人間を優しく肯定する村上春樹
  
 村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社 2000.2.15)を読む

 最近、本を読まなくなってしまった私にしては、この小説は発売されてすぐ買った。むろん、読みやすいし読んで疲れないことが最初からわかっていたからだ。短編集だが、それぞれの短編の中に、阪神の大震災という出来事がそれとなく差し挟まれていて、その地震のイメージが暗渠のようにそれぞれの短編の底を貫いている。それぞれが地下でつながっているという感じの不思議な短編集である。こういう短編集の構成は初めてだ。
 村上春樹の感性とは、暗い穴の深淵の中にとにかく入っていこうとするか、あるいは、すでに入っていることに気づいてしまうときに、その事態もしくはそうせざるを得ない行為を、やれやれと言って引き受けるものだ。
 これは、自分の生から公的なものをいっさい排除したときに生じる感性だといってもよい。それは、公的な生き方に反発もしくは絶望し、私的な世界に閉じこもってしまった、全共闘世代の一つの典型的な生き方なのだが、実は、現代を生きる共通した感覚ともなっていると言ってもさしつかえあるまい。
 私的な世界に閉じこもる時の最大の危機は、孤独であり孤立である。特に、家族や友人という関係をうまく作れない時に、私的な世界には、救済はない。公的な世界で生き甲斐をさがすか、宗教に神を探すか、人間の考えることはだいたいそんなものだ。村上春樹はこの危機をいつも引き受けてきた。公的な世界にも行かずに、宗教にも行かずに、家族や友人関係をうまく作れない私的な世界の孤独を、物語の背景として一貫して描いてきた。
 そのスタンスはこの短編集においても変わってはいない。ただ、今回は、少しだが今までと違った印象があるのは、私的な世界からの救済を考え始めたということだろうか。
 むろん、その方法は多様に描かれている。その多様さがこの短編集のおもしろさでありテーマであるといってよいか。「アイロンのある風景」は、死ではなく死を必要とする人間の肯定、「神の子どもたちはみな踊る」は、神ではなく、神を受け入れる人間の肯定、「かえるくん、東京を救う」は、公的な正義の力ではなく、私的な世界のまま正義の力をふるうことへの肯定、そして、「蜂蜜パイ」は、人生そのものの肯定、つまり、村上春樹は、この小説で、私的な世界でしか生きられない面倒な人間の生を暖かく肯定しているのだ。その肯定によって孤独な暗渠から、少しは明るい世界へと歩き出したと言ってよい。
 むろん、だからといって人間の抱え込んだ暗渠が消えたわけではない。その暗渠の根深さを感じさせるところに、この短編集の深さがあると言ってよいか。(2000年3月19日)

認識することとふるまうこと  4.2
   柄谷行人 『倫理21』(2000.2.23 平凡社)を読む

 柄谷行人の倫理の書というのを読んでみた。確かに、この本を読んで自信を取り戻した良心的な知識人は多いだろうな、というのが感想。言っていることは、それほど難解ではなく、人は自由であるがゆえに倫理的であらねばならないという、今まで何度も言われてきた命題を、カントに依拠しながら、丁寧に論理の道筋をつけて説得したものだ。
 人は、自由な存在だ。それは、本質的に自由であるということではなく、実は、「自由であれ」という命令を引き受ける(認識する)からだ、と言う。この言い方が、実に巧妙。カントのことは昔読んでよく分からなかったので、ここでは何とも言えない。ただ、柄谷の言い方は、すごくよく分かる。人間は本質的に自由、と言ってしまったらうさんくさくなる。ここで、柄谷は、「自由であれ」という命令に従うことを、認識する行為として、純粋化する。これは、サルトルの投企というのに似ている。つまり、主体を、未知に向かって積極的に投げ出すことで、実存的世界把握が成立するという考えだ。
 「自由であれ」という命令に従うことは、認識すること、それは、その認識に身を投げ出すこと、というようにもなるだろう。そうとらえることで、認識することが、決して、受け身ではないということを保証するわけだ。が、ここで、問題が生じる。この自由という命題は、人間の理性が作り上げた定理のようなものではない。神から与えられた教えと言ってもいいようなものでもある。とすると、それを宗教のように信じたらどうなるのか。
 そこで、柄谷は、それは、他者の自由を目的にするものでもあると言う。ここで言う他者とは、未知の存在で、外国人とか次世代の人という意味である。何故、未知の他者だとするかというと、眼前の他者と規定すると、この自由は、眼前の他者との様々な関係の中で相互規定されてしまうからだ。この自由の超越性を確保するためには、他者は、未知でなければならないと言うわけだ。
 自由であると認識することは、他者の自由を保障するものでもある、というある種の背反を引き受けたとき、人は、自ずと、自らを抑制し、ルールを決めようとする。それが、倫理の問題ということになる。
 だから、柄谷の言いたいことをまとめると、今ある世界そして次の世代の世界に対して、一人一人が、自分の問題として責任を負って生きよ、ということだ。
 ヘーゲルにおける認識が、理想へのヒエラルキーを上昇するエスカレーターに乗ることだとすれば、その認識は、理想を構築する科学的な図式に自分を譲り渡すことになるし、あえて個人をそこに際だたせる必要はない。柄谷の言うことに意義があるとすれば、認識の主体を一人一人の個人に限定し、他者を未知とすることで、徹底して、認識を、現在に孤立した個の問題にしたことだろう。
 この限定の仕方は、まったくかっこいい。ヘーゲル的な認識に支えられた普遍性への信頼を無くしたが、かといって、何らかの普遍性あるいは自分の生き方の根拠を見いだしたい良心的知識人にとって、こんなかっこいい理論はそうはない。今、けっこう読まれているのもわかる気がする。
 私だって、こんなふうに言われたらかなわねえなあ、と恐れ入るばかりだった。良心的知識人でない私は、柄谷の言うように「自由であれ」という命令にも、普段は従うとしてもいざっていうときには従わない気がするし、次の世代の他者のためになんてこともあまり考えないほうだ。かといって、柄谷の理屈が理屈としておかしいなどと思うわけでもないので、何となく、すいません、と言うしかないだろう。
 だが、ここまでこの本につきあったのだから、ちょっと違うよ、ということだけを言っておく。それは、人間というのは、認識してもその通りに振る舞えるものじゃない、ということだ。
 柄谷の考えでは、「自由であれ」という命令に従うこと、つまり、そう認識することは、当然、そう振る舞うことを意味しているはずだ。でないと、せっかく認識したことが無駄になる。
 たとえば、柄谷は、水俣病の問題で、チッソの会社にいた技術者は、原因を最初からわかっていた。が、それを黙っていた、という例をだす。当然、「自由であれ」という命令に従うのであれば、それは他人の自由を尊重することでもあるのだから、他人の自由を奪う原因を知っているのにそれを黙っているのはおかしいということになる。この技術者達は、認識をしていないか、認識しているのに振る舞えなかっただめな人たちということに当然なるだろう。
 確かに、そうかもしれないのだが、あえてだが、こう言っておきたい。それなら、柄谷も含めて、「自由であれ」という命令に従う生き方を決意した人は、そういう立場(チッソの技術者の立場)になったら、実際に、そのように振る舞えるのか、と。いや、そういう問題ではない、これは、振る舞うべきだということであって、人間の弱さはまた別問題だ、とか、10人に1人振る舞えるものがいればそれでいい、とかそういう答えが返って来そうだ。
 何故、こんなまぜっかえしをするかというと、私は、このような柄谷の言説を他人に向かって力説するような人間ほど、いざというとき、そう振る舞わないものだということを、これまで何人も見てきたからだ。まあ、私の経験が不幸だったのかもしれないが、しかし、人間なんてそういうものだと、最近思うようになったのだ。
 仮に、人間は弱いものだから、柄谷の考えに適応する人は、100人に1人いるかいないかがせいぜいだ、ということにしよう。たぶん、実際は、その確率はもっと低いだろうが。とすれば、結局、選ばれし者の生き方を説いている、ということにならないか。
 実際は、認識してもそうは振る舞えない。そのことを計算に入れるのと入れないのとはかなり大きな違いがある。振る舞うはずなのに振る舞えないとしたらどうだろう。自分以外のものがそうであれば、その弱さを攻撃することになる。自分がそうだとしたらどうか。ここが問題だ。認識の正しさを証明するために、振る舞えない弱さを、別の条件のもとに補おうとする。たとえば、それは、集団的に行動すること。権威に頼ること、そういうように振る舞いがちではないか。
 柄谷行人が、湾岸戦争の時、個人からの発言ではなく、文学者の集団を組んで署名運動をしたのは、たぶんに、個人では振る舞えなかったからだろう。その時点で、実は、認識することと振る舞うこととは違うということを、柄谷はもっと踏まえてもよかった。認識することと振る舞うこととが一致しないことを認めない知識人は、その認識を振る舞えるようにするために、権威を、制度を、法を作ったのではないか。こう考えたのがニーチェのはずだ。
 権威や制度や法が悪だというわけではない。それらが、時に横暴であるのは、それを用いる者が、認識することと振る舞うこととの不一致を隠蔽しようとしてそれらに頼るからだ。不一致を最初から肯定すれば、それらに過剰に頼る必要もないだろう。
 認識するが、振る舞えない、この問題は、もっと極められるべきではないか。あるいは、認識していなくても、自由な主体として振る舞うことがあり得る。私の経験では、たとえば政治活動でも、どうもふだん認識なんて高級なことを意識していない人の中に、その振る舞いに信頼の置けるものが何人もいた。そういうものなのではないか。
 認識したら、振る舞わなくてはならない、というのは、どうも息苦しい。認識しても、振る舞わないこともあり得る、それが人間というものだ、というのがいい。何となくほっとする。
 柄谷の言説は、また多くの知識人に影響を与えて、認識しない奴とか、認識しても振る舞わない奴を探し出しては鉄槌を下していくような風潮を生むのだろうな。さしづめ、私なども攻撃される一人なのだろう。その意味で、この本は、納得はしたが愉快な本ではなかった。 (2000.4.2)

