ボルガ3200km  (1997)


 

( 1) モスクワ

 

8月14日(木)

 ホテル「イズマイロボ」からレニングラード街道沿いにある河港まで、ひどい渋滞

もあってゆうに1時間以上かかったが、それでも乗船開始時刻より1時間半も早い3

時半に到着。途中で激しいにわか雨にも遭ったが、この時はあがっていた。乗船開始

時まで待たされるのは覚悟していたのに意外にも入れてくれる。4階の船首部に近い

かなりいい部屋。まだ客室準備中で、トイレットペーパーや石鹸の補充にきたメイド

の人が中に客がいるのでびっくした様子。

 

 乗った船「コンタンチン・フェーヂン」は、エニセイ川のときの「アントン・チェ

ーホフ」、一昨年カマ川から乗った「ウラヂーミル・マヤコフスキー」、昨年のドニ

エプル川の「マーシャル・ルィバルコ」と全く同じ125m級・3500トンほどの5層の川

船で、レセプションやレストラン、バー、映画用のホールなどの配置なども全く同じ

だから勝手がよくわかる。

 船室は幅2m程度、奥行きは4-5mの小さなもので、そのうち窓側半分にはソファ・ベ

ッド2つが向き合い、その間にテーブルと小さな椅子がある。片方のベッドの足元に

エアコン。廊下側半分は方は追うがロッカーと荷台、もう一方がトイレとシャワー・

洗面台というコンパクトな造り。

 

 出港を待つ間にもう一度激しいにわか雨があったが、定刻の7時近くにはすっかり

晴れ上がって強い陽射しになる。港にひしめく白い川船、港の背後の緑の林、その間

に立つ古びたターミナルビルの尖塔のコントラスト。スターリン様式のターミナル・

ビルには「1933-1937 モスクワ〜ボルガ」文字が刻まれており、これがモスクワ運河

の工事をした時期なのかもしれない。陽は射しているけれど、さきほどの雨が前線の

通過だったのか、非常に寒い。

 

 定刻より30分ほど遅れて午後7時半に出港。市の中心からは離れたところに河港が

あるとはいえ、まだ橋が多く、それらが高くはないので船はマストを折ったまま航行

する。

 

 8時から夕食。おばあさんばかり3人のテーブルに相席させてもらったが、私の隣

にいた1人はウェイトレスにも「Thank you.」と英語を使う。すると連れが「ロシア

語で話しなさいよ。」なんて言っている。長くアメリカにでもいて帰国した人か。

 オイル漬けのアンチョビとグリーンピースのザクースカ。繊切りの人参、キャベツ、

賽の目のジャガイモと思ったらパイナップルのサラダ。ドレッシング代わりにスメタ

ナをかけてある。メインは目玉焼きを載せたハンバーグとライス。紅茶とロールケー

キ。この日緒は市内を回るのに忙しくて昼食を取り損なったが、これで満腹以上。明

日からは加減しなくちゃ。

 

 9時頃オレンジ色の太陽が森のむこうに沈む。上空には脚を出した旅客機が頻繁に

通る。東京からの飛行機がモスクワに着く直前、下に見えた大きな水路はきっとこの

モスクワ運河だったのだ。

 夜になると明暗が内外逆転して、レースのカーテンをひいてもキャビンの外のデッ

キから室内がまる見えだし、かと言って寒くて外には出られないから、厚手のカーテ

ンを引いて早々に寝てしまった。

 

 

 

 

( 2) ウグリチ

 

8月15日(金)

 夏時間のせいもあって日の出は遅く、6時頃ようやく明るくなる。水路が狭く、そ

のためか船足も遅く、ほんとうに静かな航行。運河の岸は雑木林だったり白樺の森だ

ったり。空の様子は明るくなったり曇ったりめまぐるしく変わって時折雨が通り過ぎ

る。

 

 午前7時半過ぎ、初めての(夜寝ている間にあったかどうかは知らないが)水門。

モスクワからボルガへ出るのには上がるのか下がるのかと思ったが、ここは下りだっ

た。ただ、拍子抜けするほど落差は小さく、下へ下がった時の我々の船室の位置が上

の地面ぐらいの高さだったので3ー4mか。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース、チーズ、ひき肉入りのブリヌィ、バター、ジャ

ム、紅茶。

 

