「ハードとしての物語論」  −三谷邦明著「物語文学の方法T・U」を読む− 


 最近、「物語」というタームで、現在の状況を読み取ろうとする試みが盛んである。それは、自然との対立を基本とした近代資本主義によるハードの時代が終わり、現代が、三次産業を中心に展開する消費社会すなわちソフトの時代に入ったという背景がある。このような時代では、自然は対峙する対象ではなく、模擬するものへと変化する。ハードの時代に喪失した自然は都市において疑似的に再生される時代になったのである。この自然を、人間における無意識、あるいは文学における物語性と言い換えれば、何故、今、「物語」が現代を読み解くキーワードになるのかが理解できるはずだ。文学におけるハードの時代、つまり、自然からの疎外によって深刻な課題となった〃自己とは何か〃という自意識の時代は終わったのだ。今は、本来の文学の自然性であった「物語」が疑似的にソフトとして再生されなければならなくなった時代なのだ。
 しかし、それは、おのずと再生されるのではない。再生されなければ自己を失うと考える、無数の共同の意志が介在していることを見誤ってはならないだろう。「物語」という無意識を必要とする自意識が、無意識の風景と形容していいほどに層をなして存在しているという現在の状況を見据えるべきだということだ。全国で何百万という自意識がそれぞれ孤独にテレビ画面に対座しながら、共通の物語であるファミコンソフトにのめり込んでいる。そういった状況を見据えるべきなのだ。
 その意味で、まだハードの時代は終わってはいないとも言える。「物語」復権の背景をつきつめていけば自意識に突き当たる。それは、紛れもなく近代のものである。少し様相が違うとすれば、少数者による特権的なものでなくなったため、その無数の自意識の構築にとって「物語」という共同の幻想が最も適してしまったということなのである。
三谷邦明の大著「物語の方法T・U」を、こうした状況においてみると、この著者は徹底してハードの時代にこだわっていると見ることが出来る。この二冊は、源氏物語という物語に内在する方法を客観的に把握しようとする意図に貫かれているが、「物語」を、神話や伝承のように人間の無意識や宗教的な意識に起源する〃自然性〃として捉えようとは全くしていない。これは興味深いことである。この著者に「物語」はソフトとして映っていないのである。
 この本にはモダンとポストモダンの二つのタームが混在している。例えば、索引の「し」の項で、「時間の逆流・時間の循環・時間の線条性・時間の遡行」とポストモダン的タームが続くと、次に、「自己意識・自己意識の対話・自己意識の文学」とモダン的タームが続く。その用例を読むと、源氏は「時間の循環」の文学であり、また一方で「自己意識の文学」(U−337)であると、本来相入れないはずの二つのタームが肯定的に用いられているのである。何故著者にとって二つのタームが矛盾なく納まるのか。それは、「物語」というソフトの分析用語であるはずのポストモダンのタームが、この本では、一貫して自意識というハードの側、すなわちモダンのタームに従属する性格のものでしかないということによっている。
 この『物語文学の方法』T・Uを貫く骨格を一言で言えというなら、〈それからどうした〉から〈なぜ〉へ、という方法であると言っていい。この方法は、物語の文学史全体を見渡すときも、そして、源氏物語個別の分析においても用いられている。この用語による方法が意味するところは、出来事にそった叙述から、描写を中心にした叙述へという変化なのだが、著者はこの変化の線上に、源氏物語のテクストとしての性格を読み解いていく。例えば、時間意識という観点からは、前者は直線的時間、後者は錯綜した時間であると言えるが、それを、叙述の時間から虚構の時間へというようにその変化を読み、そこから〈時間の循環〉という、源氏物語の決定的な読み見いだそうとするのである。が、著者にとっての関心はポストモダン的な〈時間の循環〉という読みを見いだすことではなく、あくまで、そこへの変化に貫かれる一貫した方法を見いだすことである。
 例えば、文学史の方法的分析において、「語り」から「物語」というラインを設定するが、それを、「『物語』とは本質的に『語り』を対自的に対象化したものに他ならない」(T−93)と述べる。つまり、〈それからどうした〉から〈なぜ〉への変化というのは、ここでいう〈対自化〉というようなもの、言わば、ハードとしての自己意識の働きそのものとして捉えられているのである。
