エニセイ旅日記 (1999)


( 1) クラスノヤルスク

8月19日(木)

 前日の夕方モスクワに着いた私はシェレメーチェボIIの到着ロビーでヨーロッパか

らの団体に合流、用意されたバスでドモジェードボ空港に移動して、そこからクラス

ノヤルスク航空のチャーター機でクラスノヤルスクに来たところです。久しぶりに乗

ったイリューシン62は内装があちこちで繕ってあったりで、じゅうぶん使い古された

ことが一目でわかる機体。これに乗るのはロシアン・ルーレットをやるようなもので

すね。自分の時には弾丸が出ないことを信じて。

 

 エプロンに機が止まってまもなく色も形も様々なバスが数台やってきてタラップの

下に並びます。フロントガラスのところに「ドイツ語」だの「イタリア語」だのの表

示があってお客は自分の言語のバスに乗る仕組みです。「英語」の表示はありません

でしたが、後で我々のグループ・リーダーだとわかる若いロシア人女性が英語のバス

はこちらですよといちばん隅っこにいた小さ目のバスを示します。私に英語がわかる

わけがないけど日本語のバスがない以上しかたありませんね。フロントガラスに沢山

のヒビの入った純国産とおぼしき古いバスの乗降口には系統番号と行先表示を書いた

板があり、路線バスを拝借してきたのだということがわかります。

 

 空港からクラスノヤルスク市内まではバスで約50分ぐらいの距離。北海道の富良野

のポスターに出てくるような緩やかな起伏のある地形の中を幅の広い道路が伸びてい

てドライブは快適。富良野と違うのはラベンダー畑がまったくなくてジャガイモ畑と

牧草地だけのところでしょうか。

 

 河港に着くと見覚えのある「アントン・チェーホフ」が停泊して待っています。煙

突の図柄が白青赤の三色旗ではなく依然として鎚と鎌のままなのはきっと西側からの

お客へのサービスなのでしょう。ただし、下地は赤色ではなく6年前に既にそうなっ

ていたように明るい青色です。

 

 私のキャビンは前回より一つ下層のメインデッキにある326号室。同じ並びの部屋か

らは船のクルーが出入りしてますから、お客用の部屋ではないのかもしれない。でも、

レセプションは近いし、レストランも遠くないし、これはこれで便利です。ただ、キ

ャビンの正面が美容室なので、ドアをあけるといつもモデルの女性の大きな写真がこ

ちらを見ていてギョッとさせられますけれど。

 キャビンは四畳ぐらいの広さで、その中に机,椅子,ソファー,ベッド,クローゼ

ット,トイレとシャワーがコンパクトにまとめられています。ベッドは折り畳み式で、

私のいない間にメイドさんが開閉をしておいてくれます。これがこれから10日間の私

の城というわけです。

 ブランチという朝昼兼用の食事をレストランでとってキャビンに戻ると早速ベッド

がしつらえられています。仮眠をということらしい。このあと市内観光から帰るとベ

ッドは畳まれており、夕食後にはまたセットされていましたから、この日のメイドさ

んはさぞかしたいへんだったでしょう。

 でも、せっかくでしたけど、この時は私は仮眠をとらずにシャワーを浴び、少々の

洗濯をしたりしていたら時間が過ぎてしまいました。

 

 午後からバスでの市内観光。バスはまず市の中心部より少し北東側にあるエニセイ

川を見おろす小さな展望台に寄った後、市の北側の小高い丘に行きました。丘の上に

はそれほど古いとは思えない小さな聖堂がたっているだけですが、それよりもここか

ら市の中心部が俯瞰できるのです。やや遠くにあるエニセイ川には10ルーブル札の図

柄になっている橋が見えます。それより僅かに左手(下流)に河港。視野の右手には

シベリア鉄道の大きな鉄橋がエニセイをまたいでいます。

 あとは市中心部の繁華街をバスでまわり、最後にクラスノヤルスクで最も古い建造

物という説明のあったポクロフスカヤ教会のところでバスを降り、船までは徒歩で帰

りました。

 

 船に戻った後、上階のバーで簡単なレセプションがあり、船長以下の主だったスタ

ッフが紹介されました。と言っても例によって同じことを独仏英露の4ヶ国語で伝え

るのですから手間はかかります。他にイタリア語のグループもいたのですけれど、そ

ちらは英語以上に少数らしく通訳がそばにいて訳してくれている様子。船長は6年前

と同じイワン・チモフェービチ。あの時に買ったソ連時代の写真集にも同じ船の船長

として載っていましたから、彼はレチ・フロートの時代からこのエニセイをもう何百

回と行き来してきたのでしょう。

 

 夕食は前後2度のシフト制でテーブルも決まっているのですが、この日はどういう

わけか相席の人が現れず一人で食事をしました。時間をまちがえたのかな?

