炭鉱都市の厳しい現状と未来への挑戦

〜北海道空知地方を事例として〜



夕張市が一般企業で言えば倒産にあたる財政再建団体入りを6月に表明した。地域振興のための過度な観光施設への公共投資が直接的な原因だが、炭鉱閉山に伴う人口減少の負担が様々な援助策はあったものの一自治体にとっては余りに過大であったことが本質的な原因である。

夕張市では昭和35年の国勢調査で107,972人であった人口が平成18年6月の住民台帳基本人口では13,168人と約8分の1になっている。また北海道未来総合研究所の人口予測は平成42年に4,405人と危機的な数値を示している。夕張市は炭鉱が閉山になる毎に波状的な人口流失が重なり、炭鉱会社の負担で運営されていた病院、住宅、共同浴場等の機能は自治体の負担へと移管をよぎなくされた。また当然のことながら人口減少に対して地域では如何にそれを食い止めるかが課題となってくる。様々な対策を立てることは必然である。そのための負担も生じる。産炭地域の現状は大変厳しいものがあるが跡地利用、廃施設利用のアイデアは多彩で、ここではその点を中心に事例を市町村別に紹介し、地域づくりのヒントとなることを期待したい。


炭鉱都市の特質

企業城下町という言葉がある。ひとつの企業が中心となり地方都市の根幹を支えている状態のことで炭鉱都市はその典型例である。かつ炭鉱都市は立地自体が偏在した石炭の埋蔵に依存しているため、他の都市とは隔絶した地域に成立することが多い。そのため企業依存度の非常に高い企業城下町が誕生する。夕張市、歌志内市、上砂川町などは山間に位置するためこの色彩が最も濃く、逆に赤平市、芦別市、釧路市などはそれ以外の要素も含有した都市であり、炭鉱への依存度は相対的に低い。人口減少率は市町村毎の統計では依存度が高い都市ほど激しくなっている。また実際に炭鉱別の影響域の人口を考えると、人口減少率はその地域が市町村の中心地から離れている場合には地域振興策も施されることなく激しく人口が減少し、現在はほとんど住むことがなくなっている地域も存在する。羽幌町の羽幌炭鉱、沼田町の雨竜炭鉱、昭和炭鉱などがその事例に該当する。 終戦直後の経済政策は疲弊した日本の経済復興を図るため傾斜生産方式がとられ、鉄鋼・石炭などの基幹産業に資源と資金が集中投下され石炭の生産は急拡大した。そしてその後のエネルギー革命後の石炭生産目標は昭和38年から始まった第一次〜第八次石炭政策によってその都度決められてきた。即ち炭鉱都市の隆盛と衰退はかなりの部分が国策に翻弄されてきたといえるだろう。


観光都市を目指した夕張市

夕張の歴史は明治21年シホロカベツ川上流にて石炭の露頭が発見されたことに始まる。そして夕張市は三菱鉱業が鉱区を所有した大夕張を除き、北海道炭礦汽船(以下北炭)が中心となり発展をした。炭鉱の閉山は昭和30年代から40年代に始まったがその当時は跡地利用が模索されることもなく、市街地が暫時縮小していく傾向があった。まだこの時代は炭鉱のスクラップアンドビルド政策が進行中で、夕張には昭和45年に三菱南大夕張炭鉱が創業、昭和50年に北炭夕張新炭鉱が出炭を開始するなど新たな炭鉱の芽生えも同時に混在していたのである。しかしながら昭和56年に北炭夕張新炭鉱は犠牲者93名のガス爆発事故を起こし閉山、昭和62年に夕張最後の北炭の炭鉱、北炭真谷地炭鉱が閉山、そして平成2年に夕張最後の炭鉱、三菱南大夕張炭鉱が閉山した。

昭和54年夕張市では中田鉄治が市長として初当選。中田市政誕生と前後し、地域の地盤沈下に対抗する手段として北炭夕張炭鉱の跡地に石炭の歴史村が計画された。昭和55年に石炭博物館開館、その後順次SL館、生活歴史館など炭鉱を生かした施設と遊園地が営業を開始した。昭和62年までに完成した施設を列挙すると宿泊施設ではホテルシューパロ、旭小学校の校舎を利用したファミリースクールふれあい、夕張鉄道の廃線跡をサイクリングロードとしたサイクリングターミナル黄色いリボンが挙げられる。