 この自己意識の働きは、源氏物語そのものの分析にも貫かれている。「過去の出来事の目撃者が、その出来事を〈それからどうした〉と記述していく物語の方法が、〈なぜ〉という疑問を負うことによって変貌していく過程それ自体が、平安朝物語の歴史であり、その〈なぜ〉という質問を、物語の最初に導入し、小説的手法とも言うべき方法を樹立しようと志向したのが源氏物語なのである。」(U−16)というように、自立し志向するのは、源氏物語というテクストであるという言い方をする。ここではテクストが自己意識の主体になっていると言ってもよい。が、主体はテクストだけではなく紫式部もまた自己意識の主体として登場する。「自己をあくまで対象化し、他者化すること、自己の生涯さえをも虚構し−なき人を忍ぶることもいつまでぞ今日のあはれは明日の我が身ぞ−という他人の歌で、四十二歳の生涯を無化・全的否定すること、しかも、その否定的認識がありながら、敢て生涯の和歌を編年的に集成し、家集として遺していること、こうした両義性の意識は、他の平安朝文学者と紫式部とを区別する紫式部の特性であり、紫式部文学の特質である。」(U−80)というように、自己を対象化し虚構化する紫式部、この紫式部もまた立派な自己意識の主体である。さらに、自己意識の主体は、紫式部ばかりではなく、源氏物語の登場人物もまたそうであるように語られる。「私たちが普通第一部というと名付ける藤裏葉巻までにおいては、〈なぜ〉という論理は作者によって担われ、光源氏の栄華というこの物語の貴種流離譚的な色彩を濃厚に帯びた主軸的な構想は、作者の眼差しから問われ、解釈されてきた。その解釈の言語の軌道が、物語の表現であったのだが、若菜巻以後の所謂第二部に到ると、登場人物自身がその問いかけを担い、作者は、その多声的な問いかけをただ坩堝に投げ込み、その煮えたぎる様々なの声を聞いているのにすぎないのである。」(U−320)著者によれば、源氏物語第二部以後の登場人物達もまた、自己を対象化しようとする自己意識の働きを担っているのである。
 このように、この分厚い本に刻みこまれている骨太な骨格とは、自己の対象化という自意識の働きというものであることが分かるだろう。ポストモダンのタームによって、著者が印象づけようとしている世界とは、網状の文学史であり、源氏物語の循環する時間であり、テクストにおける言葉の戯れであるかのように一見見えるが、それらを構築する基本的な働きというのは、あくまでも、ハードとしての自己意識の働きそのものなのであり、むしろ著者の意図は、ソフトとしての「物語」を徹底してこの自己意識によるハードの世界の側に解体してしまおうとすることなのだということが分かるのである。
 この著者の方法を古いと言ってしまうことは簡単には出来ない。何故なら、現在の「物語」というソフトはあくまでも疑似的なものでしかないからだ。著者と違って、人間の無意識的世界の復権を唱える「物語」論者は、それが疑似的なものでしかないということの意味をあまり考慮しない。著者にすれば、それが疑似的なものである限り、真の「物語」など無いのも同然なのであり、あるとすれば。それは現代の自分が読めるという範囲で有るに過ぎない。それなら、読めるという基準とは何か。それこそ、自己の対象化という自己意識の働きなのである。それについて、著者は「源氏物語に於いては、その叙述している表面の世界では意味が隠されており、その隠された意味を探そうとして、解釈という同化がなされる時に、虚構であり、非現実であり、過去であったものが事実・現実・現在として、生きられうる世界として開かれてくるのであって、そこに神話的世界の復活が発見できるのである。」(T−72)と述べる。重要なのは「解釈という同化」という言い方である。この「解釈」は隠されたものを探る働き、認識であるから、著者の論理からすれば自己意識の働きそのものと考えることが出来る。ところが、ここで著者はそれを同化だという。つまり、自己意識こそが、虚構であり、非現実である対象に同化する方法だというのだ。この同化というのを憑依と言い換えてもいいだろう。自己意識による憑依。何とも、奇妙な方法だが、分からないではない。この自己意識というハードの方法こそが、「源氏」という物語に憑依する唯一の方法なのだという著者の思いは読み取るべきだと思う。