 

 食後に船を出て港の近くを歩いてみました。成田を発った18日、天気予報では東京

はこの夏一番の暑さということでしたけど、それにくらべたらシベリアはきっと寒い

だろうと長袖のデニムばかりを用意してきたのですが、どうして、どうして、夕方な

のに市役所の電光式の温度計は28℃なのです。もっとも、この「夕方」が結構アテに

ならない。なにしろ、この位置で東京との時差が-1時間なのですから。

 

 毎晩9時ぐらいから上階の船尾側の小さなバーでピアノの演奏があるというので行っ

てみました。ピアノとバイオリンをそれぞれ一人ずつの女性が受け持っていて、ピア

ノの伴奏でバイオリンを聞かせてくれたり、あるいはバイオリンがお休みでピアノの

ソロだったりです。1杯2ドルのクワスを注文して聞いているうちに、なにしろ成田

を出て以来きちんとは寝てないものですから、ついウトウトとしてしまい、失礼なの

で退室しました。

 デッキに出るとあの10ルーブル紙幣の橋に並んでいる街路灯のナトリウムの色がエ

ニセイの水に映えていて、その上に少しおぼろになった半月が浮かんでいました。

 

 

 

 

( 2) ストールビィ

8月20日(金)

 この日、船客のうちのかなりの人達はバイカル湖観光に行くということで早起きし

て8時には船を出て行きました。その頃にゆったりと朝食をとった残留組にはなお選

択肢がいくつかあって、郊外のダーチャを訪ねるの、ストールビィ国立公園へ行くも

の、そしてまったくのフリーということだったので、私は午前をストールビィ、午後

をフリーにしました。

 

 ストールビィ組は20人余。どういうわけかフランス語組が誰もいないようで、通訳

は独英のみ。それにイタリア語のお婆さんが1人いて、この人にはイタリア語の通訳

が付き添っています。バスは昨日のよりさらに小さく、桟橋からすぐ上の道路に上が

るのにも難儀なほど。何とか自力ではい上がりましたけど、全員降りて後ろから押す

ように言われても不思議でないようなやつでした。

 

 目指すストールビィはエニセイの対岸、市内からでもよく見える位置にあります。

それでバスはまず例の橋を渡って..。ところが驚いたことにあの10ルーブル札の図柄

で対岸に見えるところは実は岸ではなく中州なのです。そのあともう1本橋を渡って

ようやく向こう側に着きます。そのあとは川沿いというかシベリア鉄道沿いに西に進

んでしばらく行ったところで南の小高い場所に上がるとストールビィの麓です。

 

 バスを降りるとそこにはもう何年も使ったことがないのではと思ってしまうほど古

びたリフトが設けられています。気のせいかケーブルそのものにも錆がまわっている

のではないかと。となると、これも例のイリューシンに劣らずロシアン・ルーレット

です。

 冗談はともかくとして、乗り場の脇の能書きによると、距離千数百m、高低差300m

余、つまり勾配が20%ほどのリフトで、その両端を17分ほどで結びます。面白いのは

夏と冬で所要時間が違うことで、どういうわけか冬のほうが速い。冬はこのあたり一

面の雪景色でしょうからスキー場ということなのでしょうか。でも日本のスキー場な

ら山の斜面を思いっきり切り拓いてしまいますけど、ここは車の轍のあるせいぜい1

車線半ぐらいの幅の「コース」があるだけであとは林が保たれています。リフトの通

り道もその幅に切り拓かれているだけですから途中左右両側とも松や白樺の木々ばか

りでまったく展望のひらけてないところもあるほどです。上に行くと白樺の先端の葉

はもうかすかに黄色くなり始め、足下には茸をさがす地元の人の姿が見えたりします。

 