これらの施設は石炭の歴史村を核として当初はかなり賑わい、平成3年度には231万人と夕張を訪れる観光客はピークを迎えた。しかしながらその後観光客は約半分まで減少している。原因としては、札幌からの日帰り観光客の他地域との競合、遊園地やスキーというレジャースタイルの衰退などが上げられる。開業当初の目論見は必ずしも間違っていたとは思えず、市及び第3セクターの運営の方向性が施設の質より規模に主眼点が置かれたことが問題であった。そしてなし崩し的に新たな施設への投資を続けた結果として夕張市は破綻した。平成7年には夕張北高等学校の校舎を利用したファミリースクールひまわり、平成8年には北炭化成工業の工場跡地にユーパロの湯、平成15年には炭鉱住宅を撤去した跡地に郷愁の丘と次々に新規の施設は開業した。平成3年に開業した松下興産運営のマウントレースイが閉鎖の危機に瀕した時も平成14年に市が買収し、一部改装を行い新たに平成15年にレースイの湯も開業させた。

物件を整理してみると宿泊施設、温泉、炭鉱関連の展示施設は複数の施設があり競合し、過剰で投資が効率的ではなかったことが一目瞭然である。また夕張は景観的には特に優れているわけではなく、観光資源が乏しい中で安易にコンセプトが中途半端な施設を増やしたことにも疑問を感じる。また雇用確保ばかりに主眼が置かれ、本来の観光の原点である訪れる人に楽しみを与えるという視点が欠けていたのも事実である。

自治体関連の事業以外の話題は夕張市においては乏しいが三菱大夕張鉄道保存会が旧南大夕張駅に放置されてきた車両を平成11年より復旧し補修を続けている。平成18年度も現地での汽車フェスタや石炭の歴史村のSL館において夕張鉄道展などの多彩なイベントを開催している。 夕張市の財政再建団体入りは地域に負のインパクトをもたらすことは避けられないだろう。しかしながら農業分野では昭和35年に夕張メロン組合が結成され、新品種の開発に成功し、夕張メロンは全国的な知名度を誇る特産物になった。また市の南部を通る国道274号線は道央と道東を結ぶ幹線道路であり道東自動車道も将来全面開通が予想される。また炭鉱の歴史も夕張なしには語ることはできないのである。


テーマパークを誘致した芦別市

芦別市には芦別五山と呼ばれる三井芦別炭鉱、三菱芦別炭鉱、明治上芦別炭鉱、油谷炭鉱、高根炭鉱という主要炭鉱が存在した。最後の炭鉱、三井芦別炭鉱は平成4年閉山した。平成2年に赤毛のアンの舞台の地の19世紀の風景を再現したテーマパーク、カナディアンワールドが露天掘り炭鉱跡地にオープンした。総合保養地整備法(リゾート法)が昭和62年に制定され、全国でテーマパークが林立した時代の産物で、投資額は多額ながらも開発構想自体が中途半端で最も必要とされるリピーターはほとんど望めず、平成6年以後冬期閉鎖となり、平成9年に破綻した。カナディアンワールドは第3セクター事業の典型的な失敗例で結果的に芦別市に多大な負担をもたらした。

北海道において大人数の集客を望む場合、札幌圏をターゲットとした日帰り観光の需要を発掘するか、道外からの団体観光客を定着させるほかなく、この様なテーマパークを成立させることは難しいことである。そのような観点から考えると旭川市の旭山動物園の成功は稀有な事例であると言えよう。

芦別の観光の起源としては昭和40年に油谷炭鉱が閉山、昭和47年油谷小学校が廃校した時に建物を利用して健民センター芦別温泉を開業したことに遡る。昭和54年に国民宿舎として増築も行われた。そしてカナディアンワールドのオープンに合わせて平成3年スターライトホテル芦別温泉が開業したのである。規模は小さいながらも観光に早い時期から注目していたことと夕張市の成功事例を目の前で見てきたことが観光への過度な期待に繋がったのかもしれない。

