季刊かすてら・2002年冬の号

◆目次◆

方法的怠惰
軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『方法的怠惰』

●ちょっと似てるシリーズ●

老若男女 と 蒟蒻問答

●大喜利・入ってます編●

【出題】日本中にあるトイレの花子さん伝説だが、北斗小学校のものは少し変っている。さて、扉をノックすると花子さんはどうする?
【回答】「ファイナルアンサー?」と訊く。
【回答】身の上話を始める。「私の前世はアトランティス人だ。風水を応用してピラミッドパワーを増幅させる研究をしていた。だがその研究の自己でアトランティスは沈んでしまった」
【回答】もう一人花子さんが出てくる(デフレ)。
【回答】「厚生労働相認可二級幽霊資格保持者」の身分証を見せる。

●大喜利・ゴッドハンド編●

【出題】遺跡の他に密かに捏造されていたものとは。
【回答】狂牛病。
【回答】インターネット。
【回答】テロ。
【回答】ゴーマニズム。
【回答】新型モビルスーツ。
【回答】タイタニック。

●大喜利・漂着編●

【出題】博多湾に流れ着いた巨大な武家屋敷。中に入っているものは何?
【回答】妖精が問いかけている。「金のえ○め丸と銀のえひ○丸。お前が落としたのはどっち?」
【回答】「ブケヤシキからあられたサムライは ふしぎなおどりを おどった」
    「しかし なにもおこらなかった」
【回答】炭疸菌。
【回答】「小吉」と書かれた紙片。
【回答】ウタマロガール。
【回答】手足の生えたメロンパン。

●大喜利・事故防止編●

【出題】一般に性欲は一定量を超えると臨界に達して青い閃光を発すると言われていますが、それを防ぐためにはどうすれば良いでしょうか。
【回答】月夜の晩の午前2時に西の方角にちくわをかざす。
【回答】ご休憩3時間に拡張。ノータイムサービス土日祝日も実施!
【回答】復活の呪文。
【回答】大島弓子の「いちご物語」が結構効くらしい。
【回答】ねるじぇら。

●大喜利・風太郎編●

【出題】どんな忍法ですか。
【回答】忍法「ネギ抜きで、めん固め、しるギトギト、チャーシュー気持ち厚め」
【回答】忍法・指が移動するマジック。
【回答】忍法・熟睡。

●大喜利・副産物編●

【出題】ツァラトゥストラ製作所で、人工降雪装置を開発中に偶然できてしまった意外な製品とは。
【回答】三ヶ月前の電波が届くテレビ。それもテレビ東京のみ。
【回答】マジンガーZ。
【回答】掛りたい罠。
【回答】放送枠を24時間にして、募金を集めるという画期的アイデア。
【回答】愛の終着駅。

●大喜利・新兵器編●

【出題】ジパング国で密かに開発された、火薬兵器、化学兵器、生物兵器、核兵器のいずれにも属さない、新たな概念の兵器とはどんなもの。
【回答】
オタク文化による脳侵略(先に自国が汚染されて自滅)。
【回答】老人兵器(兼ねる高齢化対策)。
【回答】納豆。
【回答】馬鹿の振りをして相手の戦意を失わせる(後に振りではないことが発覚)。

●大喜利・驚愕編●

【出題】雨戸食品会長の吉岡務さん(67)が散歩中に思わず「え?!」と大声をあげて、2mほど後ろに跳び下がった。その出来事とはどんなこと。
【回答】鳩サブレーを尻尾から食べている人を見た。
【回答】五歳の後妻。
【回答】叫ぶ青島幸夫「やっぱ、都市博やるゾー!」
【回答】肺を患っている醜い受験生風の男が目の前でみるみる蛹(さなぎ)になった。
【回答】上品な老婦人が乗用車ほどもあるバッファローを散歩させていた。
【回答】かりんとうが落ちてると思ったら、犬の糞だった。
【回答】「今日靖国通りを歩いていたら、皇居の方から車道を全裸の男が猛烈な勢いで走ってきて秋葉原方面へ去って行きました。何かに追われているようでした」

●大喜利・地方文化編●

【出題】日本の愛媛県では水道の蛇口が「水」と「湯」と「ポンジュース」の三つに分かれているというのはよく知られた事実ですが、このようなほかでは見られないあなたの住む地域の特徴を教えてください。
【回答】埼玉県は月曜日は閉県。
【回答】参政権譲り神話。
【回答】いまだにカンブリア紀。
【回答】交通網が「ジェットコースター」で結ばれている。
【回答】「人種偏見」の国際標準となる標準偏見器が存在する。
【回答】きびだんごをあげるとみんな付いて来る。

●大喜利・年末恒例編●

【出題】あなたの選ぶ今年の重大ニュースを教えてください。ちなみに、俺はやっぱり中国が台湾を八千億ドルで米国に売却したことかな。
【回答】埼玉県と栃木県の間で紛争勃発。
【回答】床屋の親父によると「朝起きてTVのスイッチを入れたら、音量最大だったこと」
【回答】ヒゲダンス解禁。