 上に上がって見ると確かに見晴らしはいいのですが、見えるものは起伏の激しい山

地を一面に覆い尽くした樹林とその所々に露出している大きな岩、そのどれかが人の

顔に見えたりするのがウリらしいけど、これが国立公園なら日本では誰かの実家の裏

山でもじゅうぶん国立公園になりそうです。

 でも、あるがままの自然をそのまま受け入れるというのが国立公園の本来のありよ

うなのでしょう。林の奥にさし込む木漏れ陽、短い夏の間に急いで咲き終えようとし

ている小さな花達、巨大な蟻塚からはい出て冬仕度に忙しい無数の蟻、よく見ると所

々に顔を出している茸、....。

 リフトを降りてすぐそばの展望台まで行ったらまたすぐにリフトで帰るのかと思っ

ていたらこれがとんでもない。尾根伝いにそのあたり一帯を歩くというプランになっ

ていました。ところが、これがアップ・ダウンがきつく、しかも昨日と同じように上

天気ときているものだから大変。前を歩いている男性のTシャツなんかもう汗でぐっ

しょり。そばにいた年輩の女性が「あれを見てごらん。それに比べるとこんな重いも

のを持って歩いてる日本人のほうは何ともないんだから..」と、東洋人には汗腺がな

いような話しぶりなのです。とんでもない、こちらはアンダーウェアの上にデニムの

長袖を着て、しかもウェストポーチ代わりにポケットの多いチョッキを羽織り、しか

もカメラバッグにあたるショルダーバッグを持ち歩いているのですよ。あまりに着込

んでいるから汗が上まで滲み出ないだけ。わかってないなぁー。

 でも歩いた甲斐があって、途中のある大きな岩のたもとからはクラスノヤルスクの

街全体を見おろすことができたのです。この場所で地元の高校生とおぼしき男女2,30

人ほどの集団と出会ったのですが、写真を撮ってあげようと思って見回したらもうい

ない。おそろしく急な斜面のあたりだったのにどこにどうやって移動していったので

すかね。

 最後の急な登り道を上ってやっとの思いで元の位置にたどり着くと、同行したスタ

ッフの中でいちばん若いサーシャという船員がよく冷えたミネラルウォーターをコッ

プ1杯ずつみんなに振る舞ってくれます。ここで1杯の冷たい水がどんなに価値ある

か、憎らしいほど計算し尽くされています。ところが彼、ヨーロッパ人の女性客1人

に渡し忘れたらしい。それに気づいた同僚の青年、彼に「サーシャ、バーブシケ!」。

簡にして明というのはこれですね。

 

 昼食後、相変わらずの暑い陽射しの中、例のショルダーバッグを抱えて町に出てみ

ました。平和大通りという繁華街をしばらく歩いたあとバスで鉄道駅へ。

 ちょうどモスクワ発イルクーツク行きの急行「バイカル」が停まっていたのでロシ

ア流に線路を渡ってそちらのプラットホームに行こうとしたら見慣れない制服の男の

人に呼び止められてしまいました。地下道か跨線橋を使えと、これまた聞き慣れない

ことを言うのです。やむなく跨線橋に上がってしばし列車や人の出入りを眺めていま

した。「バイカル」が出て行ってしばらくするとクラスノヤルスク始発ノボシビルス

ク行きの「オビ」が入線、前後してモスクワ発チタ行きの下り列車が入ってきました。

 駅舎は塗装こそ新しいものの、造りは古いどっしりした構えで、ホーム側には「ク

ラスノヤルスク鉄道100年」の看板が掲げられています。100年前と言えば日露戦争の

前、戦争を意識していたかどうかはともかく露国政府は東方への交通路の整備を急い

でいたことでしょう。

 

 駅前の広場で懐かしいクワスの黄色いタンク車を見つけました。コップ1杯1ルーブ

ル70コペイカ。昨夜、船のバーで注文したのが2ドルですから30分の1近い値段。味は

昨夜のほうが洗練されていましたけれど本物の味はこちらでしょうね。昔と違うのは

ガラスのコップの使い回しではなく、合成樹脂の使い捨て容器になっている点。地球

に優しくなくなっています。

 

