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04.07.04

ごみの多い人名用漢字案

 去る2004.06.11に、法務省が人名用漢字の範囲を578字増やそうという見直し案を公表しました。昨年、表外字の「曽」を人名に使わせよという不服申し立てがあり、最高裁が「常用平易な文字」(戸籍法)であれば人名に使用することを認めるべきだという判断を示したことを受けたもののようです。

 ところが、見直し案の中に「」だの「」だの「」だの「」だのという悪い意味、不吉な意味の文字が多く含まれていたため、新聞やテレビなどで批判的に報じらました。僕も、「なぜ『癌』『呪』などの字を人名に奨励するのか」と釈然としません。

 「癌」「呪」などはよく目にするので、「常用平易な文字」として認めざるをえないという言い分でしょう。しかし、戸籍法の条文は、当然「名前にふさわしい字」ということを前提にしています。単に「常用平易」ならば、「1」「2」「3」などの算用数字や「a」「b」「c」などのアルファベットも「常用平易な文字」です。法律や裁判所の意図を曲解してはいけません。

 とんちんかんな漢字表になった一番の理由は、使った資料が悪かったからです。

 漢字の選定基準は、文化庁の「漢字出現頻度数調査」によったといいます。しかし、この調査はあくまで出版物の漢字の頻度数を示すもので、文字生活全体から考えれば、限られた部分の実態を知る手がかりにしかなりません。名前という特殊な範囲の用字を定める際の準拠枠には使えないものです。

 この調査でたまたま上位に来ていない(したがって今回の人名用漢字の案にも含まれていない)漢字でも、名前によく使われた(使われている)字はあります。白川静氏が「朝日新聞」2004.06.26 p.15で論じたように、「」の字は「杢太郎(もくたろう)」などとよく使われましたが、表には入っていません。

 「杢」は「木工」を合わせた日本の字です。同様に、「久米」を合わせた「」という字もあります。女優の浦辺粂子(くめこ)さんなど、よく名前に使われていましたが、これも表に漏れています。今どき「粂子」は古めかしいにしても、「粂雄」などはありうるでしょう。

 ほかにもいくつか挙げてみましょう。外国曲の唱歌に日本の歌詞をつけたりした教育者の稲垣千頴(ちかい)の「(えい)」、漢学者・諸橋轍次(てつじ)の「」、小説家・三上於菟吉(おときち)の「(と)」(森鴎外の息子で解剖学者の森於菟〈おと〉の「菟」でもある)、「酒は涙か溜息か」「ここに幸あり」などの作詞家・高橋掬太郎の「(きく)」、画家・須田剋太(こくた)の「」、流行歌手・藤島桓夫(たけお)の「(かん)」などは、人名に使ってもおかしいものではありません。しかし、表では一顧だにされていません。

 さらに昔の人で言えば、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の「(きゅう)」、小野篁(おののたかむら)の「(こう)」、井伊直弼(なおすけ)の「(ひつ)」なども、表にあってかまわないところです。

 今回の見直し案には「嚢」とか「繍」とかいう字も入っています。それにくらべて、「剋」や「弼」が認知度において劣るとは思われません。「嚢中」「刺繍」は学校で習いませんが、「下剋上」「井伊直弼」は学校で習います。

 上に挙げた字のほかに、自然や風景などを表す字の中で名前に使えそうなものは数多くあります。「薔薇(しょうび・ばら)」「(すすき)」「(こだま)」「(そく・ほのか)」「溌剌(はつらつ)」、そして、「清冽(せいれつ)」の「」(NHKに元アナウンサーの上安平冽子〈きよこ〉さんがいる)「波涛(濤)(はとう)」の「」など。「瑠璃(るり)」が人名用漢字にあるのだから、「玻璃(はり)」の「」だって認めてもかまわないでしょう。

 このように見てくると、表の不備は明らかです。参考にした資料が不適切だったため、増やすべき字がさっぱり入っておらず、増やさなくてもよい「ごみ」が多く入っているのです(その漢字に価値がないという意味ではなく、人名用漢字としては使えない字と言う意味)。これでは、578字増やしたといっても、その数字は何も意味がありません。

 法制審議会は、今回の見直しの趣旨が「日常使える字」を増やすのではなく、「人名用漢字」を増やすことだというのを忘れています。なるほど、日常使う字として、「癌」「呪」などが許容されるようになれば、文章を書くときにいちいち制限枠を気にする苦労が減ってありがたいでしょう。しかし、子どもにつける名前として「癌」「呪」などが何十字増えても、それは表の中に夾雑物が増えたにすぎないのであって、いたずらに表をややこしくするだけです。

 参考資料に従って機械的に「常用平易な文字」を増やしたからといって、裁判所の意向に沿うことにはなりません。あとになって、「『剋』を名前につけてはいけないのか」「『弼』はだめか」といった不服申し立てが必ず出てくるでしょう。そして、裁判所は再び「常用平易な文字を認めていないこの表は無効だ」と宣告するでしょう。

 審議会としては、データにある文字を機械的に増やしただけで、文字の好悪について一切判断を加えていないのだから、結果には責任がないと考えるかもしれません。しかし、不作為の責任ということもありえます。悪い意味の文字を名前につけられた子どもは計り知れない不利益を受けます。名づけによる人権侵害があった場合、法務省はその責任を追及されるでしょう。

 審議会の委員たちは、自らの見識によって名前にふさわしい字・ふさわしくない字を選り分けるべきです。そのほうが、よほど責任をまっとうすることになります。

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