バイカルの畔へ (1994)


 

(4) ブリヤートの村を経て

 

8月12日(金)

 06時に目覚ましをセットしてあったので、この時刻に起床。シャワーを浴びて07時

半に朝食。バイキングですから基本的に前日と同じですが、ゆでたフランクフルトソ

ーセージがつきました。でも、これだけは「ご自由に」ではなくカウンターで1本だ

けのった皿を1人1枚だけもらえるシステム。あと、黒パンがなく、フランスパンを

少しだけやわらかくしたような白パンでした。

 

 08時半にホテルを出て、前日のマイクロバスでシーダのキャンプ場まで 約200kmの

道のりを移動です。補助椅子を入れて20席程度の小さなバスに添乗員の山上さんとス

ルーガイドのワロージャ、それにガードマン兼ポーターとかいうよくわからない任務

のオレクを入れて15人、一方最後尾の席は荷物置き場になってしまいましたから、ち

ょっと重めのショルダーも膝にかかえっぱなしというやや窮屈なドライブになりまし

た。もちろんスーツケースはホテルに預けていくことになりました。

 ワロージャの説明では、はじめの70kmぐらいは舗装道路だけど、その後はでこぼこ

道で、その舗装区間には公衆便所もあるが、あとは覚悟するようにということ。しか

し、ロシアでは公衆便所にはいるほうがよっぽど覚悟がいるのはご存じの通りです。

舗装道路のことを「ハイウェイ」などと言っていましたが、ここでも車はけっこう揺

れましたから 200km全線にわたって心地よい揺れの中で移動したことになります。

 イルクーツクはタイガ地帯にあります。これはたとえばリストビャンカなど郊外に

出るバスに乗るとすぐわかる。リストビャンカへは南というか南東の方向へ出るので

すが、今回はほぼ北の方角へ向かいました。しばらく走るとタイガの森はすぐに切れ

て、緩やかな丘陵地に向日葵などを栽培した畑が延々と続くようになります。

 

 ウスチ・オルデンスキーの少し手前で、だだっ広い畑だか野原だかの真ん中に建築

中のラマ教の寺院を見学。木造で、まだ塗装がされてなくて白木のままでした。社会

主義政権でなくなって、各宗派とも教会や祈祷所の建設がさかんに行われているので

しょう。案内してくださったブリヤート人の男性はもうほんとうに日本人そっくりの

方です。ブリヤートの人々はシャーマニズムと仏教が融合したようなこの宗教をほと

んどの人が信仰していて、ロシア正教の人は殆どいないという説明でした。

 

 そのあとウスチ・オルデンスキーの町の中にある郷土博物館を見学。ブリヤート人

の昔と今の生活やこの地域に住む動物などについての展示が主です。さっきの寺院で

の説明を聞いていてもそうでしたが、このあたりは「ブリヤートの土地」というのが

強くおし出されているように感じました。民族の問題が強く意識されるようになって

きているのでしょうか。ブリヤートの祭を中心に描いたビデオの上映もありました。

 

 シーダへの経路から少しはずれたところにあるブリヤート人の村ナガリクに着いた

のが13時頃でしたか。木造のユルタが村の文化会館になっていて、そこの前庭でまず

歓迎の儀式。水色のワンピースになっている民族衣装の少女6人が木の器に入れた飲

物をみんなに飲ませてくれます。ロシア人の「パンと塩」に相当するものなのでしょ

うね。私はカメラを構えていたらとばされてしまって、それを飲むことができません

でした。馬乳酒か何かだったのでしょうか。その後ユルタの中に入ります。広さがそ

うですね20畳ぐらいでしょうか、その真ん中に囲炉裏があってその真上だけは天井・

屋根がなく煙が室内にこもらないようになっています。一見なんの変哲もない木壁は

開閉できるようになっていて収納にも便利なようになっているらしい。ここで色彩豊

かな民族衣装に身を包んだ古老たちの民謡や伝説をもとにした寸劇風の出し物や日本

の尺八のような音色を出す立て笛の演奏を聞かせていただき、こちらからは山野さん

がおかえしに日本民謡をハーモニカで。そのあと囲炉裏を囲んでまたご馳走になって

います。

 そのあいだに私は忙しく折り鶴を折っていました。少なくとも6人分は必要ですか

ら。驚いたのは、こんな「奥地の」村なのに子ども達が「日本の鶴だ」と知っていた

ことです。今度の旅でもこのあと幾度か鶴を折る機会がありましたが、どの場合でも

みんな良く知っているのです。「この鶴は日本では..」と言うと「知ってる、知って

る。人々に幸せを運ぶというんでしょ。」と。

 そのあと、もう一度外へ出て、みんなで輪になって踊りました。

 

