アムール川のさざ波 (2002)


( 1) ハバロフスク

8月3日(土)



 前日の29℃という暑さが信じられないほど涼しい風の吹く全天どんよりと曇った朝

でした。コムソモール広場から南に下ったところにある河港に我々が着いたのはもう

10時前だったのだと思います。船のロビーで添乗員が乗船手続きをしている間に定刻

10時になり、船は河港の浮き桟橋を離れました。間抜けなことに、船が動き始めてし

ばらくしてから、港側からか船側からか知りませんが、例の壮行歌が大音量かつかな

り悪い音質で流されました。



 乗船した「ズヴェズダ・アムーラ」はこれまでの船よりひとまわり小さい4層の河

船です。出港直後が天候の最も悪い時だったようで、雨風は強くなり、半袖で甲板に

出ていると寒ささえ感じるほどでした。



 川岸から離れた水面には材木を満載した艀のような鉄舟が何艘も何艘も錨を降ろし

ています。その脇を通り過ぎるとほどなくアムール川にかかる鉄橋をくぐるのですが、

おりからの雨風のために遠くからはこの鉄橋がかすんで見えます。ハバロフスクでア

ムールを渡るこの鉄橋は2層式になっていて、上層が自動車道路、下層が鉄道になっ

ているのです。



 11時過ぎから最上階のホールで船長の挨拶、スタッフの紹介、パンと塩による歓迎

の儀式があり、その後同行している歌舞団が何曲か民謡を演奏してくれました。雨は

だいぶ小降りになっていました。



 デッキに出てみると家屋などの人工物が何も目に入らない風景が続きます。このあ

たりのアムールは中州が非常に多く、複雑な流路になっています。航路の両側は平坦

な低地で、船長の説明だと今は標準の水位より2mほど低いということでしたが、あ

と2m水面が高くなったらみんな水没してしまいそうなほどです。その低い岸辺には

丈の高い草が隙間なく生えているか針葉樹とは思われない樹種の木々が伸びています。

水の色は土色に濁っていて、いわゆる「水色」とはほど遠い。天候が悪いせいだけで

はなさそうです。



 1時から2階のレストランで昼食。グレープジュース,蟹脚のレモン添え,サラミ

ソーセージとベーコンのザクースカ,肉団子とジャガイモの入った透明なスープ,衣

を付けて揚げた牛肉にライス・コーン添え,ロシア産とは思えないほど大きな赤い林

檎,コーヒーでした。



 食後も甲板に出ていると「アムールはきれい?」と日本語で声をかけてきた青年が

いました。グリーシャという名前だそうです。船に乗っている歌舞団のメンバーなの

でしょうか、バラライカとピアノを弾くと言っています。夜8時からホールでロック

ンロールをやるから聞きに来るようにと言うので、「バラライカでロックンロールを?