 食事の間にボルガ湖畔の町ドゥブナに入る。9時頃、モスクワ運河とボルガ川の合

流点。正面の水辺にあった巨大なレーニン像の前で大きく右折するとすぐに再び水門。

 中年女性のスルーガイドが甲板に現れて、そのあたりにいる人達を集め説明を始め

るが、例によってロシア語のシャワーで殆どわからない。ボルガ川もここドゥブナの

ダムでせき止められて「モスクワ海」という湖をつくり、その水でモスクワ運河を満

たしているという説明もあったようだが、それじゃ今朝通った水門より上の水はどこ

の水か?モスクワ川の水なのだろうか? ここドゥブナの水門はさきほどのより落差

が大きく数mはある。9時半、水門を通過。風が冷たく甲板に長くはいられない。ボ

ルガに出て川幅もいく分広くなり船も速度を心持ち速めた。川岸は緩やかな起伏のあ

る草地か耕地で、ところどころにダーチャというより別荘というほうがふさわしい新

しい建物の一群が見られる。

 甲板ですれ違った男性客がニコニコして「ニイハオ」なんて声をかけてくる。あち

らから見ると俺は中国人か。 11時、キムルィを通過。

 

 1時、昼食。トウモロコシを中心にしたサラダ。肉と繊切りキャベツとジャガイモ

の塩味のスープ。ヌードルを添えた肉のソテー。りんごジュース。洋梨。

 ここで恐れていた事態。明日の昼食から昼・夕食のメインディッシュと昼食のスー

プがそれぞれ2種類ずつのメニューからの選択制。あわててキャビンに辞書を取りに

行ったけれど、ロシア人の客がウェイトレスにこれはどういうものかと聞いているく

らいだから辞書くらいで手におえるわけがない。適当に選んだが何が出てくるか。

 

 ガリャージンの鉄橋をくぐってある程度時間のたった2時半近く、川の中に孤立し

た教会がたっているのを見る。ダムの建設で水没したのをかさ上げしたのか。一昨年、

ルィビンスク貯水池でも同じようななのを見たことがあったが、あのときは土台部分

は水没していたけれど、今度のはごくごく小さな「島」の上に立っている。

 このあたりは川幅が広く、ところどころに浮島のように見える島があり、おりから

の雨にけむって幻想的な風景をつくっていた。気温も午前中ほどは低く感じない。

 船室のラジオから流れる4時のニュースで、なかみはよくわからないが、「日本」、

「東京」、「第二次大戦」という単語がしきりに聞こえる。そう言えば今日は終戦の

日だ。

 

 4時過ぎ、ウグリチの水門にはいる。ここまでがウグリチ貯水池で、10m近い落差

のある水門を降りるとルィビンスク貯水池の一部になる。ダムの下に船着き場があり、

午後5時着岸。昼食時に指定された3つのグループに分かれ、それぞれにローカルガ

イドが付いてすぐそばのクレムリンまで歩く。

 クレムリンの中心はスパソ・プリオブラジェンスキー教会。外観はそう立派でない

が、内部のイコノスタスは豪華。教会内の思い思いの場所に座らされると、黒い僧服

の男性4人が出てきてイコノスタスの前に並び、見事なカルテットで宗教曲を3曲聞

かせてくれる。

 イワン4世(雷帝)の末子ドミートリーが殺されたのがこのウグリチで、そのドミ

ートリーを記念する聖堂が同じウグリチ・クレムリンの中にある。ウグリチ市の紋章

もドミートリーがモチーフ。ロシア史はこのドミートリーの死後、ボリス・ゴドノフ、

偽ドミートリー、ポーランド軍のモスクワ占領という動乱の時代に入る。

 

 7時に離岸。同じく7時から夕食。トマトとピーマンのサラダ。ハム。鱈のムニエ

ルにトマトとコールスロー、ゆでたジャガイモを添えたの。紅茶。焼き菓子。相席の

3人のお婆さんの達のうちのリーダー格の人(「ロシア語で話しなさい」とたしなめ

た人)が鱈でもお菓子でも「とても美味しい」を連発。窓の外のちょっとした景色に

も「とてもきれい」と言っているし、つくづく幸せだと思う。同じ景色や料理を味わ

っても「とてもステキ」と思うのと「イマイチ」と思いながらでは大変な違いだ。

 

 8時20分頃、右岸のなだらかな斜面に銀屋根の小さな教会。 映画「ドクトル・ジバ

ゴ」の中に出でくるウラルの一軒家を小さくしたような雰囲気の建物。その手前の中

州のような島に、これまたごく小さな木造りの教会。こちらはキジ島の木造建築のミ

ニチュアみたいな造りで、そばには上部に三角屋根のようなものを付けた木の十字架

が見える。写真を撮ろうとしたが、遠くて標準レンズでは無理。

 同40分頃、ムシュキンの町を通過。岸辺のちょっと小高くなったところに古そうな

教会があり、再建中の様子。もうこのあたりになると川幅はまた広くなり、川という

より貯水池であることをじゅうぶんうかがわせる。

 