●大喜利・ご当地名物編●

【出題】「築4分、駅から4年」何じゃこの広告は。それはともかく、私の好きな南国のお土産は、ヤシ細工のクロンボ人形その名も「ヤシ土人」ですが、皆さんの地元に面白いお土産があったら教えてください。
【回答】空から降ってくる、黄色い袋に入った米国製の食料(中東の某国)。
【回答】空き缶で作った小さな人間魚雷(南国の某島)。
【回答】高級三角木馬。
【回答】橋龍のポマード(徳用)。

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●勝因のない勝利の魚●

 このところの不況のあおりを受けて亮太の勤めていた会社が倒産するとすぐ、妻は以前から不倫していたらしい若い男の元に走った。口うるさく、浪費癖があり、家事ができる訳でもなければ働く気もない妻がいなくなったのはかえってありがたかったが、再就職の先が見つからないのには閉口した。失業率は五%を越えてなお止どまるところを知らず、特別な技術も経験も人脈も持たない、四十歳をすぎた事務屋の亮太を採用する会社はなかった。元同僚の中には田舎に帰って畑を耕す暮しを始めた者もあったが、亮太の父は都市出身の会社員で帰るべき田舎などなかった。その日も、先週面接を受けた会社から不採用の電話がかかって来た。まだ昼前だったが、すぐに職探しを始める気にもなれず、天気が良かったので近くの川で釣り糸を垂れた。晩冬と初春の切り替わる頃のことであった。
 亮太には金のかかる趣味があるわけでもなく、衣食住もいたって質素だったが、妻の無駄遣いのおかげで大した蓄えはなかった。失業保険もいつまでも貰えるわけではない。しかし、子供は居らず、ただ一人の扶養家族だった妻も居なくなった今、亮太に深刻な気分はない。今はホームレスと呼ばれることの多い浮浪者になるやも知れぬ、とも思う。地面の上に直接毛布を敷いて寝起きし、ボール紙や瓶缶などを集めて金銭に換え、ある時は生ゴミも口にする生活の細部までがありありと想像されたが、それでも亮太は追い詰められた気持にはならなかった。そうなったらそうなったで仕様がない、と思うだけである。
 ぼんやりと自分の行く末に思いを巡らせながら水面の浮きを眺めていると、夕方近くなった頃ようやく当りがあった。引き上げてみると亮太の親指ほどの小さな魚である。形は鮒のようで珍しいものではなかったが、あざやかな紫の地色に真紅の斑点が並んでいるという熱帯魚のような柄の魚だった。亮太は見たことのない魚である。もっとも、釣り竿こそ一本持っていたが、亮太は釣りの熱心な愛好家というわけではなく、魚のことに詳しくはない。誰かが飼っていたものを逃がしたのだろうか。亮太はその美しさを慰めにしようと、拾った空き缶に水を汲み魚を入れて持ち帰った。アパートの部屋に金魚鉢や水槽はなく、亮太は金だらいにその魚を放した。
 それから一ヶ月ほどは、求人広告を見ては履歴書を送り、そして断られるという日々が続いた。魚の世話は餌を与え時折水を取り替える以外何もしなかったが、魚は元気で、その美しさで亮太を慰めた。亮太は魚に生ゴミを与えていた。魚は人間の食べるものなら何でも食べた。およそ有機物なら何でも食べるように思われた。与えれば与えただけ残さずに食べてしまうので水が濁るようなこともなかった。水を替えるのは酸素不足を心配してのことである。食欲は旺盛だが、体は少しずつしか大きくならなかった。水が濁らないのだから糞もしていないのだろう。魚の食べた餌が何処に行ってしまうのか、亮太には判らない。
 何か売れる物はないか、妻が宝石でも置いて行っていないかと箪笥の抽出しを整理していた時に小さな賽子(さいころ)を見付けたのがきっかけだった。亮太は賽子を振って一の目が出た時だけ魚に餌をやることにした。どうしてそんなことを始めたのか自分でも判らない。何か「運試し」のような気分があったことは確かである。その時既に魚の影響を受けていたのかもしれない。
 しばらく続けると、確率を超えて一の目が多く出るようになり、徐々にその割合は増え続け、ついには何度賽子を振っても一の目しか出なくなってしまった。動物の超能力であろうか、と亮太は思った。災害を予知して動物が一斉にいなくなる話などは聞いたことがある。これを見世物にして稼げないか、と一瞬考えたが、見物人に言われるまま賽子の目を自在に出すならともかく、一しか出せないのでは賽子に仕掛けがしてあると思われて終わりであろう、と思い直す。なぜかこの「賭け」を始めてから魚は急に大きくなりだした。金だらいでは体が収まらなくなっていた。体を真直ぐに伸ばすと鼻先と尾鰭がつかえてしまう。深さも足りず、背びれが水面から突き出していた。できるだけ支出は切り詰めたかったので、水葬は買わずに商店で大きなボール箱を貰い受け、大きなビニール袋を買って来て箱の内側に広げ、防水にして水を張った。
