ドニエプルから黒海へ (1996)


 

(06)クレメンチュク

 

タイムテーブルを見ると8月17日は朝3時にカネフの船着場を離れたあと、終日

どこにも寄港しないことになっています。

 6時前に目が覚めました。ちょうどその頃、川面のむこうから太陽がのぼってきま

す。この日も好天。7時過ぎでしたか船は大きな鉄橋の下をくぐりました。夜の間の

ことはわかりませんが、キエフを離れてから初めて見る橋です。その後川幅はますま

す広くなり、右手には大きな町が見えてきます。持ってきた低倍率の双眼鏡で河港の

ターミナルを探して読めた文字と地図を照合するとチェルカッシの町のはずです。

 

 いつも通り8時から朝食。この日は観光の予定がありませんから、午前中は私とT

君の部屋にK子さんもやってきて雑談をしていました。

 

 12時半頃、船はクレメンチュクの水門を通過。ロシアの地図を見ると河川の幅が

急に狭くなっているところが随所にありますけど、あれは大抵は昇降用の水門のよう

です。

 1時から昼食でしたが、この頃に船は予定にはないクレメンチュクの船着場に接岸

してかなり長い時間停泊していました。ただ、乗客の下船はさせない様子でした。

 食後は甲板に上がってしばらく日光浴。甲板は大勢のロシア人乗客の男女が水着姿

で椅子に腰掛けたり甲板に寝そべったりして太陽の光を浴びています。Hさんに言わ

せると「トドがゴロゴロしてる」んだとか。北国であるロシアの人々にとっては短い

夏の間に少しでも陽射しを吸収しておこうということでしょうか。ガーリャさんも水

着になって甲板でほぼ午後の時間いっぱいというほど長い間読書をしていました。

 クレメンチュクの河港を出てすぐに船はまた橋をくぐります。この鉄橋は2層にな

っていて、上は自動車道路、下が鉄道用なのですが、下は船が通過するときにせり上

がるような仕掛けになっています。川岸には時おり高層のアパートも見えたりします

が、低地の続く同じような風景です。岸辺の樹林、そのむこうの耕作地か放牧地、ま

ばらな民家、..それに湿地帯なのでしょうか浮島のような風景も見られます。

 ガーリャさんがこうして室外に出ているときがK子さんが部屋でゆっくりできる貴

重な時間ですから、しばらくしてK子さんはキャビンに戻りました。そのあと船首側

のデッキにまわってみたところ、強い横風が吹くようになり、前方は巻き上げられた

砂のせいかそれとも雨でも降っているのか、かすんでよく見えないくらいです。長い

時間はいられませんでしたから、キャビンに戻ってT君とオセロなどを。

 

 7時前から夕食。食後はまたK子さんを誘ってしばらく甲板に出ていました。

 

 こういう川船では船内のサロンとかホールを使っていろいろなイベントがあるのが

普通です。この船でも前夜は船外でシャシリク・パーティーでしたけど、この夜から

は主に最上階のホールで催しがありました。この日は何か子供たちのための出し物と

いうことで、9時直前に行ってみたところもう満席で、背の低い私は立ち見でも見え

ない状態。大男のHさんは私と違って立ち見なら平気だし、K子さんはデッキに置か

れている樹脂製の椅子を持ってきてその上に立って見ていて、ガーリャさんはホール

の窓越しにちょっとのぞいたりしていましたけど、T君とS君と私の3人はもう早々

とあきらめてホールの外の甲板にいました。

 ちょうどこの頃、船はおそらくドニエプロ・ペトロフスクと思われる水門に近づい

ていました。ある程度大きな都市らしく岸辺の街の灯が多く川面に写って美しい。も

う真っ暗な夜なのにたいへんな数の鴎が船のまわりを飛び回り、それがゲートの照明

に白く映えます。

 

 ホールでの催しは1時間余りで終わったでしょうか。その後ガーリャさんを含めて

6人で部屋へ戻ってまたオセロなどに興じておりました。

 

 

 

 

(07)ザポロージェ

 