 エニセイにかかるシベリア鉄道の橋の写真を撮った後、バスを乗り継いで市の中心

部に戻りました。昔、きっと共産党のクラスヤルスク地方委員会か何かだったに違い

ないいかめしいビルの前の広場には今でも大きなレーニン像が残っていて、それらと

道を隔てた向かい側が「文化と休息の公園」になっています。

 緑の多い広い公園で、中央の通りには飲物や綿菓子を売る露店がいくつも出ていて、

家族連れやらカップルやら若者仲間などたくさんの人が来ています。園内には子ども

鉄道や観覧車もあるのですが、どうやらお休みの様子。観覧車の大好きな私も運休で

はどうしようもありませんから、しかたなく暑さを避けて木陰のベンチで休んでいま

した。

 10mほど離れたむこう側のベンチのあたりでは2人連れのごく小さな女の子がしき

りに遊び回っている。見ていたら公園の木のごく低い枝に近づいてそこになっている

実を口に運んでいます。日本でならすぐに母親がとんできて「そんな汚いの口に入れ

て、すぐに吐き出しなさい。」となるところでしょうが、少し離れたところにいる父

親は国有財産の私的所有への移行は見とがめられない限り結構という態度で何も言い

ません。

 仕草があんまりかわいいので近づいてカメラを向けても全然気づかない。ようやく

気づいたら今度は恥ずかしがって父親の後ろに隠れてしまいます。そこで例によって

バッグから折り紙を取り出して鶴を1羽。父親が彼女にお礼を英語で言いなさいとい

うとそのヴェーラという女の子、かわいい声で「サンキュー」ですって。3歳の子に

英語を教えるなんてロシアも東洋の隅っこの島国にどこか似てきましたね。市場経済

のなせるわざでしょうか。

 カタコトの英語とロシア語でヴェーラのお父さんと話していたら、あなたは神を信

じているかという質問。なにしろこちらは「国籍;日本国,宗教;適宜,..」という

典型的日本人ですから「ノー」と答えると何故かと追い打ちをかけてくる。そういう

高度に哲学的な質問に答えられる語学力があれば私は旅でいつもこんなに苦労してま

せん。えーい面倒と思って「私はコミュニストだから」だと言うと「それじゃレーニ

ンが神様か」ときた。レーニンが怒りますよ。

 

 その父娘とはほどなく別れたのですが、あとがいけない。中学生ぐらいの男の子を

連れた母親が一部始終を見ていて、私にも折り鶴をと言う。親子に1羽ずつ折って上

げたら今度は女子中学生の一団がやってきて私達にもということになり、ま、若い女

性に甘い私のことですから1人ずつにサービスしてたら、仲間の男の子達もやってき

て....と、結局いつもの通り折り紙教室を開くハメになりました。

 

 

 

 

( 3) タシキノ

8月21日(土)

 この日の午前9時に船はクラスノヤルスクを出ることになっていましたから、それ

より少し前にデッキに出てみました。相変わらず上天気で、尖塔を持つ古いターミナ

ルビルも朝日を受けて輝いているように見えます。定刻になると、本船の後ろにいた

「ボロヂン」というふたまわりほど小さな客船が先に岸を離れ、ついでこちらが離岸

します。例の壮行の曲をスピーカーからガンガン鳴らして。川船は停船するときには

舳先を川上に向けるという決まりなのでしょうか、桟橋を離れた「A・チェーホフ」

は川の中央で大きくUターンして川下に向かいます。

 

 クラスノヤルスクが大きな都市であることはこうやって川を下ってもわかります。

商業地域を抜け出ても貨物用の荷役施設や工場群、住宅団地などが続き、町のはずれ

に火力なのか原子力なのかわからないけど立派な発電所も見えます。前回エニセイに

来たとき、エニセイ川には5本の橋が架けられていると聞いた記憶があります。おそ

らく5本ともこの地区に集中しているのでしょうが、シベリア鉄道の鉄橋から数えて

4本目にあたる道路・鉄道兼用の橋の下を通貨したのが出港してから40分も経ってか

らでした。5本目の橋は見つかりませんでした。シベ鉄の鉄橋よりも上流側にあるの

でしょうか。まさか、あの「10ルーブル橋」を2本と数えたのではないですよね。い

ずれにしても、しばらくして気づくと船は出航時には倒していたマストをしっかりと

立てて航走しています。この後もう橋は無いということです。

 川面にゴム製のボートやモーターボートを浮かべて釣りをする人達の姿もよく見か

けます。まだ町から遠くはないのです。

 

