実害がないといえば、たしかにその通りです。中野周辺の東西南北をまるごと180度回転して認識しているため、その範囲内での位置関係はきちんと把握できていて、道に迷うこともありませんでした。また、そこから外部への交通は電車を使うので、日常生活には支障をきたさずにすみます。
それでも、自分の方向感覚の狂いを「気にする必要はない」とは思えませんでした。ある街の風景を、「こちらが北だ」と思って眺めるのと、「こちらが南だ」と思って眺めるのとでは、まるで印象が違います。
「そんなことはあるまい、街の印象と方角は関係ないだろう」という人のために、分かりやすい例を出しましょう。
たとえば、漢字の「甲」という字を見ると、だれでも「コウ」とか「かぶと」とか読むでしょう。ところが、これをひっくり返せば「由」の字になります。「由」はどう考えても「コウ」ではなく、「ユ」とか「よし」とか読むしかありません。「甲」と「由」は互いに180度逆方向を向いた文字ですが、棒の出っ張った方向が違うだけで、それぞれの印象はまったく違います。意味さえ異なります。
方向を問題にしないならば、「甲子園」の代わりに「由子園」と書いてもいいことになりますし、「理由」の代わりに「理甲」でもいいことになります。でも、それでは何のことか分かりません。自分の娘に「甲美子」という名を付けて「ゆみこ」と読ませる親もいないでしょう。どうやら、われわれはモノがどちらの方向を向いているかによって、認識のしかたを変えるもののようです。
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