 そこから、たぶんに、「物語」というソフトが氾濫する現代への頑固な拒絶が見て取れる。わたしは、以前、著者から〃おたく族〃と批判されたことがあるが、著者は、簡単にソフトの世界に浸りきる〃おたく族〃が嫌いなのである。

次の書評をどこに掲載したのか忘れましたが、載せておきます。
ロゴスはエロス?エロスはロゴス?    −『物語文学の方法T・U』を読む−          
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 三谷邦明著『物語文学の方法T・U』をとにかく読み切ってみた。源氏物語を研究の対象などと考えたことなどなかったので、大半が源氏の分析に費やされているこの大著を読み通す自信はなかったのだが、案外に早く読み通せた。無論、分からないことは読み飛ばす感じで読んでいったので、内容の理解という点では心もとないのだが、骨格は割合簡単で、細かな分析は錯綜しているようでも、全体としてはその大きな骨格の方法に従っているので、それをつかんでしまえば、読み通すのにそれほど困難はなかった。困難だったのは、その骨格の印象と、著者がこの本の隅々で印象づけようとしている著者自身の方法とがどうしても一致しないということにあった。著者の声高な方法論の言説を信じたらいいのか、それとも、著者の思考そのものの動きとしてこの分厚い本に刻みこまれている骨太な方法論を信じた方がいいのか迷ってしまった。でも、結局は、この本それ自体から浮き出た方法こそがここで問題にされるべきなのだろう。というのも、この本自体には少しも迷いはないからである。三谷氏の言説が認めるように、あくまでもテキスト(ここではこの研究書)が主体なのだ。このテキストの中にもまた複数のテキストがきっと織り込まれている。だから、著者にならってテキストの〈二度読み〉をすればいい。〈時間の循環〉を読もう。〈網状〉に読もう。〈戯れ〉を読もう。が、その前に、この分厚い本に刻みこまれている骨太な骨格を読まなくてはならない。


 まず、この本には、二つのレベルにおけるタームが混在していることを指摘しておこう。それは、モダンのタームとポストモダンのタームである。索引を見渡せば分かるが、例えば「し」の項で、「時間の逆流・時間の循環・時間の線条性・時間の遡行」とポストモダン的タームが続くと、次に、「自己意識・自己意識の対話・自己意識の文学」とモダン的タームが続く。その用例を読むと、源氏は「時間の循環」の文学であり(何度も出て来る)、また一方で「自己意識の文学」(U−337)であると両方を肯定的に用いているのが分かる。ポストモダンは「自己」という主体を認めない立場から出発したのではないかという常識的な批判は差し控えておこう。この本はその程度の常識を屁とも思わずに、このような混在を許容しているのである。
 図式的に分けてしまえば、この本に刻みこまれている骨太な骨格は、モダン的タームの側にある。そして、著者の印象づけようとするあるいは夢想する方法論はポストモダン的タームにあると言うことが出来る。が、問題は、この、本来は相入れない二つのタームの図式がこの本のなかではそれほど対立しないということにある。つまり、モダン的タームがいつのまにかポストモダン的タームの根拠になり、そしてポストモダンのタームがモダン的タームの根拠になってしまうようなことがこの本の中では起き得るのである。

 3
 この『物語文学の方法』T・Uを貫く骨格を一言で言えというなら、〈それからどうした〉から〈なぜ〉へ、という方法であると言っていい。この方法は、物語の文学史全体を見渡すときも、そして、源氏物語個別の分析においても用いられている。この用語による方法が意味するところは、出来事にそった叙述から、描写を中心にした叙述へという変化なのだが、著者はこの変化に、実にたくさんの方法論上の発見を見てしまう。例えば、それを時間意識という観点から見れば、前者は直線的時間であるが、後者は錯綜した時間であると言える。そこで、叙述の時間から虚構の時間へというようにその変化を読み、そこから〈時間の循環〉という、源氏物語の決定的な読み見いだそうとするのである。 しかし、この変化そのものを捉える思考がモダンそのものであることを著者は隠さない。例えば、文学史の方法的分析において、「語り」から「物語」というラインを設定するが、そこで、「『物語』とは本質的に『語り』を対自的に対象化したものに他ならない」(T−93)、と述べている。あるいは、「物語文学の〈成立〉は〈カタリ〉が〈虚構〉として自立する点に一つの根拠を持っている。」(T-133)という言い方によっても分かるように、〈それからどうした〉から〈なぜ〉への変化というのは、〈対自化〉や〈自立〉というようなもの、言わば、ロゴスの働きそのものとして捉えられているのである。このロゴスの働きは、当然、源氏物語の分析にも貫かれている。
