ボルガ遡航記 (1995)


 

(6) 欧亜の境を越えて

 

 この夜も暑く、前夜同様窓を開けたままで寝ていたのですが、何時頃か突然大粒の

雨が顔に当たり、あわてて窓を閉めようとしたものの固くて完全には閉め切れず開い

たままの部分は遮光用のブラインドを降ろしてしのぎます。それでも上段の森田さん

は動く気配がない。寒くないのでしょうか。

 しばらくして、どこか大きな駅、時刻表からするとイシムあたりでしょうか、そこ

に着いてやや長めの停車をしている様子でした。雨の中、検車係の職員がハンマーで

列車の各部を叩いていく音がいろいろな音階で響いてきます。

 

 2日(水)、昨日と同じ朝3時半頃(現地時間では5時半か6時半)目が覚めてそのまま

起きてしまいました。やはり、洗面を済ませたあとも廊下に出たままで外の景色を眺

めていました。

 降っていた雨はやんで、天候は晴れ。ひろい範囲にわたって低いもやが大量に発生

していてそれが草地を覆い、そこから潅木や林の木々が頭を出す幻想的な風景が広が

っていました。

 

 4時半頃、チュメニ着。 でも我がクペーの住人はやすんだままで、起きてきたのは

金田さん。やはり歳の順に目が覚めるのでしょうか。ところが朝が早いせいかホーム

には物売りのおばさんが1人もいなくて朝食用の買い物ができません。次の大きな停

車駅に着くのはお昼近くなので弱ったなと思っていると、そこはよくしたものでちゃ

んと食堂のおばさんが車内販売に。肉入りの大きなあげパンを買ってみんなでほうば

りました。1個3,000R。

 

 大田君が地図を見て、ウラル山脈の東側のこのあたりの低地は湿地の記号がついて

いるというのです。そう言われてみるとたしかにちょっとした池や沼が随所に点在す

るようです。

 

 9時10分、スベルドロフスク着。 市の名前はエカテリンブルクに変わっているので

すけれど、駅名はそのままなんでしょうか。スベルドロフスク州の州都エカテリンブ

ルクすなわち旧スベルドロフスク市のターミナル駅はスベルドロフスクなどというや

やこしいことになっている?それとも変わっているのを知らないのは私達だけ?そう

いえば、モスクワからサンクト・ペテルブルクへ行く列車の始発駅は依然としてレニ

ングラード駅だし、モスクワからトヴェリ市へ行く国電はカリーニン行きになってい

ましたっけ。

 この駅で金田先生が知り合いのロシア人のかたのお嬢さんと会うという約束があり、

金田さんの話では写真でしたしか見たことがないけどたいへんきれいな娘さんだとい

うことで、もうみんなで期待していました。ホームに降りたみんなが物売りのおばさ

んめがけて走らなかったのはオムスクで韓国の人達にお別れしたのとこの時だけだっ

たような。

 金田さんのお話に嘘はなく、背が高くて目が大きく色白のとても美しい娘さんでし

た。なにかとミーハーの我々は一緒に写真を撮ってもらったりして短い停車時間を過

ごしました。

 

 そんな中でも私はしっかりホームでピロシキを買い込んで(じつはオムスクでも私

はアイスクリームを買ってたことを白状します)、それとまだたくさん残っているト

マトで軽い昼食をとりました。

 そろそろ、ヨーロッパとアジアの境を示すオベリスクが近づいてきます。ガイドブ

ックにモスクワから1777kmとあるので、キロポストに注意していると見落とすことは

ありません。みんな進行方向左側の窓に張り付いて、カメラを構えている人もいたの

ですけれど、不運なことにちょうど現場にさしかかった時に下りの貨物列車に遮られ

てヨーロッパ←→アジアの文字のある頂部しか見えませんでした。それでも森田さん

は果敢にシャッターを切ったそうな。私はここを通過するのは3度目ですが、現場で

下り列車に出会ったのは初めてです。

 