 

 

 

( 3) コストロマ

 

8月16日(土)

 朝6時半頃、甲板に出てみる。雨はあがっているけれど、低い雲が空全体を覆う。

デッキは甲板員が丁寧に拭いた跡があるが、手すりには雨粒がたくさんの残っている

ので、しばらく前まではかなりの降りだったのか。空気は昨日ほど冷たくはないが、

それでも甲板に10分もいると身体の芯まで冷え込んでくる。

 船旅(飛行機も同じだが)のつらいところは、今どのあたりにいるのかがすぐには

わからないところ。日本の船だとインフォメーションのあたりに現在位置を示す電光

表示があったりするけれど、ロシアでは地図に画鋲をさしてというのがあればサービ

スのいいほう。11時にコストロマ着というのから時間で割るとヤロスラブリを過ぎた

あたりかと思う。川幅は数百m〜1km前後。

 早朝のせいか行き交う船は少なく、たまに貨物船やタンカーとすれ違う程度。時お

り、小さなボートに1人か2人乗って釣り糸を垂れているのを見かける。

 甲板に立って左右を見ると山がない。針葉樹の林はいたるところにあるが、遠方に

行ってもそれが高くはなっていかない。古い時代のこのあたりはほぼ真っ平らなそれ

こそ大樹海であったのだろう。それを長い時間をかけて人間が営々と切り拓いてきた

のだ。

 ふと気がついたのが。ロシアの川では私は堤防を見たことがない。川の両岸はその

まま高くなっていくか、少なくとも平坦で、岸の向こうへ行ってまた低くなるという

ことがない。雪解けの大洪水に堤防などは無力なのか。だから岸辺のすぐそばに人々

の生活の場がある。岸のちょっと高いところに古びた木造の家屋があり、そこから川

面に降りる雑な造りの階段があって、下の岸にはボートが転がしてある。誰か川へ降

りてきてそこで洗濯をしたり(そういう場面は見たわけではないが)、お米をといだ

り(あ、これはないですね。日本じゃないから。)しそうな雰囲気だ。S・マクシー

モフの小説「ヴォルガの四季」の邦訳(海越出版社・1995)のカバーの写真が大河ボ

ルガというイメージからやや離れた生活臭のしみた近所の沼の雰囲気だが、ボルガも

岸辺の写真を撮るとああなるのだ。

 このあたりのボルガの岸には教会(とその廃虚)が実に多い。それぞれに形が違う

のではじめはカメラにおさめていたが、次々に現れるのでキリがなく、やめた。かつ

てもボルガ川がロシアにとって大動脈で、それだけに多くの人々がボルガの流域で生

活していたということであろう。また、これらの教会はボルガを行き来する船にとっ

て灯台の役目もしていたのではないか。あの形の教会が見えたら××村だと。

 午前8時、船内放送で、早朝ヤロスラブリを過ぎ、いまネクラーソフスコエのあた

りだと言う。空がいくぶん明るくなってきたと思ってもう一度デッキで出てみたら雨。

はっきりしない天気だ。

 

 8時半、朝食。オレンジジュース。フランクフルト風のゆでたソーセージにグリー

ンピースがついている。バター。チーズ。味のついた白いパン。紅茶。ジャム。

 

 9時をまわってしばらくすると船の前方に大きな町が見える。川岸の丘の上に大き

なアパート群がならび、ボルガをまたぐ立派な橋もかかっている。時刻から考えては

じめはコストロマの手前の町かと思ったが、地図にそれらしい大きな町はなく、しか

も船足が極端に落ちているからあれがコストロマだ。

 