 14時「食堂」という看板のかかった建物にバスで移動して昼食。村の食堂としては

最大級の心尽くしだったでしょう、たいへんなご馳走でした。ソーセージと胡瓜のザ

クースカ、コケモモ、ブルーベリー、骨付き肉のゆでたの、肉汁のスープ。このスー

プがとてもおいしい。 牛乳と穀粉をねった料理、もやしなど2,3種類の野菜の酢漬け、

ポーズとか言っていましたが包頭にあたるものでしょうか、まーるい餃子風の料理。

フォークをつかわず手でとってまん中の穴から汁を吸い、そのあとで食べるというも

のですが、これが美味しくていくつ食べたか覚えていません。あとウオトカ。私は

「医者がダメと言っている」といういつもの言い訳で断ろうとしたのですが、接待の

おばさんに「医者はここにはいない」とか言われて無理矢理1杯飲まされてしまいま

した。

 

 15時半に村を出て、北東のシーダのキャンプ場へ向かいます。このあたりは広大な

ステップで、そこで家畜を育てて生計を立てているようです。阿蘇の草千里をはるか

に大規模にした風景の中に牛であれ羊であれ馬であれ、さらには豚まで放し飼いにな

っています。家禽類はもちろんです。それをバスの中から眺めながら我々は「ここら

の牛は日本の牛にくらべるとずっと幸せだね」などと話しておりましたが、それは決

して動物だけの話ではない、すし詰めの電車に往復3時間も閉じこめられ、会社では

ブロイラーみたいに管理されている自身と、朝太陽が登れば仕事に出て日が沈めば家

路につくというブリヤートの人々との対比に重ね合わせていたに違いありません。

 道路に出てきた牛に進路を阻まれたりしながら、ずっと同じような風景の中をバス

は進みます。

 

 途中でワロージャが景色のいいところがあるので回っていこうということで、小高

いところにある小さな池(日本でなら湖?)を見おろすところにバスを止めて、写真

を撮りました。でもこの「いい景色」は昨日書いた例の範疇ですね。それでもここへ

入る道路は「有料道路」だそうですから、やっぱりいいんでしょうか。

 

 シーダのキャンプ場は、バイカル湖の西岸、オリホン島の西のマーロエ・モーリェ

の西南端に近いところにあります。シーダ湾の中の小さな入り江の奥に我々が泊まる

「旅行者宿泊所(ツーリスツカヤ・バザ)」があります。宿泊所の南側はすぐ湖です

が西は次第に高くなる地形で北には小さな岬が張り出してそれが宿泊所の東側にもま

わりこんでいます。北は岬ですからそのままずっと登っていくとすぐに下りになり、

やがてオリホン島と西岸にはさまれたマーロエ・モーリェの美しい景色が眼前に広が

ります。

 19時半、といってもまったく昼間の明るさですが、この時間にシーダのキャンプ場

に到着しました。キャンプ場の中には幾組かのロシア人がテントを張ってキャンプを

していますし、我々と同じロッジに泊まっている組もあります。

 ロッジの部屋はにはごく小さくて低い花台のような丸机とベッドが一つ。天井から

は裸電球がぶら下がっていますが、自家発電ですからこれは夜10〜12時の間ぐらい発

電小屋でモーター音がする間しかつかない。ベッドと裸電球だけではどうも監獄です

が、そう言われてみれば、ベッドは金属製のスプリングの上にマットを敷いたもので、

ペトロパブロフスクで見たドストエフスキーらが収監されていた監獄のに感じが似て

います。もっとも監獄ではないことを示そうとしたのか、このスプリングがやけに柔

らかく、腰痛の私にはかえって苦痛でした。でも、室内の塗装は新しい感じで、壁の

釘穴にはドライフラワーが差してあったりして居心地のよい部屋になっていました。

 部屋の中の設備はそれだけですから、あとは全部外で用を足すことになります。食

堂はロッジの北、トイレはさらにその北西、風呂(バーニャとよばれるロシア式サウ

ナです)は逆に南東側の岸辺、洗面所はロッジの東側です。はじめ添乗員の山上さん

がこの洗面所の場所を教えなかったものだから、夕食のために手を洗うのにみんな湖

の岸まで行って、「朝、歯を磨くのもここ?」なんて言っていたものです。

 

