シャーンドル・ヴェレシュという作曲家

 シャーンドル・ヴェレシュという作曲家にして民族音楽学者は、ハンガリーでバルトークにピアノをコダーイに作曲を習っています。根っからのハンガリー人だったのでしょうね。第二次世界大戦の時代も、亡命しないで、ブダペストにいたんですからね。
 しかし、そのおかげでリゲティやクルタークといった重要な作曲家達が、彼のもとから育って来たのですから、ヴェレシュ本人は大変だったでしょうが、ハンガリーの民族性に深く根付いていた音楽家としては正しい選択だったのかも知れません。
 一九四九年、これ以上とどまれないと判断した彼は二月六日、家族、両親、兄弟、親友、音楽院の生徒達を永遠に捨て去り、夜行列車で国を出たのです。彼はこれが永遠に自分にとって「トラウマ」だと語っています。
 そして、ローマで職も無く九ヶ月の不安な時の後、彼はベルン大学の客員教授として招かれたのです。そしてそこで、ホリガーらを教えたのです。
 バルトークやプロコフィエフ、ラフマニノフといった人たちの祖国を無くしたことでの悲劇を思い起こす時、彼のとった選択を正しいと思えるようになるのですが、戦時下にブダペストにいることはさぞかし…だったんでしょうね。
 しかし、戦後の方がこれらの東ヨーロッパの国々は更に大変だったのです。プラハの春の事件を思い起こすだけでも、その意味は重く、深いものです。
 彼はこれらの経歴を見てきても希代の名教師だったことがわかります。しかしまた、その作品も忘れられてはならない、素晴らしいものであります。
 一枚のCDがあります。弟子の名オーボエ奏者にして作曲家のハインツ・ホリガーが指揮とオーボエを受け持ってヴェレシュの音楽を録音したもので、縁も深かったカメラータ・ベルンの面々が実に真剣に取り組んでいます。ホリガーの指揮のテクニックの素晴らしさにも驚かされます。この人は何をやっても超一流だなぁと、感心するのみです。

 このCDに録音された音楽は、スイスを第二の故郷としながらも、トランシルヴァニアに根っこを持ち続けた音楽家の誠実な心の表明であります。
 故郷から遠く離れ、周りとの異質感からの孤立感から、自分の心の依って立つ場所を音楽の中に求めるという、バルトークの作品にも共通する血が彼の作品にも流れています。
 そして、その質感は決してバルトークやコダーイに劣るものではありません。

 ヴェレシュがスイス作曲家協会会員になったのは一九七四年です。随分遅いですね。住むのは認めても、一員と見なす事に対しては、大変閉鎖的なスイスならではのことではないでしょうか。客に対するホスピタリティを持ってはいても、コミュニティに対しての閉鎖性は、よく耳にすることです。これこそスイスらしい点ではありますが。
 このスイス作曲家協会に入ったときには、その協会会員の半分は自分の教え子だったということでも、彼のスイス音楽界に対して果たした役割の大きさが理解出来ると思います。
 
 シャーンドル・ヴェレシュは一九九二年三月四日、ベルンで八十五才の生涯を閉じました。まだ彼の遺骨は故郷ハンガリーには戻っていません。