(まさか(^_^;))」って聞いたら、いやピアノを弾くんだって言っていました。



 一時は南側の雲が切れて青空に積乱雲という夏空も見えたのにふたたび低い雲が垂

れ込めて雷鳴も聞こえるようになり、また雨が降り出しました。変わり易いお天気に

つきまとわれています。そう言えばさきほどのバラライカ弾きの青年も今は陽の光が

少ないからきれいじゃないけど遅からず陽が出てきれいな景色が見られると言ってい

ましたっけ。



 ハバロフスクを出港後2時か3時頃に右岸に続けて3つほどの集落を見ました。う

ち一つは鉄筋コンクリートのアパートが2棟か3棟あるほどでしたから村ではなく町

なのかもしれませんが。そのあと人の生活の場らしいものを見たのは午後7時45分頃

やはり右岸にトロイツコエ村を見た時です。船が川の左岸よりの航路をとって右舷に

は中州ばかりを見ていたのかもしれません。両側の景色はほんとうに相変わらずです。

水陸の境は砂浜状のところもありますが、崖のようになっているところも多く、その

1〜2mほどの崖は川の水によって絶えず削り取られているらしく、木々の根がむき

出しになったり、あるいはまだ緑の葉をつけたまま木が川面に倒れ込んだりしていま

す。



 ずいぶん長いこと甲板にいましたけれど水鳥を見ませんでした。岸の草の中に隠れ

ているのでしょうか。このあたりのアムールで驚くのは川幅の広いことです。ズヴェ

ズダ・アムーラが航行している水路だけでも幅2kmはゆうにありそうで、所によって

はさらに広い。船長の話では、ロシア人はヴォルガを「母なるヴォルガ」と呼ぶのに

対して、アムールを「父なる…」と呼ぶのだそうです。この川幅ゆえにオビやエニセ

イを押し退けてそう呼ばれるのでしょうか。



 6時から夕食。オレンジジュース,細切りの胡瓜・ハム・卵・ピクルスのサラダ,

詰め物を鶏肉で巻いた揚げ物にフライドポテト添え,コーヒー,バナナとプラムとい

うメニューでした。



 7時からロシア語教室というので行ってみたのですが、ロシア語の話はなく、歌舞

団メンバーの女性による歌唱指導でした。「スターリィ・クリョーン(古い楓の木)」

という私の知らないロシア民謡です。



 8時から上階のホールで歌舞団のアトラクション。圧巻は若い2組の男女の踊る社

交ダンス風のダンスで、そのきびきびした激しい動きに思わず見とれてしまいました。

2組のうちより若いほうの組は極東ロシアだか全ロシアだかのチャンピオンとかで、

出番を待つ間コスチュームの上に羽織っているウィンドブレーカの襟はロシア国旗の

3色模様です。さきほどのグリーシャもキーボードの前に座っているのですが、さっ

きのトレーナー姿ではなく、ワイシャツにきちんとネクタイをしめた姿で、はじめ私

はそれと気づかなかったほどです。バラライカを弾く場面は無かったけれど、ボーカ

ルをやったりもしていましたからなかなか多芸です。



 日没は9時半過ぎだったようで、10時には空が急に暗くなり、船室の窓からは何も

見えなくなりました。

 

 

 

 

( 2) コムソモリスク

8月4日(日)