 そのあと、幻のボルシチを求めて今日も食堂車へ。食堂車には立派なメニューが備

えてあり、もっと驚いたことにはちゃんと日本語でも料理の名が印刷されているので

す。ところがそこに値段の書き込んであるのが殆どない。スープ類ではペリメニだけ

なんです。というわけで結局この日もペリメニ。でも美味しいから文句はありません。

 この頃になって雨が降り出しました。

 

 食事のあとは、クペーに戻って隣室のベロニカやそのお兄さんとトランプを。いつ

かこのフォーラムで話題になったドラチョークもうちの高校生に教えて上げられるく

らいしっかり教わりました。そのかわり日本の七並べやババ抜きを教えたりして。ま

だ、小さいベロニカはドラチョークもあまり得意ではない様子です。

 

 まもなく到着ということで、部屋の片付け。手ぬぐい1枚少なくてもお金をとられ

ますから(私は昔ムルマンスク行きの急行列車で身に覚えがないのに「罰金」をとら

れたことがあります。)、備品類には気を使います。お茶の器はいつもだと金属製の

スカートをはいたガラスのコップなんですが、この列車では陶磁製のちゃんとしたテ

ィーカップで、砂糖壺やキャンデー入れと同じこの列車専用の図柄が描かれています。

飯田さんと中田さんがこれをひどく気に入って車掌のおねえさんに掛け合いに行っっ

たら 1個4,000Rで譲ってもらえるということになり、喜んでいました。

 

 16時14分の定刻より多少早く列車はペルミ(II駅)に到着しました。

 

 

 

 

(7) ペルミ

 

 ペルミの駅には旅行会社「スプートニク」の係員が迎えに来てくれて駅前で待って

いるバスに案内してくれました。旧ソ連時代には外国人観光客の受け入れは「インツ

ーリスト(国家外国人旅行者委員会)」が専ら受け持っていて、あと学生寮なんか使

うごく若い人向けのを「スプートニク」が扱っていました。今回の旅行が20日を越え

るのに35万円という低価格なので、事前に取扱旅行社を聞いたらやはり「インツーリ

スト」でなく「スプートニク」という返事です。それで、自分ではすっかり納得して

これはもう値段相応の品質だなと覚悟してきたのですが、この点は予想がまったくは

ずれました。ロシアが資本主義化して、スプートニク社もインツーリスト社と競争す

るようになっているらしい。

 

 よく晴れた天候でしたけど、そんなに暑くはありません。

 

 このまま船に直行するのかと思ったら、船の準備ができていないので、その間市内

を回るということで市内観光です。私なんか3日間着替えてないので、それより早く

船に行ってシャワーを浴びたいのにです。

 まず、メインストリートのレーニン通りを通ってオペラ・バレエ劇場のある公園へ。

ペルミ・バレエは公演に来日したこともある由緒あるもので、最初にここに案内され

たというのはおそらく町の人達にとってもこの劇場は誇りなのでしょう。けれど、こ

こも経営がたいへんなのか、劇場の建物の正面には保険会社か何かの大きな広告がか

けてあって、これがひどく不釣り合いでとても写真を撮る気にはなりません。

 劇場からほど遠からぬところに附属バレエ学校の校舎があります。日本からの留学

生も来ているという説明。中にははいれませんでしたが、通りに面した大きな窓にバ

レエを踊る生徒の姿をデザインした装飾があって、いかにもそれらしい雰囲気でした。

 そのあとはカマ川の川岸をまわり、ついでアレクサンドル1世を記念したとかいう

子どもの公園、それに市の共同墓地。市内観光で共同墓地に案内されたのは初めての

経験ですが、どういう意図だったのでしょうか。そのあと、カマ川にかかる大きな橋

を渡って対岸の松林に囲まれた新しい市域に連れていかれました。よっぽど時間を持

て余したのでしょう。

 こういうバスでの観光の時って、ローカルガイドが話したことを添乗員か通訳が日

本語に訳すわけですからバスに1個しか備え付けてないマイクは後者が持つのが普通

ですよね。ところが金田さんたら「みんな、ロシア語わかりますね」と言って、ガイ

ド嬢にマイクを持たせて自分は肉声で訳すものだから後ろの座席にいた私などには何

がどうなのかさっぱりわからないままの市内観光でした。

 