 11時からバスに分乗しての市内観光。と言ってもロシア語のガイドだから、言って

いることの1/50も理解できないのが辛いところだ。何となく雰囲気でつかむしかない。

はじめがコストロマ川とボルガ川の合流点にあるイパチェフスキー修道院。黄金色の

キューポラを持つトロイツキー寺院がその中心で、ここもイコノスタスがたいへん立

派。ところが修道院の敷地の中に別のところから移築したと思われる木造の教会が1

棟置かれているのはまだしも、修道院の建物の一部が自然博物館になっていて地元出

身の昆虫学者のコレクションが展示されていたりコストロマ付近の動植物の標本が多

数置かれているのはどうもいただけない。もしかするとソ連時代にはここは全く博物

館として使われていたのかもしれない。

 次に市の中心に戻ってボゴヤブレンスキー・アナスターシ女子修道院。ローカル・

ガイド氏の説明では、どうもイワン雷帝の最初の妻アナスターシャと関係があるらし

いが、私にはよくわからない。周囲の白壁の上に立つ正面の黒い塔と内部の赤い煉瓦

の聖堂とのコントラストが印象的。

 通り抜けるのもままならないほど混雑しているルィノック(白亜のキャラバンサラ

イ風の建物)のあたりを過ぎてクレムリンの跡へ。ここでは川からもよく見える数m

はありそうなレーニン像が健在。あまりに大きすぎて壊す費用も出ないのか。もっと

も手入れはまったくされていないようで、地元の子ども達が登って遊んでいたかなり

高い台座のところからは草ならぬ小さな木が伸びていた。

 

 船に戻って3時から昼食。オレンジジュース。蟹と鮭のサラダ。生のトマトと胡瓜。

オレンジの皮か人参かのソースをのせたハンバーグ。マヨネーズか何かであえたゆで

ジャガイモと茸の煮たのが添えてある。大粒のブドウ。どういうわけかいつも昼食に

はバターと紅茶が出ない。

 

 食後は自由時間になっていたので、再び街へ出て一人で歩いてみる。相変わらず降

ったりやんだりの空模様。「黄金の輪」の一角をなすコストロマはロシアの中でも由

緒ある歴史の町ということなのだろうが、こうして歩いてみると率直に言って単に古

いという印象だ。住宅も工場も船着き場も通りも傾いたり煤けていたりで、どうにも

垢抜けしない町だ。ところが路線バスの車両だけはこれまたベンツの新車で、真っ白

な塗装のこのバスが町のあちこちを走り回るのは妙にアンバランスな感じを与える。

午前中にバスで行ったイパチェフスキー修道院をコストロマ川の対岸からカメラにお

さめたくてそこまで歩いたら、出港時刻ギリギリになってしまったため帰りはとにか

く急いだ。パーキングエリアでバスの出発時間に遅れてみんなに「ゴメンネ」という

のとは訳が違う。船1艘待たせてしまうことになるから。

 

 出発時間にはもちろん間に合って8時から夕食。ザクースカはえらく手間を省いた

やつで、薄切りのハム2枚に缶詰のトウモロコシ粒。それとは別の小鉢には生の人参

の繊切りにスメタナのような酸味もないし生クリームのような甘味もない白いドレッ

シングをかけてたっぷりのすり胡麻を散らしたサラダ。人参と胡麻がこんなによく合

うとは知らなかった。メインは鶏モモとライス。カテージ・チーズをはさんだパイと

紅茶。

 

 右岸にコストロマの大きな発電所が見える頃、また甲板に出てみる。おびただしい

数の小鳥の群れがボルガを渡って対岸の巣へ帰りを急ぐ。船尾のあたりに何羽もの鴎

がまつわりついて飛び回っているのは相変わらずだが、別の鴎の群れは飛ぶのをやめ

て川面に漂っているところに船の舳先が近づいてきて慌てて一斉に飛び上がり居場所

を変える。鴎も鳥目だったらこの時間は辛いだろうに。

 

 

 

 

( 4) ニジニ・ノブゴロド

 

8月17日(日)

 目が覚めると船は広いゴーリキー貯水池を航行している。川幅は3kmあるのか4kmあ

るのか見当もつかない。こうなると対岸の細かな様子はよくわからないから、シャワ

ーを浴び終わっても、洗濯を終えても全く同じ風景。空には相変わらず低い雲が垂れ

込めている。

 8時頃、右岸に、頂上に星をつけた尖塔のある建物が見える。周辺はごく普通の農

村の風景なのでよけいに際立つ。前には赤い星のマークをつけた戦闘機のモニュメン

トが置かれている。

 まもなく左前方に、中央が四角い建物で両翼に緩やかな勾配で裾をひく奇妙な建造

物が目に入ってくる。近づいてみるとこれがゴーリキー貯水池の水門で、両側のスロ

ープは自動車道路であった。午後3時にニジニ・ノブゴロド着というのから推しても

っと上流にいるとばかり思っていたのに。

 8時半頃この水門に入り、9時には抜ける。ここの落差は小さく、一昨日のモスク

ワ運河のと同じ程度に思えたがガイドのおばさんの話では8mと言っていたので、一昨

日のも8m近くあるのかもしれない。抜け出たところにはちょっとしたヤードがあり、

貨物用の川船が多数係留されている。じつはここは次のゲートの上になっていて、階

段でいうと踊り場みたいなもの。つまり、ここの水門は2つのゲートから成る2段構

造だということがわかる。下のゲートを下流から上がってくる船を待ち、これと入れ

替わりに下ってこの水門を出たのが10時半。結局ここで2時間半かかった計算。

 

