広場 (キエフ)
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ドニエプル河を見下ろす川岸の“ウラヂーミルの丘”公園のすぐ上にある再建されたミハイロフ修道院前の広場。前方はソフィア寺院。 (2003年8月撮影)
レーニン像 (キエフ)
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並木道の入り口に今でも立つレーニン像。台座の「レーニン」の文字はウクライナ語。 (2003年8月撮影)
慰霊碑 (キエフ)
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ミハイロフスカヤ広場に新しく建てられていた慰霊碑。ウクライナでは1930年代スターリンの強制的な「農業集団化」によって多くの犠牲者が出たが、その人たちを追悼するもの。 (2003年8月撮影)
聖オリガ像 (キエフ)
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同じくミハイロフスカヤ広場に建てられた碑。キエフの守護神とされる聖オリガは、キエフ大公国第二代大公イーゴリ1世の妃。夫が殺された後、コンスタチノープルにおもむいてそこで東方正教会の洗礼を受けた。ロシア(ルーシ)で最初期のキリスト教改宗者であり、彼女の孫にあたるウラジーミル大公がキリスト教を国教とした。 (2019年9月撮影)
ロシアとウクライナ友好の碑 (キエフ)
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川岸の高台でもとりわけ見晴らしのよい位置の公園にあるロシアとウクライナの友好の碑。もちろんソ連時代からあったものだが、ソ連という同一の国にありながら“友好の碑”が必要なほど、ロシアとウクライナの関係は古くから微妙だったということであろうか。 (上段:2003年8月撮影)
21世紀も10年代になるとウクライナとロシアとの関係がかなり険悪になったものだから、この碑ははたしてどうなってしまったのか気になっていて、久しぶりにキエフを訪れた時、旅程上のごく短い隙間の時間を利用して現地まで足を運んでみたら、倒されることなく建っていた。ただ、名称は「諸国民の友好のアーチ」と変わっていたが、「諸国民」にはロシアも含まれるだろうし.....。写真をよく見ると、上部に亀裂が入っているように見えるが、これはある活動家達のグループが稲妻形のシールを貼ったのだとか。碑を倒すのでなく名前を変えちゃうとか、事態が好転すればはがせるシールを貼るとか、キエフには智慧者がいるなぁと感心したものだった。アーチ以外の記念碑も無事だった。 (これより下:2019年9月撮影)
追記: 2022年2月24日に始まったプーチンのロシアによるウクライナ侵攻から2ヶ月を経た同年4月下旬、この二人の男性がソ連の友好勲章を高く掲げる「友好の碑」はキエフ市当局によって撤去されたと新聞で報じられた。悲しいけれど、あの非道な軍事侵攻を受けた側としては、これを建てたままにしておくのはいたたまれない気持ちだったのであろう。
ケーブルカー (キエフ)
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河港と川岸の高台を結ぶケーブルカー。 (2003年8月撮影)
石像 (キエフ)
“ウラヂーミルの丘”公園で見かけた石像。母子像に雀の一家がとまっているのが何となくユーモラスに感じられた。 (2003年8月撮影)
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ペルシャ猫パンテレイモンの碑 (キエフ)
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黄金の門のすぐそばで見かけた猫の像。真偽のほどは知らないが、黄金の門の近くにあったレストランで飼われていた猫で、そのレストランが火災に遭った時、鳴き声で危急をお客達に知らせたのだが、当の「本人」は亡くなってしまい、その猫を悼む市民の募金で建てられたとか。 (2019年9月撮影)
地下街 (キエフ)
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フレシャチク大通りの地下には、ソ連時代には想像もできなかったような近代的な地下街ができあがっていた。独立広場の下もそうなっているが、写真はフレシャチク大通りとシェフチェンコ並木道との接点、昔からある大きなルィノックの前。 (2003年8月撮影)
ルィノック (キエフ)
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ソ連時代からある大きな市場。 (2019年9月撮影)
レストラン (キエフ)
2019年の旅行の折り、キエフ市に入って最初に食事を取ったレストラン。やはり、ソ連時代とは雰囲気が違う。 (2019年9月撮影)