2001年2月中国貴州省の旅


2月14日(火)
 
 
黄果樹(きかじゅ)瀑布へ


貴陽からおよそ150kmのところにある「黄果樹瀑布」へと向かう。
約3時間の道のりだという。帰り道にブイ族の村を
二つ訪問するとのこと。

今回の旅で、自然そのものを観光するのは、初めてだったので、
結構楽しみである。
朝9時に出発して、夕方6時頃に貴陽に着き、レストランでの
食事、というのが、今日の予定だ。


貴陽市内


黄果樹までは、「貴黄公路」という舗装された道を行くので、
とても快適である。
もう見なれた菜の花だけれど、何回見ても広い畑一杯に
広がる黄色は美しい。


大画像へ(出た画面を更にクリックするとスクリーン一杯の画像になります)
*クリックしながら進んでください。戻りは、ブラウザーの「戻る」ボタンで
カーソルを下げてご覧ください。

いくつもの町や市場がひらかれているところを
通りすぎる。

苺を山盛りにした器を持った人達が道路の両側に
1−2kmに渡って立っている所もあった。
写真も撮りたかったし、大粒で真っ赤な苺は、
多分食べごろ。ものすごく、心引かれたけれども、
そのためにバスを止めてとも、言えずにいるうちに
苺売りの人達の姿もドンドン後へと飛び去って行った。


見た事がない衣装の人達を目にすると、あわてて、
窓を開けて、カメラを構えるけれど、
何しろ、快適に疾走するバスの中からのこと、
諦めざるを得なかった。

少し、先の方に明るい青の服装をした人々が
たくさん集まってのが見える。
「何族の衣装だろう?」今度こそと、
カメラの準備をし、窓も開けて、張り切って、待つ。
と、誰かが、ガイドさんに尋ねているのが聞えた。
「あの人達、何してますねん。お祭りでっか?」
すると、ガイドさん、いとも、あっさりと答えている。「あ、お葬式ですよ。」
あ・・・・「お、お葬式」・・・私は、構えたカメラを下した。
ホントにお祭りのように明るい綺麗な、
服装だったのだけれどねぇー。


道は、カルスト地形の岩山が広がる風景の中を気持ち良いほど
まっすぐに続いている。そろそろ、黄果樹風景区なるところに
近づいているらしかった。道路の標識に「昆明」などの文字も
入って来る。そうなんだ、この道を行くと、「昆明」になるんだ。



*写真をクリックしてみて下さい


初め、中国に行こうと思ったとき、その行く先が、昆明だったので、
ことのほか、感慨深い思いがしたのだ。雲南省昆明へ
JASで行こう、というところから、スタートした今度の旅である。結局は、
「貴州省の旅」を選択した。それにしても、「雲南省」・・・何だか、
言葉の響きだけで、温かい南の風を感じてしまう。
いつか、あの方向にも行けるのかしら、そんな思いを
よぎらせつついるうちに、私達のバスは、黄果樹に着いた。


先に黄果樹の区域内にあるレストランで食事をする。
バスが、着くと同時にレストランの玄関には、ミャオ族の華やかな、
観光用の衣装を着た男の子や女の子達が、スタンバイして
演奏と歌が、始まった。






その中でもみんなの注目の的になったのは、
3歳くらいの男の子。かわいい衣装を着て、多分音の出ない、
小さな芦笙を手に持ち、一人前の気分で、仲間に入っている。





「子供の他愛ない仕草に適うものって、ないねぇ。」など皆で言いながら
ひとしきり、カメラを構えてから、「恥ずかしながら・・」と、
その歓迎のど真中を抜けて、レストランに入る。







食事を済ませて、いよいよ黄果樹の滝に向かう。
御土産屋さんが立ち並ぶ中を通って皆で、黄果樹瀑布への
道の方へと進む。滝は、ずうっと、「先の」そして、
「下の」方らしい。延々と下りの道が続いている。
降りて行くということは、
上って戻らなくてはいけないということだ。


