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98.08.19

ソナタとそなた

 今日も1960年代の「朝日新聞」から。作家の村上元三氏が「ソナタとそなた」という文章を寄稿しています。歴史に埋もれてしまうかもしれないこの文章を、今引用しておくのも意味のあることでしょう。

 「ソナタ、登場(とうじょう)の時間ですよ」
 こう書くと、音楽会の打合せのように思えるかもしれないが、これは時代物のテレビドラマの中で、武士の母がわが子に出仕の刻限を知らせるセリフで、画面では女優さんが前髪立ちの若侍と向い合って話をしている。
 ぼんやり聞き流してしまうと何でもないが、これは、こういう意味に違いない。
 「そなた、登城(とじょう)の刻限ですよ」
 登城を、トージョーと発音したのはその女優さんに心得がなかったからにもせよ、読合せはやっているのだろうから、演出が注意をしなくてはいけない。
 大たい、舞台から映画、ラジオ、テレビと引っくるめて、「其方(そなた)」をちゃんと発音出来る役者はごく少くて、音楽のソナタと同じ発音をする。そなた〔3字傍点〕は棒で発音するのが正しい。〔後略〕(「朝日新聞」夕刊 1962.10.25 p.5)

 「棒で」というのは、いわゆる平板アクセントということで、「其方」は

ナタ

と発音せよというのです(茶色の部分が高い)。
 これはかなり酷な注文ですなあ。まして今となっては、時代劇でも現代劇でも「其方」を平板で言っている人はいないでしょう。ふつうは音楽のソナタと同じく頭高の

ナタ

だと思う。村上元三氏は1910年朝鮮元山府生まれということで、江戸っ子なのかどうかよく知りませんが、たしかに平板アクセントで発音するのが古いようです。1960年代の初めに、「其方」が頭高で発音されるようになって、それを作家が聞きとがめ、記録に残したということでしょう。
 今の国語辞典の記述では「ソ」を高く言うか、「ナ」を高く言うかのどちらかが大勢。平板を認めているのは、伝統的なアクセントを記述する『明解日本語アクセント辞典』ぐらいではないでしょうか。
 ただ、僕にはこういう指摘はうれしいのですね。というのも、僕は共通語で話すときには、できるだけ伝統的な東京方言の発音とアクセントに基づきたいと思っているからです(ちなみに出身は香川県高松市、父も同じ、母は埼玉県入間郡)。
 たとえば、「バカニスル」ではなく「カニスル」、「ドナリコム」ではなく「ドリコム」、「タタキツケル」ではなく「タキツケル」など、どうせならば伝統的なアクセントを覚えたい。
 無理せず生得の香川式でしゃべればいいのに、なぜこんな「むだな努力」をするかといえば、故阪倉篤義氏の逸話をきいたことがあるからです。あるとき阪倉氏は、皆と東海道線に乗って関東から関西へ旅行をしていた。初めは関東式で話していたのが、浜松をすぎるあたりでぱっと関西方言に切り替えて、一同をびっくりさせたというんですね。この真似がしてみたいという、それだけのことです。


追記 1998.08.30放送分のNHK「徳川慶喜」では、慶喜役の本木雅弘さんが、所司代松平越中守に「ソナタが兄上の具合はどうじゃ」、また、西郷隆盛役の渡辺徹さんに「ソナタが薩摩藩を」と平板アクセントで呼び掛けていました。「『其方』を平板で言っている人はいないだろう」というのは早計でした。
 ただ、一方で本木さんは「弟のナタは京都所司代」と頭高でも発音していて、揺れています。こちらが本人のアクセントでは?(1998.09.05)

追記2 村上元三氏の「ソナタとそなた」については「言語生活」1962.11 p.69で飯島正氏が言及しています。(2001.08.26)

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