 この日18日も起きたのは6時過ぎだったでしょうか。年寄りと同室になった若い

人にとっては迷惑な話ですが、シャワーを浴びて洗濯を済ませ、あと朝食までの時間

に前日の日記を書くというパターンです。T君は物音で目を覚ますのですが、またす

ぐ寝てしまう。若い人はいくらでも寝られて羨ましい。もう余命を数えるようになっ

ているこちらは「死んだらいくらでも寝られるのに」なんて思っている。少し雲が多

いようですが、この日も晴れ。

 

 8時前に船はザポロージェの水門に差しかかります。これについては特別の船内放

送があって「ヨーロッパ最大」の水門で、高低差が二十数mだとか。ロシア人(でな

くてもそうですね)がわざわざ「ヨーロッパ」最大というときは明らかに世界最大で

はないということですから、いったい世界最大はどこかという話が我々の中に持ち上

がりました。パナマ運河は行ったことがないし..とか。すると、T君が「ウラルより

東はヨーロッパじゃない」と言うのです。それでハタと気がつきました。世界最大は

エニセイ川のクラスノヤルスク・ダムなんです。きっと。

 水門を通過して川幅が狭くなると左岸はきれいな砂浜で、そこが市民の水浴場とし

て整備されているらしく更衣用のボックスなどが点在しています。

 朝食後の9時にザポロージェの河港に接岸。キエフはもとよりカネフもクレメンチ

ュクもそうでしたが、この川の船着場はエニセイなどと違って浮き桟橋ではありませ

ん。しっかりしたコンクリート造り。水の増減にどう対応しているのでしょうか。そ

れとも数あるダムで水量をしっかりコントロールしているということでしょうか。そ

れにしてもこの桟橋のデザインが旧ソ連にしては凝っています。背後の大きな町も小

綺麗な印象です。

 

 10時からチャーターしたバスに分乗しての市内観光。キエフの鉄を轍を踏まない

ために今度は早めに行って6人とも同じバスに乗ることができました。もちろんK子

さんはH通訳の隣席に。

 ローカルガイドの話を通訳氏が聞かせてくれたところによると、ここザポロージェ

は南部ウクライナの中心都市で人口が百万とか。この季節、この地方は暑いと言って

いるそうですが、たしかに暑い。ただ、湿気がそれほどでないのが助かります。まず

例によって市の中心部の通り(やはり「レーニン通り」でした)へ出て、その後さき

ほど通った水門の近くの広場(これも「レーニン広場」という能のない命名がされて

いる)にバスを止めます。水門はドニエプル水力発電所のダムの脇にあるのですが、

この発電所も戦前に完成したときにはソ連邦で最大規模の発電施設だったようです。

ただ、今では原発なんかに比べると能力が小さく、チェルノブィリを廃止できない理

由にそのあたりのこともあるらしい。船を通す水門は戦前は3段式だったそうですが

ナチに占領された時に破壊され、戦後再建するときに現在のものにしたという話でし

た。その3段式の「遺跡」も現在のの近くに残っていて、何かとミーハーの我々はし

っかり見に行きました。去年のボルガ以来、船舶昇降用の水門はいくつも通りました

けどこうやってそれを船外から見たのは初めてでした。

 