 20時、夕食。胡瓜とトマトのサラダ、牛肉を煮たのに炊いた蕎麦粒が添えられたの、

黒パン、バター、紅茶。

 

 食事のあとで東側の岬に登ってみました。たいした高さがなく、すぐにピークに出

るのですが、登りきると、目の前にマーロエ・モーリェと対岸、それに正面より少し

左手にはオリホンの島影が目に入ります。風がまったくなく湖面はべた凪でした。

 

 22時半には床に入りました。

 

 

 

 

(5) オリホン島

 

8月13日(土)

 値段の高そうな生地ではないのですがちゃんと明るい側から暗い側は見えないよう

に織ってあるカーテンを通してくる外の明るさに起こされて目を覚ますと07時半。早

い人達はもうとっくに起きて、あたりを散歩しているようです。トーリャはバケツと

雑巾をもってきて我々の乗ってきた黄色いマイクロバスを丁寧に洗いあげています。

昨日の道の中にはかなりの泥道もあったのですが、新車みたいにきれいになっていま

す。しかしロシアにも車を洗うという習慣があるのは初めて知りました。これまでは

廃車にするまで一度も洗わないのではと思っていたほどです。(^_^)

 08時半に別棟の食堂で朝食。黒パン、チーズ、それにあつあつのカーシャが出て、

食堂を仕切っているおばさんが「おかわり?」と言ってくださったのでもちろんお願

いしました。最後はコーヒー。

 

 09時半にマイクロバスに乗り込んでキャンプを出て、一旦キャンプから南に向かい

湾の南岸を大きく迂回してキャンプの東の方角にある船着き場に向かいました。所要

時間は小1時間。途中、寒村が1,2あったでしょうか。あとは昨日と同じ広大な放

牧地です。

 オリホン島に向かうフェリーの船着き場は島の南端の対岸にあり、桟橋が一つだけ

の質素なものです。東西両側には樹木のない小高い丘があり、フェリーを待つ間にい

ちばん上まで上がった人もいました。時刻表らしきものもないので、フェリーに運航

スケジュールがあるのかなりゆきのなのかわかりませんが、それでも島に渡ろうとす

る車が何台も集まって待っています。

 

 10時半にフェリー「ドロージニク」号でオリホン島へ渡ります。右舷には海峡の外

の広大なバイカルが広がっていました。半時間足らずで島の船着き場へ。ここも同じ

ように桟橋以外に何もないところですが、“国立公園”の看板が立っているのがご愛

嬌です。

 

 フェリーを降りるとバスはそのまま島を縦断するように北上。昨日と同じような緩

やかな起伏のステップが広がり、はじめのうちは樹木は殆どみかけません。あとで博

物館を見学したときに「島には豊かな森もある」というのでどこにあるのか聞いたら

北東岸のほうだそうです。つまり、島の西南はステップで北東側が森林になっている

らしい。そのステップの凹部には、日本でならじゅうぶん湖とよべるほどの広さの池

ができていたりします。

 

 12時、フジールの村の小学校の敷地にある理科室をかねた博物館を見学。この学校

のある通りの名がふるっていて「19回党大会通り」。虎は死んでも革を残すように、

党は消えても名は残るですか。子ども達が共同で飼っているのでしょうか、学校の敷

地の中には数頭の牛がやはり放し飼いになっていて、よって当然シーダのキャンプ場

やさきほどの船着き場と同じく、この校内を歩くときにも牛糞に突っ込まないように

足元に注意する必要があります。

 3室ほどの小さな博物館にはブリヤート人の生活についての展示とバイカルの動植

物、とりわけその固有種についての展示がありました。オームリなどの魚、シュピー

ラというんでしたっけサニタリーの役目をする独特の海老、やはりバイカルの水の浄

化に大きく寄与している固有種の海綿、それにバイカルアザラシなどもありました。

ここでも、前日のウスチ・オルヂンスキーの博物館やラマ教の寺院での話と同じよう

に、このあたりは我々ブリヤート人の土地というニュアンスで語られます。でも、案

内してくださった年輩の女性はどう見てもロシア人ですので、山上さんを通して「ブ

リヤート人なのですか」と聞いてもらったのですが、「いえ、ロシア人ですよ」とい

う返事です。

 博物館というか理科室の出口のところには「私たちのところへ見えたお客さん」と

いう掲示があって、そこに世界地図が貼ってあり、世界各国とここを結ぶ白い線が描

かれています。東京からも線がのびていましたから、我々が最初の訪問者ではないよ

うです。シーダキャンプは私たちが最初だったそうですが。あわせて外国やよその都

市のペナントなどもかざってあるので、旅行会社からもらったスーツケースに貼るシ

ールを貼ってもいいですかと聞いてもらったら「いいですよ、そこに。」ということ

で出口の鴨居に貼らせてもらいました。まるで千社札ですね。

 