 この松林の地区からの帰りに橋を渡っていると客船が1艘船着き場に近づいている

のが見えました。あれが我々の乗る「V・マヤコフスキー」号だということです。19

時(現地時間21時)前にバスは鉄道のペルミI駅のほぼ正面にある河港に着きました。

 

 

 

 

(8) 客船「V・マヤコフスキー」

 

 乗船口のところでは若い女性がパンと塩で歓迎をしてくださいました。しきたりに

従ってパンもちぎっていただいたのですが、我々のグループはったの8人。彼女、

「えっ、これだけ!?」という感じでしたけど、残ったパンは次のグループに使うわけ

にいかないでしょうし、結局どうしたんでしょう?

 

 乗船した「V・マヤコフスキー」号は一昨年エニセイ川のクルーズで利用した「A

・チェーホフ」号と同型と思われる大型の川船です。デッキは5層になっていて、メ

インデッキが下から2階目。この階の乗降口のところに東ドイツで建造されたという

銘板があるのですが、船名が刻印されてなくて単に125m級の船の何番と番号が打って

あるだけです。きっと同じ設計図で同型の船を大量につくってソ連全土の河川に配置

したのでしょう。うちの県でも第二次ベビーブーム世代が高校生になる頃に高校百校

計画といってたくさんの高校を新設したのですが、建てられた高校の体育館がどこも

殆ど同じ仕様なんです。それのもっと規模のすごいヤツですね、きっと。

 我々の船室はなんとロワーデッキ、つまり船底です(実際はその下に機関室なんか

あるんでしょうが)。女性3人が104号室で、大田君、桜田君と私が隣の106号室。金

田さんたちはアッパーデッキの2人部屋です。「チェーホフ」ではロワーデッキは客

室には使ってなかった記憶です。実際、今回のも我々のキャビンの並びの部屋には船

中のエンタテイメントに出演する芸術家が寝泊まりして、ときにはバイオリンの練習

なんかしてましたから、我々「いったいこのあたりは何なのだろうね」と話したこと

もあります。実際、下級船員の居住区もこのロワーデッキにあり、私は入り口を間違

えてそちらに入り込みそうになったことが一度ならずありましたっけ。

 船室の窓はこの階だと船独特のあの丸窓で、大きなネジで締め付けてあります。下

の階の悲しさで停泊中は岸壁のコンクリートしか見えません。ただ、船旅では私は寝

るとき以外ほとんどキャビンにいないので、下の階なのがそれほど苦にはなりません

けど。

 船はきっと近年改装したのでしょう。船室はそう広くはないのですが、ベッドが2

つ、それに開閉式のエキストラベッドがあって3人室になっています。そこに小さな

机、椅子、タンス、トイレとシャワーがコンパクトにまとめられていて居住性は悪く

ありません。冷暖両用のエアコンとラジオもついています。シーツや枕カバーは清潔

そうだし、ホテルにあるのと同じ様な織り方の大小のタオルはメイドさんが毎日のお

掃除のときに交換してくれます。

 

 船室に荷物を置いたあと最上階の甲板に皆で出ていたら係の人がよびにきて夕食で

す。これから下船までの約10日間は食事の心配をしないでもいい!(これまでも「心

配」はしませんでしたが。)この日の夕食は、ハム,胡瓜,トマトのサラダ、ビーフ

ストロガノフのジャガイモ添え、パン、紅茶でした。真っ白なテーブルクロスを敷い

た食卓にナプキンを立てた皿が置いてあって久しぶりにゆったりとした気分の食事で

す。

 

 食後は一旦キャビンに戻り、3日ぶりでシャワーを浴びて着替えました。これです

っかりサッパリした気分になったところで、みんなでまたさきほどの甲板に出てカマ

川の日没を見物です。近くに空軍基地があるのか、戦闘機が頭上低く飛んで行きます。

港から下流、つまり南の方角には低い三日月が出ていて、それが河畔の教会の尖塔の

上にかかりよく調和しています。船旅の終わり頃には満月になっていることでしょう。

 