 この発電所よりわずかに下流のドニエプルの中州がホルチッツァ島とよばれていま

す。中州とよぶにはなかなか大きな島です。はじめこの島のちょっと切り立った崖の

景色のいい所に寄って写真を撮ったりした後、葡萄畑や向日葵畑の間の舗装されない

道を通って同じ島の中にあるコサックの観光施設へ行きました。丸太を縦に並べた柵

の中に馬が通り抜ける通路(これが舞台ですね)と客用の丸木椅子を置いたものでし

た。写真1枚を撮るにもお金を要求するあたりは気に入りませんでしたが、ショーの

なかみはじゅうぶん楽しめました。

 一つは馬の曲乗り。モスクワ・サーカスなどで走っている馬の背中に立ったり、あ

るいは横腹につかまって走ったりというのをご覧になった方も多いでしょうが、今回

はサーカス小屋の丸いステージでなく一直線のコースですから、スピードも出るし、

砂埃も上がって趣があります。見ていて思ったのですが、ああいう芸って、やはり戦

いに備えたりその中で生まれてきたのでしょうね。騎馬で戦争するとき、敵の目をく

らましたり、飛んでくる矢や銃弾から馬を降りずに身をかわしたり、落馬してしまっ

た戦友(恋人?)を拾い上げて救ったり..と、そんなことを考えながら見てました。

 もう一つは鞭さばきを披露するもので、長さが3m以上もあるんじゃないかと思わ

れるしなやかな鞭で人が手の先に持っている小枝を落とす。もちろん手には絶対あた

らずにその短い小枝だけが落ちるのです。そのあと仲間に帽子をかぶせてこれを鞭で

払い落とすというのをやるように見せて、これはやらずじまい。あとのための伏線だ

ったのです。ロシアのこういうショーってよくお客を引っ張り込みますよね。この時

も客席にいた男の人が「舞台」に連れていかれました。この人、私の知っている人だ

ったのです。キエフの市内観光でガーリャさんと同じバスに乗ったとき、通路をはさ

んで隣にいたのがこの頬髭の男の人でした。その時ガイドに「フニクラは動いている

の?」って聞いていたんですけど、ガイドがそれに気づかなかったものだから「昨日

は動いてましたよ」って私が言ってそれで顔見知りになっていました。あとになって

わかったのですが、モスクワに住むイリヤという男の子のお父さんで、奥さんと3人

で船に乗っています。この頬髭のお父さん、舞台に引き出されて水平にした手に小枝

を持たされると、芸達者ですね、その手を小刻みに震わせてみせる。とっさの時にこ

ういうことができるユーモアのセンスって私などは全然ありませんから感心してしま

います。去年のボルガでの「露仏友好サッカー」のときのフランス人もそうでした。

 イリヤのお父さんのあともう一人の男性がやっぱり引っ張り出されて、今度は小枝

でなく頭に帽子をかぶせられます。さっきプロどうしでも帽子はやらなかったですか

ら「えっ」という感じになりますね。その上、鞭使いのほうが目隠しをしてしまって

何度も鞭を地面にたたきつけて大きな音を立て、緊張を高めます。そしてその哀れな

犠牲者のほうにも目隠しをしてあげて、最後に思いっきり鞭を地面にたたきつける。

その瞬間に仲間のコサックが帽子を取るのです。見ているほうは大笑いですが、立た

されているほうはいい気持ちではなかったでしょう。

 

 一旦船に戻って午後1時半から昼食。午後は自由時間で、希望者のために3時から

市の中心部までバスで送るということでしたからそれに乗ってレーニン通りまで行き

ました。ペテルブルクでK子さんと一緒に訪ねた知人へのお礼のはがきが書き上がっ

ているのですが、船内で切手が入手できないために出せずにいました。それでまず郵

便局をさがしたのですけれど、この日は日曜日で用が足せずに終わり。その後ルィノ

ックへ行ってみました。こちらも日曜のせいか閑散としています。お店も露店は別に

して閉まっているところが多いですから、市の中心のマヤコフスキー広場で休むこと

にしました。行ってみるとベンチに横になって寝ている男の子がいる。見たらさっき

バスを降りて別れたT君でした。大丈夫ですかね、知り合いの誰もいないところであ

んなことをしていて。先日カネフの川岸で短時間横になっていてふと目を開けたら私

の頭の所に知らない男の人が立っていてギョッとしたことがありましたし。そのうち

S君も近くのベンチに横になってしまって、そのあとしばらくK子さんととりとめの

ない話をしていました。

 

 少し小雨がパラつくようになり、帰りのバスが5時ということでしたから、それで

船に戻りました。いつも通り7時前から夕食。船はよるの出し物の始まる9時頃にザ

ポロージェの河港を離れるスケジュールになっていました。

 

