平成11年度指定

有形文化財・建造物
住吉神社能楽殿 1棟

 福岡市博多区住吉三丁目1番51号 宗教法人 住吉神社

 大正時代、警固神社(福岡市中央区)の能楽堂が老朽化し演能困難になったため、昭和10年頃、能楽関係者から新たに住吉神社境内に能楽堂(福岡能楽協会長、故相葉佳風氏が記した銅板扁額には能楽殿と表記される)を建設する計画が興りました。住吉能楽殿は安川敬一郎氏、松本健次郎氏その他民間の寄付を得て、昭和13(1938)年秋落成、その後住吉神社に寄贈されたものです。(資料
 昭和61(1986)年県立の大濠能楽堂の完成するまで西日本随一といわれ、九州はもとより全国の能楽師の演能の舞台となった能楽殿です。

 正面20.830E、側面28.442E、入母屋造、波子鉄板葺、妻入り。北側1間半、南側1間半に桟瓦葺の下屋を付けます。東側の北・南端は切妻造の屋根を付けて、北端は妻入り出入口となります。(外観
 舞台は、正統的な優れた技術によって伝統的な様式を遵守した格式と風格のある造りです。舞台屋根は桧皮葺、橋掛り屋根は柿葺、いずれも軒先のみを見せています。またいずれも天井は化粧屋根裏です。
 能舞台の三辺と橋掛り側面には様式通り白州(玉砂利)を巡らせています。
 見所(見物席)は板床で北側四段、東側三段で高低のある見所としています。天井は格天井。また地謡座の背後に貴賓席に充てたと見られる高欄付き桟敷を設けています。
 舞台背面と側面の鏡板の老松・若竹は帝国美術院展覧会委員を歴任した福岡市生まれの水上泰生(明治10〜昭和26年)が画いたものです。
 舞台床下に8個(現存7個)、橋掛り床下に3個の甕がうめられています。
 小屋裏は楽屋部分については和小屋、舞台・橋掛り・見所部分は二重のトラスの洋小屋組、挟み釣り束ボルト締めです。

 設計者は福岡市西公園三条37番地に住した一級建築士黒木利三郎(明治26〔1893〕. 12.10〜昭和62〔1987〕.3.7)氏です。大正10年3月、社寺工務所福岡支所に設計部主任として奉職、以降内務技師角南隆の指導を受けました。昭和10年6月、福岡県庁営繕課に技手として奉職、昭和21年4月、福岡建築技術学校に教頭として奉職、昭和28年4月、福岡建築技術学校解散のため辞職。筥崎八幡宮回廊、下関市赤間神宮の水天門など多数の設計監督を行なっています。(黒木利三郎作成「建築歴」)
 大工は石村誠五郎氏(大正12年3月14日生、福岡市南区若久団地)の四兄弟。長男吉次郎を棟梁とし(軸周りを墨付けする)、二男宇三郎(屋根周りを墨付けする、ビルマにて戦死)、四男徳次郎(ビルマにて戦死)、五男誠五郎が職人七八人を使って建築に当たりました。元請けは柳地工務店です。なお、祖父石村善吉は万行寺の棟梁、父菊次郎は万行寺の鐘楼堂を建てました。(1998.6.3 石村誠五郎氏より聞取り)

 近代の能楽史には、江戸幕府・諸藩の保護を受けられなくなった明治維新、関東大震災、太平洋戦争による焼失の三つの大きな危機があったと考えられます。一方、大正時代は東京音楽学校における能楽囃子科・能楽科の設置、皇居における宮中能楽場の新設、能楽協会の設立等、能楽の最盛期の時代であったといわれています。本格的な能舞台を伴った本能楽殿も、そのような時代背景をうけて昭和13年に建設されたものです。本能楽殿は当時の能楽堂の一つの手本であった宮中能楽場に似ており、それを手本にしたとする意見があります。
 戦後昭和30年代頃から現在に至るまで全国各地で能楽堂の建設が相次いでいますが、こうした戦前の木造建築の能楽殿は全国に余り類例を見ません。また、内部の見所の形態や貴賓席にも戦前の能舞台の造作を見ることができ、戦前の最後に完成した能楽殿として建築史上にも貴重な価値をもつものです。
 以上のように、住吉神社能楽殿は近代能楽史上の建築物として、また建築史上においては伝統的な様式と洋風の建築技術を一体にした劇場建築、近代和風建築として、本市のみならず全国的にも極めて貴重な建物です。



  

住吉能楽殿・旧山下家住宅・銅造日蓮上人立像・宝満尾遣跡出土品