 自分探しの果てに現れる神
      
田口ランディ『コンセント』(幻冬社 2000.6.10)     00.7.27
 田口ランディの「コンセント」を読んだ。これはシャーマンの小説だと学生からすすめられて読んでみた。いやはやすさまじい小説だった。帯のコピーはこうだ。「引きこもり、嗅覚異常、精神分析、シャーマン、官能と狂気、死と再生」現代人が、おもわず引き込まれる要素を全部そろえてある。この小説は、自分というアイデンティティを失った主人公(女性)の、自己回復の物語なのだが、その自己回復のプロセスがなんともすさまじい。引きこもりの兄の死をきっかけにして、自分の精神が異常になっていく(最初は嗅覚異常)、そのプロセスを、自己そのものとして生き直そうとする。その生き直し方の助けとして、シャーマニズムが出てくる。ユタの研究者が出てきて、その教えを受けてユタに会いにいったり、精神科医の教えを受けたりと、その再生の方法は、人の助けを借りる大がかりなのだが、結局は、向こう側の世界との往還が、ここではコンセントをつなぐ、はずすという言い方をするが、できるようになることで、自分を取り戻すという話である。

 この小説のすごさは、自分を探し始めると、自分というものの輪郭がどんどん消えていき、外側との境界を失っていくその感覚を、内側からイメージとして描き得たことにあると言ってよいだろう。輪郭を失うという怖さを救うのは、外側の世界との確かな交感の感覚である。主人公はそれをセックスに求める。セックスだけが、輪郭を失っていく自分を確かめる唯一の方法なのだ。異常になっていく精神に耐えながら、このセックスを通して自分と外部が確かにつながるように存在し得ると実感したとき、主人公は向こう側の世界への交通手段を手にする。シャーマンの誕生というわけだ。
 言い換えれば、この小説は、巫病にかかった人がシャーマンに次第になっていくプロセスを描く、いわゆる巫女のライフストーリーなのだ。巫病の感覚をこれほど徹底して描いた小説はこれまでなかったのではないか。とにかく、一気に読んでしまったから、おもしろかったことは認める。実にヘビーな小説であった。