 プロ野球の公式戦が始まった。亮太は今度は自分の贔屓の球団が勝った時にだけ魚に餌を与えることにした。昨年を最下位で終え今年の公式戦を連敗で発進したその球団は徐々に勝率を上げていき、やがて連戦全勝の快進撃を開始した。飛び抜けた成績の選手が現れた訳でも、打者全体の打率が上がった訳でもなければ、投手全体の防御率が上がった訳でもなかった。監督が采配の冴えを見せるということもなかった。どういうわけか打者は良いところで打ち、投手は良いところで押さえるのだった。好機に燃える闘志や勘の良さということでもなく、多くは相手球団の失策や失投によるものだった。訳の判らぬ解説者たちは苦し紛れに「打者たちに失投を見逃さない眼力が付いた」「打者の打ち気を逸らす巧みな投法」などと説明したが、選手たちにそのような意図はなく、バットを振れば当るのであり、球を投げれば相手が凡打してくれるだけのことだった。これが自分たちの実力ではなく単に「運が良い」だけのことであるのは選手たち自身が皆良く知っていた。全員が、こんなことがいつまでも続くはずはない、と思っていた。その通りになった。球団は公式戦の中盤を待たずして負け始め、後半戦はほとんど勝つことがなくなった。亮太が魚に別の「賭け」をさせ始めたのであった。
 亮太はなけなしの貯金を全て引き出し、家財道具の一切を質に入れ、金融会社から失業者が借りられる限度額まで借金をして、その金を全部使ってある企業の株を購入した。特に業績が悪化したわけではないのになぜか不人気で、不況のため株価全体が下がっていることもあって額面割れしている会社だった。亮太はその会社の株が上がった時だけ魚に餌を与えた。少しずつではあったが株価は着実に上がって行った。しばらくすると、ある時期からその株がまったく下がっていないことに気付いた投資家たちがそれを買い始めた。みるみる株価は上がり、目立った業績は上げていないにもかかわらず、ついにはストップ高が出るまでの人気となった。亮太は頃合いを見てその株を全て売り、魚に「賭け」させるのもやめてしまった。途端に株価は急落し、とうとうその会社は倒産した。株主たちの中には自殺者も出た。亮太は儲けた金で広い部屋に移り、魚のために大きな水槽を買ってやった。魚の大きさは五歳児ほどにもなっていた。
 株の売買で亮太は大金持になった。郊外に大豪邸を建て、庭の池に魚を放した。亮太の成功を知った妻がやって来て撚りを戻したいような素振りを見せたが追い払った。今や亮太には複数の愛人が居り、性的な関係のない女友達なら何十人もいた。三人の使用人の居る屋敷に妻は必要なかった。女性だけでなく男性も、何とか亮太の近づきになろうと寄り集まって来た。人気があるのは亮太自身ではなく亮太の持っている金であることは亮太には良く判っていた。亮太は妻を寝取られた冴えない中年男に過ぎない。亮太は誰とも深いところで親しくなろうとはせず、距離をとって接した。孤独は苦にならなかった。むしろ人と話すのはわずらわしかった。亮太は日がな一日池を泳ぐ美しい魚を見て過ごした。魚の美しさは変らなかったが、その全長は大人の背丈ほどになっていた。魚だけが貧しい時も亮太を裏切らなかったのだ。亮太は飽くことなく魚を眺め続けた。
 その年の夏、亮太は若い女友達を大勢招いて、池のほとりで大きな宴を開いた。強い陽射しの下、いくつもの大きな日除け笠が立てられ、その下に半裸の美女たちが群れていた。使用人たちは料理と飲み物を持ってその間を歩いた。ほんのわずかだけ体を隠す小さな布を身に着けた女たちは代わる代わる亮太に挨拶をしに来た。亮太の気を引きたいのか、中には全裸の女も居たが、皆亮太の気難しさは知っているので、しつこく話しかけるような者は居なかった。皆が魚の美しさを賞賛した。半分は亮太へのへつらいだが、半分は本気で美しいと思っているようであった。魚の尾が水面の水を跳ね上げる度に歓声が上がっていた。亮太は満足してその様子を眺めていた。
 その時「運悪く」一帯を大地震が襲った。「確率的にはあり得ない」ことにその場に居た全員が揺れ動く地面に投げ出されるようにして池の中に落ちた。池に落ちた者たちは次々と魚の尾の一撃で気絶させられた。池から這い出ようとする者は咥えられて引き戻された。亮太と三人の使用人と数十人の半裸の美女たちは一人残らず溺れ死んだ。魚はゆっくりと溺死体を食べ始めた。付近一帯は地震の被害で混乱しており、そのためか救助隊の捜索は亮太の家だけを「取り残したように」見落としていた。
 あの日、亮太が魚を釣り上げたのではなかった。亮太が魚に捕えられたのである。亮太が魚を飼っていたのではなかった。亮太が魚に餌を与えられ、太らされていたのである。
 数十人の人間の死体を食べ、今や牛ほどにもなった魚は池の底に卵を産みつけた。数百もの卵を産み終えると魚は死に、その巨体を水面に浮かべた。数日後、孵化した稚魚たちは母親と同じ柄に覆われていたが、母親に似ていない特徴もあった。腹部の四枚の鰭が太く丈夫に変化していて、足として使って地上を這い回れるようになっていたのである。母魚は突然変異の確率にも干渉して、子供たちを進化させたのだった。数百匹の子供たちは母親の体を食べて成長し、ある大雨の夜、一斉に池から這い出した。新たな獲物を求めて。

