エニセイ紀行 (1993)


 

(06) 空港から河港へ

 

 15日(日)17時半(イルクーツクより-1時間)、私達の飛行機はノリリスク空港に着

陸しました。NHKの出版協会から出されている「北極圏」の4巻にノリリスクのこ

とがでてきて、大きな都市であることがわかりますが、空港は市街からは相当離れて

いるらしく、さきほど飛行機の窓から見た荒涼とした風景の中にあまり立派でない空

港がポツンとあるだけです。

 

 空港には迎えのバスがついています。これもイカルスなんかではなくて、ソ連製の

かなり古い感じのもの。野戦服のような迷彩服を着たお兄さんと紺のジャンパーのお

兄さんが数人トラックにスーツケースを載せてくれます。でもこのお兄さん達、胸に

我々が乗る「アントン・チェーホフ号」のプレートをつけていますから、兵士とか空

港のポーターではないのですね。ずっとあとになってわかったのですが、迷彩服の人

は会社がやとったガードマン(こんなものものしいいでたちで何をするのだと思いま

す?)、ポーター風のお兄さんは実習ということで船で働いている学生でした。あと、

出迎えの中に日本語をしゃべる女性が1人。彼女、本山さんは日本の大学を休学して

クラスノヤルスクに留学している学生で、この夏「おいしいアルバイトがあるから」

と誘われて、チェーホフ号で通訳をしているのだそうです。

 

 空港から引き込み線のような単線の鉄道が1本ずっと遠くへ走っていて、線路の脇

のほんの少しだけ小高いところに軍用なのか民間用なのかレーダーサイトみたいのが

一つ見えるほかは建造物のようなものが見あたりません。そんな中をエニセイ河畔の

港町ドゥヂンカに向かってバスは走ります。ドゥヂンカに近くなってから多少の針葉

樹の群落を見ましたけど、道の両側の景色には低潅木やヒース、コットングラスのは

える沼沢地や低い丘が続きます。気温は16℃ということでしたが、それほど寒い感じ

はなく、半袖でじゅうぶん。日があたると陽射しは強い感じでしたが、途中「景色の

いいところがある」といって運転手さんがバスを止めてくれたあたり(ちょっとした

川があって他の場所より起伏が深い)から小雨が降りはじめました。

 

 道路と平行する方向に鉄道が1本延びていて50両もあろうかと思われる貨車を機関

車がひいていくのが見えます。こんな土地に鉄道があるだけでも驚きですが、これが

ちゃんと電化されている。帰国してからさっきの「北極圏」を読んだら、これはモス

クワなどとはつながっていなくて、ノリリスクとドゥヂンカの間だけに敷かれている

鉄道なんだそうです。

 

 同じような風景の中を1時間ほど走ったあと、前方に林立するクレーンが見えてき

ました。単線の鉄道がいきなり分岐を始めて非常に大きなヤードになり、いかにも輸

送の拠点の町という感じです。これも帰ってから「北極圏」で知ったのですが、ここ

ドゥヂンカはオデッサやウラジオストクと並んでソ連で五指に入る港なんだそうです。

皆さん、ご存じでした?アパート群などの市街地を抜けて、河港の南端の工事現場み

たいな荒れ地に古びた浮き桟橋があり、そこに私達ののる「アントン・チェーホフ号」

が係留されていました。

 

 

 

 

(07) 「チェーホフ」号での第一夜

 

 「アントン・チェーホフ」号は河船ということもあってそんなに大きな船ではあり

ません。主甲板の乗船口を入ったところにレセプションがあり、その前の階段を上が

って中甲板のロビーに出るとそこにも数人の制服の女性がいてキャビンを案内してく

れます。さらにもう1階上の上甲板にも船室がありますが、主・中・上のどこでもキ

ャビンの広さなどは殆ど同じで料金にもあまり差がありません。船はごく最近西側の

基準で内装をリメイクしたというだけあって、シベリア鉄道の車両や日本海航路の船

のようなロシアくささ(臭いのことではなく雰囲気です)がありません。

 キャビンは広くはないけど、読書灯のついたベッド、ソファー、テーブル、机を引

き出すと自動的に電灯が点く仕組みのライティングデスク、それにユニット型のシャ

ワーとトイレがあります。エアコンとラジオもあって勿論ちゃんと動きます。

 