 が、実は、この作者はシャーマンのことが本当のところで分かっていない。主人公は、宮古島のユタと話をするが、ユタはあなたは新しい時代のシャーマンだという。とんでもない。この主人公は実はシャーマンにはならなかったのだ。この主人公は、実は、徹底して自分探しをしただけなのである。その自分をシャーマン的な存在の仕方に見いだしただけなのであって、シャーマンになったわけではないのである。それを新しい時代のシャーマンだと言わせているのは、この小説の最大の欠点であり、結局、この小説の限界を示している。
 田口ランディは、シャーマンのことを誤解している。シャーマンは、共同体、もしくは社会のために存在させられてしまう、というところに、その存在の哀しさがある。その哀しさというものが分かっていないのである。自分探しをしてシャーマンなったなどというシャーマンはたぶんいない。例えば、その違いは、セックスに狂う主人公のその生き方にあらわれている。
 主人公はやたらにセックスをするが、その理由は単純で、そういう方法によってしか自分が確保できないからだ。この設定には、シャーマンの脱魂状態をエクスタシーとする文化人類学の知識や、シャーマンを女性特有の能力とする知識などの影響があるように思われてならない。やや観念的な設定にも思える。セックスの場面になると、リアルさを失い戯画的になるからだ。
 まあ、これはシャーマンのライフスリーだと思えばそんなものだと思うが、ただ、その巫病が、現代を生きることが必然的に引き受けざるをえない「病」でもある、というところに、この小説の良さがあるのであるが、シャーマンという存在を主人公の生の行き着く先として設定したときに、この小説は凡庸なものになっているのである。シャーマンをただ、向こう側の世界と行き来する高い能力を持った人という一般的な理解以上に理解していないことがよくわかる。
 結局、シャーマンとなった主人公は、社会のために存在させられるのではなく、どちらかというと自分のために生きる娼婦になるしかない。シャーマンの哀しさがわかれば、主人公の生き方はもっと深みを帯びたと思われる。

 同じ、シャーマンになる小説なら、池上永一の「パガージマヌパナス」(新潮社1994)の方が好きだ。こっちは軽いノリの小説だが、まだユタになる哀しさは描けていると思う。ユタになる綾乃に神が現れる場面。

「起きないか。大事なはなしなんだ。起きないとこうしてやる」
綾乃の体に電撃がはしった。
「アガーッ、なにすんの、痛いじゃない。あたしは寝ていたいのよ」
綾乃が目を覚ます。勝ち気な性格がつい出てしまい、ジロリと睨んだ。そこには神様が立っていた。

神はこんな風に現れたほうがいい。自分探しの辛いゲームの果てにようやくあらわれる神は、どうも近代の自意識が生み出した歪んだ神のような気がしてならないのだ。

「複雑系」を読む ベータの悲哀 『複雑系』 新潮文庫 M.ミッチェル ワールドロップ (著), 2000.5
一月はほとんど試験の時期で、試験の監督をやりながら「複雑系」(新潮文庫)という本を読んでいた。630ページある、分厚い科学系の本だったが、読み物風のルポルタージュなのであっという間に読めた。もう5年前に出た本で、最近聞かれなくなった「複雑系」という現代の理論をわかりやすく読み物風に解説したものだ。

 舞台はアメリカのサンタフェ研究所というところで、「複雑系」と称される新しい理論をそれぞれ独自に構築した、経済学者や物理学、分子生物学等の学者が集まっていて、そこで、新しい理論の共同研究が行われている。その理論というのは、ある存在が生成し、それが他の存在とからまって複雑に展開していくプロセスには、共通したパターンがあるというものだ。そのパターンを数値化できれば、生命の進化のシステムも、人間の脳の働きも、経済の複雑な動きも、人工的にシミュレーション出来ることになる。

 この理論を生み出す大きなきっかけは、DNAの構造の解明だという。遺伝子は、どういう仕組みで、細胞の複雑な分裂と増殖のシステムを作っているのか。実は、そのシステムは、例えば、経済という現象とよく似ているというのだ。要するにこういうことだ。いくつかの個体が発生する。すると、いくつかの個体は、他の個体との競争関係の中に置かれる。多数の個体との複雑な関係(ネットワーク)の中で、やがて、特定の個体が自己増殖(自己実現ともいう)を始める。それがいわゆる進化である。その進化のプロセスは、ある商品が突然売れたり、為替や株の相場が複雑に揺れ動く現象とよく似ている、というのだ。

 問題は自己増殖のプロセスにどういう法則があるかだが、そこには神の意志(経済学なら神の見えざる手)などというものは存在しない。様々な要素の関係のネットワークのなかで自ずとあらわれてくるに過ぎない。要するに、様々なものがより集まって関係しあうと、おのずと、何かが自己増殖してしまうものらしい。

 例えば、脳の中の神経の作用はデジタル的であると考えられている。OFFとONとが複雑に組み合わさって思考が作られているらしい。ただ、脳の働きというのは、自己増殖的である。自己増殖とは、プログラミングされた側がプログラミングした側を取り込んで、より複雑に自己を展開させていくことである。なにやら難しいのだが、要するに、神が人を作ったとするなら、作られた人は神を作り出してさらに自分を作る、というようなことだ。これを人間とロボットというように置き換えれば、わかりやすい。人間にプログラミングされたロボットが、プログラミングする人間という存在を自己のプログラムに書き込めたときに、ロボットは進化することになる。だから、人工知能というのは、決して夢ではない。こういう動き自体をシステムとして作れれば、自己増殖していくデジタルの頭脳が作れる筈である。現に、そういう実験が行われている。 実は、こういう作業をDNAという遺伝子は行っているらしい。

 この理論の思想的な意味は、本質や真理といった超越性に還元する古典的な思想を完全に解体することにあるだろう。つまり、あらゆる存在は、ゲームの中で動いているコマであると言うのだから。問題は、そのゲームのルールなのだが、それは神が作ったというようなものではない。複数の因子が寄り集まれば自ずとそういう動きになる、という以上のものではない。こう考えればいい。ある因子としての存在は、将棋の駒でしかないが、そのゲームの均衡が臨界に達すると、突如ある駒が自己増殖をしていく。それは、駒自体が、自分を動かす将棋全体のルールを組みこんで、そのルールを変えてしまうというように理解できるだろう。ルールという全体は、個の駒の動きに逆に還元されて絶えず流動化していく。従来の思想では、個は、普遍的で超越的な存在に還元されることで動いている(生きている)意味を見いだしたのだが、「複雑系」の理論では逆なのだ。超越的なものはそれ自体意味を持たない。複雑な個のネットワークを動かしながら自身も絶えず変化する関数のようなものでしかない。
 こういう思想に出会ったとき、われわれは自分という意味をどういうように見いだせばいいのだろう。

 結局、将来なんて、誰にもわからないということ。だが、将来というのは、ある特定のパターン化された動きのなかに生じるはずだから、計算は出来るということだ。どういうことや。つまりだ。将来というのは、当事者には絶対に予測がつかないということだ。なぜなら、将来は、関係のネットワークの中で生成されるものだから、その関係の中にいる存在がその関係を見通せない以上、将来は見えない筈だし、仮に将来を予測したとしても、その予測がまた将来を動かしてしまうので、結局は予測は無理だと言うこと。つまり、この理論は、超越的な存在などどこにもいない、ただ、あるパターン化された動きだけが宿命のようにあって、あらゆる存在はそれに巻き込まれて生きているだけだ、ということ。

