2000年3月 パリ・イタリア旅日記


3月19日() (1)

フィレンツェに到着;夕方5時30分





絵葉書より



ラヴェンナから、フィレンツェへのバスは、混んでいるのかと
思っていたら、私達家族を入れて、3組だった。(個人の旅行組が、
別々に集合場所に集まって来て乗り合わせたもの)

「フィレンツェ」について、
私の中では、歩いて回れる「小さくて、瀟洒な町」という
イメージがすっかり出来あがっていた、らしい。
来てみると、実際は、想像よりずうっと大きい。しかも人で溢れている。

バスは、人と車で混みあう街中を詰まりながら進んで行く。
「ええっ、フィレンツェって、こういう感じの町だったんだ。」 
それが、私の第一印象。



賑やかな人の流れに驚く。



グランド・ホテル・M



ここは、鉄道で移動のつもりで、駅に一番近かったので
選んだのだけれど、ホテルとしては、正直のところ、お粗末?
でも、ま、仕方がない。

ともあれ、荷物を解くのもそこそこに主人にせかされて、外に出る。
ところが、歩き出すや、駅前のその辺り一帯は、人・人・人。
それに止まっている観光バスから、降りるグループが、加わり、
ごった返している。フィレンツェって、この時期は、いつもこうなんだろうか?

人ごみを掻き分けて、やっと、インフォメーションに着き、
ウフィツイの開館時間について尋ねると、どうやらまだ間に合うらしい。






ウフィツィ美術館のそば、
シニョーリア広場 Piazza della Signoriaに向かう。



* * *
15世紀、メディチ家が、
ロレンツォ(イル・マニフィーコ=豪華王)の
時代にメディチ家支配にに叛旗を翻していた人物がいた。
サン・マルコ修道院長ジロラモ・サヴォナローラ。彼は宗教改革者で、
ミケランジエロやボッティチェリも彼に心酔していたと言う。

彼は「異国の文化の崇拝」は、「世俗の悪を促進する」と
説き、とうとう「世俗の悪」なるものをこの
シニョーリア広場に集めて、燃やしてしまった。(サヴォナローラの焚書)
その中には、
ボッティチェリが、自ら差し出した
多くの絵もあったのだという。ギリシャ神話などを
題材とする彼の絵は、「異国の文化」と、みなされたからだ。
しかし、そのサヴォナローラ自身も、ついには、
ここシニョーリア広場で火刑になってしまったとのこと。
* * *



ところが、その広場も、着いてみると、
よそ見もしていられない混みようである。
どうなっているんだろう?! この町は・・・・。よくわからない。
つかめない、フイレンツェの町・・・。

とにかくウフィツイ美術館に行かなくては・・・。

と、、、広場に、「花の都」らしからぬ鉄骨が
組まれているのを発見。











ヴッキオ宮とダビデのレプリカ



なんと、ここで、ロックのコンサート開かれるらしい。
歴史の都を訪れて、ロックコンサートとは。
そうでなくても、私は、まだ私なりの
「フィレンツェ」を感じられずにいるのに・・・。

人ごみをぬって、あちこちで、美術館の入り口がどこかを
尋ねるけれど、皆浮かれているのか、誰もちゃんと教えてくれない。
言うことが、皆違うのだ。
結局、美術館を一回りして、やっと入り口を見つけるが、閉まっている。
でも、本当に開いていたどうか、あやしいところだ。




右にウフィツィ美術館の入り口がある。
突き当たりが、シニョーリア広場

Galleria degli Uffiz




ロック・コンサート



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