●世界虚事大百科事典●

欠伸多幸症

 原因不明の精神疾患。感染性で、ウィルスによるものではないかと考えられるが特定できていない。一時的な意欲減退が見られるものの重い症状がなく、放置しておけば数日から一ヶ月ほどで自然治癒するため、医学上重要な疾病とは認められず、研究が進んでいない。そのため治療方法も全く判らない。症状としては現状を完全に肯定する穏やかな幸福感に包まれ、そのため何もする必要を感じずふぬけとなり、微笑をたたえて座り込んだまま欠伸を繰り返して一日を過ごす。睡眠だけはよくとるが、食欲性欲は減退する。食事の回数、量ともに減少し、病気が長引くとやや栄養失調気味になる場合もあるが、多くは減量効果とストレスが全くなくなるため、かえって健康になる。治癒後、反動でやや鬱状態になる場合があるほかには後遺症など身体的精神的な影響は全く残らない。むしろ、発病中患者は何もしないため、家が荒れ、仕事が停滞してしまうことが問題である。広い範囲に感染すると、その地域全体の経済活動が停止してしまう場合もあり、立て直すの非常に時間がかかる。
 日本では戦後一度だけ大流行したことがある。1949年9月16日、おそらく当時流行していたオセアニア北部の島々から台風に乗って北上してきたと思われる欠伸多幸症は、強い感染力を保ちながら、紀伊半島から北東進して伊豆半島へと進み、仙台から北東に去った。静岡県から関東地方で感染者が多く箱根で5000人をこえた。東北地方の一関では磐井川流域で多数の感染者を出し宮古付近で被害が大きかった。この影響で全国の倒産件数512、失業者1959名など第2次大戦後の復興未だという国土に大きな被害を与えた。しかし、感染経験者にこの病気のことを聞くと、寂しいような懐かしいような表情を浮かべて「もう一度罹りたい」と言う者が多かったという。

ルサスフ[山]

 ブラジル、マト・グロッソ州の大湿地帯中南部に忽然とそそり立つ名峰。湿地帯探検の基地、ニマピズ・キデロフの南に位置し、ヒオゲセ、メゲンガゥヒの2峰とともに山塊をなす。標高2970m。山体は結晶質石灰岩からなり、侵食をうけ、とくに北壁は高差1800mを有するほぼ垂直の大岩壁となっている。山頂は卓状の大地となっているが、常に雲に覆われていて、航空機を利用してもその様子を観察することはできない。北側の絶壁を流れ落ちる水量豊かな滝は、中腹で風に巻き上げられ、地上に落ちることなく霧となる。この滝が涸れることなく流れ続けることから、山頂では常に雨が降り続けていることが予想され、初登頂によってそれは確認される。
 1958年8月11日イギリスのR.カーマイケルが南西面と西稜からヨーロッパ人としての初登頂に成功。そこにインディオの都市を発見して愕然とした。彼らはラジオなどを持ち、かなり文明的な生活をしていたのである。それらの電気製品や電池などをどのような運び上げているかは謎として残った。
 1961年9月10日には、宮沢正男がガイド3人と北東稜の登攀(とうはん)に成功し、日本人の初登攀となった。もっとも困難なルートの一つとみなされている北壁は、68年夏オーストリアのH.シラーらによって初登攀された。69年夏、加藤義治らは北壁の右手、「青い壁」を経由する直登ルートを開拓、日本ルートの名をとどめた。この時の加藤らの調査で、原住民たちが滝の水で水車を回し、それを動力としてロープで人や荷物を乗せた籠を巻き上げる、一種のエレベータを「青い壁」に設置し、何の苦労もなく自在に昇降していることが発見された。このニュースは、時には死者まで出して登頂ルートを切り開いてきた登山家たちを大いに嘆かせた。そのため加藤は「青い壁」を「嘆きの壁」と呼んでしまい、ユダヤ人の反発を買っている。

