2000年3月 パリ・イタリア旅日記 

  3月19日 (1)

ラヴェンナ;フィレンツェへの途中で
「ガラ・プラキディア」



JALバスで、出発から約二時間半位で
アドリア海に面している小さな町、Ravennaに到着する。

ちょうど自分の関心の延長上にもあり、
そこに物知りのお友達と出会ったことで、
町の名は、私の心に残り、
イタリアに行く時には、きっと寄ろうと思う町になっていた。


少ない時間の中で、今回行けたのは、
サン・ヴィターレ教会とガッラ・プラキーディアの二つだけ。
それでも、建物の中で、その天井や壁を埋め尽くす、モザイクは、
訪れた私達を魅了するのに十分だった。




サン・ヴィターレ教会

ガラ・プラキディア霊廟
に向かう道




ガラ・プラキディアの廟
Mausoleo di Galla Placidia





入り口は、小さい



外観は、とても質素な趣である。ガイドさんに案内されて、
中に入るまで、中のまばゆさは、全く予想出来ない。







ガイドさんのライトに照らされた壁は、美しい濃紺で、
その上には、一面に模様がほどこされている。
夜空の星の下にいるようで、とても神秘的である。
















そして、天井の真中の十字架
大きい写真は、ここをクリック



ラベンナの起源は、はっきりしたことは、解っていないらしい。
ギリシャ系の歴史家によると、その起源をエトルリア人に遡るとか、
あるいは、別に、紀元前に起きた民族移動の際に地中海から
遊牧民が、移住したとも言われるらしい。
又、ラベンナは、古代ローマ人の時代から軍事戦略上の重要拠点と
みなされていたため、やがて、その後栄華を極めたり、
衰退の途を辿ったりという運命を、ローマ帝国と共に
辿ることになる。

「この歴史の激動の中で、つぎつぎに変わる権力者達は、
聖堂を建て、それをモザイクで飾ることによって、自国の文化の
優位を示そうとした。」(小学館「西洋美術館」)

五世紀に入って、この小さな町は、
西ローマ帝国の首都になっている。

バスを利用して、よかったことは、歴史的な説明を
到着までに聞けることだ。

ガラ・プラキディアは、東ローマ帝国皇帝テオドシウス一世の
娘である。390年頃の生まれと、言われているが、
確かではないらしい。五歳で孤児となった彼女は、その後も
厳しい歴史の波に揉まれて、生涯を送る事になる。

異母弟で、皇帝のホノリウスの意志により、恋人との仲を
割かれそうになりつつも、思いを遂げて、結婚はしたものの
長男は、成長することなく夭折、夫は、暗殺されてしまう。

再びラヴェンナに戻ったガラ・プラキディアを待っていたのは、
かってホノリウスが勧めたコンスタンティヌスとの結婚だった。
彼女は、求婚を拒否し続けるが、結局は、
国のためという理屈を退けきれず、結婚を承諾する。
その結婚で、二人の子をもうけるが、
コンスタンチヌス将軍は、病死してしまう。

その後、ガラ・プラキディアは、
異母弟ホノリウス(!)の求婚を退け、
二人の子を伴い、甥を頼りコンスタンチノープルに逃れる。

結局、彼女は、ホノリウス帝の死後、ラヴェンナに戻り、
西ローマ帝国の女帝になる。そして、
我が子に譲位した後も、引き続き、ラヴェンナにいて、
摂政として、政治を見ることになった。


「彼女の治世の二十五年間、不思議にイタリアは、静穏だった。」
お友達推薦、藤沢道朗著「物語 イタリアの歴史」中公新書1045より

彼女は、450年、60歳でその数奇な運命を終えたのだそうだ。
彼女の遺体は、彼女の遺志により、ラヴェンナに帰り、
上記の写真にある石棺に収められた。

でも、私達の見たその石棺の中は、今は、空だという。
その遺体は、「千年間、柩の穴から見ることができた」そうだが、
16世紀、子供の蝋燭の火が、中の衣に移り、
燃えてしまったのだそうだ。



サン・ヴィターレ教会



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