三井芦別炭鉱のあった一帯は今も旧炭鉱住宅街が連なり昔の雰囲気を伝える地域である。三井芦別一坑の施設群があった場所には工業団地として数社が誘致されている。しかしながらその後10年以上も新規の工業誘致は成功していない。今後も他地域、海外との競合で企業誘致は期待でないだろう。そもそも産炭地の工業立地は優遇策あってのもので、企業にとっての元来のメリットは少ない場合が多いのが現状である。

廃校舎利用では頼城中学校の校舎が平成11年から星槎国際高等学校として活用され、平成16年から頼城小学校も改修され星槎大学として活用されている。急激な人口減少は学校の適正配置を加速し、必ず空き学校施設が発生するがその活用はなかなか難しく、こうした利用が行われていることは貴重な事例であるといえよう。


炭鉱遺産を生かす赤平市

赤平市には住友赤平炭鉱、北炭赤間炭鉱などの主要炭鉱があった。最後の閉山は平成6年の住友赤平炭鉱である。この住友赤平炭鉱において特徴的なことは、町のシンボルであった赤いネオンが輝いた立坑と周囲の一部施設が今も残っているということである。住友赤平炭鉱の立坑は昭和38年に総額20億円を要して建設された施設で完成当時は東洋一の立坑といわれた。また構内の自走枠工場には採炭の機械類が集められ保存されている。そして大型連休やイベント開催時に一般公開が行われ、団体のバスツアーの訪問先として活用されている。廃業になった施設が本当に貴重なものである場合はそのままを見せることも重要な選択肢の一つである。あとは如何に収益に結びつけた事業とするかが求められる。

北炭赤間炭鉱の選炭工場は赤平駅西側にあり惜しまれつつも大部分が平成11年に解体され、現在は原炭ポケットというコンクリート構造物が残るのみとなっているが、その原炭ポケットとズリ山を利用した展望台は気軽に立ち寄ることのできる観光スポットになっている。昭和47年から開催されているあかびら火まつりではこのズリ山が光り輝く。決して多くの人が訪れる場所ではないかもしれないが、炭鉱遺産を生かし低予算で観光に結びつけることは堅実的で評価されるべきことであろう。

また赤平市街には通称山田御殿と呼ばれる炭鉱関係事業請負業者の山田氏の旧自宅がある。昭和26年築の建物は炭鉱の歴史を伝える貴重な存在だが、市への買い取り依頼は財政難を理由に断られ解体の危機に瀕していた。しかしながら民間レベルに於いて活用が決まり、平成15年にそば屋、御殿倶楽部としてオープンした。平成16年から炭坑節全国大会も開催されている。また地域情報発信や赤平オリジナルのメニューを提供する拠点として幌岡SOUKOが開設されるなど、民間の活発な活動が注目されている。

赤平市は観光の取り組みはエルム高原温泉、キャンプ場などの事例はあるものの必要最低限で、市民サービス分野で平成5・6年に赤平市民病院の改築を行うなどの投資が逆に目立つ。他の市町村と比べ投機的な投資は少なく、比較的慎重な財政運営をしているが状態は厳しく、このことは炭鉱閉山後の地方自治体がやるべきことの限界があることを教えてくれる。


様々な動きが内在する三笠市

三笠市には空知の炭鉱の歴史の源である北炭幌内炭鉱や住友奔別炭鉱などがあった。奔別炭鉱は昭和46年に閉山、北炭幌内炭鉱は平成元年閉山している。閉山直前の昭和62年に国鉄幌内線が廃止され、第3セクター事業として旧幌内駅を利用した三笠鉄道記念館がオープンした。道内有数の保存車両の数とSLの動態保存は注目されるが収支の面では厳しく、保存車両の状態も良くない。第3セクター事業としての運営の是非も問われる中、市民活動団体が三笠鉄道村再生プロジェクトとして各種検討を行っている。事業規模としては決して大きくはなく、効率的運営にも限界があり、かつ道内には小樽鉄道記念館もある中で今後どのように運営を行っていくかは難しい問題である。

