作曲作品/編曲作品/出版譜/ギター復活の歴史/CD紹介

音楽と私

 私がギターと出会ったのは「禁じられた遊び」が日本で流行っていた頃、1973年、12才のときです。年上の友人がこの曲のメロディーだけを弾き、「すごいだろう」と言うのを聞いた私は、「簡単そうじゃないか」と思い、父にねだって早速ギターを買ってもらいます。しかし、ひとしきりこのメロディーを弾くことに飽きると、歌謡曲とフォークソングの世界にのめり込んでいきました。

 伴奏だけを弾いていることにはだんだんと物足りなくなり、最終的に本格的なギターソロ、つまりクラシックギターに転向したのが17才のときです。この時にとても影響を受けたのが、"Villa=Lobos"のエチュードでした。後輩の弾くエチュード4番が、ハードロックと同じくらいかっこよく思えたのです。それからすぐ、習ってもいないのに我流で曲を作り始めます。

 山形大学理学部数学科に入って2年目に、作曲を本気で勉強したくなり、個人的に先生について学ぼうと決心しました。工藤一郎氏の下で和声学を一通り学んだ後、大学卒業と共に上京すると、今度は国立音大の図書館に通い詰め、古今の名曲を徹底的に聴き、作曲理論の本も読みあさりました。上京二年目には、東京コンセルヴァトワール尚美のギター科ディプロマに入学し、伊東福雄氏のギターのレッスンを受ける一方で、西村朗氏その他の各氏によるディプロマの作曲科の講義に顔を出します。初めて自信を持てた曲、ギター二重奏のための「バッハ風のコラールを主題とする変奏曲とフーガ」を作曲したのがこの頃です。

 この曲とその後の何曲かまでは、西洋音楽の伝統を踏襲し、それをさらに発展させるといった作曲方式をとっていましたが、その後は民族音楽の魅力にとりつかれます。吉祥寺の民族音楽センターに通いながら、多様な民族音楽に触れ、そのエッセンスを吸収してきました。これが一番反映されているのが、ヴァイオリンとピアノ、ダラブッカのための「歌と踊り第二番」です。

 民族音楽のエッセンスをほぼ吸収すると、今度は今まで学んできたことをすべて捨て去り、何もないところから新しい曲作りを試みました。それが「古祭」で、作曲し始めてから仕上がるまで二年間かかりましたが、その甲斐あってか、1992年に邦人のギター作品に対して毎年一人に贈られる「武井賞」を受賞しました。

 順調な作曲とは裏腹にギター演奏の方は、腱鞘炎のために結局断念しました。演奏と作曲の両方をやって何とか食べていこうという目標はこの時点で崩れさり、音楽の次に興味のあったコンピュータ関係の会社に就職します。おかげでそれ以来、仕事としての作曲はしなくても生活していけるようになったので、自分の書きたい曲だけを書きながら、ときには自作品だけの演奏会を開いたりしています。

 1999年にひとつの変化が訪れます。友達にバンドのベースを手伝って欲しいと言われ、ベースくらいならまだ弾けそうなのでOKしました。そしてライブをやるうちに、自分のポピュラー曲も発表したい思いが生まれ、結局Blank Misc.というバンドを結成しました。この後の経過はギター復活の歴史をご覧ください。


 私はバッハもブリテンも、ビートルズ、ディープ・パープル、井上陽水、インド音楽などなど、すべて同じくらい好きな人です。皆さん、そんな私のバラエティーに富んだ作品集をお楽しみください。


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