ゴメリ




 サンクト・ペテルブルクのビテフスク駅からウクライナのキエフに向かう列車に乗ったとき、途中のゴメリで撮った写真。ゴメリ州はその面積のかなりの部分をチェルノブィリ原発事故によって汚染され、人々の健康と自然、それに経済が復旧するまでにどれだけの時間と費用がかかるのか誰にも予測ができないままになっている。  (1996年8月撮影)

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ブレスト市創建1000年


 ベラルーシ西端に位置するこの市の名前は、コストロマのイパチェフスキー修道院で発見された年代記に1019年にはあらわれているというので、2019年には市の創建1000年を祝った。左の写真は、お祝いの看板。右は、それを記念して建てられた大天使ミハイルの像。  (2019年9月撮影)

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ブレスト要塞


 ソ連とポーランドの国境の町ブレストは1941年6月22日独ソ開戦のその日に圧倒的なドイツ軍の侵攻を受けたが、このブレスト要塞の守備隊は頑強な抵抗を続け、首都ミンスクが陥落した時にもまだ降伏していなかったという。
 上段右端の写真は、ロシア各地にある戦没者慰霊碑と同様のものだが、「氏名不詳」というのが多いのが他所には見られない特徴かもしれない。下段中央は、戦勝20年の記念の時に、ソ連邦最高会議の決定により「英雄要塞」という呼称がレーニン勲章とともに与えられたという銘板。下段右端は、ドイツ占領時代に多くの非戦闘員も銃殺されたという追悼の銘板。この要塞は、ブーク川とその支流のムハヴェツ川に囲まれてはいるが、それらの川が当時もこの写真のような様子だったとするとドイツ軍は難無く攻め入ったことが想像できる。   (上段左端:2000年12月,その他:2019年9月撮影)

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ブレスト講和締結場所


 1917年の10月革命で「平和の布告」を宣言したレーニンの政府は、翌1918年3月3日、当時交戦状態にあったドイツとの間で屈辱的なブレスト・リトフスク講和条約を締結し、平和を実現した。ブレスト要塞内にあった締結場所「白の宮殿」はさきの大戦で破壊されていた。 (上段:2000年12月,下段:2019年9月撮影)

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ブレスト中央駅


 ソ連からヨーロッパへの出口であったブレスト中央駅。もちろん今でも国境の駅であるから、駅舎内には税関などの施設が備わっている。待合室に掲げられた時刻表を見ると、ミンスクなどベラルーシ国内の各地を結ぶ路線はもちろんのこと、モスクワやペテルブルク線のほかにパリ、ベルリン、プラハ、ワルシャワなどヨーロッパ各地との直行列車が発着していることがわかる。
 上段右端の写真は駅前に置かれた記念碑。この町は1941年独ソ開戦の当日に真っ先にドイツ軍の攻撃を受けたのだが、それではなくて1944年7月28日にソ連軍によって解放された日の記念碑。  (中段左端:2000年12月,その他:2019年9月撮影)

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劇場 (ブレスト)



 ブレスト州立ドラマ劇場の建物。 (2000年12月撮影)

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