平成15年度指定

有形文化財・絵画
聖福寺古図 1巻

 福岡市博多区御供所町6番1 宗教法人 聖福寺

形態・法量・銘文等
 【形態】     紙本著色 巻子装
 【法量】(本紙) 竪約29.2cm   横142.5cm (四紙を継ぐ)
         第一紙     竪29.1cm  横42.0cm
         第二紙     竪28.9cm  横43.0cm
         第三紙     竪29.4cm  横40.7cm
         第四紙(奥書) 竪29.4cm  横16.8cm 
 【銘文】(奥書) 「聖福寺之繪図
     永禄亥年之乱劇、過半雖紛失、 ゙ワ拾餘残、以修補之、冀為後
     人標榜矣、永禄午春、中興玄熊(花押)」
 【時代】永禄六年(1563)以前


 紙本著色で一巻に成巻されています。絵図(三紙)と奥書(一紙)からなります。第二紙と第三紙の間に脱落あり。また再画した部分もあります。
 戦前に写された九州大学九州文化史研究所所蔵写本とは、配列が若干異なり、かつては現状と異なった貼り継ぎ方がされていたことがわかります。なお、『筑前國中神佛寳物紀』(延享四年・1747)に「聖福寺之繪図 三枚」とあるのは本古図に関わる記録ではないかと考えられます。また岡倉天心は明治四十五年(1912)の旅行日誌に「聖福寺古地図一巻 永禄一」と記しています。

 奥書にある永禄午は永禄十三年(元亀元年=1570)。筆者の玄熊は、聖福寺第百十世住持の耳峰玄熊で、聖福寺を二回再興したことで知られています。永禄亥年は永禄六年(1563)に当たります。前年の永禄五年十一月ごろ、宝満城督高橋鑑種が毛利氏に内通し、主君の大友宗麟に対して反乱を起こしました。博多もその影響を受け、戦乱に巻き込まれ、大きな被害を受けました。聖福寺も戦火で焼失したらしく、当時の住持景轍玄蘇は戦乱を逃れ、志賀島に避難しています。その後、立花城をめぐる大友・毛利両氏の攻防戦が熾烈を極めましたが、永禄十二年(1569)に大友氏の勝利で決着がつき、北部九州には一時の平和が訪れました。
 永禄十一年五月に聖福寺住持となった耳峰玄熊は、立花城攻防戦が終結した後、聖福寺の再興に着手したらしく、永禄十三年(元亀元)以降、様々な活動をしています。この奥書によると、「聖福寺古図」は永禄六年の戦乱で過半が紛失したけれども、玄熊が残余を拾い取って修復したことがわかります。この事情は、永禄十三年三月二十六日の日付を持つ栄西言上状極書の内容とよく似ています。
 この奥書から、「聖福寺古図」の成立年代は、永禄六年以前ということができます。ただしいつまで成立がさかのぼるのかについては、現在のところ不明です。

 古図は聖福寺を中心に、その周囲の塔頭や寺内町(関内と称した)を描いています。聖福寺に関しては景観が描かれず、見取り図のみであるため、造営中での絵図であるともいわれています。三門・仏殿・法堂・方丈と並ぶ諸堂の配置は基本的に現状と同じです。聖福寺の右手には承天寺が描かれています。両寺の背後には堀がめぐり、寺内町左側の蓮池へと続きます。蓮池の左側は途中で切れており、脱落があります。承天寺の背後にある松林は、箱崎松原へと続く松原ではないかと考えられます。
 蓮池の左側の第三紙は、博多の海岸部を描いたものです。松原の左に見える石塁は海岸部にあることから、十三世紀後半に築かれた元寇防塁であると考えられます。石塁の外側では、大工たちが大鋸や手斧で木を加工しています。その有様から、船大工ではないかと思われます。
 なお、描法は大和絵を踏襲しています。一画面多視点の描画であり、絵画としても戦国期から室町期まで溯りうると考えられます。

 中世の博多を描いた絵図として「博多古図」と称するものが多数伝存しています。しかし、それらの「博多古図」は江戸時代に描かれた復元図で、同時代のものではないとされています。本市における仏画類を除く中世の絵画としては、一部博多を描き叙述した「蒙古襲来絵詞」、遣明使策彦周良(1501-79)の賛がある承天寺境内を描いた「承天寺古図」があります。本古図はそれらと異なり堀と蓮池と土塀と複数の門に囲まれた聖福寺境内の寺内町、諸堂、立ち並ぶ町家等々、中世の博多の町を同時代に描写したものです。
 聖福寺・承天寺・寺内町・蓮池・堀の景観はもとより、海岸部の石塁、大鋸を使う職人など、中世博多の寺院や町研究、また職人史研究の貴重なかつ稀有な絵画史料であり、本市のみならず全国的にも高い価値を有します。


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