 それでは究極のニヒリズムではないか。考えようによってはこんな空しい理論はない。ただ、おもしろいのは、個を巻き込む動きのパターンは、シミュレーションできるということ。つまり、デジタル化が可能だというのだ。超越的なものがないのなら、その動きは、ON/OFFのかなり複雑な組み合わせに過ぎない。むろん、自己増殖も、この複雑な動きである。われわれは自分の将来も生きる意味も見えないが、計算は出来る。これがこの理論のおもしろさだ。

 ところで、「複雑系」という理論を必死に考えている学者たちは、単なる駒ではないか。彼等はゲームに巻き込まれているだけではないのか。確かに巻き込まれている。それなら、超越的に存在しない彼等が、進化の現象を超越的に説明しようとする「複雑系」という理論自体を生み出せる筈がない。それは矛盾ではないか。確かにそうだ。確かにそうだが、これも自己増殖なのだと考えるべきなのだろう。われわれが、自分の生成の秘密を何とか理論化しようとするのは、神という存在をプログラミングして人間を生成する過程をデジタル化してみようという自己増殖的行為そのものなのだ。いわば、将棋の駒が、自分を動かすルールを自分の駒の動きに組みこんでしまったようなものなのだ。

 この理論は、実は、何故、世の中には、勝つ奴と負ける奴がいるのかを実に単純に説明する。例えば、ビデオのVHSが性能の良いベータに勝ったのは、最初にたまたま購買者が多かったからに過ぎない。VHSが自己増殖してしまったことによって、ベータは消えた。優れたモノが勝つなんていうのは幻想に過ぎない。自己増殖の根拠は、複雑な関係のネットワークの中で自ずと(偶然に)出てくるものであって、そこに確実な法則なんてものはない。マイクロソフトがマックに勝ったのも、確実な根拠があるわけではなく、たまたま、ある段階での幸運が、自己増殖的な動きを加速させてしまったということなのだ。

 この理論の教訓。自己増殖の側で生きなければ意味はないということ。「複雑系」という本は、実は、自己増殖の側で生きている(あるいはそう信じている)天才達の物語である。自己増殖とは、結局、運のいい能動性そのものだ。最近の進化の理論では、人間が進化の競争に勝てたのは、ただ運が良かったからに過ぎない、ということらしい。競争に勝つべくして勝ったわけではない。ただ、勝ったために能動的に生きざるを得なかったのか、能動的だったから進化の競争に勝ってしまったのか、そこはよく分からないが。能動的であることがどうやら、自己増殖にとって必要であることは読んでいて見えてきた。いかにも、アメリカ人が好きそうな理論だ。

 問題は運が悪くて負けてしまった奴だ。例えばベータのような奴。ベータはやっぱり、VHSより能動的ではなかったと思う。自分の性能の良さを過信しすぎて、販売戦略を誤った。VHSの方が元気だった。考えてみれば、元気よく動きまわっている方が、運がいいという気はする。自分の本質とか才能にうぬぼれて何もしないと消えていく、ということらしい。

 私は自己増殖の側で生きているのだろうか。うぬぼれるほどの才能も無いので、動き回っているのは確かだ。が、自己増殖しているかどうかは分からない。どちらかというと、VHSでなくてベータだという気はしている。


中島義直『働くことがイヤな人のための本(日本経済新聞社)2001年
 本屋で中島義直の「働くことがイヤな人のための本」(日本経済新聞社)を、題名に惹かれてつい買ってしまった。けっこう売れている本らしい。私も働くのがイヤなんだ。そう思っている奴がやっぱり買うんだろうな。しかし、この本読んでも救われないよ。読んで損はしなかったが、あまり学ぶところはなかった。共感するところはあつたけど。

 人はほとんど自分の人生の意味を考えている。まあ、その割合をどの程度に置くかは難しいにしても、そういう面倒な人間は私を含めて多くなっているのは確かだ。この本はそういう面倒な人間に向けて書かれた本だ。つまり、人間は何故仕事をしなくてはならないのか、という答えのない哲学的問いを真剣に問うてしまうような頭が少し変な人に向けたものだ。だから、単純に働くのがイヤな人に向けられたものではない。そこのところを誤解してはいけない。

 私はその変な人間の部類に入るのでこの本を最後まで読むことはできた。でも、この本の結論には満足していない。結論は、在家の出家になれ、というようなものだからだ。つまり、こうだ。この世は、あるいは人間の生というものは、理不尽そのものだ。まずその理不尽さを徹底して受け入れろ。それをごまかすような生きる意味を簡単に見いだしてはならない。例えば自分の人生は満足のいくものだったなどというのは、この理不尽さを直視したくない逃げにすぎない、とまでいう。

 この理不尽な生を引き受けてそして死んでいくのが人間だとするなら、徹底して、その理不尽さを生きる意味を考え抜くことこ以外に、生きる意味はないというのだ。全ての基準はそこにあるから、仕事がいやになるのは当たり前で、そこそこに食べられる程度に仕事をして生きる意味を問い続ける生活をつづけるしかない、と言う。著者は、無用塾という哲学の私塾を作って、ただ哲学することのために生きている人達を集めて、自分の考えを実践しているらしい。

 出家しろと言ってしまっては宗教になる。出家した後の世界を保証しなければならなくなる。が、この本の言っているのは、答えのないような生きる意味をただ考えて生きろと言っているだけだから、救われるなどという保証のない在家出家を説いていると言っていいだろう。親鸞の言葉が随所にでてくるのも頷ける。こういう、徹底した生き方を説かれると私は引いてしまう。かなわんなあ、と思う。ここまで追いつめないとだめなのかと思う。私は哲学的な性癖を持つが哲学者になれないと思う所以だ。だが、共感はする。次のような言葉はこの本の一番いいたいところだろう。

 ―世間的な仕事において何もなしとげなかったからこそ、死ぬ間ぎわに「俺(私)の人生は何だったのか」と真剣に問いつづけることができるのだ。これは、生きてそして死ぬこと、この単純な不条理をごまかしなく見ることが出来る立場に置かれることであり、一つの恵みである。彼(彼女)がみずからの人生を振り返って、何の満足も覚えず、よってなんの執着も覚えないと心底確信して死ぬとしたら、それは救いである。―