 13時半、フジールよりやや南へ戻った西岸の原っぱで昼食。ワロージャ達がシャシ

リクを焼いてくれることになっていて、彼はさらに魚も焼こうということで我々が博

物館にいる間にけっこうたくさんの量の魚も買い込んで来ました。ワロージャとオレ

ク、それにトーリャの3人で石を集めて竈をつくり、そこに火を起こします。小さな

焚き付けから次第に大きい火にしていくあたりの巧みさ、もう私などは忘れてしまっ

ている技術です。

 何か手伝いましょうかと誰かが聞いたのですが、「いいです。待っててください」

と。そうでしょう、下手に手伝えばかえって邪魔でしょうから。待つ間、それぞれ思

い思いに湖岸で石拾いをしたり、写真をとったり、緩やかな斜面を散歩したり、ある

いは食事の準備をながめていたりしました。

 そのうちどこからか放牧されている牛の一団が岸辺のほうへやってくるのです。肉

のにおいでもかぎつけて来たのか(まさか、牛が牛肉を食べにくることはありません

ね)とはじめは思ったのですが、そうではなくて湖に水を飲みにきたのです。岸に1

列にならんで水を飲む様は初めて見ました。やがて、じゅうぶん水分を補給するとゆ

ったりと元きたほうへ帰っていきます。このあと、我々がここをひき払う頃にも同じ

グループなのか別のグループなのかもう一度牛の“団体”が水を飲みにやってきまし

たが、思うに「これから岸に水を飲みにいこうよ」という意志をどうやってお互いに

伝え合うのでしょうね。なかには「いま喉は乾いてないよ。もうすこしあとにしよう

よ。」と思っている牛もいるでしょうし、そいつはどうするのかなどといらぬ心配ま

でしてしまいます。

 お天気がそれほど悪いとも思えなかったのですが、生憎なことに途中から雨が降り

出し、シャシリク(牛肉ではシャシリクとは言わない?)がなんとか辛うじて焼き上

がるというところでストップ。魚は持ち帰ることになりました。でも、ワロージャ達

の心尽くしのシャシリク、その気持ちの分だけよけい美味しく、十数本あったのが肉

一切れの残りも出ずに食べ尽くされました。あとは、黒パン、チーズ、ゆで卵、まる

のままの胡瓜、トマト、サラミ。飲物がなんとコカコーラ。いまやロシアでもクワス

のほうがコーラよりずっと飲む機会に出会えません。

 

 島の南端の船着き場に着いたのが16時ぐらいだったでしょうか。フェリーはほどな

くして対岸から戻ってきたのですが、成りゆきのくせして「18時に出る」などと生意

気なことを言います。みんなもどうせなりゆきとタカをくくっていますから、そこで

もそれぞれ思い思いに過ごす。他にもフェリーを待つロシア人もいるのですが、目の

前に船があるのに誰も「乗せろ」とか「船を出せ」などと言わずにゆったりと時間だ

けが流れていく。水着になって泳いでいるロシア人もいるし、アルコールがまわって

できあがってしまい楽しげにしている一団もあるといった具合です。私はといえば例

によって何家族かのグループを相手に鶴を折ったりしていたのですが、そのうちさっ

きのちょっと酔ったロシア人にウオトカを飲めとからまれてしまいました。ふと気が

つくとそのあたりにいた我々のグループの人はちゃっかりマイクロバスの中なんかに

“避難”している。ダメだと言って断ったのですが、また寄ってきてどうしてもと言

ってキャップ1杯だけよこすものだから口にしたらこれが凄い味。思わず吐き出した

らバイカルの水をすくって飲ませてくれました。(^_^)

 

 船はもちろん定刻18時にではなく、それよりもう少し時計が進んでから出ましたが、

19時15分にはシーダのキャンプ場に帰ることができました。もちろんまだまだ昼間の

明るさです。

 

 

 

 

(6) バーニャ

 

 19時50分から夕食。野菜のサラダ、ボルシチ(とっても美味しかったのですが「お

かわりは?」と言ってくださらなかったので1杯だけ)、ミートボールにスパゲティ

のようなヌードルが添えられたもの、紅茶、お茶うけにカンパンのように軽い味のビ

スケットが出てこれもお茶によく合うものだから何度でも手がでます。これはこのあ

と殆ど毎回出ました。

 

