2001年2月中国貴州省の旅


2月10日(金)
 
地坪風雨橋

(ちへい ふううきょう)


この日、朝は早い。
モーニングコール 6時
朝食 6時45分
出発集合 7時30分

部屋は、さすがに一日目よりは、暖かくなっていた。
でも、石造りの床の廊下は、ひんやりとしている。
朝食のため、皆食堂に集まる。テーブルに置かれる
お茶と料理の温かさにほっとする。
心優しいくまさんのお連れは、ちょいとわがままな「社長」さんである。
二人は、どうやら別の旅行での同行の志らしい。
社長さんは、食事の時くまさんの隣に座りたがる。
だから、間違って皆が、くまさんの隣に座ろうとすると、
くまさんは、言う。「すんまへん。ここ、あけとかななりまへんねん。
社長が、気ぃ悪うしますよって・・・。」
で、旅行中は、基本的にくまさんの隣の席は、開けるのが、
ルールになった。

その社長さんの隣に
くまさんが今日は、遅れてやってくる。くまさんが、腰を下ろすなり、
社長さんが言う。
「何回呼んでも、あんた起きんよって、ドア蹴ってやったんや。」
すると、くまさんが言う。
「ほうでっか、ヒドおますなぁ、あんた、蹴りよりましたんか。
どおりで、うるそおましたがな。いっぺんに目ぇ覚めましたがナ。」

社長は、すると、不機嫌そうな、そうでもないような、
様子で、こごまりながら、食べたそうでもない風に
食べ物を取り皿に取りながら反論する。
「何言うとるんや、なんべん呼んでも返事しよらんから、
死んどるんやないかぁと、心配して、起こしてやったんやないか。
あり難いと、思え。」 すると、くまさん、曰く。
「そんなん、あんさん、蹴らんでもいいやおまへんか。
蹴られたら痛いでぇ。そな乱暴な。」
まるで、自分が直接蹴られでもしたかのように、言う。

そして、こちらを見て、いたずらっぽい目で、「なぁ?」
と、同意を促す。と、おかあさんが、これ又、何ともいいタイミングで、
話に入る。「なんや、あんた、今朝、社長に蹴られたんか?
そら、痛いがなぁー。」社長は、フン、何を言い出すやら
と言った様子で、両肘をテーブルについて、気のなさそうに食事をしている。
(この軽妙で、微妙な話のすり替え加減が、何ともおもしろくて、
私は、心の中で拍手喝さいだった。)

「それがな、あんた、わて、実は、夕べ、
よう眠てまへんねや。部屋の中で、滝がジャージャーいうて、
うるそうて、うるそうて・・・。」えっ?
一体なんのこと。と、皆んな思った。

「シャワーでんがな。いっこうに止まらしまへんねん。
朝まで、ジャージャー、ジャージャーと・・・。」流れっぱなし
だったらしいのだ。そのため、くまさんは、熟睡できず、
やっと、朝方になり、ウトウトしたばかりのところだった
というわけだった。

そして、おもしろいことは、その話を聞いて、誰も、
「直してもらえばよかったのに。」と、言わなかったことだ。
皆が、ここは、そう言う事を言っても無駄だろうな、と、
思っていたのだろうと思う。私もそう思っていた。

*****

このお話を帰って来てから、改めて、思い出す出来事があった。
先日、本屋さんで、立ち読みをしていた時のことだ。
足は、つい、又、アジアの旅のコーナーに向かっていた。そして、
1冊の本を手に取った時のことだ。タイトルは、正確には、忘れた
けれど、「アジア食べ歩き」関係の本だった。
その目次の中にあったのが、確か
「トイレ問題は、傘で解決」というようなタイトルだったかと思う。
中国でのトイレ話があったので、そのページを開いて読んでみた。
そこに書いてあったのは、ホテルで、シャワーが止まらなくなったため
トイレを使おうにもびしょぬれになってしまう。その時、窮余の一策で、
思いついたのが、傘を差して用を足すことだった、
というエピソードだったのだ。
そして、その写真をよく見れば、何と、
見覚えのある便器の形、洗面台の色。
「間違いない。私達が泊まったあそこだ。」というわけだった。

本の写真では、トイレがもっと、クローズアップされていた。
奥にあるトイレと手前の洗面台の間が、シャワーのスペースだ。
その様子は、前のところにもう一枚写真が載せてある。
そして、
このサーモンピンクの洗面台・・・・とくれば、もう。