 目が覚めたのが6時20分。船のエンジン音は停止していました。港には着いていな

かったので、途中で時間調整をしていたのかもしれません。天候は曇。昨日よりかな

り寒く、甲板に出るには上に長袖を1枚羽織らなければならないくらいでした。



 7時から2階船首部の展示室でアムール流域の少数民族に関するレクチャー。流域

で生活する少数民族としては、2001年の統計で、ナナイ人が8000人余、エベンキが36

00人強、ニブヒが1560人ほど、..というようなことから宗教や生業に至るまでです。

旧ソ連の伝統をひくまるで社会科見学のようなまじめなツアーですね。



 ちょうどこの頃、船はソビエツカヤ・ガバニに向かう鉄道の鉄橋をくぐりました。

アムールにかかる橋はハバロフスクとここコムソモリスク・ナ・アムーレの2つだけ

だそうで、どちらも鉄道・道路兼用橋ですが、こちらは両者が上下2層ではなく左右

平行に走っている点が異なります。



 8時に朝食。アップルジュース,チーズを原料にして焼いた丸いスィルキ(苺ジャ

ム付き),缶詰の桃を一切れ浮かべた白いカーシャ,コーヒー。



 9時に下船して、バスでコムソモリク・ナ・アムーレの市内観光です。バスは普段

はハバロフスクとコムソモリスクを結ぶ301系統に使われているものらしいのですが、

乗ってびっくりしました。座席の配列が通路をはさんで2席-1席の深々としたリクラ

イニング・シートなのです。どうも韓国製のようですが、とにかくロシアでこんな

“豪華”バスに乗るのは初めてです。



 市内観光と言っても格別名所のある町ではありませんから、はじめ抑留中に亡くな

った日本人捕虜の鎮魂碑、次に「ヴェスホト」ホテル前に新しくできた正教の教会を

見に行きました。教会の真新しい建物とその入り口で参拝者に物乞いする人達の群れ

とがひどい対照をなしていたのが印象に残っています。ちょうど日曜日なので教会の

中は信者で立錐の余地もないほど。そこに聖歌隊の美しい合唱が流れていました。そ

のあとは新市街地のレーニン地区のガガーリン広場。なぜこの地にガガーリンの銅像

があるのかって聞いたらガガーリンが来たことがあるからですって。なんだか誰々の

「お手植えの松」だか「行幸の地」みたいですね。銅像の背後はガガーリン名称飛行

機製造工場で、スホイ戦闘機を造っているようです。広場では自由時間があったので、

広場の端に停っていたタンク車のところへ行ってクワスを1杯買って飲みました。そ

の後再び中央地区へ戻って大戦戦没者の慰霊碑に立ち寄った後、11時から郷土史博物

館の見学です。古代遺跡の出土品や少数民族に関する研究成果からロシア人による極

東探検、さらにBAMの建設に関する展示のほか、この地域の鳥獣類の充実した標本

もありました。それにしても通訳のオーリャさん、神様のことを「お神さん」と訳す

のはやめてください。日本の恐妻家にとってはまったく違う意味になるのですから。

12時をある程度まわって博物館を出、そのまま船に帰るものと思っていたら、小さな

動物展示館(動物園と呼ぶには小さすぎる)に寄りました。この展示館、どういうわ

けか蛇と爬虫類のコレクションが充実していて、戦後このコムソモリスクに抑留され

ていたというTさんは「あの白い蛇がいちばん美味しかった」と語っていました。



 船に戻ったのは1時。去年3月に訪れた時は、陸上は雪に、川面は氷に覆われてい

た河港ですが、今は緑が青々としていて、ターミナルビルの白壁も気のせいかあのと

きよりずっと白く感じられたほどです。



 1時から昼食。グレープフルーツのジュース,鮭と玉葱のマリネ,生のピーマン・

胡瓜,ボルシチ,ソースのかかったステーキにライス添え,西瓜,コーヒーでした。



 食後は例によって甲板に出ます。傘をさすほどではないのですが、霧雨のような小

雨が時々降ってくるという天候です。コムソモリスクを出てからそれまでといちばん

変わったのは、岸、ことに右岸がかなり小高くなったことです。樹相も白樺などと針

葉樹の混合林のように見えました。