 ボルガやドニエプルの船旅と違ってシベリアのエニセイ川のそれは、両岸が森や原

野ばかりで人家をまったく見ないまま半日も走り抜けるというイメージがありますが、

このあたりではまだそんなことはありません。たしかに片側の岸に切り立った崖がし

ばらく続いたり、反対側の岸はずっと林だったりということはあるのですが、でもし

ばらく行くと必ず集落があるのです。行き交う貨客の船も少なからず、すれちがう都

度汽笛を鳴らして挨拶をしあっています。

 

 午後4時頃、右舷前方の何もない岸辺に赤茶く錆びた浮き桟橋が見え、そこに小型

の客船が1艘停まっています。あちらの船はグリーン・ストップなのかそれとも奥の

ここからは見えないところに村落があって乗客の乗り降りや貨物の積み降ろしをして

いるのかと思っているうちにこちらの船が急に向きを変えます。予定時刻より1時間

も早いので考えてなかったのですが、寄港予定のタシキノでした。

 先着の小さな船は今朝クラスノヤルスクで一緒だった「ボロヂン」だったのですが、

驚いたことにこちらが近づくとあちらは浮き桟橋を離れるのです。そして、こちらが

桟橋に横付け。遅れてやって来たのに横柄な船です。

 流れのある川で船を横に動かすのは難しく、双葉マークのママの車庫入れみたいに

慎重にいきます。舳先はやはり上流を向いていますから、スクリューの回し加減をう

まく調節すると船尾を見ていたら船は進んでいるような気になるのに岸を見ると船が

停止しているのがわかる。スクリューの回転が止まれば船はゆっくりと後進。初等物

理の教科書の「相対速度」のところの記述通りです。

 ロシアの川船は桟橋の一つしかないローカルな港に複数の船が着いたとき、船を真

横に並べて、乗客は岸側の船の中を通り抜けて岸との行き来をするのが普通ですから、

桟橋を追われた「ボロヂン」は本船に横付けになるものとばかり思っていました。と

ころがこちらはそれもさせない。「ボロヂン」がどうするのかと見ていたら、本船の

すぐ下流側に投錨したのち船備え付けの渡し板を船首と岸との間に架けて乗客の乗降

をさせていました。

 

 2時間ほど後のことですが、「ボロヂン」のサンデッキでは狼だか兎だかのぬいぐ

るみを着込んだ人が子ども達を集めて何か催しものをしていましたし、岸にはそこい

らから枯れ木を集めてきてキャンプファイヤーの準備もしていましたから、あちらの

船も町々へ人や荷を運んでいるわけではなくてクルーズ船らしい。あちらはメインデ

ッキの後部に大っぴらに洗濯物が干してあるほどの庶民的な船だから、同じクルーズ

をするならあちらのほうが絶対に楽しいのはまちがいありません。ただし、どういう

わけか自分の船室だけトイレの排水ができないとか、そういうのを覚悟できればの話

ですが。

 

 このタシキノという地名について私はもうほとんど忘れていました。浮き桟橋から

岸へ上がると僅かに高くなったところに小学校のグランドほどの広さのあき地があり、

それ以外は白樺や赤松の林です。ガイドのレーナさんは、このあと下流のタイガやツ

ンドラ地帯に行くと樹相が変わるので見ておくようにと言います。彼女の話では、こ

ちら側の岸には農家が1軒あるだけで、数頭ずつの豚と牛を飼っていると。それで思

い出しました。6年前の船旅でもここに上がっているのです。その時はガイドがつか

ずフリーだったので、自分一人だけで少しだけ下流側に歩いたら数頭の豚を飼ってい

る農家がありましたっけ。あの時の豚君が今でも健在、ということはありませんね。

とっくにカツレツか何かになっているのでしょう。

 今回はガイド嬢がいるのでもう少し奥まったところまで歩いてみました。林を切り

拓いた牧草地はもうきれいに刈り取られ、干し草のロールが点在していました。

 

 夕食を終えて2時間も経った頃でしょうか、デッキに上がってみると真っ赤な夕陽

が「ボロヂン」の向こう側に沈んでいくところでした。

 「ボロヂン」からはいく人もの子ども達が例の渡し板伝いに降りてきてキャンプフ

ァイヤーの始まるのを待っています。

 太陽は沈んでしまってからもしばらくの間、さっきまでいたあたりの雲と、その下

のエニセイの水を茜色に染めていました。

 

 

 

 

( 4) カサチンスキー

8月22日(日)