 朝食は、オレンジジュース、オムレツ、チーズ、味付きの丸い白いパン、バター、

フルーツヨーグルト、紅茶、ジャム。

 

 陽が出ないので相変わらず寒い。船内放送では朝の気温が12℃と言っていた。船客

の中に旅のはじめからロングコートに毛糸の帽子という日本でなら真冬のいでたちの

おばさんがいるが全く違和感がない。長袖のデニム、トレーナー、上っ張りと、持っ

てきた長袖を全部着込んでもデッキに長くは居られない。8月も半ばを過ぎているが、

このあたりはもう暑くはならずにこのまま秋から冬へと進むのだろうか。

 寒くて外にも出られず、寝るのもままならず、おまけに寒さで腰痛まで出てきて、

1時の食事までじっと待つ。食事の頃にようやく雲の間から陽が射すようになる。食

事の時に隣席のアメリカ帰りのお婆さんに「寒くて」と言うと「朝は寒かったけど、

今は」と..。よく見るとお婆さんは何と半袖だ。こちらは長袖を重ね着しているのに。

 

 昼食は、オレンジジュース(美味しいジュースだが、それにしてもオレンジジュー

スの好きな船だ。)、賽の目のジャガイモ・胡瓜・トマトをマヨネーズであえてたっ

ぷりネギを散らしたサラダ、ボルシチ、裏ごしジャガイモを固めて焼いたのに茸のソ

ースを添えたの。デザートはオレンジと洋梨のスライスに大粒のブドウを4つほど添

えて生クリームをかけたのがグラスに入っている。

 

 1時半頃には前方にニジニ・ノブゴロドの町と手前の鉄橋がはっきり見えるように

なる。オカ川との合流点を過ぎてしばらく下流までは左岸は耕地だけ。鉄橋より上流

の右岸には大きな工場がいくつかあり、鉄橋を過ぎると新市街。ボルガからは建設中

のアパートなどが見える。オカ川の右岸がそのままボルガの右岸につながるが、ここ

は小高くなっていてクレムリンを中心とした旧市街がある。

 船はまっすぐ桟橋には向かわずに一旦クレムリンの下を下流までまわってくれるサ

ービス。着岸は定刻の3時を少し過ぎてからだった。

 桟橋には大勢の人が来ていて、私は出迎えの人がずいぶん多いんだなと思ったが、

これは違っていて、我々船客が下船するのと入れ替わりにこの人達がドッと入ってく

る。船旅をする人達のような感じでもなく、私の想像だが、船が何か荷物を運んで来

て売買をしているのではないかと思った。

 

 昨日同様3台のバスに分乗して市内観光。はじめは、マクシム・ゴーリキーの住ん

でいたという家。やはりゴーリキーだけに、ヤースナヤ・ポリャーナのボルコンスキ

イ邸のようなわけにはいかない。ここが作家の住んでいた家と言われなければただの

貧乏人の住むイズバを説明されていると思うだろう。

 このゴーリキーの家に着いた時に突然やってきた土砂降りの雨もここを出る前には

やんで陽が射す。街のあちこちにある温度表示板はどれも16℃を示しているが、風が

あるので寒く感じる。

 オカ川やボルガを見おろす素晴らしく見晴らしのいい展望台2ヶ所はバスの車内か

ら見るだけにして、バスはクレムリンへ。ここでバスを降りてクレムリンの中をゆっ

くり回ったあと、繁華街ボリシャヤ・ポクロフスカヤ通りを歩く。

 

 この町に限らず、ロシアのガイドはどこでもほんとうによくしゃべる。そのかわり、

おしぼりを配るとか「今度はカラオケにしましょうか」というようなサービスは一切

ない。説明役に徹しているのだ。また、客のほうもよく聞いていて、話の途中でもよ

く質問をする。中にはメモをとりながら聞いている客もいるからガイドも気合いがは

いるというものだ。

 