 「スプートニク」のディレクターとかいう肩書きのなかなかハンサムな男性が我々

をボートデッキのバーの片隅に招いてくれてこの船旅についての説明をしてくれまし

た。デンマークかどこか西ヨーロッパの旅行社と提携して5年前からこの船を運行し

ていて、今回のペテルブルクまでのクルーズではフランスからの観光客がいちばん多

く、その他にデンマーク、ドイツ、ロシアのお客も乗船するということです。前にも

書いたように、私は「スプートニク」と聞いてトイレの水も詰まって流れないような

ロシア国内向けの船を考えていたのですが、そうではなくて外国人を乗せて満足して

もらえる水準なんですね。このディレクター氏の金田さんへの話しぶりから日本へも

売り込みたいという熱意がよく感じとれました。

 あと、船内ではすべてモスクワ時間を使うということもこのとき聞かされました。

 

 このとき出されたジュースだけいただいてあと説明の間は寝ている勇敢な人もいま

したが、汽車の旅で疲れてましたから無理もない。私もキャビンに戻ったらすぐにベ

ッドにもぐりこんで、いくらもたたずに寝入ってしまい、そのまま朝まで一度も目が

覚めませんでした。

 

 

 

 

(9) 出航まで

 

 8月3日(木)、起きたのは6時半くらいでした。現地時間では8時半ですからもうかな

り明るくなっている筈です。(昨日書いたように船内の時計はモスクワ時間になって

いるので、このあともずっとモスクワ時間で書きます。)でも、我が船室の窓は桟橋

のコンクリートの壁で塞がれているので、この時間でも部屋の中はちっとも明るくあ

りません。

 上へ上がってみると天候は晴れで、空気はひんやりとしていました。

 

 7時に朝食。 卵焼き、チーズ、丸パン、ジャム、バター、紅茶。ほかにテーブルの

隅の器にスライスにした黒パンと白いパンが置いてありますが、これは毎回なのでこ

のあとも省略します。もちろん紅茶のかわりにコーヒーも選べるようになっていて、

1杯目はコーヒーをもらっておいてその後でやや大きめの声で「チャイ、パジャール

スタ」とか言って必ず紅茶ももらうというご仁もおりましたっけ。

どういうわけかバターは朝食にしか出てこない。ロシア人ならともかく、黒パンに

何も塗らずに食べるというのはちょっとしづらいですから、バターがダメならせめて

マスタードくらい置いといてほしい。

 

