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01.07.05

「なやましい」の新?用法

 「なやましい」という形容詞が最近新しい意味で使われている、ということを、ときどき耳にするようになりました。
 このことを公に指摘したのは大東文化大の中道知子氏が初めてだと思います。もう5年前に研究発表会で話を伺いました(「「悩ましい」の意味・用法について」語彙・辞書研究会〔三省堂〕、1996.11.30。「朝日新聞」日曜版1997.01.26 p.35 倉持保男「日本語よ」でも触れる)
 中道氏によれば、「なやましい」は「悩殺的である」「官能を刺激する」という意味で使うのが一般的であったはずなのに(「なやましい寝乱れ姿」なんていうやつですな)、最近になって「頭を痛める」「苦慮する」というような意味で使われた例が数例目についたといいます。下記はその一例。

 阪神大震災で被災し、神戸市西区の西神南仮設住宅に住む九十六歳と八十八歳の老夫婦が五月から生活保護費の支給を打ち切られた。生活を切りつめ、葬儀費用にと見舞金や保護費からためてきた貯金約三百万円が明らかになったためで、神戸市は「悩ましい問題だが貯金を活用していかに自立するか考えて欲しい」(保健福祉局)と話している。(1996.05.31 朝日新聞)

 また、新潮文庫作品から拾われた8例の「なやましい」は、7例までが「官能的」の意味であり、「悩み多い」の意味では1例、小林秀雄「モオツアルト」(1946)に「責任と自負とに揺れ動く悩ましい心」とあるということでした。
 僕はこの説に接したとき、はたして、「頭を痛める」「苦慮する」は「なやましい」の新しい意味といえるのだろうかと思いました。というのも、「源氏物語」などでは――いきなり古い話になりますが――気分が悪かったり、思い悩んだりする心持ちを表すときに「なやましい(なやまし)」と言っているからです。たとえば次のように。

〔玉鬘(女性)は、光源氏が〕むつかしう聞こえたまふこと多かれば、いとどところせき心地して、置き所なきもの思ひつきて、いと悩ましうさへしたまふ。(胡蝶巻)
(玉鬘は、光源氏がわずらわしいことをいろいろ言ってくるので、じつに鬱陶しくなり、出口のない物思いに沈んで、お加減が悪くなりさえした。)

 「源氏」の登場人物は、すぐに気分が悪くなるのですが、この場合、苦痛の主要部分を占めているのは精神的な悩乱でしょう。
 これと比べると、上の「朝日新聞」の例などは、気分が悪くなるほど悩んではいないところに違いはありますが、古代の用法に通ずるものと言って差し支えないように思います。
 とはいえ、「源氏」などにみえる用法が、仮に一時期にしろ「官能的」の意味におされて、まったく廃れてしまったとすれば、今の「悩ましい問題だ」という使い方は新しいといえます。問題は、小林秀雄「モオツアルト」の例などは稀少例または特殊例といってよいのかどうかというところでしょう。
 1959年(昭和34年)に出た校正についての随筆の本の中には、次のようにあります。

 君のいうことはどうも首尾一貫していない。あるときは、新しい書き方を容認するようなことをいい、また「応揚」はいやだという。もっとしっかりしろ、とおしかりを受けるかも知れない。自分にも、そんな気がすることがある。変転極まりなく流動する国語――まったく私も悩ましい(加藤康司著『校正おそるべし』有紀書房 p.162)

 これは明らかに「頭を悩ませる」ですね。1950年代に、このように自然に使われているのを見ると、当時決して特殊な使い方ではなかったのだろうという感想を持ちます。「悩ましい問題」というような「なやましい」の使い方は、それほど最近に始まったわけでもなさそうです。「源氏物語」の時代から脈々と続いていたかどうかは、保証のかぎりではありませんが。

関連文章=「近現代の「なやましい」

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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