昭和31年に閉山した北炭幾春別炭鉱の盆踊りが北海盆唄の発祥として平成4年に認定された。三笠市では平成5年から北海盆唄全国大会を開催し、さらに平成13年には当時の大やぐらを再現、平成14年から三笠北海盆踊り大会を開催している。炭鉱は閉山しても文化面では日本人の精神に刻まれていることがあることは覚えておくべきことであろう。しかしながら盆踊り大会はひとつのイベントであり、人口減少が続く中、如何に継続していくかは重要な課題であるといえよう。

三笠市には市民グループの三笠炭鉱の記憶再生塾が平成11年より活動をしている。幌内歩こう会として幌内炭鉱を中心とした炭鉱遺産をめぐるイベントを開催し、幌内炭鉱の起源の地である幌内本沢地区に今も残るコンクリート構造物を利用し幌内景観公園を整備している。平成15年にはルール鉱工業地帯の産業遺産を活用した地域振興を指導してきたクリストフ・ブロックハウス博士が現地を訪れ各種示唆を行っている。幌内線の廃線跡にローソクの灯りを灯す、線路の灯り展は博士の提言を受けてのイベントである。このように三笠市では多方面から多彩な活動が地域に於いて行われているのが特徴である。

炭鉱都市の現状と今後

総括すると炭鉱都市の地域振興は昭和50年代半ば以降の閉山に於いて積極的に試みられた。そのほとんどが観光を主眼に置いた官主導型の事業で一時的な成功はあったものの、現在ではそれらの事業は解体、縮小している。そんな中で新たに市民レベルの活動が芽生え、それなりの成果をあげ始めてきている。また一度造られてしまった施設を如何にして有効利用するかも今後の課題であろう。

また邪魔者扱いをされてきた炭鉱の遺構が炭鉱遺産として脚光を浴びてきたことも新たなる兆しである。平成13年には北海道遺産の第1回選定分として「空知の炭鉱関連施設と生活文化」が選ばれた。また同じ年に共同文化社から北海道新聞空知「炭鉱」取材班と写真家風間健介氏の手による「そらち炭鉱遺産散歩」が発刊された。平成15年には赤平市にて国際鉱山ヒストリー会議が開催され、空知の炭鉱についても活発な論議が交わされた。最近では北海道中央バスグループのシィービーツアーズが空知の炭鉱遺産をめぐるツアーを主催し、沿岸バスが羽幌三炭周遊観光を主催するなど団体旅行レベルの新たなる試みも行われている。炭鉱遺産のブームは一時的なものとの考える向きもあるが、産業観光は注目される新しい観光スタイルであり、如何に定着する方向に持っていくかが重要なことであろう。

そんな中、ひとつのアイデアとしてシーニックバイウェイを「空知炭鉱の歴史街道」として選定を目指すのもいいのではないだろうか。シーニックバイウェイとはアメリカで始まった道を通して地域資源の保全、整備を行い、観光振興を目指すプログラムで北海道では平成15年よりモデルコースが選定され、本格運用が始まっている。空知各地に点在する炭鉱遺産と市民活動を有機的に結びつけることが観光客の誘致に繋がるのではないだろうか。また連動してフットパスを制定することもアイデアとしては考えられる。

市民サービスに関しては財政状態から鑑み、今後も低下は避けられない情勢であるが、必要最低限のサービスを如何にして維持していくかが重要な問題だ。各市町村によって状況はかなり異なるが、小手先だけの財政再建策ではなく、旧炭鉱住宅の統合、集落の集約、学校の適正配置等は前提条件として早急に手をつけるべき課題である。

これからも炭鉱都市の人口は継続的に減少していくことが予想されるが将来の人口ターゲットを明確に定め、行政及び住民が一体となり地域を支えていくことが重要である。このことはこれからの人口減少している地方及び過疎地域の共通の課題である。



北海道旅情報巻頭  3-1.炭鉱を旅する
炭鉱都市の厳しい現状と未来への挑戦 〜北海道空知地方を事例として〜