 9時から市内観光。 フランス、デンマーク、ドイツ、それにロシアの観光団ももう

乗船していたようで、船着き場の前の広場には大型バスがずらりとならんでいました。

その中でフロントガラスに「JAPAN」という紙のあるのを見つけて乗り込みます。

 市内観光と言っても、もう我々は昨日のうちに「船の準備ができるまで」の時間を

利用して共同墓地まで見に行ってしまっていますから、午前中は他のグループとは別

行動です。

 はじめにどこに行ったかというとみんなの希望で市内の両替所。私はまだ何十万R

か懐にありすから、そのあたりをフラフラしていたら、両替所の向かいに露店の本屋

さんが店開きするところでした。ソ連時代にはなかったこの露店の本屋さんというの

が今のロシアにはすごく多いのです。多いのに、ここは児童書、あちらのお店はビジ

ネス関係などと専門化してないのです。1mか2mほどの小さな台の上に次々と本を

並べていくのだけれど、可愛い絵のある子ども向けの本のおとなりがWindows3.1の解

説書だったりしますから、しっかり1冊1冊を見ていくしかない。私はここで中等学

校生用の化学の小辞典を見つけて買いました。16,000R。

 見学場所の最初は市内にある回教の寺院。べつだん内部がきれいで芸術的価値があ

りそうというわけでもないのに何故ここに連れてこられたか不明ですが、案内をして

くれた男の人はソ連崩壊後イスラム教の活動がどう復活してきたかとかアラビア語の

書物を取り寄せて子ども達が勉強してるとか熱心に説明をしてくださいました。

 次の見学場所はいくつかの選択肢の中からみんなの希望でということになり(選択

肢のなかみはうかつにも忘れてしまいました)、我々が選んだのはなんと大砲工場。

ま、ペルミはウラルの西の重要な工業都市ですから大砲工場もいいでしょう。工場を

見学できるのかと思ったらそうでなくて、屋外の展示場でした。附属の博物館もある

のですが、時間がないとかで結局見ずじまい。第2次大戦中に活躍したカチューシャ

などが置いてあったりしますから、この町の工業が戦争の勝利に大いに貢献したのを

やはり誇りにしているのだと思います。そういえば今年は戦勝(我々の側からは敗戦)

50年ですね。屈託のない若い人達は“敵”の戦車の砲塔から首だけ出して記念写真を

撮ったりしています。

 鉄道の中で書きためたはがきを出したいという希望があって、バレエ・オペラ劇場

の近くの中央郵便局に次に立ち寄りました。私は旅で立ち寄った町々から自分宛の葉

書を出す(日本国内の旅でしたらできるだけ局の窓口へ行って風景入りの消印を押し

てもらいます)習慣があるのですが、今回の旅では横着を決め込んで全然してない。

旅の最後のほうで2通出したきりです。あとになってペルミなんかもう一度行く機会

があるかどうかわかりませんから出しておけばよかったと悔やんでいますが、とにか

くこのときは局内を見学しただけでした。

 その後、市の中央百貨店(ツム)で買い物のための自由時間をとってくれましたが、

私はとくにこれといった買い物もせずお店の内外を見てまわって時間を過ごしました。

この頃になって少し雨が降ってきました。

 

 船に戻ったのは食事の時間を10分ほど過ぎていたのですが、迎えに出た係員がその

程度の遅れにしては異常なほど早く乗船しろとせかすのです。バスを降りて歩いたら

走れというぐらいの感じ。この理由はしばらくしてわかりました。ボルガの河口アス

トラハンからの客船が接岸するためにこちらの船は岸を離れる必要があったのです。

 こういうふうにひとつの船着き場に2艘以上の船がつくときにどうするかというと、

エニセイ川でもそうでしたが、船を次々と横付けにしていくのです。そして直接桟橋

についてないほうの船の客や乗組員は岸側の船の中を通って上陸する仕組みです。こ

れも船の構造がどれもほぼ同じだから簡単にできるんですね。4艘ぐらい横並びにな

ってもいちばん沖の船の人も一直線で桟橋まで通り抜けられます。

 ならばアストラハンからの船を我々の沖側につければよさそうなものですが、何か

理由があるのでしょうね。この時は外国人用の船の中を定期航路の客は通さないとい

うことかと思ったのですが、このあとの寄港地では必ずしもそうでもなかったので、

やはり出航順の関係か何かでしょうか。当然ですけど、横付けにする船をつなぐロー

プはどちらの船のを出すのかといったこういうときのルールははっきりしているよう

で、若い船員達は躊躇なく仕事をしていました。ま、つい何年か前まで同じレチフロ

ートの職員だったわけですし。

 

 昼食は、トマトとゆで卵とゆでジャガイモとさいの目に切った胡瓜のピクルスのザ

クースカ、よく煮込んだ牛のすじ肉にジャガイモ添え、レーズン入りの焼き菓子、紅

茶でした。昼食なのにスープが出ないのがちょっと不満。

 

 13時40分、再びバスで市内へ出て、民族舞踊と歌のコンサートを鑑賞。開会の挨拶

は独仏など各国語であったのに日本人への歓迎の言葉はロシア語でなんです。8人と

いうマイナーなグループだからしようがないかと思ったのですが、ほんとうの理由は

後日わかることになります。

 旅程に組み込まれているこういうフォークロアのコンサートはこれまでの経験だと

わりにアマチュアっぽいのが多かったのですが、このときはそうではなくて歌も踊り

もじゅうぶんに満足できる水準で、演出もなかなか凝っていてお客おじゅうぶん楽し

ませるように組み立てられていました。あとでロビーで買ったリーフレットを見ると

ペルミ州のドブリァンカという町に本拠を持つ「プリカーミエ」という名前のアンサ

ンブルで、リーフレットにはちゃんと「プロ」と印刷してあってやはり自負があるよ

うです。

 ただ、歳のせいでしょうか、私個人はこの頃は賑やかのよりも宗教音楽みたいのが

好きになってきていてい、この日のもただ1曲だけあったアカペラの重唱がいちばん

気に入りました。

 