その行程を見て、最高齢のSさんは、待つことに決めた。
Eさんも、途中までで引き返すことにしたらしい。
「手仕事仲間」の大阪のくまさんも、「わし、こんなん、かなわんワ。
止めときま。」と、断念を表明する。確かにくまさん、結構
まあるい体型なので、下りは良くても、上りが大変そうだった。
心臓には、確実に負担がかかりそうな、行程なのだ。
私だって、運動不足を続けていたから、自信は、あまりない。
でも、ここまできて、行かないわけには、、、
頑張るしかない、そんな気分でいた。


でも、ゴルフのクラブを杖にしているあのご機嫌斜めの社長さんは、
「いらっしゃる」つもりらしい。それを見て、くまさんが、言う。
「おや、社長、行くつもりかいな・・・。」
「社長」は、もうゆっくりと、クラブをつきながら、坂を下り始めていた。


その点、「おかあさん」は、もう、すごかった。
「ほな、行くでぇ。こんな坂、どないでもないわぁ。」そう言ったかと
思うと、一定のリズムを持った歩調で、タッタッと、
坂と階段を下って行った。有名観光地ゆえ
下りる人、登ってくる人がたくさん行きかう中に、あっという間に
おかあさんの姿は、消えた。
「さっすがぁー」私は、心から感心していた。



私は、結局、初め一緒だったNさんとも別れ別れになり、
四苦八苦しながら、一人、石段を下りた。
下りるだけでも、結構なものだ。これは・・・上る時が大変だァ、
もう帰り道を心配していた。

出発早々、道を間違える。少し下って滝の方に舞台のように
突き出した写真を撮るスポットの方に行って
しまったのだ。あー、もったいない。時間と体力。
がっくりしながら、下りた道を登りなおし、元の道に戻る。
もう滝の音が聞えていた。

やがて、やっと、黄果樹瀑布の全体が遠くに見えてくる。
わぁー! 思わず、シンドさを忘れた瞬間である。

*クリック

(この先、大画像多いです)


目的がはっきり見えると、俄然、気持ちは、はやってくるものらしい。
足元に気をつけながら、何回も人と、体を寄せて、
すれ違いながら・・・そのうち、帰りの苦労のことは、すっかり忘れて、
先を急いでいた。早く、滝のそばに行きたかった。



見えた。見えた。滝の全体が、、、、。
あっ、あの滝の真中辺にポツンと、白く見えるのが、人だ。
あそこに行けるんだ。ちょっと、感動する。
クリックした「部分写真」の中の小さな,白い点が人です。

*クリック



途中のポイントには、
「写真を撮りませんか」という白族の衣装の女性がいた。
ニセの銀のアクセサリー売りの女性達が、
コーナー毎にいて、ついて来たりもする。
それを振り切るようにして、進んだ。社長が、ちょっと偉そうに歩いていたので、
会釈だけをしてそのまま追い抜いた。たくさん、人が行き交う中で、
声をかけても、、、、、ネ?   これまでの苦い経験で
返事してくそうもないのは、想像がついていた。



他の皆は、どこに行ったのだろう。早いなぁ。
最初のところで、余程私がとろかったに違いない。何しろ、
道も間違えたしねぇー。
そして、やっと、滝全体を周囲の景色と共に見渡せる位置に来て、
滝の下の裏側を通っていく鍾乳洞の道、「水簾道」の入り口のところに
添乗員さんや、他の人達が、待っているのが小さく見えた。



乾季なので、多分雨季ほどではない水量なのだろうけれど、
そばに来るとさすがに水音やしぶき、音の効果も加わって、
迫力があった。旅行社からのパンフレットには、
「世界最大級の落差のある瀑布」となっていた。
ナイアガラのカナダ側の落差が、50mに対して、この滝の落差は、
74mなのだそうだ。




水簾道入り口前
*クリック



皆、旅行社の指示に従い持参してきていた
レインコートを着る。しぶきに濡れた床、ひんやりとしたイオン一杯の
空気を吸いながら、一番最後にくる社長を待った。

その入り口のところには、なぜか、中国人の男の人と、
その子供、かと思う8-9歳位の女の子がいた。
物を売りつけるわけでもない。想像するに、写真を撮って欲しい
という人のシャッターでも押して、お金をもらうのだろうかと、
言う感じだった。