 船に戻ったのが6時で、出港までにまだ1時間あるので、クレムリンの外壁まで歩

いてみた。河港のすぐ上に木造の急な階段が作ってあり、そこを登ると壁の外に行き

着ける。そして、壁の外はクレムリンを囲む遊歩道になっていて、ここからのボルガ

やそのむこうの大平原の眺めもよい。感心するのはこんなところまで花壇が丁寧に手

入れされていること。遊歩道の柵もその支柱がフラワーポットになっていて、そこま

で色とりどりの花が植えられている。さきほど回ったクレムリンの中も花を植え分け

て鹿をモチーフにした市の紋章の花壇を作るなど、いたるところ花壇によく手が入っ

ていて、ロシアの人達の花への思い入れの強さを感じる。

 

 7時、出港。7時半、夕食。ピクルスの切れ端とゆで卵のしろみ、蟹のフレーク、

蒸し肉の切れ端をあえたサラダ。塩漬けの鮭2切れ。バター。メインはよく煮込んだ

牛肉に茸と人参のソース。たっぷりのヌードルと胡瓜のスライス1枚が添えてある。

紅茶とジャム入りの焼き菓子。

 

 雲の隙間だけからだが、この旅に出て初めての夕焼けが川面に反射している。9時

頃日没。

 

 

 

 

( 5) カザン

 

8月18日(月)

 7時半頃、船は水門にはいる。地図を見るとニジニ・ノブゴロドとカザンの間に川

幅の広くなっているところがないようだったので、ちょっと意外。どの水門もそうだ

が、ゲートの中には40mとか50mごとに距離を示す標識があり、出口の扉から50m弱の

ところへ舳先を置いて船を止める。ゲートの壁には約10mほどの間隔で上下可動式の

フックがあるので、ここへロープを掛けて船を固定。この水門では後続の4層の客船

「イリイッチ」(ソ連が崩壊した今でもこの名前のままなのか。)を待って、それか

らゲートの後ろの扉が水中からせり上がってきて閉まった。この扉が水面から上に顔

を出すとたちまち鴎が集まってきてそこにとまったりする。鴎が漁船の後を追うのは

理解できるが、こういう客船にまつわりついたり、水門に多く集まるのはなぜか。船

のスクリューや水門の扉の開閉で水がかき回されるのに巻き込まれて水中の魚が水面

近くに上がることがあるのを期待しているのか。後ろの扉を閉じるとゲートの中の水

を落とす。これは想像以上に速く、落差にもよるけれど10分ぐらいでだいたい済んで

しまう。すると今度は前方の扉が開く。下流側の扉は観音開き式のが多く、油圧でゆ

っくりと開けていく。やがて壁の上に付けられた素朴な信号が赤から青に変わり、船

はしずしずと進み始めるというわけだ。

 ここでは「イリイッチ」を待ったりしたこともあって50分ほどを要した。水門を出

てすぐの右手に船着き場があり、双眼鏡でのぞくと「ノボチェボクサルク」と読めた

ので、さきほどの水門の上にチュバシの首都チェボクサルィの町があったはずだ。

 

 8時半、朝食。これまで6人掛けのテーブルに3人姉妹のお婆さん達と私だけだっ

たが、今朝はさらに父親と息子が座っている。ニジニ・ノブゴロドで乗ってきたのか。

オレンジジュース、スメタナをかけた肉入りのブリヌィ、ハム3切れ、バター、フル

ーツヨーグルト、紅茶、ジャム。

 

 食後に船首側のデッキに出ていたら(毎朝この時間にメイドさんがキャビンの掃除

に来る。)下で何か割れる音がする。一階下の甲板で標識の塗り直し作業のために置

いたペイントの入った瓶がおりからの強風にあおられて落ちて割れたのだ。音に気づ

いた若いクルーが2人ハッチを開けて現れて、どうするかと思って見ていたらその割

れた瓶をボルガに放り込む。甲板に流れ出たペイントもマットの切れ端のようなもの

で拭き取ってこれもボルガへ。ボルガは巨大なごみ箱なのだ。このボルガ川にモスク

ワ運河から出たところ、いや以前トヴェリで見たボルガも既にきれいではなかったが、

およそロシアの大河で水のきれいなのは見たことがない。これはあながち上流から削

りとってくる土砂のせいだけではなく、小は住民の投げ捨てる吸い殻から大は工場の

排水まで、流域の人間が寄ってたかって汚しているのではないか。川にボートを浮か

べて漁をする風景はよく見かけるが、獲った魚は食べるのだろうか。

 

