着いた漂流者で日本人であったとされる。これについてはサカモトという音の姓が日本にある事を知って後から関連付けられたのではないかとも言われている。いずれにせよ王国には海からやって来た者を神と崇める信仰が現在でもあり、サカモトは国王の養子となり国王が海賊に殺されると第三台国王の位に就いた。彼はすぐさま軍隊の編成に着手し強力な海軍を作って国民を悩ませていた海賊を一掃した。この時、海賊の頭目の首を前王の墓前に奉げたとも言われる。サカモトは漁業技術農業技術の改良を奨励し産業を発展させ、これを財源に軍隊の維持、治安の安定、海路の管理や公共設備の建設を充実させた。また、贅沢を禁じ余暇を学問や芸術に遣う事を奨励するなど社会秩序の安定と精神文化の豊さを図り、不法徴発や刑事訴訟事件の解決のために裁判制度を整備した。外交政策の面では貿易によって周辺国と貧富の差が拡大しないように配慮し、災害時には多大な援助を行って友好関係を維持した。後継者に恵まれなかった事から全ての権力を国民議会に譲渡しようとしたが全国民の要請によって国政を議会と分担する事になった。私生活ではやや不機嫌な印象を与える物の質素で実直な生活を好んだ。子供には恵まれず、一人生まれた女児も早世したため、前王の甥を次代とするように遺言した。あらゆる面において理想的な王の中の王として神格化され現在でも国民の信仰に近い深い尊敬を受けている。サカモトの右足の裏には島の言葉ではない文字が彫り込まれており、彼が歩くとそれを裏返した足跡が付いたという。一説にはその文字は漢字で「左甚五郎」の四文字であったと言うが伝説であろう。

ツクイスブルク

 ドイツ南部に10〜17世紀にかけて存在した街。中世、手工業と商業の街として発展したが、16世紀末に商業革命のあおりを受けて一度はほぼ無人の廃市となった。1635年、大商人シューレ家のマクシミリアン二世が街全体を買い取った。彼は街全体を一軒の家として設計し直し、中央の岡の上に居間を置き、東の湖のほとりに子供部屋、南の森の中に寝室、北の山裾に食堂を作った。更に書斎、広間、客間、応接間、使用人や警備兵の宿舎などを配置し、マクシミリアンと両親、妻、三人の子供の七人で住んだ。マクシミリアンは「世界一大きな家」と称して悦に入っていたが、ここでの暮しは一ヵ月ほどで終わり、アウグスブルクに一転してこじんまりした屋敷を買って引っ越した。その理由について彼は多くを語らないが、寝室と食堂、居間の間を馬で移動するだけで一日が費やされてしまうためでろうと思われる。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2004年1月〜3月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2004年7月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2004年冬の号
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