 19時半頃夕食。乗船した日ということで、ロシア人のウェイター、ウェイトレスは

民族服を着てのサービスです。クラスノヤルスクからエニセイを下ってきた観光団の

うち日本人以外は降りてしまっていますし、これからのグループはまだ日本人しか乗

っていないのでレストランはガランとしていました。翌日からはシフト制で2回に分

けての食事になります。料理は肉とパイナップルを煮込んだものに長粒種のライスが

ついたもの一品。それにアイスクリームのデザートがつきました。このアイスクリー

ムがとても美味しい。

 ところで、この船の昼食と夕食では飲物は一切有料なのです。コーヒーも紅茶も$2。

私はたまにはワインやジュースを注文したこともありましたが、たいていはコントレ

ックスという水を注文しました。これも$2。日本では六甲のも南アルプスのも一度も

買ったことのない私にはこの水に2ドルというのは心理的に非常に抵抗がありました。

幾日かあとにグループの東山さんが船のマネージャーに「エクスカーションをオプシ

ョナルにしないで無料でするのに、なぜ飲物が有料なのか」と聞いたのです。そうし

たら、国外から食材を運び込むのに20トンにつき25,000ドルかかる。この船では食糧

は非常に高いのだという答だったそうです。

 

 夕食後、船内を“探検”したあとキャビンに戻ってちょっと横になったら、やっぱ

り疲れていたのでしょうか、シャワーも浴びず、着替えてもいないのにそのまま眠っ

てしまいました。目がさめたのは真夜中でしたが、北極圏なのですね、まだ暗くはあ

りませんでした。

 

 

 

 

(08) 客船「リトワ」の子供達

 

 16日(月)のまだ1時か2時頃、室外の人の声で目が覚めました。クラスノヤルスクか

ら下ってきた日本人のグループが下船して行ったのです。枕元のカーテンの裾をすこ

し上げて外を見ると、それこそ「丑三つ時」だというのに多少薄明るいのです。日没

の少しあとなのか、あるいは日の出の前なのか、それとも一晩中こうなのでしょうか。

 

 朝 7時頃起きて洗面をすませ、甲板に出てみると、私達の船は岸にではなくて川の

中央部にいるのです。川幅が広いので、桟橋までの距離はかなりあります。昨日この

船が係留されていた桟橋には別の船が停泊しています。おそらくその船が未明にドゥ

ヂンカに着き、こちらはそのために桟橋をあけてあげたのでしょう。川のあちこちに

は私達の「アントン・チェーホフ」以外にもかなりの数の船、、もっとも客船ではな

くいろいろなタイプの貨物船が停泊していて、ここが水運の要衝であることをうかが

わせていました。

 

 天候は霧雨ないし小雨でやや肌寒く、北極圏へ来るのに長袖を用意してこなかった

ということが心に重くのしかかります。

 

 やがて船はゆっくりと動きだして桟橋へ向かい、桟橋についている船の脇にピタリ

とつけてその船にもやいを渡しました。つまり、1つの桟橋に2艘の船が平行につい

て、こちらの船のクルーはあちらの船内を通って上陸できるという形です。あちらの

客船は「リトワ(リトアニア)」という名前ですが、もちろん船尾の旗はロシア国旗

です。『諸民族の友好』を高らかにうたい上げた旧ソ連時代の名残りでしょうが、リ

トアニアの人がいま見たら何と思いますかね。

 

 客船「リトワ」の乗客はおおぜいの子ども達でした。「ラーゲリ?」って聞いたら

「ダー」と答えましたから、ピオニール・キャンプへ行くところか帰ってきたところ

かです。これはあとで帰ってきたところだとわかりました。互いの船が近づくとこち

らに珍しい外国人が乗っているとわかって子ども達がしだいに甲板に出てくるように

なり、2艘がつながったときはあちらの中甲板は子ども達で鈴なりです。

 

 こういう場面になれば例の「折り紙」の出番です。すぐに船室にもどってバッグか

ら1束の折り紙を取りだし船室前の中甲板に出ました。最初の1羽目は何をするんだ

ろうと大勢の視線がただじっと集中していただけでしたが、1羽できあがってそれを

目の前の子に渡す(なにしろ2艘はつながっていますからこちらの中甲板ととむこう

の中甲板の者とでものの受け渡しができるほどの距離です)と、もうあとは「私にも」

「僕にも」ということになって、しばらくは鶴を折りっぱなしでした。いつもだとこ

のあと「自分で折るから紙をくれ」となるのが普通なので、こちらが教えながら自分

達で折ってもらおうと折り紙を渡したところ、紙はすぐにはけたのですけど、そのあ

とがいつも勝手が違う。その紙が1枚ずつまた戻ってきて、折ってくれというのです。

私はあのときいったい何羽の鶴を折ったのでしょう。

 