 天候は8割方の曇。気温は10℃台の上のほうと思われたが、とにかく風が強くて外

にはいられない。

 11時頃、船内放送で、あと30分ほどでマリを抜けてタタールスタンに入るという。

右岸はチュバシ。

 12時に鉄橋をくぐる。左手がゼリョーヌィ・ドール。ここからは左岸は工場やアパ

ートやダーチャなど人の住む気配のあるところが比較的続く。このあたりは川岸の線

も複雑で中州も多く、川幅と言ってもはっきりしないが、鉄橋のところで1kmぐらい

と思われた。船が鉄橋の下をくぐる時、上を機関車に引かれた列車でなく郊外電車が

通り抜けて行った。大都市が近いということだ。もっとも列車ならその真下でそうい

う暢気なことは言っていられない。列車のトイレは垂れ流し式だから。

 さきほどの風でデッキの椅子は全部一方に吹き寄せられてしまっているが、今は風

はおさまって外にいても寒くない。

 

 1時、昼食。リンゴのジュース。ゆでジャガイモをマヨネーズであえたのに2つ割

りのゆで卵。肉だんごとジャガイモのスープ。ビーフストロガノフ、ジャガイモ添え。

(選択が良くなかったか、これじゃジャガイモばかりだ。(^_^;))パイナップルの

コンポート。

 

 定刻2時をだいぶまわってからカザンの河港に着岸。ここでもニジニ・ノブゴロド

同様に船は港のかなり先まで行ってから戻ってきたけれど、ニジゴロドと違ってそれ

で特に見るものもなく、どうもあれはサービスでなく、単に桟橋の空くのを待ってい

ただけのようだ。空港の手前で飛行機が旋回するのと同じか。先行していた「イリイ

ッチ」も訳のわからぬ航跡を描いて動いている。

 

 モスクワ以来気になっていたのだが、大型の客船や貨物船は言うに及ばず、向こう

岸へ渡るだけの内火艇のような小さな船まで船尾にロシア国旗を掲げている。中には

染料が悪いらしく、白・青・赤のはずが白・青・黄色になってしまっているものもい

たが、とにかく律儀に掲げているのだ。うちの学校の子ども達だってあのように全員

が全員校章をつけて登校はしない。しかもボルガ川はロシア国内だけを流れる河川だ

から、これがほんとうに不思議だった。しかし、カザンまで来てこの問題は解決!カ

ザンの港にいる地元の船は、これまた小さなパトロール船まで、赤と緑の二色の間に

細い白い線のはいったタタールスタンの国旗を掲げている。

 