 15時半に船に戻ります。岸壁では少人数編成の軍服姿のバンドが演奏の準備中です。

出航の演出にスプートニク社が依頼したのでしょうか。

 出航の時刻16時になると、彼らが演奏をはじめて雰囲気を盛り上げます。曲はエニ

セイ川のときにも聞いたあの曲。そう、映画「鶴は飛んで行く」でボリスの出征の場

面、ベロニカが走るんだけどとうとうボリスに会えないあのシーンで流される曲です。

曲名をご存じの方、教えてください。この曲は船もテープを持っているらしく、途中

の寄港地でも出航のときに流していました。

 見送りの人達の中にもうさっきから泣きじゃくっている男の子がいます。大人達が

なだめている様子も見えるのですけど、きっと別れがものすごく悲しいんですね。

 ところが船は岸壁を離れる気配がないのです。ちょっと気になった私は隣にいた中

田さんに「部屋の鍵を貰ってきた?」と聞きました。エニセイ川の「A・チェーホフ」

号はヂェジュールナヤのところの鍵が全室分なくなったことで乗客全員が船に戻った

と確認するシステムだったからです。彼女達の部屋の分は預けっぱなしだというので

す。「貰ってきたほうがいい?」と聞かれて、この「V・マヤコフスキー」号がどう

いう方式か知りませんから、「言われるまでいいんじゃない」と答えたんですが、ほ

どなく金田さんのところへ係員が鍵を持っていったか確かめにきました。金田さんは

「昨日、鍵のことを言ったよねぇ」と言ってましたが、いや聞いてない。第一、みん

なはあのとき半分ぐらい寝てましたものね。

 我々のせいで出航が何分か遅れたのは確かですが、言い訳するつもりはないけど、

迷惑かけたのは日本人ばかりではない。船が岸壁を離れてしばらく時間が経ってから

1艘の内火艇みたいのが河港からこちらへやってきます。何かと思っていたらフラン

ス人らしい男性がこちらの船に乗り移るではありませんか。同室の人が鍵を受け取っ

てしまえば船は出せますものね。

 

 この頃には天候はすっかり回復していました。船は向きをぐるっと変えて下流に向

かい、昨日「松林」地区に行くのに通った橋の下をくぐります。橋の上から手を振っ

てくれる人もいる。もちろんこちらも手を振ってお返し。前方に見えるシベリア鉄道

の鉄橋を「バイカル」号らしい旅客列車がモスクワ方向に渡っていくのが見えます。

 鉄橋の下をくぐってもしばらくそのまま甲板にいました。航行しているカマ川はボ

ルガの支流なんですが、「支流」というイメージからはほど遠い川幅の広さで、橋を

架けるのもたいへんなのでしょう、このあとカマ川で橋を見たのは翌日の午後鉄道用

の橋を1本見ただけでした。

 

 18時30分、夕食です。クルーズの前半は我々の食事は早いほうのシフトになってい

ます。途中で交代して後半は遅い順番になります。食卓は窓際の最後尾で、外の眺め

をじゅうぶん楽しみながら食事ができる位置です。トマトと胡瓜とハムのサラダ、ミ

ックスベジタブルのスープ、鶏ももにライスを添えたの、ママレードのついたアイス

クリーム、紅茶でした。お昼に出なかったスープはここで出ました。(^_^)

 

 20時から最上階の映写室で船長と挨拶と説明会がありました。ただ、いかんせん全

部ロシア語ですから殆どわからず私にはお仕置きみたいなものでしたけど。この時は

ジュースは出なかったような。

 