 夜9時からの出し物は民謡のコンサートということでしたから、前夜のこともある

し早めに行ってしっかり席を確保しました。昨年の「V・マヤコフスキー」にはペル

ミ州の「プリカーミエ」というプロのフォーク・グループが乗船していましたが、今

回のはどういう人達なのかよくわかりません。踊り手と歌い手を兼ねる女の人が4人

ぐらい、バヤンなどの楽器を奏でる男の人が 2,3人、それに6年生か7年生くらいの

かわいい女の子が1人、それぞれ民族衣裳を身につけています。毎夜司会をつとめる

髭のヴィクトル氏がこの夜も司会。はじめは船客の息子さんでピョートルとかいう小

学校就学前くらいの男の子との掛け合い。ピョートル君がヴィクトル氏の思惑通り反

応しないのかそれともそれも織り込み済みなのか、とにかく会場は爆笑の渦です。客

席にいたお母さんらしい女性はハラハラしている様子。やがてご褒美にミルキィ・ウ

ェイを貰ってお母さんのところへ帰ってきました。

 そのあとグループの人達によって民謡の演奏。「踊り」というほどのものができる

ほどのスペースは今回はありませんでしたから多少からだを動かす程度でわりに明る

いお祭りのような雰囲気の、あのスラブ的な裏声の入った歌を披露してくれました。

 ところがその後がいけない。例によって客の中から誰かを引き込もうと思っている

ヴィクトル氏が客席の真ん中あたりにひと塊になって座っている異邦人に気づいたん

ですね。運悪くその中でいちばん通路側に座っていた私が引っ張りだされてしまいま

した。だいたい私ときたら小学校以来常に運動神経はクラス中最悪で、踊りのステッ

プなんか踏めたものではないのです。しかもヴィクトル氏の指示が早口のロシア語で

何を言っているんだかさっぱりわからん。で、適当に見当をつけて踊り手のお姉ちゃ

んに合わせて身体を動かすとヴィクトルの奴、親指を立てて「それでいいんだ」とか

合図をしてくるから、それを横目で盗み見しながらお姉ちゃんに合わせるので精一杯

です。この私の動きは観客のロシア人にはよほど奇態にうつったと見えて場内はみん

な大笑いですが、その分こちらは惨めな気分になってきます。あげくに両頬にお姉ち

ゃん達のキスマークを付けられ(慌てて拭き取ったんですが、「ダメダメ」とばかり

再押捺されてしまいました。)、とどめはヴィクトル氏とウオトカで乾杯ということ

で一気飲み。お土産にミルキィ・ウェイなんか貰ったって気分は晴れませんね。

 もっとも一気に飲み干した睡眠薬のおかげかこの夜はよく眠れましたけど..。

 

 

 

 

(08)カホフカ

 

 19日は朝8時にカホフカに接岸というスケジュールでしたが、7時頃窓の外を見

るともう停船しています。朝食まで時間がありますから下船してみました。桟橋では

昨夜のヴィクトル氏が誰か知らない男性と話をしています。天気は珍しく曇りで、多

少強めの冷たい風が吹いていて水面は少し波立っています。桟橋のあたりには夥しい

数の燕が群舞していて、その燕達の斜め上方の空に1ヶ所だけ雲の切れているところ

があって青い空がのぞいています。これじゃ、もうほとんどM・ゴーリキーの「海つ

ばめ」の世界です。

 河岸通りを少し歩いてよく手の入った大きな花壇のある小さな広場まで行き、食事

の時間もありますからまた船着場に戻って来ました。ここの桟橋は浮き桟橋だったよ

うな記憶です。我々の船が係留されているのの隣にも廃船(艀)を使ったような浮き

桟橋があり、そこで3人ほどの男の人が静かに釣り糸を垂れていました。ただ、不思

議なことはその艀の中央の船倉だったところでしょうか四角い開口部から大きな柳の

木が伸びていることです。いったい柳の木と桟橋とどっちが先だったのかと思って。

船のところまで帰って来てもヴィクトル氏はまだ話を続けています。私に気がついて

「Как дело? Хорошо?」と聞いてきましたけど、これは前夜のこと

を言っているのか今見てきたばかりの町のことを言っていたのかわかりかねました。

 

 8時の朝食にレストランに行くと他のテーブルの客から「よ、偉大なソリスト!」

なんて冷やかしの声がかかります。イリヤも人の顔を見てニヤニヤしている。「まっ

たく、もう」という感じでず。

 食事のあと、ガーリャさんを含めた6人で1時間ほど町の中を歩きました。町と言

っても先日のカネフほどの小さな町です。なのに、こんなローカルな所までしっかり

とコカ・コーラの看板がある。巨大多国籍企業の力を思い知らされました。このあた

りで見る日本企業の看板と言えばアメリカの企業と摩擦状態になっている緑色のフィ

ルムメーカーでしょう。この会社のロゴもかなりの地方都市でも見られた記憶です。

他業種の様々な日本の会社もロシアやウクライナへ進出していますけど、こういう地

方への浸透という点ではあそこが一番なのかなと思います。もっとも重機のメーカー

なんかだったらそんなに地方で宣伝する必要はありませんものね。

 