 接岸後すぐにバスに分乗しての市内観光。コストロマやニジゴロドではハンガリー

製のイカルスでもない古い国産のバスだったが、ここはベンツのバス。

 ここのローカルガイドも例によって機関銃のようによくしゃべったが、もう一人見

習いらしい女の子がいて、そちらが受け持つと多少つかえながらで、私にとっては聞

き易かった。

 カザンカ河畔の白亜のクレムリンは2年前に来たときと同じく工事中。しかし、こ

こに限らず市内のあちこちで大規模な建設工事が行われていて、中心部のレーニン像

のある広場に面した高等音楽院の建物などロシアらしからぬモダンさで立派なものだ

った。もっとも、それと同じ広場に面しているバレエ・オペラ劇場も、こちらは古い

建物らしくロシア各地に見られる伝統的な劇場建築の様式ながら、よく手入れがされ

ているらしく、またペルミ市のそれのように怪しげな看板も吊るしてなくて威厳があ

った。さらに、その広場より川のほうへ下がったところに別の広場を造成中で、そこ

にはレーニン記念館にする予定だったのを文化センターにしたとかいう建物やさらに

建築中の建物があり、いずれもコンセルバトーリア同様斬新で、工事現場へわざわざ

観光バスを乗り入れる側の気持ちがよくわかる気がした。

 クレムリン見学のとき、バスを降りたところにマンホールがあり、その蓋に足をの

せたらくるっと回って左足をマンホールに取られてしまった。工事中で仮に蓋を置い

てあるだけならそういう扱いをしてほしいものだ。ケガはなかったが転んだ拍子にカ

メラを放り出したのが気になる。これまでのロシア旅行のうち、途中でカメラが使え

なくなったことが3度もあるから神経質になるというものだ。

 レーニンが学んだカザン大学へは一応行ったものの、バスから降ろす扱いではない。

むしろロパチェフスキーとかいう学者の説明のほうに時間をかけるくらいだ。「わざ

わざカザンまで来ているのにここでバスから降ろさないというのはないだろう」と内

心思ったが、ロシア人乗客の誰もそんなことは言い出さない。

 レーニンはその程度にあしらっておいて、2年前と同様に、商店のならぶバウマン

通りにバスを止めて、40分間買い物のための自由時間だという。それで、大学はこっ

ちのほうだったと見当をつけて歩いてみたら意外に近くだった。学生時代のレーニン

をかたどった銅像の周囲のベンチには夏休み中というのに多くの学生がいたが、その

雰囲気は日本の大学と変わるところがなかった。

 ロシア旅行をするとき、私はポケットにいつも折り鶴を入れておいてちょっとした

お礼なんかによく使う。市内観光が終わるとその土地のガイドさんにも1羽あげる。

ここでもそうしたら、あのロングコートと毛糸の帽子のおばさん夫妻が孫にあげたい

から私達にも2羽ちょうだいと言ってきた。もちろんよろこんで差し上げたのは言う

までもない。

 

 船にもどると上のデッキがばかににぎやか。行ってみると、こちらの船ではなく、

横付けになっている4層の「イリイッチ」の3階のデッキに大勢の船客が出ていてそ

こで歌を歌っている。大きな紙にこれまた大きな字で歌詞を書いたのを掲げているお

ばさんが指揮もしていて、傍らで同じくらいの年輩の男の人がアコーデオンの伴奏を

つけている。私の姿を目にするとそのおばさん一緒に歌えという仕草をする。大勢で

歌っているからボリュームはあるし、ロシア人は歌の民だから素人ばかりのこういう

歌でもきれい。

 6時に出港の汽笛がなると、デッキの手すり越しに次々と手が伸びてきて握手ぜめ。

まるで映画「シベリア物語」の世界だ。船の名まえが「イリイッチ」というのも妙な

取り合わせだが、あちらが一時代前のコルホーズの雰囲気なのに対し、5層の客船の

こちらは何だかとり澄ましたようで往年のロシア人の人なつっこさがあまり感じられ

ないのが淋しい。1人1泊につき60万ルーブルの船賃を払える人達だけが乗っている

と思えば仕方ないか。

 

 「イリイッチ」にいた小さな子達に折り鶴を3羽折ってやはりデッキ手すり越しに

手渡すのをこちらの船の子ども達も見ていたから、出港後はこの達に鶴を折って上げ

たり、その後は例によって「折り紙教室」になってしまって30分ほどそのまま甲板で

過ごすことになってしまった。短い時間だったけれど、「おはよう」というような挨

拶を別をすれば、今度の旅で同じ船の人(..と言ってもこの時は大半が子ども達だっ

たが。)と交流できたのはこれが初めてだった。

 

 7時に夕食。賽の目にしたジャガイモと魚肉にマヨネーズをからめてネギを散らし

たサラダ。白身の魚をパン生地で包んで揚げたのにトウモロコシとビーツを添えたの

がメイン。真ん中に穴のあいた円盤状の焼き菓子と紅茶。

 

 カザンを出てしばらくすると、左岸は低い樹林だが、やや高くなっている。右岸に

はところどころ集落があって、時おり粗末な船着き場が見られた。しかし、やがて小

高い右岸も林だけになり、明かりと言えばブイと後続の船のしか見えないくらいにな

る。船の前方に全く岸の見えない水平線があるからそこがカマ川との合流点の広い所

かと思うとそうではなく、進んでも進んでも両側に同じ風景が続く。

 

 9時から最上階のホールで「ロシア・ロマンスの夕べ」。この「ロマンス」という

ジャンルはよくわからない。日本でCDを買うと正調の歌曲っぽく、一昨年の「マヤ

コフスキー」号で聞いた時はそうだった。ところが去年の「ルィバルコ」号で「ロマ

ンス」と言われて行ってみたらオクジャワ風のギターの弾き語りで、今日のもそうい

う類なのだ。しかも歌った曲の中に「鐘の音は単調に響く」があって、あれなんか私

はロシア民謡ぐらいに思っていた。ただ、昨晩の「ロシア民謡の夕べ」同様、歌い手

の経歴をあれこれ紹介している割りにはあまり上手いとは思えない。

 1970年代にウラジオストクからのクルーズで日本を回ったことがあるという女性が

英語で話しかけてきて「日本の歌とロシアの歌は似てますね」と言う。向こう側から

見ても似ているというか何か共通するようなものがあるのだ。

 

 月の光が雲に遮られてはっきりとは見えないが、川幅はさきほどよりもさらにずっ

と広がっているように思えた。

 


 

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