 子ども達の背後でこの様子をみていた引率者風の女の人が「プレゼント」と言って、

本を1冊くれました。アガサ・クリスティなどイギリスやフランスの作家のを訳した

タシケント発行の本ですが、ロシア語ですから読みようがありません。でも、せっか

くの気持ちですからお礼を言って受け取ると、こんどは子ども達からもその女の人か

らも次々と贈り物が。どんなものをもらったかですって? つい最近摘んだにちがい

ない野草の花束(最高の贈り物だと思いません?)、100ルーブルや200ルーブルのお

札、ルーブルのコイン(以前のソ連にオリンピックなどの記念の1ルーブル硬貨とい

うのはありましたがロシアになってからの昔のカペイカ玉とそっくりのルーブル硬貨

は初めて見ました)、向日葵だか何だかの種(掌ですくい上げてくれるので受け渡し

のときに何粒も川へ落ちてしまってもったいなかった)、スプーン1本(まさか船の

食堂のではないでしょうね)、とうとう最後にはウオトカを1瓶もらってしまいまし

た。

 

 今度はカメラをとりに船室にもどると、もう朝食の時間になっていたのですね、ち

ょうどメイドさんが部屋の掃除をしてくれているところでした。この人が格別美人と

いうのではないにしても、ロシア語でいう「シンパチーチナヤ」という形容がピッタ

リという素敵な印象の人だったのですが、とにかくこの時はそれどころではない、お

礼もろくに言わずにカメラとメモ帳をひったくるようにして取ってまた中甲板に。

 子ども達の写真を何コマも撮って、メモ帳に送り先の住所を書いてもらいます。そ

うしたら、私の住所もほしいというので書いてあげると、別の子が自分にもほしいと

言い、それが何人も続くのです。これが私にはとても不思議でした。1人の子に書い

てあげたんだから、それをあとで書き写せばいいのにと。この謎はあとで解けました。

あちらからもらった住所を見てみるとタルナフ、ノリリスク、カイエルカンと3つの

市にまたがっているのです。もしかすると、彼らは今回一緒のピオニール・キャンプ

へ行ったというだけで、それまでは互いに知り合いではなかったのかもしれません。

 でも、そうなるとどの写真を誰に送ったらいいのかという難しい問題ができてしま

ったのですが、それはご想像の通り不幸な形で解決してしまいました。そうです。現

像してみたら写っていなかった1本目のフィルムでしたから。

 

 あちらはもう下船の時刻のようで、別の引率者風の大人がしきりにせかしている様

子があるのです。でも、何人もの子どもが甲板に残って、鶴を折ってくれだの住所を

書いてくれだの言っています。こちらも学校勤めですから、その感覚で言うと、修学

旅行みたいな団体行動で時間を守らないなんていうのは「大犯罪」の範疇にはいりま

す。ですから、こっちのほうがはらはらして手振り・身ぶりで「もう行かなくちゃ駄

目じゃないの」というのを伝えようとするのですが、あちらは全然気にしない様子。

遅刻してきた生徒を校門で押しつぶすなんてことはロシアじゃ無いんですかね。でも、

ずっと付き合っていたら朝食のレストランが閉まってしまいますから、ごめんなさい、

振り切るようにしておしまいにしました。 9時半頃だったでしょうか。

 

 でも「へいき、へいき」といった感じでいつまでも甲板にいた子ども達が正解だっ

たみたいです。岸壁にならんでいたバスが動きだしたのは私が朝食を終えてなおしば

らく後でしたから。

 

 

 

 

(09) ドゥヂンカ

 