 そのあと金田先生と大田君と一緒に甲板にいると2人の若いロシア人の女性が声を

かけてきました。飯田さんと桜田君にもはいってもらってボートデッキのバーでしば

し雑談をします。2人ともエカテリンブルクの人で、一人はアーラさん、もう一人は

カーチャさんといいます。アーラさんはスベルドロフスクの教育大学を出たあと就学

前の障害児教育の仕事に従事していると言っていました。カーチャさんは法学だかが

専門でビジネス関係の仕事らしい。この2人、我々と同じ階の飯田さん達の隣室 つま

り102号室にいるというのがあとになってわかりました。

 

 「お休みなさい」を言って別れたあと24時くらいにまた甲板に上がってみました。

北のほうの空はまだ白みがかっていますが夜空にはたくさんの星が現れていて、天の

川もほぼわかります。

 24時半頃シャワーも浴びずに就寝しました。

 

 

 

 

(10) チャイコフスキー

 

 エアコンのスイッチを誤って暖房側にしておいたらしく、暑くて4日(金)朝は5時に

は起きてしまいました。この日も晴天で、吹いてくる風が涼しい。

 

 船は昨日とちがって湖のように幅の広い水路を進んでいます。これはすぐ下流にチ

ャイコフスキー水力発電所(ボトキンスカヤ・ゲス)があるため、その人造湖とも言

えるあたりにいるんですね。

 ただ、川面(湖面?)には大量のアオコが発生していて相当きたないのです。うち

の県の水源の相模湖もひどいものですが、ボルガは規模が規模だけにいっそう深刻で

すよね。何年か前に見たボルガの環境問題を取り上げた日本のTV番組の中では多数

の住民がボルガから直接飲料水を取っている様を伝えていましけど、このあたりどう

しているのでしょう。

 朝目が覚めたときは両岸とも森林でした。エニセイだとこの風景が半日もまる一日

も続くんですが、やはりここはヨーロッパ部。そういうことはなくて、大小の集落や

都市がすぐに視野に入ってきます。

 

 6時朝食。 オレンジジュース、丸いパン、バター、チーズ、カーシャ(私はこれも

好物ですが若い人達は苦手のようでした。)、果物入りのヨーグルト(昨今のロシア

ではこういうものも出るようになりました。外国製らしいけど。)、紅茶。

 

 船はチャイコフスキーの船着き場に着いていて、我々は6時半に下船。ここから40km

離れたボトキンスクへ行きます。チャーターしたバスを7台連ねて、しかも先頭にパ

トカーがつくのです。政府の要人かキャンプへ行く子どもの扱いですね。今のロシア

ではお金を払えば軍楽隊でもパトカーでも雇えるようになっているのでしょうか。こ

のパトカーがついたせいか、信号の赤はおろか、帰りなんか鉄道の踏切の警報機が点

滅しているのに突っ走るのです。おかげでロシアの田舎道をあれだけ走ったのに11時

半には船に戻ってきましたけど。

 

 ボトキンスクは作曲家チャイコフスキーが生まれてから8歳のときまで過ごしたと

いう小都市です。このあたりのことは森田稔「チャイコフスキイ」(新潮文庫・1986

年初版)に書かれています。生家は復元されて博物館になっており、ガイドのかたが

1部屋1部屋丁寧に案内してくださいました。敷地の中の休憩所では1,000Rで紅茶と

素朴なお茶受けを出してくれましたし、別棟の簡素なホールでは若いピアニストが演

奏を披露してくれました。生家の前は日本でなら池ではなく湖とよびそうなちょっと

した貯水池になっていてその畔にチャイコフスキーの大きな像があります。現地での

時間はわりにたっぷりとってあって、西ヨーロッパからのお客とともに敷地の内外を

ゆっくり散策して過ごすこともできました。

 

 ガイドの説明だとこのあたり時間帯の境界はカマ川なんだそうで、カマ川の左岸が

モスクワ時間+2時間、右岸が+1時間だそうです。だから船に戻ったとき、チャイコフ

スキーの町は13時半、ボトキンスクでは12時半だったわけです。なるほど、これでは

船内ではモスクワ時間を使うしかありませんね。

 