月線[町]

つきせん
 新潟県夜顔島大夜顔山地の北西側海岸部にある夜顔郡の町。人口9330(2000)。海岸段丘が発達し、集落は段丘面と段丘崖下の小湾頭に位置する。17世紀初め以来幕府直轄の木霊箱産地として発展した。
 木霊箱とは、箱に付いている取っ手をゆっくりと引くことで人間の声やさまざまな音声を発する玩具の一種。木霊が封じ込められているという触れ込みで、江戸時代を通じて日本全国で流行した。一度に再生できる音声は五秒ほどのものだが、木霊板という記録板を交換することで別の音声を再生するすることもできた。原理はアナログレコードとまったく同じで、木霊板に彫りつけられた溝を竹でできた針が擦って振動を起して音声を発する。箱のほとんどは空洞で、音声を共鳴させ増幅させるためのものである。音声を再生する技術としては、エジソンに先んじること250年あまりであったが、惜しむらくは音声を自動的に記録する技術が伴わなかった。木霊板の溝は専門の職人が手作業で掘り込んでいたのである。彫り込まれる音声は、簡単な挨拶、端唄や俗曲の一説、俳句や和歌、念仏などのほか、鳥の声などの自然の音もあった。
 江戸中期は生産が追い付かないほどの人気であったが、開国し海外からオルゴールが輸入されるようになると急激に衰退し、蓄音機が普及するとほとんど顧みられなくなった。工場は明治になり御料局に移管され、政府は洋式工法を導入して近代化を進めた。1896年三菱工業に払い下げられ、1952年規模を縮小し夜顔木霊株式会社が稼働生産していたが、69年3月閉鎖した。その後は個人の手によって民芸品として細々と生産が続いていたが、1998年に最後の木霊箱職人、加藤清六の死によってそれも途絶えた。
 工場跡、夜顔奉行所跡、御料局夜顔支庁跡を転用した月線郷土博物館は30余の寺とともに観光に生かされている。7月下旬の木霊祭には全盛時代の面影を伝える諸行事がくり広げられ、〈木霊流し〉は有名。勇壮典雅な《月線音頭》は夜顔の代表的民謡である。

林義介

1880‐1967(明治13‐昭和42)はやしよしすけ
 見世物小屋秘宝興行の創設者、医師、政治家。山口県出身。東京帝国大学医学部卒業後、山口県立尾鰭病院に研修医として赴任、さらに渡米留学して実地に臨床医療を学ぶ。ところが何を思ったか、フロリダの俗悪なショーで見た、灰色の精液、濃黄色の精液を射精する技術の習得に熱中。1910年、習得技術の企業化のため、林が何をしようとしているのか良く理解できない親族を言いくるめて援助を得、自らの芸を持って全国を巡回した。11年、女ターザン、蛇女、ろくろ首などの芸人を得て、林興行を設立して見世物小屋経営を実践する。大正末年、経営の破綻した義弟久原修司(くはらしゅうじ)家の久原劇場再建を引き受け、28年公開持株会社の秘宝興行株式会社に改組、活動拠点の一つとした。37年ごろからは軍部と提携して満州に進出し、満州見世物小屋開発株式会社を中心に大陸開発を行った。この時、中国各地で奇怪な曲芸師を多数発見、抜擢している。その一方で林は研究修行を続け、濃い茶色の精液、桃色の精液(血液が混ざっていると思われる)を射精する技を身に付けている。 さらに墨のように黒い精液の射精を試みるが、研究熱心のあまり腎虚で死にかけた。その後は妻の協力を得て、赤以外の色の月経血を作り出そうとしたが果たせなかった。第2次大戦後、政界に進出して参議院議員に2回当選し、さらに56年には見世物小屋政治連盟を結成、その総裁となり、巡回興行団体組合法などを制定させた。59年選挙違反の容疑で参議院議員を辞職した。