 いやあ、これは宗教の言葉だ。人生で何か為し遂げてしまうのは実はマイナスなのだと言っているのだ。確かにここだけ読めば救いだろうなあ。親鸞の教えが、悪人正機説として流布し、救われたと思ったものが多かったように。確かに、何も為し遂げないで死を迎えることが恵みだと言うのは助かる気がする。だが、それを恵みに変えることの大変さがここではあまり強調されていない。

 著者は、自分が何者でもないという絶望的な劣等感を克服した体験を持つ。その体験とはこの世は理不尽だと居直ることだった、著者の哲学はその居直りから出発する。それはそれで共感するが、普通居直れないだろう。著者は引きこもりだったと言うが、どうもたいしたひきこもりではなかったようだ。著者が考えるより著者は強靱な精神の持ち主だったように思われる。

 確かにマイナスはプラスだと言っているその主張に共感はする。が、プラスにするにはあまりに強靱な精神力が求められている。結局、人間の弱さを最後はみとめないのだ、この人は。ぶつぶつ言いながら野たれ死んでいく人はやっぱりマイナスを恵みに変えられないで死んでいくんだろうなあ。どちらかというと私はこっちのほうだ。理不尽さを直視するのではなくて、理不尽さのただ中を翻弄されて生きていくほうだ。私みたいなものを哲学は救うのだろうか。この本を読んで私は少しばかり憂鬱になるしかなかった。


田澤拓也著「脱サラ帰農者たち」(文藝春秋社)
2001.3
 たまたま週刊誌の書評で目にとまった、田澤拓也著「脱サラ帰農者たち」(文藝春秋社)という本を買って読んだ。中高年で脱サラし、農業を始めた人達23人にノンフィクションライターがインタビューしたものをまとめた本である。私は、茅野に山小屋があり、時々行く、茅野には、都会を離れて山小屋暮らしをしていたり、定住している人達もけっこういる。例えばそういう人達の暮らしぶりは「田舎暮らしの本」とかに紹介されていて、都会人の夢を実現したかのように描かれている。

 が、この本の面白さは、決してそういう書き方になっていないことだ。どちらかと言えば、読後感はやや悲しくなるほどの本だ。ここで扱われている帰農者はほとんど団塊の世代である。何故、帰農者になったのか、理由はほとんど同じである。要するに、自分のアイデンティティを都市社会の中で見いだせなかったからである。農業が儲かるからといって農業に転じた人はほとんどいない。日本の農業政策や、グローバル化が、農業を斜陽化させていったその時代の流れの中で、農業にあえて転じる根拠は、経済的なものであるはずはない。つまり、経済性を度外視した、精神的な理由になる。

 とすれば、帰農者の精神世界とその行動は、団塊世代の精神構造を象徴しているだろう。厳しい競争の中で頑張ったが、そのことに疲れ果て、経済性よりも精神性を優先する生き方の中に、自分の再生を賭けようとする。それがうまく行けばいいのだが、経済性を無視して精神的な充実が得られるほど世の中甘くない。結果的に挫折を味わうということも多い。そうして、ただただ生活のために生きていくことの中に何とか精神性をとどめようと努力している。だいたいこんなところだ、団塊の世代の精神の物語は。私もそうだ。

 ほとんどの帰農者は年収をかつての半分か三分の一に減らして頑張っている。頑張る根拠は、自分は好きなことをしている、自然を相手にすることはサラリーマンをやるよりはいい、というものだ。成功している人達は、かなりの貯えがあって、農業を趣味でやっているか、農業に徹底した合理主義を持ち込んで、経済性を優先させた生活を送ろうとする人達だ。こういう人はかなり計画的で、結局、都市社会でも、農業でも、成功する人は成功するんだな、ということがわかる。

 都会がいやで自然と親しむ生活がしたいと漠然と決意して、たいした計画も立てずに農業を始めた人はだいたい苦労している。自然と親しむのも都市社会の合理主義から逃げるにも、結局計画性と合理主義が必要だという厳しい現実をこの本は伝えている。それが少し悲しい。結局、この本の哀しさは、帰農者の生活がうまくいっていないということにつきる。従って、彼等の脱サラの夢や、この生活に満足している、という言葉が、現実を耐えるためのいいわけに聞こえてしまうことにある。

 生活を楽しんでいるのも、自然と接して生きていることに充実を感じていることも恐らく本当なのだろう。この本を読んでいいわけに聞こえるのは、たぶんに、著者の誘導がある。が、それは著者がそう聞き取ったからに違いない。彼等は明るく自分を語らなかったのは確かなようだ。

 われわれは自然に生かされている。そうかんがえれば、農業は楽しい。しかし、生かされているならば、殺されているという言い方も成り立つ。こっちで考えれば農業は悲しいのだ。生きるためには最低の経済的基盤が必要だ。その基盤を得ることが難しいから日本農業は潰れかかっているのだ。それを理解するならば、安易に帰農すべきではないだろう。

 精神性として考えるなら、農業を文化として楽しむ方がいい。家庭菜園の延長でじゅうぶんではないか。農業によって、経済性より精神性を優先させたいのなら、農業の生産性の低い、アジアの貧しい国にいってボランティアをするべきだ。結局、精神性の充実性は、他者の評価によって得るのが一番確かだ。それにはボランティアがいい。日本の帰農者の悲哀は、自分を評価してくれるその他者がいないということにある。だから、彼等は明るくないのだろう。

 私は、徹底して、余裕の範囲で、趣味として自然に親しもうと思っている。だから、余裕がなければやらない。


原始宗教と近代をどう繋ぐのか
  中沢新一 『緑の資本論』 2002年5月発行 集英社

 「緑の資本論」はとても面白かった。中沢新一の良さと欠点とがよく現れていて、勉強にもなったし、考えさせられもした。この論を一言で言うのはなかなか難しいのだが、要するに、今の資本主義の論理は、一神教であるキリスト教が、その一神教の原理を変形し増殖させたような三位一体の思想によって準備されたものであるということであり、同じ一神教のイスラームの思想は、その原理を純粋に守りその逸脱を許さない立場をとるために資本主義に批判的なのだ、ということである。

マルクスが資本の貨幣と商品の論理をキリスト教の三位一体の考え方を比喩として用いているが、中沢新一は、何故三位一体の思想が貨幣と商品の論理になり得るのかをとても分かりやすく解説してくれている。それがとても勉強になった。三位一体とは、神である父と子であるキリストは一体であり、同時にそれをつなぐものとしての聖霊も一体のものであると説くものである。むろん、この考え方は、キリスト教が普及した後の時代に生まれた考え方だ。

