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 ことばをめぐるひとりごと  その34

私だけだろうか

 今回は〈つけたし〉表現。
 紋切り型の表現で、よく「〜と思うのは私だけ(一人)だろうか」という言い方がされます。この表現は、文の構造からみて、いかにも現代的だと思います。各種の雑誌から実例を拾ってみましょう。

ケンタッキー・フライドチキン(なんといっても締めはコレ! チキンがないと生きていけないのは私だけでしょうか!?)。(千葉/みいこ)(「Olive」1986.6.3 p.99)

男がかけるサングラスなんぞは、ときに虚勢にしか映らないが、とびきりゴージャスな美女がかけるサングラスに毅然たるものを感じるのは僕だけだろうか(「週刊朝日」1993.10.29 p.37)

大人の、それも代議士と言われる方々のくだらなさをまざまざと見せつけられている、と思うのは私ひとりだろうか。大人だの代議士だのと言ったって、子供のいじめみたいなことをして、子供に「いじめはいけないことだ」なんて、よく言えたものだと思う。 (「サンデー毎日」1994.3.5 p.48)

だけど自慢されても困るんですよね。こっちはタウリンなんて、ナンなのかさっぱりわからないんだから。
「だからナンなの」
 テレビの前でブツブツ言ってるのはボクだけだろうか(「週刊朝日」1994.6.3 p.67)

そんないびつさの背後に、旧陸軍にも、そして今の官庁や企業にも通じる“ホモセクシュアル的とすら言える男社会”を見てしまうのは、私だけだろうか(「Views」1995.10 p.111)

 このへんでやめておきましょう。とにかくよく目につく。英文学者の柴田元幸氏は、学生のレポートの中にこの表現を見つけると、それだけで不合格にしたくなるということを書いていますが(『生半可な學者』1992,白水社)、一種の流行語なのかもしれません。
 こういう表現は、いつごろから使われているのでしょう? 古いところでは、奈良時代の「万葉集」の山上憶良の歌に、

天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる (892)

とあり、似ているといえば似ている。「広い天地に私の居場所はないのか、太陽も月も私には照ってくれないのか、だれでもそうなのだろうか、私だけがそうなのだろうか」というのです。また、「古今集」(10世紀)の素性法師の歌のように、

我のみやあはれと思はんきりぎりす鳴く夕かげの大和なでしこ (244)

などと、「自分だけが風流に感じるのだろうか」というような歌は多くあります。
 有名なのは、「徒然草」(鎌倉時代末期〜南北朝時代)の次の文章でしょう。

かかることのいつぞやありしかとおぼえて、いつとは思ひ出でねど、まさしくありし心地するは、わればかりかく思ふにや(第71段)

「こういうことが前にもあったな、いつとは思い出せないが、たしかにあった、という気がするときがあるのだが、私だけがこのように思うのだろうか」というのです(余談ですが、これはいわゆるデジャ・ヴ現象、既視感のことを言っているのでしょうね)
 ただ、現代の例はこれらと趣が違います。古い例では「私だけが……と思うのだろうか」と、主体の「私」が初めに出てきているのに対し、現代の例では「……と思うのは私だけだろうか」と、最後にぶらさがるように書いているのですね。昔の例は、「だれがそう感じるのか」ということを中心に述べているのですが、現代の例では、それが〈つけたし〉のように使われている。
 「美女がかけるサングラスに毅然たるものを感じる」と〈言い切って〉しまえばいいところを、「……のは僕だけだろうか」と続ける。多くの場合、この部分には深い意味はないようです。単に〈言い切る〉(文に言い切りの陳述を与える)ことになんとなく不安を感じて、あとに何かをつけたしたくなるのでしょう。
 朝日新聞「声」欄で僕が採集したところでは、欄の始まった1945(昭和20)年以来「私だけだろうか」は多用されています。ただ、昔のは、〈つけたし〉というよりも、それを取ると文が成立しなくなるものが多いようです。

しかるに、昨今の新聞紙上、文芸欄、科学欄の意外に少いのはいかなる理由によるのであるか。このなげきは私ひとりのみではないと思ふ(「朝日新聞」1945.11.13)

のように。ひきかえ、今のものは多分にファッション化しているように思います。
 「私だけだろうか」以外にも、こうした〈つけたし〉表現はいくつかバリエーションがあります。

どうやらこんな調子では、世界はおろか婚期も逃しかねず、友人の言うところ、地域と結婚――とどのつまり市議会へでも乗り込むしかないか、(笑)などという気にもなる今日この頃である(「早稲田学報」1996.02・03 p.13)

 たしかに花盗人はよくないことです。ましてや公園内の花を盗むなんて盗人の風上にもおけないと、勝手ながら私でも許しません。
 でも、いいわけになってしまいますが、今日も朝の散歩途中に、時の花アジサイを一枝折ってきてしまった私です(「毎日新聞」1996.6.28 p.21)

 上記の「今日この頃」や「私です」も、多く見られる表現です。いずれも、投書欄から拾ったものですが、どちらも深い意味がない〈つけたし〉表現であることが共通しています。
 こうした表現は、朝鮮語にもあると、韓国の留学生に聞きました。ヨーロッパ語にはあるのでしょうか。文の構造として、主語がはじめにくるヨーロッパ語では、成立しにくい語法のように思うのですが。

(1997.10.30)

追記 金沢学院大の小原金平氏より、「英語では“Maybe it is just me.”というのが普通」とのご教示をいただきました。洋の東西を問わないわけですね。インターネットで検索すると、

How do you keep your toes warm? It's about the only part of me that gets painfully cold, maybe it's just me...

などという例が見られました。「つま先を暖かくしておくにはどうすればいいの? つま先だけ、すごく冷えるんです。私だけがそうなのかもしれませんが……」とでもなりましょうか。(1997.12.28)

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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