1999年7月15日午後

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イタリアの昼休みは長い。ウッフィツィ美術館のような超メジャー級の施設は別だが、普通の観光スポットには長い昼休みがある。中央市場近くのバールで、サンドイッチとビールの昼食をとりながら時間調整をする。ビールをおかわりしながらの時間調整である。寝不足と時差ボケの体と頭に、かなりアルコールがまわる。

ロレンツォ・デ・メディチの墓 で、あまり時間調整し過ぎてはいけないと、とりあえず、昼休みのないメディチ礼拝堂を見学。ミケランジェロが制作した二つの墓が目玉である。一つは、マキャベッリが「君主論」を献じた(小)ロレンツォ・デ・メディチの墓。それと、ジュリアーノ・デ・メディチの墓。ジュリアーノは、マキャベッリが最初に「君主論」を献じようとした人でもある。他の歴代のメディチ家の人々の中で、この二人の墓だけが立派にできてる。これは死んだ時期がミケランジェロの活動期と一致しただけのことで、歴史上の人物としてはあまりパッとしなかった二人である。
それにしても、やはりミケランジェロである。これらの墓のある新聖具室の全体を、彼が設計したのだが、その力量の凄さには驚かされる。

サン・ロレンツォ教会の回廊 その後、サン・ロレンツォ教会の回廊に腰掛けて、酔いを醒ましながら教会の拝観時間を待つことにした。
午後3時半、ようやく午後の拝観時間となり、フィリッポ・リッピの「受胎告知」など、お目当ての名画を鑑賞した。リッピも私のお気に入りの画家である。それにしても、次から次へと、見事な美術品の数々を観たものである。
作家の辻邦生氏は、若い頃にフィレンツェを訪れ、その美に”圧倒された”という。このあたりから、”圧倒”という意味が、自分の実感としてわかるような気がしてきた。まだ、ウッフィツィもパラティーナも観ていないうちに、”圧倒”されてしまった。実は、私がフィレンツェに来たのは3回目なのだが、まだマキャベッリにもルネッサンス美術に関心がなかった頃のことで、前の2回は、列車の待ち時間を利用して適当に街を散策しただけだった。今さらながら、もったいないことをしたものだと後悔する。

ドゥオモ その後、ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)を見学。ここもまた、ギベルティだのウッチェロだのと、名作の宝庫である。
マキャベッリ・ツアーとしての見所は、新聖具室。1478年に起きた”パッツィ家の陰謀”の舞台となった場所である。マキャベッリの著作では、この事件に関する記述が度々出てくる。パッツィ家が(大)ロレンツォ、ジュリアーノのメディチ兄弟の暗殺を図ったとき、ロレンツォが逃げ込んだのが新聖具室。狭くて天井の低い物置をイメージしていたが、広くて天井の高い立派な部屋だった。

その晩は、安いレストランを探すのに苦労した。プーリア州の田舎値段に慣れてしまっていた私にとって、どの店も高すぎる気がしてしまう。ベネチアと比べても高いと思う。
ベッキオ橋近くのホテルから出て、街の中心から反対方向に歩き、安さを追求する。しかし、歩けば歩くほどに店そのものがなくなってくる。しばらく歩き回って、ようやく安い店をみつけた。街の南端に近いところ。そこでウサギの肉を食べた。初体験である。苦労した甲斐があったというものだが、何とも疲れた。


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