 前日はお風呂をわかさなかったのですが、この日は「沸かしておくからね」という

ことになっていて、食事のあと風呂小屋に。ロシア式のバーニャは初めてですからワ

クワクしながらです。

 湖の岸に建てられた粗末な小屋の扉を開けると2畳ほどの「更衣室」があり、そこ

では温まったからだを冷ますのに使うのでしょうか作り付けの長椅子もあります。次

の部屋は風呂場で、そうですね広さは6畳よりは狭い感じ。風呂場と「更衣室」の間

の扉を少しでも長く開けておくとおこられます。だって風呂場の温度が急激に下がっ

てしまいますから。その室内に釜があり、大きな薪をくべるようになっていて、その

上で湯が沸いており、湯の容器の隣にはご存知の通りやや大きめの石がいくつか置か

れてこれも熱くなっています。

 この風呂場のさらにさきに「次の間」があって、ここには大きな雛壇があり、そこ

に寝ていることもできるのですが、私達が入ったのは沸かし始めてまもなくでしたか

ら、そちらはまだあったまっていなくて使いませんでした。

 入浴の「作法」はワロージャが「指導」してくれました。室内の温度がじゅうぶん

高くなったら、まず釜の上の湯を柄杓で盥にとり、室内に用意されている冷水(これ

のはいったバケツがいくつか置いてあります)で適当な温度に下げ、このぬるいお湯

を使って石鹸を体に塗ります。ついで、もう一度盥に熱湯をとり、今度は水を加えず

に、そこに白樺の枝を束ねたものを浸します。もうこの段階で白樺の香ばしいかおり

がするのがわかります。葉先についているのは熱湯ですから、最初はまずそれがから

だに軽く触れるようにしながらさらさらとその水滴(熱湯の玉?)をからだにかけて

いくようにする。白樺の葉にたいして熱容量があるわけでないからすぐに温度が下が

るのでやけどしない程度になったらそれでピシッピシッとからだをたたのくのです。

これは自分でやってもいいし、お互いどうしでもいい。このときも白樺の香りが漂い

ます。釜の焼け石にときどき湯をかて室内の蒸気を絶やさないようにしますが、湯を

かけたときに石の上に水分が残るようならちょっと見合わせる。この石に水をかける

のには私が知らなかったバリエーションがあって、この水にビールを混ぜたりしてお

くと....(あとはご想像ください)

 じゅうぶんからだが温まったら隣の「更衣室」ですこし冷ましてもいいけど、外へ

でてバイカルに飛び込むというのがやっぱりいいようです。私は泳げないので「更衣

室」どまりでしたが、山木さん、村山さん、長山さん、それに海水パンツを持ってき

てない筈の山西さんまで腰にタオルを巻いて風呂場とバイカルの間を幾度も往復して

おりました。

 こんなですから「ちょっとひと風呂」のつもりが1時間だか1時間半だかになりま

す。もしかすると2時間近かったかもしれない。添乗の山上さんが次のスケジュール

の打ち合わせのためにワロージャを待っているのですが「仕事そっちのけでお風呂に

入ってる」なんておこってる。「みんなにお風呂の入り方を教えてくれているんです

よ」と弁護するのですが、「いや、ビールを持って行った。」「違う、あれは水に混

ぜて石にかけるんです。」「飲んでるのを見たわよ。」... どうもおさまらない様子

です。

 

 次のスケジュールというのは、この日の晩、キャンプファイヤーをすることになっ

ていたのです。キャンプ場で働いている人達、同宿のロシア人も一緒です。22時半、

ロッジの南側、つまり入り江に面したほうで始まりました。薪の組み方が面白い。日

本では井桁に組むことが多いと思いますが、ここでは薪を縦に立てて円錐形にします。

ある程度燃えると井桁は崩れますが、こっちはドッと倒れてくる。

 このキャンプファイヤーにはクラスノヤルスクから来た合唱団だか音楽隊だかが加

わるという話でしたが、始まる前に既にできあがってしまったのか私の目には単なる

酔っぱらい集団に見えました。でもそんなことはどうでもいい。各自のコップにシャ

ンパンが振る舞われ、ロシア民謡やら、山野さんのハーモニカで日本の歌やら、その

うち踊り出す人がでるやら、....いつまでもいつまでも歓声がつきない間に湖畔の夜

はどんどんふけてゆきます。

 


 

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