平成16年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 1996-7-21

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為勢自得天真流柔術

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無形文化財・武術
福岡市中央区 個人

概要

 古代・中世には徒手による練武の方法として相撲が行われました。平安時代後期から室町時代ころまでは、武士の重要な戦闘法としての組討の修練に相撲が重んじられました。室町時代後期に兵法の一部として鎧組討の術が発達し、さらに小具足・腰廻(こしのまわり)・捕手(とりて)などという護身・組討・捕縛を主とする武術が現われます。これは相撲とは異なり、帯刀あるいは抜刀した相手に対しても、主として素手または小具足(脇差などの短い得物)を持って取り抑える術であり、その根本は「柔よく剛を制す」るところの体術にあり、江戸期には和(やわら)、柔術などと称されました。
 福岡藩においても剣術、槍術、鎗術、長刀、柔術、和術、剛術、躰術、體術、砲術、弓術、射術、馬術など諸種の武術が行われましたが、柔術(和術、剛術、躰術、體術)に関しては笠原流、扱心流、良以心当流、双水執流、自剛天真流、為勢自得天真流などの流派があったことが知られています。

伝系

 流祖藤田長助麓憲貞(天保15年・1844没)は笠原流、揚心流、良以心当流の三流の免許皆伝を得たのち、自ら為勢自得天真流を創始したと伝えられています。
 藤田長助麓憲貞は江戸後期の版本『新撰武術流祖録』に「爲勢自得天真流 藤田麓憲貞 黒田家の臣なり。始め長助と号す。柔術を好みて、久保貞治に従ひて、良以心当流を習ひ、後に海賀藤蔵直方に就きて、揚心流を学び、遂に絶妙に至る。自ら工夫を加へて、爲勢自得天真流と号す。天保十己亥年、浪速に於て没す。」とかかれています。
 文化五年(1808)、フェートン号事件に際して長崎警備に出兵した福岡藩兵の中に小船頭藤田長助の名があります。居所は荒戸山々下の波奈(現福岡市中央区)であったことが知られます。天保7年(1836)比には矢倉門(現福岡市博多区)に道場を構えていました。安政6年(1859)の奥書があるという『為勢自得天真流剛術秘伝書』が残されています。
 相伝の系譜は以下の通りです。
 流祖藤田長助麓憲貞-門主原三左衛門-高井儀之助勝知勝-倉成兵右衛門良長-高井儀兵衛貴遠-山部与助実賢-庄林七兵衛一貞-庄林又七郎一純-庄林藤原道一-庄林又七郎-庄林藤橘道一-庄林彦六-
庄林又七郎一成-竹田乙麿-横田正米潔慶-三舟統一郎

       (日本古武道協会編集『日本古武道総覧』に拠る)

来の技 合計五百余技

 一 手抜キ
 一 逆手押ヘ
 一 柄物取技
 一 受身
 一 逆手締技
 一 逮捕術
 一 体捌(体交シ)
 一 締防ギ技
 一 拳法(当ノ法)
 一 逆手
 一 居取
 一 活法
 一 逆手捕投ゲ
 一 連行

指定理由

 武器を持たず、あるいは小武器を利用し、突く・当てる・打つ・蹴る・投げる・固める・締る・抑える等々の技で相手を負かし、また相手の攻撃を回避する武術です。
 福岡藩時代にはこうした体術に本流派の他、笠原流、扱心流、良以心当流等があしましたが、現在ではそのほとんどが失伝しています。
 流祖藤田長助麓憲貞は笠原流、揚心流、良以心当流の三流派の皆伝を得た後、自ら為勢自得天真流を興し、娘婿庄林藤原道一は流名を自剛天真流と改め継承、その道統は玄洋社附属道場で学んだ横田正米潔慶(明治27年・1894-昭和47年・1972)に引き継がれました。為勢自得天真流十六代になる宗家三舟統一郎氏(昭和24年12月17日生)は十二歳で横田正米師範に入門、当流の極意と秘術を相伝され、以来後進の指導に出精、本流派の継承・相伝にその使命を果たして居られます。