 予定より遅く11時半頃船はカホフカの桟橋を離れました。まもなくカホフカ貯水

池の水門を通過すると、その後しばらくは両岸が樹林のかなり狭い水路を船は進んで

行きます。

 

 午後1時に昼食。昼食後はじめはデッキに出て、その後はキャビンで、K子さんと

話して過ごしました。彼女、眠たそうです。同室者のことがあるから気疲れしている

のでしょう。

 

 4時頃、ヘルソンの河港に臨時の寄港です。予定にはなかったのですが、この船が

ヘルソン船籍ですから、ま、本社に立ち寄ったみたいなものでしょう。じつは3年前

のエニセイの旅のとき、その船に乗り組んでいたサーシャという青年と今でも手紙が

行き来しているのですけれど、そのサーシャがこのヘルソンから60kmほどのニコ

ラエフに住んでいるのです。はじめからここに寄るのがわかっていたらと、ちょっと

悔しい思いでした。下船してT君、K子さんと一緒にターミナル・ビルの向こうまで

出てみました。カホフカのような田舎町ではありませんが、ターミナル前の広場は個

性のない無機的な雰囲気で、旧ソ連の典型的な地方都市という感じです。

 

 5時にヘルソンを離岸。夕食までの間、3階のガーリャさんとK子さんの船室に6

人が集まってコーヒー・パーティーにしました。ただ、ガーリャさんが冷房が嫌いと

かで船室はちょっと暑かったのを覚えています。

 

 7時、夕食。この頃船はドニエプルの河口を出て、(ドニエプロフスキー)リマン

という内海に入りました。船に乗っているともう大海に出たという感じなのものです

から私は黒海に出たのだと錯覚したのですが、よく見ると遠くの前方にも陸地が見え

てまだ内海だということがわかります。

 

 9時から例によって最上階のホールでイベントがあります。前夜のことがあります

から、今度は我々日本人グループは人目につきにくい最後部の壁に貼りつくように席

を取りました。この日は3人ほどの黒衣の男性のグループによるコント風のもので、

ロシア人には大受けしているものの、こちらは言葉がわからずさっぱりでした。ただ

非常に芸達者な人達らしいということは、酔っぱらいの描写などがほんとうに真に迫

っていることからもわかりました。エニセイのときの「劇団」を思い出させました。

 

 船がいよいよ黒海に出たのは夜10時頃でした。後方の水平線上には町の灯が一列

に並んでいるのが見えますが、前方はまったくの闇の世界。天候もあまりよくないの

か、空には星が一つ見えるだけでした。

 

 

 

 

(09)エヴパトーリア

 

 8月20日の朝、やはり目が覚めたのは6時頃でした。黒海に波はなく、船は川を

航行していたときと同じく滑るように進んでいます。空には前日よりも重く低い雲が

垂れこめています。天候が良くないので、周囲のどの方向にも島影が見えません。空

の一角の雲の薄くなったところからわずかに差し込む日光で、海面の一部が丸く明る

くなっているのがわかります。

 7時過ぎにはいつもの通り乗組み員がデッキにホースで水を撒いています。はじめ

はこれを雨の音だと思ったこともありましたが、この頃には慣れました。

 

 8時、朝食。まもなく船はエヴパトーリアの船着場に接岸しました。ここの港はい

かにも港湾施設という感じで、繁華な町中へ出るためには少し歩いてゲートを出て行

かなければなりません。ゲートまでの間は工事用の機材なんかが置いてある殺風景な

ところです。

 朝食のあと、また6人で町へ出てみました。日本人には全く知られていない町です

けれど、ロシアやウクライナの人々にとってはもしかすると有名な観光地なのかもし

れません。というのは、海岸通りを歩いてみると、オープン・カフェのほか、シャシ

リク屋、ピラフ売り、アイスクリーム売り、飲み物売り、写真屋、エクスカーション

受け付けなどの屋台がずっと並んでいて、行き来する観光客の数もたいへん多いので

す。海にはいく艘ものヨットが浮いていて、その白い帆がやや暗い色の海面とよく似

合っています。

 海岸通りのすぐ近くにある正教の教会2つとイスラム教のモスクをのぞいてみまし

た。イスラム教のそれと違って正教の教会は内部の装飾が豪華でここでも教会が力を

増してきていることがわかります。ただ、K子さんが気づいたのですけれど、内装に

タイルが多用されたりしていてモスクワあたりの寺院と少し雰囲気が違うのです。ト

ルコやペルシャの影響を受けているのかもしれません。

 その後は海岸からはちょっと奥まったところのちょっとした市場のようなところを

訪ねてから船に帰りました。

 