転倒術

てんとうじゅつ
 広義には、古流柔術の一派大山天郷柔術を源流とする「合地(ごうじ)」の名を冠する日本武術のうち、倒れ転ぶ技のみを集約体系化した体術をいう。狭義には、同流修行者の一人・池田琢郎によってまとめられた形(かた)(約束練習)による練習法と、その解釈を指すことが多い。しかし1960年ごろ、池田の高弟・宮本謙治(1900‐79)によって乱取法(自由練習)が創案されたため、形と乱取りによる練習法を総合して指す場合もある。
[合地]この語は近世の武術伝書『一刀流兵法韜袍起源考』『槍剣事理問答』などに見ることができ、体と共に気勢や拍子が地面に合う状態の意味で使用されている。明治・大正期にも『合地之術』(1892)など合地に関する書が見られる。大山流関係者の間では、明治期から秘技として合地の語が使用されていた。その意味は、大地に対して心を合わせる心法と、つまづき、跳躍、回転、接地の技法との2面から理解される。この語は同流関係の史料では、1922年に池田が大山春角(1860‐1943‖万延1‐昭和18)から与えられた「合地転倒術秘伝奥儀之事」に初見される。現在、合地は流派によって異なったニュアンスで用いられている。
[歴史]口伝および伝書によれば、大山流は源家の高田三郎文義を始祖とし、甲斐の武田家に伝わった格闘術であった。1574年(天正2)に一族の武田国継によって会津の武田家に伝えられると、これに同地の武術をとり入れて殿中護身武芸(御式内(おしきうち))が定められ、歴代藩主が継承して家老、重臣、小姓など奥勤めの者に習得させたといわれる。大山春角は若くして角力、棒術、小野派一刀流、宝蔵院流槍術、手裏剣術を学び極める一方、元会津藩家老・高峰秀石から御式内を伝授された。転倒の技は、本来は敵の予想を裏切る動きで足下に潜り込むためのものであった。大山はこれを武術から切り離し、激しく体を地面に叩き付けながらもその衝撃を無効にし、痛手を負わない技の開発に熱中した。攻撃でもなければ護身でもなく、純粋に転倒することの身のこなしを追求したのである。1898年以降これを大山流転倒術と称して、その普及のため全国を巡回指導した。大山に学んだ池田は1922年に教授代理を許され、31年に「八十八ヶ条御信用之手」を伝授されて以後、大山から離れた。みずからは合地転倒術、合地転倒道の名で指導し、42年以降合地道と改称して普及させた。宮本は1926年から池田に学び、40年に八段を允可(いんか)された。以後柔道に倣って合地道の競技化を研究し、60年ころ合地乱取法を創案しこれに成功した。現在、合地道界には理論や練習方法上の拠点となる人物を、それぞれ大山、池田、宮本におく三つの潮流があるが、その中には多くの独立組織も並立しており、一流派一人という場合も少なくない。
[競技法]従来の合地道が形の練習に終始し、柔・剣道のように実力が客観化できず、学校体育教材として不十分な点に着目し、宮本が乱取法を創案した。乱取りの基本の形としては17本(当身技5、肘関節(ちゆうかんせつ)技5、手首関節技4、浮技3)が制定されている。乱取法には、平地で有効技を競うものと、傾斜地、階段によるものとがある。いずれも大きな動きで派手に転び、激しく体を叩き付けるほど高得点となる。現在のところ、スポーツとしても、体育教育としても一般からは認知されていない。また、階段競技での負傷者も多く、競技者は年々減っており、その存続が危ぶまれている。なお、宮本の死因は自宅の風呂場での転倒による頭蓋骨骨折である。

ヒアトギゼナ[島]

 ギリシア・ペロポネソス半島の沖に浮かぶ面積約45平方キロメートルの島。変化に富む地形と良好な気候のため保養地として発展、また、ピスタチオ、オリーブ、ブドウなどを産し、陶器製造も行われている。出土品により新石器時代の人類の居住が確認されているが、ギリシア人は前2000年ころからここの存在を知ったようである。その時には既に先住民は居らず無人島となっていた。
 ペロポネソス半島の町・アルゴスでは、古代より女神ヘラが崇拝されていた。ヘラは古代ギリシア人の最高の女神で結婚と出産をつかさどり、既婚女性の守護神。最高神ゼウスの妻であるが、その嫉妬深い性格から信仰者は離婚を禁じられている。また、夫と死別した女性も再婚はもちろん、男性との性交も一切禁じられる。これを厳格に行うため、古代アルゴスでは未亡人をヒアトギゼナ島に隔離した。現在も「未亡人の島」と呼ばれる由縁である。未亡人たちは男性を遠ざけ、夫の死を悼みながら、畑作をしたり、山羊や鶏を飼って自給自足の生活をおくっているということになっていた。しかし、実際にはこっそりと男性たちが小舟で乗り付け、また、性欲旺盛な若い未亡人もこれを歓迎していた。
 避妊処理が充分でなかった古代であるから、未亡人たちはしばしば妊娠したが、彼女たちは赤ん坊を、発展期で多くの労働力を必要としていた古代ギリシアの諸都市国家に売り払っていた。この収入と男たちの貢ぎ物によって島は都市に劣らぬ栄華を築き上げた。この繁栄を見て、女性の抑圧が激しかった古代ギリシア全土から若い女性が集まり、島はますます栄えた。前8世紀ころよりギリシア全土で評判となり、全国から男性が訪れ、後にアテナイ娼館との対立を招いた。
 前1世紀前後、島は繁栄の頂点を迎えるが、その直後に突如として歴史からその姿を消す。一説には激昂した原理主義的なヘラ女神信者の襲撃を受け、一夜にして女たちは皆殺しにされたともいわれる。
 ペロポネソス半島を望む丘陵上のアミファオイ神殿は前6世紀末か5世紀初めの建設で、アルカイク期後期の最も完成された様式の神殿といわれ、1950年代末に再建された。古代都市跡は島の北西部にあり、デュオニシス神殿(一時ヘラ神殿と考えられていた)が見られる。