本の後を確かめると、発行は、1998年。やっぱりね。
シャワーの故障は、ネンキものだったのだ。
本の作者は、人を呼ぼうにも誰もいなかったとあった。
彼も多分熟睡出来ぬ夜を過ごした事だったろう。


*****


なお、この日、
私の旅の良き「お友達」(と言っては、本当は、
人生の先輩に対して失礼なのだけれど。
この際勝手に許して頂くとして )、
昨日「炭坑節」で、しっかり、座をまとめてくれたあのEさんが、
彼の部屋のこのトイレで、転んでしまった。
特に右腕をしたたか、打ってしまったようで、
朝食に右腕を押さえて、痛々しげに現れた。
皆に、「大丈夫ですか。」と、声をかけられて、Eさんは、
「いや、いや。」と、コトを荒立てないようにという配慮だろう、
小さい声でいう。でも、「痛むんでしょう?」と聞くと、「ウン。」と、
こっくりする。後で、Eさんは、病院でレントゲンを
撮ってもらうことになる。そして、結果は、骨折等は、なかった。
でも、小さくて、物静かで、キュートな
旅の達人の一人、Eさんは、その後、旅行中ずっと
右腕をかばいながら歩く事になった。聞かれない限り「痛い」
とも言わずに、人にぶつかられそうになる時だけ、
うろたえをみせながら・・・。



この日の予定は、地坪の風雨橋を見て、
トン族の村、肇興を見学、そこで昼食を済ませてから、
次の宿泊地、榕江に向かうというものだ。

この日から、地区担当のガイドとして、
ミャオ族出身の万さんになる。


地坪に向かう途中の風景


上の2枚は、トイレタイムで、休憩した場所。
何とも心休まる風景だ。そのまま、「これが日本の風景」と言っても
そのまま頷いてしまえるおなじみの雰囲気だった。
*それぞれの写真をクリックしてみてください。


それから、バスは、山道に入り、
左側に豊かな流れを有する渓谷を左に見つつ、進む。

この日、バスの中で私の席は、右側。
左の渓谷の写真が取りづらい、左の席の皆が、
どうにか私にいい写真を撮らせてくれようとするけれど、
でこぼこ道を行く揺れるバスの中で、
なかなかタイミングがつかめない。
下が、やっと撮れた写真。

水が見事な深いグリーンをしていた。


上り下りしながらつづれ折りの山道を進む。


*写真をクリックしてみて下さい




地平風雨橋



「森の民トン族は、生産した杉材を加工する木造建築
技術をもっている。トン族の村には村外れの川にかかる楼閣を
頂く花橋と、村の中心に立つ鼓楼がある。・・・」


続きは、肇興のところで記述予定
(「月刊しにか」2000年1月号より、詳しい典拠も後で)


それぞれの写真をクリツクしてみて下さい。


他の橋も造られた当初は、こんな風に鮮やかで
あったのだろうと、思う。

バスを降りて橋までには、少し歩かなければ、
ならなかった。
その、畑を見下ろす道の端で、ちょいとわがままな社長さんが、
いきなり、畑に向かって、なにやら、構えて、体制を整えはじめた。
何かと見れば、社長さんが、これまで、ずっと持ち歩いて
いたのは、「杖」ではなく、「ゴルフのクラブ」だったのだ。
へぇー、こういう旅にゴルフのクラブとは。社長さんは、
畑に向けて、思いきりのワンショットをなされた。
皆、何とも言い難くそばを通り過ぎた。




次の目的地、
肇興(しょうこう)へ向かう。

幾つかの村を通り過ぎる。道端で売っているのは、豚の
肉らしい。解体したものをそのまま台の乗せて売っている。


ここでは、豚の頭がそのままついている。




旅行中の平均気温は、6から7℃。
北海道出発時の気温が、−5℃だったことを考えると、
ずっと暖かいハズだった。でも、私には、『中国の方が、
寒かった』のだけれど、その話は、又の機会に書くとしよう。
ともあれ、
かの地で、時は、春に向かいつつあった。
あちこちで菜の花の黄色がまぶしかった。

あ、トン族の人かな。あわててシャッターを切る
*写真をクリックしてみて下さい。


道は、段々山道になっていく。

あんな急な山の際に人だけでなく、牛まで。
どこから、どんな風に来たのだろうと、思う。



ガイドさんが、
トン族の祖先について、幾つかある説や
トン族にある伺劇(トン劇)と、漢民族の京劇との
つながり。トン族にとって母なる川が、
都柳江(とりゅうこう)である事などを説明してくれる。
せっせと、持参の手帳にメモをとっていたのだけれど、
バスが揺れるので、後で、判読出来ないところが
かなりあった。