 午後1時に昼食。この頃になると薄日が射すようになっています。船着場のわきに

2mほどのコンクリートの塀で囲まれたビーチがあって船客の中には朝からそちらへ

泳ぎに行っている人も少なくありませんでした。海パンを持ってきていて泳ぎたくて

しようがないT君は食事のあとさっさとビーチへ。K子さんも泳ぐのが好きですから

一緒にビーチへ行ってみました。しかしこちらは*十年前に高校のプールで授業中に

溺れそこなって以来一切泳ぎに行ったことはないという金槌ですからK子さん達にお

付き合いするわけにはいかないのです。行ってみると、ビーチを囲むコンクリートの

塀の端っこにS君がいて、シャツを脱いで寝そべっています。そう、この塀、幅が寝

台くらいはあるのです。そこで、我々もその上にあがって日光浴。その間にK子さん

は一度泳ぎに行きましたし、早くからビーチに来ていたT君はロシア人の船客とビー

チバレーをしたり、前日私のことを「ソリスト!」などと冷やかした例のロシア人男

性に誘われてまた泳ぎに行ったりしています。

 

 ビーチから戻ったあと一度町へ出たT君の「シャシリクが美味しかった」という言

葉に釣られてK子さんと一緒に朝行った海岸通りへ出てみました。朝歩いた時よいも

もっとたくさんの人が出ています。シャッシリクこそ買いませんでしたが、何という

んでしたっけ焙った肉を削いで野菜と一緒にパンに包んでくれるあれを買って、波う

ち際のコンクリートの腰掛けて食べました。ヨットを係留した桟橋に行くと、お兄さ

ん達が乗らないかと声をかけてきます。観光客を乗せて海へ出る商売なんですね。帰

りがけに偶然郵便局を見つけたんですが、クリミアはキエフ時間ではなくモスクワ時

間のため(船内はキエフ時間で通しています)もう閉まったあとでした。例の葉書は

いまだに投函できずにいます。

 

 7時、夕食。昼食の時に気づいたのですが、我々のテーブル担当の2人のウェイト

レスのうちレーナさんの姿が見えません。一説によると盲腸で入院しちゃったとか。

 

 夕食後に6人でまた町へ出てみました。日本と違ってかなり暗くなるまで街灯が点

かないし、それにもともと街灯の数が多くないので夜になると暗い感じですが、考え

ようによっては日本のほうがむしろエネルギーを過剰に消費しているのかもしれませ

ん。南部ウクライナではオデッサのバレエ・オペラ劇場に次ぐというふれこみの(見

た感じ、それほどには見えませんでしたが。)市内の劇場で「国際児童音楽祭」とい

うのが開かれているのを偶然見つけました。もう殆ど終演に近かったせいか、無料で

入れてくれました。高校生ぐらいまでの子ども達のダンスや歌でしたが、船内のアト

ラクションよりもこっちのほうが芸術性が高いという印象です。「もっと早くから来

ると良かったね」と言い合ったものです。きっと各地から選ばれてこのエヴパトーリ

アに集まったんですね。フィナーレは出演者全員がステージに出て客席と一体になっ

て「エヴパトーリア、エヴパトーリア!」の大合唱でした。

 

 その後、また海岸通りへ。これでたった1日のうちに3度目です。夜になっても人

通りは減らず、オープン・カフェは満員の状態です。むこうの船着場に接岸している

我々の「ルィバルコ」号は多くの客室の灯が点いていて、これが水面にも映り、こう

やって夜暗くなってから見るとなかなかの豪華船に見えます。

 

 

 

 

(10)戦跡と古代遺跡

 

 航海の最終日21日、天候は晴れで、朝の太陽がまぶしく感じられました。船はク

リミア半島の西岸沿いに南下しているはずですけれど、いつものように6時頃起きた

ときにには陸地は見えませんでした。海は凪いでいていい航海です。

 