ヨイエシュテット

1892‐1975
 ドイツの覗き穴学者。ベルリン大学のマシャモンのもとで覗き穴学の研究に入り、フライブルク、ウィーン、ミュンヘンの各大学をへて、1929年ブレスラウ(ブロツワフ)大学教授となる。1926‐29年にはインド、37‐39年には東南アジアを訪れて盗み見学的調査を行った。34年に刊行した《盗み見学と盗み見史》は、数少ない盗み見学の成書として世界的な名声を博した。第2次世界大戦後はマインツ大学に移り、48年にドイツ覗き穴学会を創立した。また幅広い視野をもった覗き穴学の専門誌《穴》を創刊し、今日の同誌の発展の基礎をきずいた。盗み見の形態、遺伝、生理、心理に関する研究の総合をめざし、ライフワークとして36年以来とりくんでいた大著《盗み見の研究》三部作は、二十数年の歳月をついやして63年に完成した。
 功成り名を遂げたヨイエシュテットだが、この後老人性痴呆が進み奇矯な振舞いが目立ち始める。64年11月23日、「盗み見学の実践的研究の為に(中略)命を賭して戦ふべき秋が来た」として、愛窃視会を設立、ドリルを持って無差別に建築物の壁や建具に覗き穴を開けて回った。この後「愛窃視主義」を唱え、西ドイツ各地で講演会を開催、ヨイエシュテットの学者としての名声に惑わされ、何か勘違いをした若者が集まり、66年5月には支部29、会員400を擁するに至る。この愛窃視会の活動の一環として、67年4月15日、「新覗き穴建設の闘士」を養成することを目的に設立されたのが愛窃視塾である。塾長ヨイエシュテットのもと、F. W.ルビッチ、K.G.ラング、G. W. パプスト、エルンスト後藤を教師に、創立当時、塾生は青年部5名、少年部8名であった。工業国家として高度経済成長期にあった西ドイツだからこそこのような馬鹿なものの存在が許されたのであろう。
 農村から都市への人口流入が進むなか、ヨイエシュテットは急進的な覗き見運動に接近、ヨイエシュテットの強い影響下にあった塾生は68年5月、「覗き穴決死隊」を組織した。彼らは、増加する都市の工業労働者のために作られたばかりの公衆浴場を襲撃し、男性用女性用を問わず浴室の壁を穴だらけにした。これにより愛窃視会・愛窃視塾は世間の注目をひいたが、他面、指導者であったヨイエシュテットは無期懲役の判決をうけ、愛窃視会の勢力は衰えた。愛窃視塾もまたヨイエシュテット釈放を求める塾生の直訴未遂事件により、ヨイエシュテットの兄・レニも逮捕され、69年1月事実上解散した。その後、72年の元塾生の出獄や、73年のヨイエシュテットの出獄を機として、再興がはかられたが、めだった活動はなしえず終わる。