 父と子の一体とは、父と同一のものが子に継承されるということで、それは、貨幣という等価性をあらわし、その同一性は実は聖霊という愛と意志の力によって生産されるものである。従って、この聖霊こそが、増殖性というエネルギーに満ちた力そのものであり、それは過剰なシニフィアンあるいは浮遊するシニフィアンとして絶えず価値を生み続ける源泉になるというのだ。

われわれはある商品を、それを生産するにかかった費用以上の価値として何故認識するのか。例えば大地から農作物を生産するのは、自然の増殖力という神秘的な力によっていると幻想するが、実は、商品が何故価値を帯びるかの説明というのはなかなか難しく、例えば、かつて柄谷はこの価値化を「命懸けの飛躍」と形容した。つまり、それが価値を帯びるのは、自己増殖していくような機能を商品自体が帯びるに他ならない。それを中沢は自己増殖するシニフィアンというのである。

実は、その自己増殖するシニフィアンは、聖霊という、それ自体絶対的な神ではなく、ただ人間の幻想に働きかけ愛もしくは信を産み続けていく力そのものの一つの展開だとする。つまり、やはり、大地が豊穣な生産物を生み出すように、価値を次々と増殖していく資本主義の基本的な論理そのものも、神秘的な宗教上の幻想によって説明がつくというわけである。

イスラーム教は、この三位一体を、神という一なる存在を冒涜する考えだとして拒絶する。神という一なる存在は、子という等価的存在も、聖霊というそのエネルギー的分身も存在するわけはないとするのだ。とすれば、イスラームは最初から反資本主義なのである。イスラームにとって、経済は、神の意志が現実に反映する一つの現象であるに過ぎない。だが、キリスト教の世界では、神の等価物である子や、そのエネルギーである聖霊が、それ自体神の原理に違反する現実の人間の様々な欲望を神の世界にうまく適応させるように肯定していくのである。この肯定の論理を三位一体の思想が担い、その結果として人間の欲望を増殖させる資本主義がキリスト教世界において発展するというわけである。

さて、この論はグローバル化した資本主義が何故キリスト教世界において発展したのか、何故、イスラームの世界は、資本主義のグローバリズム化に反対するのか、その原理的な問題を実に分かりやすく解明してくれる。だが、一つ問題が発生する。それは、資本主義のグローバリズム化は、キリスト教やイスラーム圏だけでなく、他の宗教圏の地域、例えば仏教や多神教のアジア地域にも広まっている。何故、キリスト教圏以外にも資本主義は広がるのか。何故、アジアでは反資本主義にならないのか。

中沢氏はさすがにこのことにも言及する。それは、三位一体の聖霊という増殖するエネルギーがキリスト教以前の原始宗教においてすでにあったものであり、それをキリスト教が受け継いだにすぎないとする。例えばそれは贈与の時に行き交う霊的なマナという観念である。とすれば、アジアにおいてもこの聖霊は原始宗教として存在するのであり、アジアが資本主義的な、価値の自己増殖を肯定していくのは当然というわけである。

ここはなるほどと思ったが、疑問もある。それじゃ、要するに自然宗教(アニミズム)の霊は、この資本主義の増殖する価値という観念と同じものということになってしまうではないか。要するに、霊的なものへと、意識が飛躍していくこと(例えば魔術などがそう言う飛躍にあたる)が、実は、歴史を貫いて、社会それ自体を作り上げたのだと言うことになる。ほんまかいな。それってちょっと飛躍しすぎていませんか。

ここは中沢新一の欠点。彼の欠点は、原始宗教の何万年かの蓄積が、西欧的な知の原理の根幹にあるということを、何の切断線も設けずにあっさりと語ることにある。何万年前からの魔術と、資本増殖の論理が、ほとんど区別無く論じられてしまうことに対する慎重さに欠けるのだ。この論でもそうだ。ここのところが実にあっさりとしている。

三位一体の聖霊と原始宗教の聖霊はかなり違っているのではないか。その違いは、原始宗教の聖霊が共同体の内部に閉じられ気味であることに対し、キリスト教の聖霊は、共同体内に閉じられない、かなり抽象化され、普遍化されたものである、ということだ。この差は大きいと思う。つまり、この差についての言及がこの論にはない。それがこの論の説得力を殺いでいる。

例えば、中沢は、イスラームの商取引を、普遍化された貨幣にゆだねられない、イスラームの原理に基づいた取引であると語る。イスラームの商取引の実態は、商人による駆け引きによって値が決まる。その取引形態は、反資本主義的だということだ。だが、こういう商人による駆け引きで値が決まるのは、多神教の地域やそれこそ増殖の原理を信じる原始宗教の地域ではよく見られることだ。つまり、この問題、つまり、商取引において、貨幣という普遍的な交換物に頼るか頼らないかという問題は、聖霊という神秘的な自己増殖原理があるかないかと説明するよりも、共同体内に閉じられた原始的聖霊を、共同体外に開かれた抽象的な聖霊に飛躍させるかさせないか、そのことにあると考えた方が良いような気がする。

イスラームの人達が、原始的な聖霊を信じてはいなくても感じていないとは思わない。いいかえれば、イスラームの商取引は、聖霊を否定するイスラームの原理に忠実であるよりは、彼らが、商取引の段階では、まだ聖霊を感じる程度の段階であり、それを否定したり抽象的なものとして信じる段階にないということをあらわしているということである。その意味では、例えば聖霊を感じる段階にあるアジアの少数民族の市でよく見られる値段の交渉とそれほど変わらないとも言える。

その意味では、イスラームにもキリスト教世界と同じような分裂があるのではないか。彼らの生活では、ほとんどの人々は聖霊を感じる段階にあるのではないか。聖霊というような原始宗教的段階を拒絶する一神教の原理そのものに意識的なのは、実は、一部の宗教者、知識人なのである。実態は、一神教の原理に従いながら自然の聖霊も感じている人達が多数なのだ。実は、このことが、イスラーム教が過激派を生んでいく原因になっているのだと思われる。

自爆テロのメッセージは、実は、内なるアラブ社会に向けられたものだ。自爆した18歳の少女のメッセージは「眠れるアラブ兵の代わりに行う」というものだった。実は、アラブ人の身体は、一神教の観念にそれほど忠実に従っているわけではないのだ。イスラームの文化は、あのベリーダンスやハーレムを作りだした文化でもある。十分増殖的な文化を持っている。