 4時から上階のホールで「ロシアの茶式」という奇妙な名前のプログラムがあり、

行ってみました。ロシア紅茶のお点前かなとも思ったのですが、そういう奥ゆかしい

のではなくて、歌ったり踊ったりの楽しい宴会でした。もちろん、お茶だけではなく

てイクラやハチミツやジャムを添えたブリヌィや様々な詰め物を入れたピローグ、船

のシェフが焼いたという上品な味の桃のケーキも振る舞われました。ケーキはスポン

ジの上にホイップしたクリームがたっぷりとのっているやつです。こういう時のロシ

ア人てひとを楽しませるのが上手で、歌やダンスばかりでなく、日露対抗の早飲み早

食いリレーとかゲームも用意されています。早食いなんて簡単と思われるかもしれま

せんが、ロシアのお茶によく出てくるドーナツ型の乾パン、あれを短時間で噛み砕い

て呑み込むなんて容易なことではありません。この日のゲームで面白かったのを一つ

紹介すると、集まった人の中から男女一人ずつを選んで背中合わせに立たせて、双方

に「相手を愛していますか」という質問をするというものです。もちろんどちらも

「愛してます」と答えなければなりません。そして「ラス,ドゥヴァ,トゥリ」の合

図とともに互いに振り向くのです。振り向くときに顔を右に回す人と左へ回すひとが

いますよね。で、振り向いたときに2人の顔がちょうど向き合ったら2人は3回キス

をしなければいけないのです。結婚式の「ゴーリカ」といい、ロシア人は強制キスが

好きですね(^_^;)。ことに男女2人のうち先に立った一人は背後に誰が立ったか知

らないわけですから、結構スリルもあります。



 「お茶式」のあとまた甲板に出ていたらバラライカ弾きのグリーシャがロシアで出

版された露日会話集を手にやってきました。日本に来ている彼の友達が贈ってくれた

本だとか。その当人は日本で追突事故を起こして警察に3ヶ月も留め置かれたとか。

私は車の免許を持ってないのでよく知りませんが、追突で3ヶ月もというのはほんと

うにあるのでしょうか。それとも罰金が払えなかったから?彼も日本に行きたいけど

今はお金がないからと言います。船での仕事はお呼びがかかった時だけだからとても

不安定で、軍のオーケストラの仕事がしたいと言っていました。オーケストラと言っ

ても100人規模のうち楽器を演奏するのは20人で、40人が合唱隊、残りの40人は踊り手

だそうです。この陸軍オーケストラは今年中国にも北朝鮮にも行っているし、かつて

日本にも行ったことがあるから、将来日本に行ける可能性もあると。そう言いながら

最近自宅にエアコンを買ったというので、それは高いはずじゃないかって言ったら、

暑さは赤ん坊のためによくないと子煩悩なところも見せていました。



 このグリーシャもそうだったけど、私は今日一日だけで4度か5度船のスタッフや

乗船客からアムールの景色はきれいかと同じ質問をされました。アムールの景色と言

ったって花が咲いているわけでもなく、奇岩や洞窟が点在するわけでもなく両岸に緑

色の同じ様な風景が延々と続くだけです。それをきれいだと思うからこそ人にきれい

かと聞くわけですよね。何をきれいとするかという点で何か深いところで私達と違っ

た感覚があるのかとか、ありのままの自然にすーっと入っていって一体になってしま

える何かを彼らロシア人は持っているのかもという気さえ起きてきました。



 6時からは昨日の歌唱指導の続き。今日は2番を習いましたけど、昨日やった1番

はもう歌詞を見ちゃダメという厳しさです。なのに、私ときたら後半のリフレインの

ところはどうにか歌えるようになったものの、前半の旋律がどうしても歌えないまま

です。



 7時、夕食。林檎のジュース,トマトにチーズでできた詰め物を入れたザクースカ,

2種類のハム,チョウザメのフライに裏ごしジャガイモ添え,コーヒー,桃。



 8時からは昨晩と同じ歌舞団のアトラクション。9時過ぎに抜け出して甲板へ行っ

てみたところ、岸の林は針葉樹がすっかり多くなっているように思えました。

 

 

 

 

( 3) ブラワ及びボゴロツコエ

8月5日(月)