 8時、朝食。船はセヴァストーポリの郊外を右舷に見ながら港に入っていきます。

この港もウラジオストクやヤルタと同じく後背地が高くなっている地形です。港はか

なり奥行きのある湾の中にあって、湾の入口では防潜網を置ける防波堤が門の役割を

しています。右舷に見える小高い丘の上にはおそらく大祖国戦争の記念の大きなモニ

ュメント、高い塔と金属製の彫像が遠くからでも否応なしに目に飛び込んできます。

 セヴァストーポリの埠頭に接岸したのは9時。黒海艦隊の制服を着た軍楽隊員十数

人が桟橋に整列して歓迎の演奏をしてくれました。

 

 10時、例によってバスに分乗して市内観光。市の中心部の通りをまわったあと、

南の湾という小さな入り江の奥のやはり小高い丘の上にあるクリミア戦争のジオラマ

を見に行きました。L・トルストイの「セワストーポリ」の世界です。こういうジオ

ラマ、ウラジーミルでモンゴル軍に攻められた時のを見たことがありますが、規模が

全然違う。でも、K子さんに言わせると「子どもだまし」と不評でした。その後は市

街地を離れてなだらかな丘陵地帯にある大祖国戦争のメモリアルを見学、市街に戻っ

てからもクリミア戦争や大祖国戦争のモニュメントとかそういうのばかりで、さなが

ら戦跡巡りのツアーでした。ま、沖縄本島南部と同じで、それだけ激戦と悲惨な歴史

があったわけですからこれは仕方がないというより当然なのかもしれません。好天の

せいで、バスの中が暑かったのを覚えています。

 

 1時半に昼食。毎日昼食時に翌日の食事のメニューを選んできたのですが、翌日の

午後には私達だけは下船しますから、この作業もこの日で終わりです。ガーリャさん

達みんなはこのあとオデッサに向かうことになっているのです。オデッサもいい町で

すからもう一度行ってみたかった。

 

 3時からは、港からそう遠くないにあるヘルソネスの遺跡の見学でした。古代ギリ

シャの文化がこのクリミア半島に上陸したことを示すもので、ここからさらに半島の

東のほうに伝搬したらしい。博物館で説明を聞いたあと、遺跡をまわりましたが、石

づくりの町並みが発掘されていて、それが無造作に開放されているのが、世界のあち

こちを見て歩いているK子さんなどには意外なようでした。遺跡の端の海辺では泳い

でいる人もいるほどですから。ここでもHさんがガイドの示した集合時刻をちゃんと

聞いてないものだから、我々はずいぶん時間を無駄にして帰りのバスを待ったもので

した。

 

 7時、夕食。ガーリャさんはS君などと町へ出て行きましたけど、その間私はキャ

ビンでK子さん達と話して過ごしました。

 じつはこの日の夜の出し物は「ロシア・ロマンスの夕べ」ということになっていて

連夜のイベントの中で私がいちばん楽しみにしていたのがこれでした。行ってみると

予想していたのとちょっと感じが違う。「ロシア・ロマンス」というと「うぐいす」

のような歌曲をソプラノとかテノールの人が歌うみたいのを想像してしまうのですけ

ど、この夜は例のヴィクトル氏がしんみりとギターの弾き語りをしてくれたのです。

どちらかというとブラート・オクジャワの世界。でもこれも私は嫌ではありませんか

ら、じゅうぶん楽しめました。K子さんはいく日か前にガーリャさんに誘われて日中

にこういうのを聞く機会があったそうです(我々は全然知らなかった。H添乗員にと

って興味ない情報は無いも同然ですから。)。それがとても良かったと言って、彼女

も期待してらしいのですが、この夜の演奏、期待を裏切らなかったでしょう。それに

してもこういうのも「ロシア・ロマンス」の範疇に入るんだとは初めて知りました。

 

 船での最後の夜ですから、この「夕べ」の終わったあとで、私とT君のキャビンに

6人全員が集まってシャンペンを2本もあけてガーリャさんとお別れのミニ・パーテ

ィー。ガーリャさんが自室に戻ってからもずっと話が続いて、寝たのは1時半くらい

だったでしょうか。

 


 

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