むしろ、イスラームは、原始宗教的な神観念と一神教的な神観念とが、信仰という次元では融合しているのではないか。ただ原理という面でこの宗教はとても観念的で厳格である。だが、その抽象性が、生活の信仰の形態の中に必ずしも降りていっていないのだ。とすれば、現実の生活を否定し、原理的に、観念的に生きることに過剰な価値を見いだすという運動が起きやすい。それが、原理主義運動になる。

キリスト教は、自らの神そのものを抽象的に把握することに成功した。つまり、原理という次元でも、信仰という次元でも、神と一定の距離を取り、逆に、人間の自立(自由)という課題を引き受けたのである。

アジアはどうなのだろうか。アジアにおいて資本主義は外からやってきた。イスラームとの違いは、原理と身体が分裂していなかつたということだ。言い換えれば、原始宗教が強すぎて、それを拒絶し、抽象化するほどの原理などなかったのである。むろん、だからこそ、西欧の原理に触れた知識人が、分裂し、そして過激派になった。アジアの過激派は、いずれも、西欧的な原理によってアジア的共同体を破壊するものだった。しかし、イスラームの過激派は、西欧を否定し、自らの内なる分裂の中で、原理に従わない自らの身体を傷つけるものだ。だから、彼らの行為は、あまりに痛ましさがつきまとう。 

中沢の論は、結局、何故、イスラームの人達が自爆テロに走るのか、ただ彼らが反資本主義的だという以上の説明はない。イスラームの原理が資本主義批判である、ということは理解できるが、実は、ここで述べられているほどイスラームの人達は単純じゃないことは、中沢自身がよく知っていることだと思う。原理と現実とのすりあわせの難しさがそこにはある。むろん、ほとんどの人はそんなにすりあわせなどにとらわれずに生きている。そのことの評価ということが、この手の論にとってはいつもアポリアになっている。

宿命論としての段階論 
吉本隆明の「超戦争論上下」(アスキーコミュニケーションズ) 2002.11

 吉本隆明の「超戦争論上下」を読み終えた。とっても読みやすい本だったが、久しぶりに吉本の相変わらずの肉声を聞いた感じがした。吉本は、しきりに世界の各文化や文明の流れには「段階」がある、と言う。その「段階」を「アフリカ的段階」「アジア的段階」「西欧的段階」とおおざっぱに整理する。この段階は今の各民族や国家を規定していて、そのどの段階にあるのかを考えて、論理を組み立てないと、問題は解決しないのだと主張する。その主張は以前からのものだが、最近アフリカ的段階が加わったということだ。

 いわゆる左翼の段階論は、われわれにとって批判の対象だった。ヘーゲル的な段階論は、文明は、理想に向かって成熟していくのだから、歴史は、その段階を踏んで進歩していくのだとする。つまり、段階論というのは、歴史は進歩していくのだと、もしくはそのはずだ、そうでなきゃいけない、という認識を前提にしている。そういう認識自体は別に否定はしない。進歩しない未来なんてつまらないから、進歩はあった方がいい。進歩の中身が問題だが、いずりにしろ、今の矛盾や不幸の解決というもののイメージを理想にするのだから、それはそれでいい。

 問題は、その段階の途中に位置するわれわれはどう振る舞うかだろう。唯物主義的段階論は、段階をエスカレーターの段差のようなものとみなした。科学というエンジンによって、人類は理想の世界に運ばれるものだと考えた。だから、科学を絶対化し、エスカレーターにのることを他者に強要した。エスカレーターに乗れないもの、乗りたくないものを粛清までした。ソ連のエスカレーターは昇りでなく悲惨な下りだった。段階論はそういう恐い思想を産んだ。

 吉本の段階とはどうもそのようなものではないようだ。ヘーゲルから借りてはいるが違うとも言っている。歴史とは、ある段階を通らないと前へ進まない、そういうものなのだ、ということをただ強調する、そういう段階論だと理解した。つまり、階上に向かって、どうしても前進しなきゃいけないものとしてより、われわれの社会が抱えた不幸というのは、この段階という階段を一歩一歩登るしか解決のしようがないんだぜ、と言っているのだ。むろん、個別的には、アフリカ段階だってアジア段階だってそれなりに良い社会はあるだろう。問題は、それらが全部ごちゃまぜになってしまうと、つまり、世界にその存在を知られていない孤立した社会などもうこの世に無くて、われわれの社会がそれこそ世界としての全体の一部になってしまうと、世界は段階を踏んで、問題を解決していくように進んでいくもんなんだ、ということだ。

 ただ、世界は均一でないし、一つの社会にいろんな段階があることだつてある。物質的にはみんな西欧的資本主義の豊かさを願望するだろうが、精神的には、アフリカ的段階が良いと思ったりする。けっこうこの段階という奴は込み入っているのだ。でも、吉本に言わせれば、人間は自由という本質を求めるように動いていくものだから、歴史はそういうように動く。ただ、その動き方は不均質だから段階が成立するということになる。段階があるのかどうかよくわからないが、考え方としてはよく分かる。何事もわれわれは段階を踏まないと前へ行けない。そうシンプルに理解すればよくわかる。ただ、大事なのは、そういうものだとして、段階の途中にいることが分かっているとき、必死に上を目指して登らなきゃいけないのか、ということだ。でも、吉本が言っていることは、どんなにがんばったつて、段階を踏まなきゃ前へ行けないよ、ということだ。つまり、アフリカの原住民がいきなり西欧の大学に入って西欧の文明に乗り換えようとしても無理だということだ。どっかにゆがみが出るということだ。

 とすると、われわれがまだまだアフリカかアジアの段階なのだとして、エスカレーターに乗っていりゃそのうち階上に着くのか、あるいは、一歩一歩階段を上がる努力をしなきゃいけないのか、ということを聞いて見たくなる。だが、吉本は上昇志向というものを嫌う。段階があるから、世界の民族や文化は均一ではない。段階を踏まないで一足飛びに上のレベルにはいけない、そういうことだけは言っている。が、どうやって上へ行くのか、つまり革命なのか、資本主義的な動きに身をゆだねるように流れに任せるのか、そういうことは言っていない。むろん、言えないだろうが、それを言わないというところが、吉本の吉本たるゆえんなのだ。

 たぶん、個人個人が理想という普遍性をそれぞれの内部に抱え込んでいけば、おのずと段階は越えられる、ということなのであろう。しかし、おおかたはそういう答えには満足しない。そういう理想を持った奴が人とどう関わればいいのなか。それが聞きたくなる。理想を持たない奴、あるいは理想と反対のことをしている奴とどうつき合うのか。が、その点に関しては、吉本は引きこもり的である。知識人が理想をかざして大衆を引っ張っていくんだという発想を取らない。とすると、知識人は、理想を誰にも言えずに孤立することになる。言ったとしても、その言い方は、俺はこう思う、という以上のことは言えない。