後部座席にいた者同志で、
おしゃべりにも花が咲いていた。
Kさんは、紳士で、穏やかな人当たりのいい男性だ。
かって北海道の大学に来たかったという。
そのため取り分け北海道に思い入れを
持たれていて、何回となく、ご夫婦で、北海道を
周られているなどという話をされた。その後一層座は、和み
話題は、あちこちと飛び、広がりして、先祖の話にまでなっていた。
私が、主人の実家の場所のことなど
はなしていると、少し前に座っていた神戸の女性、
Nさんが、急に振り返って言う。
「ええっ! そうなん?私の実家も○○なんよ。
いゃぁ、世間て、狭いネェー。 私、途中から聞いたことある
地名が出てきて、気ぃが、みんなそっちに行ってたんよぉ。」
Nさんのお話のし方は、いつも穏やかで、
言葉も、おっとりと柔らかい。「神戸弁」?てあるのだ
ろうか。大阪弁とは、全く違うイントネーションである。
そのNさんの言葉を受けて、
おかあさんが、確か、なにか一言、おかしいことを言って、
皆を笑わせた。旅は道連れでも、
他人(ひと)に立ち入り過ぎずに、楽しみを分かち合う。
「大人同志の」程よい、コミュニケーションに
私は、とてもくつろいだ気分で、バスに揺られていた。

その間、通路をはさんで隣の座席にいた
くまさんは、大きな体を狭い座席からはみださせながら
ぐっすり眠りこけていた。彼は、何しろ
例のシャワー事件で、睡眠不足だったのだから。



山道は、ますます高みへと進んで行く。
一体どこまで連れて行かれるのやらと、思うほどにバスは、
ひたすら、でこぼこ道を行った。急なカーブだらけなので、
曲がり角に来るたびにクラクションを鳴らし、にもかかわらず、
時には、そのカーブの角で出会い頭に
急ブレーキがかけられた。ふうっ!!その繰り返しだった。

と、前の席にいたおかあさんが、言う。
「ちょっと、運転手はん! そろそろ一回、バス止めてぇな。
添乗員はん、こんなええ景色、黙って通りすぎる手ぇは、ないでぇ!」

さすが、おかあさんだぁ。
私は、良い景色をカメラに収めるために、
汚れてきたバスの窓に中で顔をくっつけてみたり、
窓を開けて撮ろうとして、あごをぶっつけたりしていたのだ。


ところが、狭い山道だ。どこにでもバスは、止められない。
大きいバス同志だと、場所によっては、
すれ違いが出来ないところもある位なのだ。
バスは安全に駐車できて、綺麗な景色の場所を探して、
少し先まで行った。

そして、
バスが、止まるなり、おかあさんが感歎の声をあげる。
「ええわぁ! このえらい道をやって来た甲斐があったワ。」
そして、
それまで、熟睡していたくまさんも、起きるなり言う。
「おおっ、こらええわぁ!」


目の前には、心持ち薄曇りの空の下に
心洗われる風景が広がっていた。

*写真をクリックしてみてください。
「棚田」については、ここを参照してみて下さい。

腕もないのに、「カメラが、よかったら、もっと素晴らしい写真に
なっただろうに」と、この写真を見る度に思う。
雰囲気だけでも伝わるだろうか。

中国から東南アジアにかけて、この階段状の畑は、
広がっているらしい。梯田(ていでん)とか棚田(たなだ)と
呼ぶのだそうだ。英語のrice terraceという言い方も
よく感じが出ていると思う。なるほどと感心する。
ともあれ、その目の前に広がる棚田のある風景は、
文句なくただ美しかった。

でも、山肌を一櫛ずつ、横にくしけずるように上へ上へと、
きざまれている棚田は、見る側には、美しさそのものだが、
その棚田を歳月をかけて、作り、耕しつづけてきている
人々の生活を思う時、考えさせられるものがあった。

標高1000メートルを越える場所にさえあるその棚田は、
まさに、漢民族に追われ、追われて、
不便な地を選ばなくては、ならなかった
彼らの歴史そのものだったのかもしれないのだから。


次の目的地は、トン族の村、肇興(しょうこう)です。