 船の朝食は毎日バイキング形式でした。ロシアの黒パンとはずいぶんちがうけど少

し黒っぽいパン、薄くて広い乾パンのようなもの、コーンフレークが主食で、おかず

(というのでしょうか)はチーズ、ソフトサラミ、互いに少し種類の違うハム、ボイ

ルしたソーセージといったものが日によって少しずつ品を変えて出てきます。ジャム

が2,3種類、マーガリン、バター。バターは朝食だけはこうして自由にお取りくだ

さいという形で出るのですが、昼や夕食は頼まないと出てこないのです。デザートと

いうのでしょうか、日によって西瓜が出たり、コンポートだったり、そういうのも何

か出ています。不思議なことに朝食だけは紅茶もコーヒーも何杯飲んでもタダで、こ

れだけはウェイトレスがサービスしてくれます。ロシアのレストランでは私はコーヒ

ーは頼まないのですが、この船のコーヒーはロシアらしくなく、いつもコーヒーをお

願いしていました。

 もう一つロシアのレストランと違うのは、パンとバターの固さの関係が逆だったこ

とです。ロシアではやわらかくて美味しい無塩のようなバターが融けないようにでし

ょうか氷を添えて出てくることが多いですね。ところが、ここでは冷蔵庫から取りだ

したてのまだ固いバターで、しかもパンのほうが例の黒パンとちがってふっくらやわ

らかという感じなので、パンにバターを塗るのに苦労しました。

 

 10時頃、私達と一緒にエニセイを上るヨーロッパからの観光団が乗船してきました。

百人を上回る大きな団体です。スイス1国から来ているのかそれとも何ヶ国もから来

ているのかとうとう最後まで私は知りませんでしたが、インフォメーションはいつも

ドイツ語、フランス語、イタリア語でした。その頃には雨も上がりました。

 

 12時、この日だけは昼も朝と同じバイキング形式の軽い食事。

 

 その後、船内の売店で絵はがきを10枚買いました。ロシアの風景のではなくて、こ

のクルーズ船のホテル部門を受け持っている会社が売り出している船の写真の絵はが

きです。100ルーブルの切手付きで1枚が$1。ま、日本から外国に絵はがきを出すとき

だってこんなものですが、それにしても日本までの葉書の切手代が 100ルーブルもす

るのでしょうか。午後、船室で2時間ほどかけて日本に9枚、それにイルクーツクの

アントンに1枚書きました。アントンへは23日か24日かに(この期に及んでも確かな

日程を言わないあたり、私も慎重でしょう)そちらに行く予定なので会いたいという

内容です。イルクーツクに着くまでに葉書があちらに着いているといいのですが、で

も間が1週間しかありませんから、ちょっと無理かなとは思っていました。

 この葉書、ドゥヂンカの市内観光に出るときにレセプションに預けて、船に戻って

きたらもうボックスにはなくなっていたので、市内観光の間にドゥヂンカで投函して

くれたものと考えていました。でも、旅から帰って、届いていた自分宛の葉書を見た

ら次の寄港地イガルカの消印でした。

 

 14時半、ドゥヂンカ市内観光。旅行のパンフレットには「専用バスで」と書いてあ

りましたが、日本ののように車体に旅行会社の名前やマークのはいった豪華なバスは

想像しないでください。地元の路線バスを借り受けたもので、これを5台連ねてです。

全部のバスが一斉に同じところに行くと混雑するのでそれぞれが見学の順序を少しず

つ変えるという芸の細かいところも見せます。これは、このあとやはりバスを使った

イガルカやレソシビリスクでも同じでした。

 

 まず、港の上の広場に。広場の中央にはレーニン像が健在でしたが、脇の建物の壁

には大きなソ連邦の国章もついていましたから、思想的な背景があってではなく、単

にとりはずすヒマかおかねがないということなのかもしれません。

 ガイド嬢の説明では、ドゥヂンカの港は河港と海港の両機能があり、海のほうはム

ルマンスクやアルハンゲリスクとの間の航路が砕氷船を使うことによって冬でも機能

しているけれど、クラスノヤルスクとの河川の航路は10月には閉ざされるとのことで

した。エニセイの水位は季節によって大きく変わるので、資材や場合によっては設備

を上げ下げしなければならず大変そうです。ノリリスクやその奥にニッケルなどの鉱

山があるために、この地域はわりに富裕で、ユーゴスラビアの技術を導入したロシア

では最新式の病院もあると自慢していました。そういえば、観光の途中でよった百貨

店も、思ったより品ぞろえが豊富な気がしました。

 

 そのあとタムィル半島の先住民の民俗博物館を見学。でも漁労や狩猟で生きる北方

諸民族の文化は、私にはシベリアもオホーツク海の周囲も同じように見えて区別がつ

きません。資料や市の地図を売っていたのですが、ドルを持ち合わせていなかったの

で買いませんでした。あとで思ったのですが、外国人だから*ドルと言ったんで、ル

ーブルでと言えば相当する金額で売ってくれたのでしょう。

 