 朝5時過ぎから幾度か目が覚めたりウトウトしたりしていたのですが、7時近くな

ってふと気づくとキャビンの窓から見える空はほとどん快晴で、陽の光がさんさんと

注いでいるではありませんか。急いで身支度をして甲板に出ると、室内で想像したの

より空気はずっと冷たいけれどお天気は上々でした。船の左舷側に太陽があるので、

船は昨日までののように北上しているのではなくて逆に南へ向かっているわけです。

聞いたところでは、船はスターリィ・アムールという西側の水路を通ってサヴィンス

コエ付近まで北上し、そこで反転してノーヴィ・アムールという水路伝いにブラワ村

に向かっているとのことでした。太陽の側、つまり左舷側でところどころ靄が発生し

ています。ずっと連続してでなく、ある所で発生して別のところでは出ないのはなぜ

などと考えているうちに陽が陰ってしまいました。今日も思ったほどお天気がいいわ

けでないのかもしれません。



 8時朝食。グレープフルーツジュース,日本のお粥のようなカーシャ,チーズ,フ

ランクフルトをもっと太くしたソーセージをゆでたのにグリーンピース添え,コーヒ

ー。



 9時に船はブラワ村の浮き桟橋に接岸して上陸しました。ウリチ人の村です。桟橋

の上の道では牛が何頭か路傍の草を食んでいます。この村では牛も羊も犬もみんな放

し飼いのようです。この桟橋から川に平行な道路を15分ほど川上側へ歩いたところに

村の郷土史博物館があります。博物館と言っても展示室は2階の1室だけで、そこに

土石器や金属器、シャマニズム関連の品々、ウリチ独特の紋様の布製品などが雑多に

集められていました。



 その後博物館の裏庭にあたる草地で、民謡と民族舞踊を見せてもらいました。全部

で4つほどのグループがかわるがわる歌や踊りを披露してくれます。1つは小学生ぐ

らいの年齢の子たち十何人かのグループ、あと高校生ほどの年齢の男性のグループと

女性のグループ、こちらはそれぞれ数人ずつです。残りは古老と呼んでも差し支えな

い年齢の女性4〜5人のグループです。



 12時半ぐらいに船にもどり、1時に船は岸を離れました。同じ1時から昼食。りん

ごのジュース,キャベツと蟹蒲鉾をマヨネーズで和えたサラダ,サラミソーセージ,

うどんのようなヌードルとジャガイモのスープ,ピーマンの肉詰め(詰め物には肉の

ほかに米がある)トマト添え,オレンジ,コーヒー。



 食後に甲板に上がったら、ギターを持ったグリーシャがいて、仕事と練習で寝不足

だし二日酔いだからコーヒーをおごれと、よく考えると矛盾したことを言います。そ

れで、ホールで20ルーブルのコーヒーを2つ頼んですすりました。ホールではダンス

の2人や歌舞団の他のメンバーが練習を続けています。「俺はまだいい」なんて言っ

てたけど、ほどなく呼ばれて連れていかれたのは言うまでもありません。このグリー

シャ、人の顔を見るとよく酒を飲もうと誘います。私は下戸ですから、いつも通り

「医者に止められている」と言って断ったのですが「どこが悪いのか」と食い下がっ

てくる。こういう深追いに出会ったのは初めてです。やむなく心臓が悪いことにしま

した。だって臓器の名前を私がロシア語で言えるのは心臓だけですから。ま、小さい

時から気が弱かった私ですから心臓が弱いと言っても嘘ではないですよね。そしたら

グリーシャがアネクドートを一つ聞かせてくれました。前日に心臓手術をした2人の

男がいる病室での話です。一人が煙草に火をつけるものだから、もう一人が「おい、

医者に止められている筈じゃないか」って言ったそうです。そしたら「うん、たしか

に止められた。けど、その後で10ドル払ったら許可になった。」と答えたとか。なぜ

グリーシャがこの話をしたかですって。「アキノリ、おまえも医者に10ドル払え」と

言いましたから、もちろん意図は明瞭です。



 予定より1時間遅れて午後4時に今回の旅では最も北側、つまり下流の位置にある

ボゴロツコエに接岸、上陸しました。やはりウリチ人の村です。村とは言っても岸に

は白い鉄筋コンクリートのアパートが何棟か見えたし、映画館も銀行の支店もありま

す。ローカルガイドによれば路線バスも走っているし、単科大学まであるといいます。

これなら村ではなくて町ですよね。もっとも映画館は御多分にもれず商店になってい

ました。今はこちらがトレンドですから。この映画館の入り口の大きな扉の上の壁面

が赤く塗りつぶされています。よく見るとそこにはレーニン、マルクス、エンゲルス

の3人の肖像があります。ペレストロイカの時期に塗りつぶしたんだそうですが、な

らその上にニコライII世かラスプーチンの肖像でも描いておけばいいのに、レーニン

が透けて見えるようにしてあるところがペレストロイカの本質だったのかもしれませ

ん。



 見るところ舗装道路は1本もありませんが、主な通りは車道と歩道とが分離してい

て、歩道には木の板が敷かれています。つまり木道になっている。そうでないと春の

雪解けの時期にひどく歩きにくいからでしょうか。これはさきほどの村でもそうでし

た。歩道のまわりには日本のススキよりははるかに背丈の低い、しかし白薄い穂をた

くさん出した野草が密生していました。おりからの小雨に濡れてこの穂がいっそう白

く輝いています。



 船に戻ったのは5時半過ぎだったでしょうか。6時からまたロシア民謡レッスン。

学生数が毎日少しずつ経るところは大学の教養部の講義に似ていて、とうとう今日は

3人になってしまいました。「スターリィ・クリョーン」の3番を習いました。先生

役をしてくださっている歌舞団の女性歌手は前日までにやった1番,2番を歌詞を書

いた紙を見ないで歌えとか相変わらずなかなか厳しい。ロシアの学校ではふだんきっ

とそうやっているに違いありません。下船予定のない明日はこの教室の時間が2時間

もあるらしいのですが、どうなるんでしょうか。



 7時から夕食。グレープフルーツジュース,烏賊とグリーンピースのマヨネーズ和

え,胡瓜,トマト,ブルーベリーか何かちょっと酸味のあるものを豚肉で巻いてそれ

を厚焼き卵に半ば埋め込んだという手の込んだものがメインディッシュで、スパゲッ

ティが添えられていました。バナナ,プラム,コーヒー。



 8時からのホールでの催しは「ロシア・ロマンスの夕べ」とかで、客席のテーブル

には蝋燭を3本ずつ載せた銀色の(銀製のではおそらくない)燭台が置かれ、民謡教

室の先生役の女性も教室で伴奏のバヤンを弾いてくれる男性も黒のコスチュームをき

ちんと決めていました。でも聞いていて、全曲がロシア・ロマンスというわけでもな

かったような気がします。だって、テネシー・ワルツではあるまいし、サクソホンの

伴奏によるロシア・ロマンスなんてあるんですか。間にはいつも通り若い男女2組の

ダンスもはさんでくれました。そのうちのより若いほうと思われる男女、下船したと

きには皆と一緒に観光したりするのでよく見かけるのですが、そういうときに見せて

いる子どもっぽいとも言えるほどの柔らかな表情とダンスの時の厳しい表情(女性は

もちろん笑顔で踊るのですが、その笑顔でさえなんとも厳しいのです)の対照に驚か

されます。



 ロマンスの夕べを終わって甲板に出てしばらくすると、全天を覆った雲が空の西の

端だけ少し切れていてそこを陽が沈んでいくところでした。東側の中州の草地を黄金

色に染めています。ふと上空を見ると、それはそれは大きな虹ができていました。






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