そんな中で、同行のOさんが、ヒマに紛れて、
女の子に話かけていた。でも、その時、私は、偶然、
小さな誤解の場面に出くわしてしまう。

話しかけた本人に悪気は、なかったのは私にも、わかった。
でも、それは、気持ちがちゃんと伝わらなければ、
女の子には、失礼とも受け取れる(微妙な)事態で、、、
実際その女の子は、憮然としている。

あれっ、マズイ。言葉が出来れば、説明できるのに・・
私は、彼女の気分を、せめて、どうにか取りなしたいと、焦った。
そして、残っているシールのことを思い出し、袋を出してみせた。
彼女は、何だろう、という顔をする。
あ、良かった、関心を見せてくれた。
彼女の手に2、3枚のシールを張りつけ、表情が和らいだのを
確かめてから、袋ごと、全部彼女にあげた。

ホントは、こんな場合、「モノ」の問題じゃないのは、わかっていた。
でも、言葉で伝えられないんだから・・・・・し方がない・・・
何かその雰囲気、、、彼女の気持ちを切り替えてもらう
ことをしないでは、通りすぎれない気がしたのだ。
「言葉」って、大事だ。ほんの少しでも、何か、覚えて行くべき
だったよねぇ。その時、ヒシヒシと思った。

みんなで、トンネルに入って行く時、彼女が、シールの袋を押さえながら、
ちょっと笑ってくれたのが、少しの救いだった。



水簾道の中は、この時期、実際には、レインコートが必要というほどの
水気でなかったけれど、ちょっとした探検気分は、味わえた。
写真は、左から、
水簾道に入る直前、落下する滝のしぶき、
水簾道の割れ目(滝の裏)から、流れ落ちる滝を見たところ
水簾道の中、出口への様子である。
*クリック




下の写真は、水簾道を出た途端、間近に見た滝の写真。
うっかりすると、落ちそうな近さで見る事になるので結構迫力がある。
*クリック



水簾道を出ると、坂道と階段は、一度小山を上って、滝全体を眺め、
次には、下り、水辺まで下りて行く。
その川原を横切って
元の道に戻るルートになっている。



水辺に下りる前の小山から、見た、黄果樹瀑布の様子。
水の色が見事に深くて、吸い込まれそうなグリーンだった。
*クリック



小山から、階段で水辺に下りる時、「社長」と、とても近くなる。
二人きりである。
ここで、声をかけないワケには、、、と思い、一息吸って、
「あ、社長さん、大丈夫ですか。足元、きついですもんね。」
と、声をかける。
「・・・・・・・・・」「・・・・・ ?」
やっぱりね。返事がない。
ンたくもぉー、(これでは、きっと、家族の人も大変だろうなぁ。)
余計なことまで考えていた。(今頃、せいせいしてるかもね。)
ついでに、意地悪なことも。



川原に皆揃ってしばし休んだ。
それぞれ、自分なりのアングルで、大きなその滝のアップを
下から狙って撮ったりしていた。私は、、、どうして
撮らなかったのか・・・? あまりの大きさに撮り方がわからなくて
諦めたのかもしれない。一応、カッコをつけて、カメラを構えてみた
記憶はあるのだけれど。

私は、そこで、皆がまだゆっくり時間を
かけている間に、先に行く事にする。
どうせ遅れるのが目に見えているからだ。
冷たい水に手を入れてみたりしながら、川原の石を
渡って階段に向かう途中、
川原から直角に滝に向けてクラブを振っている
「社長」のそばを又、通りすぎることになった。


と、ふと、社長の独り言が耳に入った。
どんな関西弁だったかは、忘れたけれど、内容は、こうだった。
「せっかく、ワシが、あそこで、いいフリしてたのに、
誰ぁれも、見とらん。」その視線の先は、来る時に通った
上の崖の道あたりだった。。


「そんなところで、ゴルフのボールを打たなくても・・・」
ということは、さて置いても、
社長は、行きの崖の道筋で、下の滝に向かって、
「多分」快心のスウィングをしたに違いない。
そして、「多分」彼は、それを水簾道のところにたむろしていた
私達の誰かは、見てくれていたのでは、と「密かに」
思っていたのだ。でも、、、、、実は、誰ぁれも、そんな社長のことを
見ていなかった。
ちょっと、寂しい「わがまま社長」がそこにいた。