 16時すぎからさきほどの広場にある文化会館で「チェイロ」という民族歌舞団の公

演を約1時間鑑賞。踊りのときに音楽が生演奏ではなくテープで流されたりするのも

あって、ちょっと物足りない。踊りのしぐさや踊り手の服装にロシアの影響が色濃く

出ているのもありましたが、これはロシア人が進出して以来ずっとその支配下で生活

してきたのですからしかたがありませんね。でも、見応えのある演目もありました。

男の人のソロで、金属片のようなものを口のすぐ前で弾いて口腔で共鳴させてさまざ

まな音階や音色を出すというのをやってくれたときは会場は水を打ったようにシーン

となって聞き入りました。フィナーレの群舞も力がこもっていて楽しかったですし、

その一つ前のプログラムで、男の人が鹿(トナカイ?)の革でつくったタンバリンの

ような楽器をたたきながら一人で歌った民謡も力強く土の香りのするものでした。

 

 18時すぎに船に戻りました。いよいよクラスノヤルスクに向けて出港です。

 

 

 

 

(10) 出航

 

 16日(月)19時、つまり予定通りの時刻に「アントン・チェーホフ号」はドゥヂンカ

の桟橋を離れました。朝、「リトワ」がピオニール・キャンプ帰りの子ども達を降ろ

して岸を離れたときと同じ音楽がスピーカーから流れます。これが「蛍の光」などで

はなく(町はずれの桟橋ですし見送りの人もいないわけですが)なかなか勇ましい行

進曲風の音楽です。映画「鶴は飛んでゆく」の中の出征場面で使われた曲と同じ曲だ

ったような気がしました。

 

 19時15分、中甲板の読書室(ここが我々日本人グループのミーティングの場所に決

まっていました)で初めてお互いの自己紹介。こういう旅は若い人には好まれないの

でしょうか、年輩の方が多く、1947年生まれの私も今回のグループの中では“若手”

に属したかもしれません。

 

 20時、夕食。パン、野菜の入ったとろみのあるスープ(夕食にスープが出る点がロ

シアとの違いですがそのかわり昼食にはスープが出ませんでした)、肉の煮込みにパ

スタと胡瓜を添えたもの、デザートにはバナナを添えたアイスクリームが出ました。

川を航行するので海の上の船旅とちがって船の揺れがなく食事も快適です。1979年の

暮れ、初めてソ連へ旅行したとき、新潟から船でナホトカに渡ったのですが、冬の日

本海のことですから、5000トン程度の船は大揺れに揺れて乗客の大半が食事時になっ

てもレストランに現れないという始末でしたが、あれとは雲泥の差です。

 

 21時30分、上甲板のディスコ・バーで船長以下のスタッフの紹介がありました。集

まった乗客にグラス1杯ずつのシャンペンが振る舞われます。でも、さっきのミーテ

ィングとちがって各国の人が一堂に集まっているので、船長の挨拶ひとつでも、ご本

人がロシア語で一節を語ると、ドイツ語、フランス語、イタリア語、日本語の通訳が

次々立ってその一節を訳すということでなかなかたいへんでした。

 

 この集まりが終わったあとはデッキに出て涼みました。川幅はかなり広く、ハバロ

フスクあたりのアムール川とくらべてもどっちと言えないくらいです。ドゥヂンカを

出港して以来ずっと船尾のあたりには鴎が舞っているのですが、同じ鴎がついてくる

のでしょうか、それとも川のそれぞれの場所にいる鴎が船が近づくと「交替で」やっ

てくるのかはわかりません。いずれにしても厨房から出る残飯がお目当てなのでしょ

う。ドゥヂンカを出て3時間ほどたった22時くらいになると、両岸の樹林の丈がかな

り高くなり、また密生した状態になってきて、ノリリスク〜ドゥヂンカあたりのあの

いかにもツンドラというのとは植生が変わってきているのがうかがえました。

 

 日没は23時と24時のあいだだったように記憶していますが、床に入った0時半過ぎ

でもなお、日の沈んだ北の空は夕焼けのようなきれいな色の空でした。また、真上の

空は暗い青色をしていて、そこに浮かんでいる雲は沈んでしまったはずの太陽の光が

あたって白い色をしています。その時間でも星はまったく見えません。川を対向して

くる船があればあかりなしにでもじゅうぶんわかる明るさがあります。川に置かれた

灯台というのは初めて見ましたが、両岸にはところどころに灯台があり、さらに川の

中央部には浮標が点滅していて船はその間を航行していきます。

 


 

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