 だから孤高の思想家なのだろう。柄谷行人とはそこが違う。柄谷はもっと啓蒙的で、俺が引っ張っていって世の中を変えていくというところがある。吉本が親鸞を理想的な知識人とみなすのは、親鸞が他者を啓蒙しなかったからだ。だとすると、吉本にとって、段階とは、その段階の階段に位置するものにとって、とても大きな壁になるだろう。それはそう簡単に乗り越えられるものではない。段階の途中に佇むわれわれは、一方で、他者とのコミュニケートがうまくいかないものとなってしまう。とすれば、実質はその段階に閉じられて動けないということになる。だから、その段階とは、宿命のようなものなのだ。

 吉本には普遍的な理念は孤立をいつか乗り越えるんだという思いが強固にある。そういう強固さに、実は、私なども共感したし、多くの孤立した若者が救われてきた。しかし、現実的な場面では、そういう強固さは、独善的で思いこみの激しい性格の強調に終わってしまって、いっそう引きこもり的になつてしまうのが常だったように思う。吉本のように、上昇志向を断念するところに、普遍的な理念の有効性が見えてくるなんていう、禅問答のような論理など、誰にも分かるはずはないからだ。

 結局、世界はこの段階に支配されていて、その段階を意志的に越えることはたいへんなのだということがよく理解できた。生活は一挙に近代化できるが、精神は一つ一つ段階をクリアしていかねばならないのだ。だが、その先に理想があるから、みんなを引っ張っていくなんて考えは、不幸な結果を招くだけなんだ、ということだ。じゃどうしたらいいんだ、というのが結局最後に残った問いだった。

村上春樹『海辺のカフカ』 新潮社2002.9
 
最近、いろいろ事件が起こった。12才の少年が幼児をいたずらしあげくにビルから突き落とした。まったくやりきれない事件だ。12才の少年は明らかに病を背負っている。小6の女の子4人が28の男のマンションに監禁され、男は自殺。4人は保護された。男は、デートクラブのチラシを作っていた。この男もたぶん病を背負って生きていたに違いない。自殺の動機はわからないにしろ、そろそろ決着だと思ったのかも知れない。

 村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ。12才の少年が逮捕されたとき、私は、何だほとんどこの「海辺のカフカ」の世界ではないかと思った。カフカ少年は、15才だが、内側に深刻な闇を抱えて生きている。少年にしては、意志的に生きている。普段は物静かで、時々切れることがある。読書好きで学校の成績もよい。身体が大きく高校生に見られる。実は、この特徴は、あの12才の少年とほとんど同じなのである。

 12才の少年の身長が164pあって、高校生並みだ。読書好きで、成績も良く、時々切れる。心に深刻な闇を抱えていたことは、やったことを見ればわかる。

 村上春樹は、今までは、心の闇を抱えた人間を描くときはもっと大人を描いた。少なくとも、大学生くらいから描いた。それは、闇を抱えた根拠というものが、誰にも一度は訪れるような、青春時代の激しい葛藤の一つの帰結、もしくは、絶望に至る前に絶望のなんたるかを理解してしまった、一人の孤独な心にあるとしたからだ。つまり、そういう孤独さは、中学生や小学生では持ち得ない、という人間観がそこにはあった。

が、「海辺のカフカ」では違ってしまった。中学生に、心の闇を負わせた。そうなると、その闇との少年のつきあい方は、今までとは違うものになるはずだ。寂しい声で「やれやれ」といいながらビールを飲むわけにはいかないからだ。この小説は、少年の成長物語のように読まれているが、とんでもない。なぜなら、このカフカが抱えこんだ闇は、通過儀礼によって克服すべき対象ではなく、それは明らかに深刻な病であって、とすれば、それは治療すべきものなのだ。

 しかし、決定的な治療は異界に行くことでしかない。つまり、そこから帰らないことだ。「千と千尋の神隠し」のように、異界から少女ががんばって戻ってきても、この世に出たらそこに成長はない。解決はすべて異界の側に握られている。ナカタさんはそのことを象徴している。異界の力を手に入れたナカタさんは、異界に連れ戻す者は連れ戻し(例えば佐伯さん)、この世の悪とは異界の力で戦う。解決はすべて異界の側にゆだねられている。だから、ナカタさんの物語はほとんど寓意の物語になる。

 カフカは千尋のようにこの世に戻るが、闇を克服したのではなく、闇とのつきあい方を覚えたに過ぎない。たぶん、酒が飲める年齢になったら、この少年は、「やれやれ」と言ってビールを飲むようになる。

 問題は、何故村上春樹が少年の心の闇を描き始めたのかということだ。それは、もう今の時代は少年の心の世界から、この世界のある意味での崩壊が、兆しのように始まっているということを、感じている、ということであるだろう。小学生の首を切り取った神戸のあの14才の少年は、心の闇が表にかなり出ていた。この14才は社会に対して挑発的的だった。その意味で彼は、そんなに壊れてはいない。社会が壊れている、ということを彼の精神と肉体が過剰に先取りしただけだ。つまり、壊れた社会を自分の生の快楽に転換する抽象性があった。その抽象性の分、彼は、大人だった。

だが、今度の12才は違う。どうも、自分や社会が壊れているという自覚が欠けている。つまり、抽象性がない。だからこそ、本当に病んでいる。

 カフカ少年は、あの14才とこの12才の中間的な位置に居る気がする。カフカ少年は自分の闇に自覚がある。が、それをジョニーウオーカー(父)のように悪意として外に表現出来ない。カフカ少年はどうしていいかわからない。母親と寝るという予言の実行についても、母親は、子どもと寝たわけではなく、死んでしまった昔の恋人と寝たに過ぎない。少年はその恋人になり代わっただけだ。自分がそこにはいないのだ。結局、カフカ少年の努力らしい努力は、異界訪問くらいだ。

 村上春樹の出来ることは、それはわれわれができることでもあるが、壊れてしまった心を抱えたら、12才の幼児殺しの少年のように無自覚ではなく、しかし14歳の少年のように、悪意をもってその闇を表出するのではなく、それこそ風の音を聞くように闇と付き合っていく、というところに着地していくしかない、ということだ。それを15歳のカフカ少年だけではなく、12歳の少年の年齢までやらなくてはならない、ということろまでわれわれの社会は病んでいるということだ。



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