何だか、気の毒でもあり、
ちょっと、おかしくもあったりしながら、私は、坂道を登っていた。
もっとも、、、そのうち、上りに次ぐ上りの道にそれ所では、
なくなっていたのだけれど。
それにしても、この上り坂「社長」は、大丈夫なのだろうか。




これは、大分上に上って来た頃に撮ったのだと思う。
滝の上流まで、見渡せて結構お気に入りのショットである。
*クリック



ともかくも、私は、息を切らして、汗びっしょり。
ようようのことで、バスに辿りついた。
すると、
滝のどの行程でも、出会うことも見かける事もなかった
「おかあさん」が、ちゃんと、何事もなかった顔をして、そこに「いた」。


滝に下りた中では、「社長」が、最高齢。さすがに一番最後に
添乗員さんと、一緒に談笑しながら現れる。
それでも、まあ、あんなに余裕があって、たいしたもの、と思う。
普段からゴルフで鍛えているからだろうか。
それに、へぇー、「社長」は、彼とは、あんなに
笑って話をするんだ。 とも、しばらく観察したりする。
誰に贔屓もせず、我侭に嫌な顔もせずに冷静にしている彼の態度に
さすがの「社長」も信頼を寄せているのだろう。
添乗員という仕事、
(彼が敢えて無理をして努力しているとも思わないけれど)
大変な仕事だなぁと思う。



くまさんは、待ち時間中ずっと、レストラン隣の御土産屋さんで、
そこにあったミャオ族の衣装の刺繍製品を手に入れるために
交渉していたらしい。大阪弁で、大きな目を向いて、交渉していたに
違いない。
一番最後に大きな袋を持って現れた。



( くまさんは、ちなみにお洒落である。
太っていて、お腹のボタンは、全部留まらない。
でも、トータルでは、とてもきちんてしている。
=そこが、我御主人と多いに違うところである=
ブランドのジーンズの上下の、襟の赤と、
パンツの裾の赤いチェックの折り返しが、60代後半の
くまさんのお洒落のポイントとして、何とも心憎かった。)




周り中は、おみやげ物屋さんだらけだった。
でも、いかにも「おみやげ」というものばかりで
私が見たいものは、あまりない。



お店屋さんの店先のカラフルな民族衣装人形を撮らせていただく。







バスは、黄果樹をあとにして、ブイ族の村、
滑石哨(かっせきしょう)へと向かった





滑石哨は、そう大きな村ではないけれど、とても落ち着いた村だった。
カルスト地形によって周辺に豊富にある岩を利用した住居である。
確か、その家の造りを「石板房」と聞いたと思う。

ゆっくり村の中を散策して、木造り職人の人のお宅を
見学させてもらう。専門職の人の家だから、なのだろうか。
建具がしっかりしていて、美しい。その戸を開けると、
そこには、豪華ではないけれど、天蓋と蚊やを張った
ベッドが置かれていた。もちろん基本は、石造りの家で、一階の床は、土間。
でも、簡素な造りの住み易そうな家に思えた。


村の中を歩いてみると、全体としては、
とても立派とは言えないし、そう広くもない。でも、村の中の一角毎が
何だか、趣がある。どう撮ると、この雰囲気が
伝わるだろう、と体を曲げたり、カメラを傾けたりしていると、
同じく、いいショットを求めて、一人黙々と、村の隅々を
歩き回っているFさんに出会う。

静かで、口数が少ない紳士であるFさんとは、
昨日の食事で,旅の中で初めて席をご一緒し、
少し,親しく話させてもらったばかりである。
いつもは、奥様とご一緒なのだけれど、
「今回は、家内から遠慮すると言われましてねぇ。」
と、ちょっと笑いながら話されていた。

そのFさん、振りかえると、
静かに、村の角に佇んで、細い小路の上を見上げて、
カメラのアングルを測っている様子だ。私は、
彼は、どんな写真を撮るのだろうと、考えたりしていた。
旅も本当に終わりになって、一人静かに、こだわりの
写真を撮ってきていたに違いない彼の
「人となり」に気づいた感じだった。