 乗船してからは朝7時に目が覚めるのがもうクセになってしまいましたが、この日

起きると昨晩の夕焼けを裏切って雨です。いつ出発したのか「ボロヂン」は影も形も

ありません。ゆうべ二次会までつきあったのに今日は早出残業のお父さんみたいに勤

勉な船です。それにひきかえ、どっかの国の女子高校生のような本船は朝食も終わっ

た9時になってようやく出発です。もっともわが家で受け取った日本語のタイムテー

ブルではタシキノ発は前日の深夜ということになっており、キャビンに配られる英文

のそれには今日の9時という記載でずいぶん開きがあるなと思っていたのです。でも、

今朝起きたらたしかに繋留索は解かれてむろんタラップも外され、船は浮き桟橋から

10mほど離れたところに投錨して停泊しているのです。つまり、離岸は深夜、出発は

9時というわけ。ずいぶん律儀なものですネ。

 

 出発後しばらくして雨はやみました。デッキに出てみるとずっと寒く感じる。もし

かするとさっきまでの雨は前線だったのかもしれません。

 

 11時半頃、船はカサチンスキーの早瀬とよばれる場所を通過します。水路が狭くな

っていて流れが速く、川底からは岩が出ていて船にとっては難所らしい。船内にある

小さなプールは出発以来水が入っていなくて「カサチンスキー・ラピッドを通るとき

船が重いのは危険だから」という断り書きがあるくらいです。でも、カサチンスキー

を過ぎてもっと北へ行ったら寒くてプールに入る人なんかいないでしょうに。

 いずれにしても早瀬に近づいたところで案内の放送がはいり、デッキにはおおぜい

の人が出てきました。でも、実際に見てみると想像していたのとは違うんですね。私

は両側が切り立った崖になっている狭い水路を頭に浮かべていたのです。しかし、そ

こには左右どちらにも屏風のような壁は無く、川幅もそれまでよりいくらか狭いとは

いえ、それほどでもない。ただ、水面近くまで届きそうな岩が多いだろうことはその

あたりだけ波立っていることからも想像できます。だから操船上からはやはり難所で

しょう。つまり最上川だの保津川だのを下るようなのを考えてはいけない。早瀬と言

ってもロシアの川のことですから。

 

 昼食後に「プロの写真家が教える上手な写真の撮り方」教室というのが最上階の映

写室であったので行ってみました。見せてくれた写真から世界各地を撮影してまわっ

ていることがわかるそれらしい服装の男性が熱をこめて説明してくれたのですが、い

かんせん全部ドイツ語。あいにくといちばん奥まったところに席をとってしまったの

で途中で抜けようにも抜け出せません。全くチンプンカンプンの講義を退室も許され

ずに我慢して聞いていた学生の頃の気分を久しぶりに味わいました。唯一わかったの

は彼が前の黒板がわりのボードに書いた「3/5」という数字だけです。でも何と何

の比率が3:5ということなんでしょう?まさか「3月5日」という意味だったんじ

ゃないですよね。

 

 午後3時半だったか4時だったか、船はアンガラ川との合流点を通り過ぎました。

この時もカサチンスキー・ラピッドと同様に船内放送で案内がありました。例によっ

て独,英,露,..と各国語でやるのですが、そのどれもがやけに長い。どうも「アン

ガラがエニセイに恋をして、それを怒った親父さんのバイカルが..」とかそういう話

(なかみは違っているかもしれません)をしているらしい。おかげで「15分後に合流

点」というアナウンスだったのに各国語の放送が終わった時にはもう目の前でした。

この合流点で見る限り、本流のエニセイよりもそれに呑み込まれるアンガラのほうが

川幅も広く水量も多いように見えます。河川が合流するときの本支流というのは何に

よって決めるのでしょうか。

 そんなふうに思うからかもしれませんが、この合流点より下流のエニセイはこれま

でよりも川幅がかなり広くなった気がします。

 

 午後5時半頃、左岸にレソシビルスクの町が見えます。製材業によってや木材の集

散地として成り立っている町のようで、河畔にはずっとそういった施設が続き、川の

中央には木材などを輸送するのに使う動力のないはしけのような鉄函がいくつも繋留

されています。

 次の寄港地エニセイスクまでは地図で見てもレソシビルスクからいくらの距離でも

ないのに、「A・チェーホフ」は左岸の町並みが途絶えてしばらくしたところで投錨

・停泊してしまいました。




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