 我々が船に戻るとすぐに離岸。船着き場はダムの堰堤のすぐそばで、その堰堤の船

着き場に近い側に閘門があります。私はこういう水位調節用の閘門を通過するのは今

回が初めてでした。あとから考えるとここの閘門はわりに広く、我々の船の前方にも

う1艘小型の先客がいて、2艘まとめておろすようです。両側をコンクリートで固め

て距離などを示す標識や信号のついている水路に静かに船が入ると、やがて後部の扉

の上部が水面上に姿を現して湖と我々との間が仕切られます。ついで前方の扉を下げ

て閘門内の水がを吐き出すのですが、これが想像していたのよりずっと速く20mほど

の水位差を降りるのに10分余ですんだように記憶しています。船がどんどん下がるか

ら後部の仕切りはだんだん壁のようにせり上がって来る感じですが、そこから大量の

水が滝のようにこぼれてくるのがいかにもロシア的だと思いました。日本人なら「水

ももらさぬ」ような工事をするでしょうね。

 

 12時に昼食。缶詰の魚とトマトとグリーンピースのサラダ、やや薄めのボルシチ風

のスープ、ジャガイモのパンケーキ、名前のわからない白身の魚料理にキャベツなど

をトマトで煮たのが添えられているメインディッシュ、オレンジ、紅茶。

 

 午後はずっと甲板にいました。両岸ともそれほど高くはなく、たいていいずれか一

方は非常に低くなっていて洪水があれば冠水してしまうほどです。白樺やその他の林

か耕地、あるいは住居などの建物が目にはいってきます。ボートデッキ前部にあるバ

ーの前の船首側の甲板にいるとエンジン音も殆ど届かず、両岸からも何の音も聞こえ

てきませんからほんとうに静かで川面を滑るようにゆったり進んでいる気がします。

ただ、舷側に回ってみると景色がすばやく後ろへ行き、船は思ったより速く進んでい

ることがわかります。

 昨日書いたようにカザン行きの列車の通る鉄橋をくぐったのはこの頃でした。

 

 18時半、夕食。ゆで卵,トマト,刻んだピクルス,薫製風のハムを刻んだのをあわ

せたザクースカ、スパゲティ(何味だったか書き留めてない)、玉葱のケチャップ煮、

紅茶、表面を砂糖でコートしたスポンジケーキ風のデザート。

 

 そのあと最上階の映写室で男声・女声の声楽を聞く催しがあってのぞいてきました。

ただ、この部屋はエアコンがないのか、大きな窓を開けっ放しなので、エンジンの音

が邪魔して、歌っている2人の声楽家にはちょっと気の毒でした。

 

 20時頃、船は突然進路を変えて岸に向かいます。いったいなんだと思ったらそこに

は「ネフチスタンチア No.23」という表示のあるガソリンスタンド、いや重油を補給

する基地でした。基地は田舎の船着き場と同じようにそれ自体が水に浮かぶ構造にな

っていて、たぶん川底に錨を降ろしてずっとそこにいるんだと思います。各種の石油

類の入ったタンクの部分と作業員の居住区の部分があって作業員は家族ぐるみでそこ

で生活している様子です。給油の作業が始まっても家族の女の人達はそんなことにお

かまいなしにバーニャで使う白樺の小枝づくりに余念がありません。そういえば「バ

イカル」号の旅の3日目ぐらいになると、立ち枯れの白樺とは別に上部を切り落とさ

れて枯れているような白樺の木に気づいて金田さんと「あれは何だろう」と言ってい

たのですけど、ひょっとするとお風呂用に枝を取られてしまった残骸なのでしょうか。

子ども達は、こちらの船のデッキに鈴なりになって給油基地を珍しそうに眺めている

外国人客が珍しそうな様子でした。それにしても人里離れたこういう基地での生活と

いうのもきっと大変でしょう。

 

 21時頃、船室でシャワーを浴びました。その頃船も動きだしたようです。

 


 

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