団体旅行の中で、人に敢えて交わるわけでもなく、
避けるわけでもなく、自然に自分のスタンスを
守っていられるというのは、年上の方(多分60台半ば)に
失礼だけれど、やはり「大人」なのだろうなと、思ったものだ。


ところで、
この村での私のアングルは、、、精一杯こんなところである。
母子写真のお母さんの毅然とした背筋に
何だか、この村の人を代表するプライドと言ったものを
を感じたのだけれど・・・

*それぞれをクリック





バスのそば、村の入り口にあった見事に成長した木。


旅の途中で、バスの窓から、たくさん立派な木を見かけて、
あちこちで、撮りたいと思ったものだ。
ガジュマルという木だったのだそうだ。

これもそうなのか、と思いガイドさんに聴くと、
これは、「楓コウ樹」・・・確か、そう聞いたと思う。
「楓コウ樹」って、確か、ミャオ族の村のシンボルじゃなかったっけ?
と思うけれど、その後これについては、確かめ損ねて
しまった。

緑豊かな木、姿の美しい木は、見ていて頼もしくもあり、心が休まる。



ふと見ると、「おかあさん」も、少し、離れたところで、
別の木に狙いをつけて、カメラを構えていた。
でも、そういえば、ここでも又、村の中で、「おかあさん」に
会っていないよねぇーー。

思えば、旅の間中、いつもそうだった。
ひとつひとつの場所で、「おかあさん」がどこにいるか
知っていた事がない。おかあさんは、何時の間にか、
姿を消して、そのくせ、集合時間には、何時の間にか
余裕でちゃんといるのだった。









同じくブイ族の村、石頭寨(せきとうさい)


*クリック







舗装された道路から脇道に入り、カルスト地形の
小山の横や間を抜けて行ったところに村はあった。

でも、ここは、典型的に観光ムードに流されていた。
写真の通り、バスが、村の門を入るや、お母さんや、
おばあさんが、刺繍を手にあちらこちらから集まって来た。


下の写真は、まだ、本格的な攻勢が始まっていない時。
テンヤワンヤになってからは、もう写真どころではなかったから。






*クリック



*クリック



ガイドさんの説明と共に村の中を歩きはじめると、
彼女達は、周りを遠巻きにしながら、ぞろぞろと、ついて来て、
買い気配を探っていた。
そのうち、段々と、ガイドさんも、説明どころではなくなる。

その頃、とうとう私も
心の中で、一
(ひと)決心をし始めていた。
「こんなに選り取り見取りなんだもの、ここでよく見ない手は
ない」と思いだしたのだ。万が一には、と、予め言われていたので、
思い切って、ガイドさんに「元」の借金をして、自分一人でも、
交渉に臨んでみよう、と。

前の方で、誰かが、買う気を見せたらしい。
人だかりが出来ていた。それを機に、私も、と、
一人のおかあさんの刺繍の上着に手をかけてみた。
と、さあ、もう大変。わぁっと、人が集まり、たちまち
右から、左から、手が伸びてくる。自分の刺繍を私の手に
握らせようというのだ。
もう旅も終わり、経験もそれなり積んできたハズ。
私としては、「負けないゾ」位の気持で、臨んでいた。


そして、やっと、一枚、「彼ら」(ブイ族のもの)らしい刺繍を
施した上着を購入出来た。

金額は、時間が経ちすぎて、忘れてしまったのだけれど、
それが適当だったのかどうかは、わからない。
バスの中でしばし考えていたのを、覚えている。
貨幣価値が違う中での金額の交渉は、
なかなか複雑な気持ちにさせられるものだとつくづく思う。

日本で買おうと思うと、多分その7、8倍、あるいは、
それどころではない、金額になるのだろう。でも、
それを現地で、安いと思って買った金額は、彼らにとっては、
直接生活を左右する金額なのだ。何ともねぇー。

その点、商売の人から買うのは、まだ、気が楽である。
でも、高い。


ともかく、こうしていろいろ考えさせられつつも、
この日の日程は、終わり、バスは、
帰路についた。



おなじみになった風景
*クリック



貴陽市内で分離帯を越えてきて、
道を渡ろうとしている大胆な親子連れ。



次ぎは、この旅の終わり、貴陽出発と広州です。