アムール条約

 1998年5月28日、中国とロシアがアムール川(中国名・黒竜江)の中流部西岸の町・愛輝(アイホイ)で結んだ条約。これにより中ロ国境であるアムール川を生活の場とする少数民族・カロン族(中国名・黒河族)は両国の共有民とされた。この結果、物質的には貧しいカロン族は、どちらの国からも徴税を受けず、両方の国から二重に福祉を受けることになった。
 土地を持たない川の上の放浪者であったカロン族の存在は、近年まで中ソ(中ロ)国境問題の陰に隠れて重要視されなかった。しかし、ソ連におけるペレストロイカが進展するなか、89年5月の中ソ首脳会談で、国際法の準則に従って国境問題を解決することが確認され、さらに91年には東部国境、94年には中国・ロシア・モンゴル3国の接境地域、および西部国境についての合意を見ると、カロン族の所属の問題が大きく浮上して来た。
 カロン族はアムール川の上流から中流域を船で上り下りする民族。スラブ人を祖先に持つと考えられ、外見的には白人の特徴も見られるが、流域の多くの民族の血が入り込んでいて人種は特定できない。古来より男女を問わず容貌の美しい者が多いと言われてている。その時代や土地で美男美女の基準は異なるにもかかわらず、アムール川流域の数多くの民族の間で昔からカロン族の美貌が噂されるのは、彼らの血統の複雑さから、その容貌がどの民族からもエキゾチックなものに映ったことが影響しているらしい。カロン族はこの美貌を利用して、しばしば流域の権力者に美姫を献上し、その庇護を受けていた。後述するが、この伝統は現在でも続いている。
 彼らの日常生活は、もともと簡素である。酒とタバコは大好きだが、食事は自然の産物を簡単に調理したもので済ませている。民族衣装というものはなく、流域住民の不要になった衣類を手に入れて着る。ただ、非常に華やかな衣装を好み、縫合をほどいた衣類をパッチワーク状に繋ぎ合わせたり、黒や灰色、茶色の衣服に原色の糸で刺繍をしたりして華美な衣服を作る。この衣服と彼らがときに身につける金銀の豪華なアクセサリーは、カロン族独特の雰囲気をかもし出す。
 カロン族は手先が器用で、伝統的な職業は、先に述べた刺繍のほか、籠や木工品の製作、蹄鉄づくり、鍛冶、鋳掛け、金属加工などは昔からの特技である。年配者がつくった工芸品の類を村人に売り歩くのは一〇代後半から二〇代の若者の仕事で、男女とも他人に恒久的に雇われるのは嫌う。また、特徴ある芸能も各地で人気があり、動物の曲芸や見世物を専門とするカロン族は、村の祭りには不可欠である。また、彼らがもっとも得意とする音楽の演奏や踊りは、田舎の貴族の婚礼などで歓迎された。総じて彼らの職業は、流浪しながらできるものであると同時に、農村の住民との間で取引されるものが多い。実は、カロン族の真の主要産業は売春である。工芸品の販売や芸能を行いながら、その美貌を活かし、また流域各地の民族から習い覚えたさまざまな性技をもって男女共に春を販ぐ。
 カロン族は船を家として暮らしており、四月、アムール川の氷が溶けると下流に向かって漕ぎ出して行き、十一月になって川が氷結するとその土地で馬を購入し、船の下に橇状の板を取り付け、馬に引かせて上流へと向かう。これを毎年繰り返す。移動する売春窟である。四月になって氷が溶けると馬は食用にされる。数家族から十数家族(後述するが実は彼らの家族の概念は曖昧である)、一〇〇名ぐらいを単位として、つかず離れずに移動する。独自の汎神的、シャーマニズム的宗教を持ち、数多くのタブーやしきたりがあるが、結婚という制度はなく、家族や過程といった境界は曖昧である。そのためか性的にはおおらかで貞操という概念はまったくないに等しい。売春も、仕事であると同時に楽しみでもあるらしい。恋愛という概念はあるにはあるが、恋愛というのは一時的な情熱であり、長期にわたって継続するという発想はない。子供を産んだ女性は赤ん坊を年配者に預けてすぐにまた商売に出る。男性が交渉相手の女性を妊娠させた場合も、その女性が望めば赤ん坊を引き取り、同様に年配者に預けられる。男性は精通を女性は初潮を迎えると同時に徹底した性技の訓練を受け始める。教師を務めるのは、容貌が衰え始めたために現役を退いたかつての娼婦・男娼たち。思春期を迎えた少年少女たちには、もちろんこれは悦楽である。
 カロン族の子供や若者を嫁や婿、養子として他民族に預けることもある。多くの場合その相手は経済的成功者や土地の有力者である。その際、親もしくは扶養者に多額の仲介料が支払われる。実質的には人身売買であるが、カロン族はその美貌と性技のためにどこの家でも寵愛されるので、人権上の問題とする者は誰もいない。こうしてカロン族は流域各地の金持ちや名家と血縁関係を結び庇護を受けている。
 また、他民族の血を取り入れて、商売道具でもあるその容姿を多彩なものにすることにも積極的である。外国人男性が彼らを訪れると盛大な性の接待を受ける。女性も望めば美しい若者と同床することができるが、よほどの長期滞在でない限り男性ほどの歓迎は受けない。受精しても出産まで居てもらえなければ子供を得ることができないからである。近年では、流域以外の民族の血を取り入れ、また新たな性技を習得するために「出稼ぎ」に出る者まである。
 カロン族の性の味を覚えてしまうと、忘れられないと言い、流域各地では思春期を迎えたばかりの若者から老人まで、毎年彼らの訪れを待ち望んでおり、彼らはどの村でも歓待される。また、カロン族の若者を養子にするのは成功者の証である。条約では明記されていないが、カロン族が中ロの共有民とされた理由は、どちらか一方のものとすれば、失った側で暴動が起きることが予想されるためであると言われている。中ロ両国は、流域住民とカロン族の性交渉は自由恋愛であり、支払われる金銭は商品の売買や芸能に対するものであるとして、彼らの売春を事実上黙認している。
 一時期その美貌に目を付けた上海の映画会社が多数のカロン族の若者を俳優として抜擢したが、自由民である彼らは撮影の拘束時間が長いことを嫌って、すぐにアムール川に帰ってしまった。この時、彼らの性のとりこになった俳優、撮影関係者が多数その後を追い、その映画会社は大打撃を受けた。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2001年10月〜12月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2002年4月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2001年秋の号
季刊カステラ・2002年春の号
『カブレ者』目次