 「源氏物語は、意識として、虚構を自立したものとして認識した、最初の平安朝物語であった。」 (U-6)
 「過去の出来事の目撃者が、その出来事を〈それからどうした〉と記述していく物語の方法が、〈な  ぜ〉という疑問を負うことによって変貌していく過程それ自体が、平安朝物語の歴史であり、そ  の〈なぜ〉という質問を、物語の最初に導入し、小説的手法とも言うべき方法を樹立しようと志  向したのが源氏物語なのである。」(U−16)
この場合、自立し志向するのは、源氏物語というテクストである。というより、ここではテクストがロゴスの主体になっていると言ってもよい。が、主体はテクストだけではなく紫式部もまたロゴスの主体として登場する。
 「自己をあくまで対象化し、他者化すること、自己の生涯さえをも虚構し
   なき人を忍ぶることもいつまでぞ今日のあはれは明日の我が身ぞ
  という他人の歌で、四十二歳の生涯を無化・全的否定すること、しかも、その否定的認識があり  ながら、敢て生涯の和歌を編年的に集成し、家集として遺していること、こうした両義性の意識  は、他の平安朝文学者と紫式部とを区別する紫式部の特性であり、紫式部文学の特質である。」  (U−80) 
 「紫式部の文学の方法を形成していると思われる対象を両義的に捉える方法は、夫の死を契機に獲  得されたものである。それ以前は、清少納言、あるいは一般の平安朝の女性と同様に、彼女もま  た対象を一義的にしか捉えていなかった。しかし、宣孝の死を契機に、彼女は〈死〉を、単に慟  哭的に涙で解消せず、内面へと下降させたために、両義的な視点を生み出したのである。」(U  −94)
自己を対象化し虚構化する紫式部、そして、夫の死を内面化することで一義的視点から両義的視点を獲得する紫式部、この紫式部もまた立派なロゴスの主体である。著者は、源氏物語の創作契機をこの紫式部のロゴスの働きに置く。源氏物語を書かれたテクストとして作家と切り離し、その中性化された表現の諸相から分析を展開しているはずなのに、何故作家論と誤解される紫式部論がここにあるのか、と当然疑問は起こるだろう。が、著者にとってこれは作家論ではなく、源氏物語という虚構の物語が自立する過程を多様に説き明かすためのひとつの手段として考えられているようだ。そして、さらに、ロゴスの主体は、紫式部ばかりではなく、源氏物語の登場人物もまたそうであるように位置付けられる。 
 「私たちが普通第一部というと名付ける藤裏葉巻までにおいては、〈なぜ〉という論理は作者によっ  て担われ、光源氏の栄華というこの物語の貴種流離譚的な色彩を濃厚に帯びた主軸的な構想は、  作者の眼差しから問われ、解釈されてきた。その解釈の言語の軌道が、物語の表現であったのだ  が、若菜巻以後の所謂第二部に到ると、登場人物自身がその問いかけを担い、作者は、その多声  的な問いかけをただ坩堝に投げ込み、その煮えたぎる様々なの声を聞いているのにすぎないので  ある。」(U−320)
著者によれば、源氏物語第二部以後の登場人物達もまた、自己を対象化しようとするロゴスの働きを担っているのである。
 この分厚い本に刻みこまれている骨太な骨格とは、このロゴスの働きというものであることが分かるだろう。この本では、〈それからどうした〉から〈なぜ〉へと、その働きが形容されているが、その用語はE・Mフォスターからの引用であり、本当は著者固有の問題意識としてあったものであろう。つまり、即自から対自へという、基本的な認識の運動である。

 4
 ところが、この本は、それほど単純ではない。著者が印象づけようとする方法とは、網状の文学史であり、源氏物語の循環する時間であり、テキストにおける言葉の戯れであるからだ。しかも、やっかいなのは、そのポストモダン的タームでイメージされる方法的世界を、そのロゴスの働きという骨格の否定の上に樹立するのではなくて、ほとんどその上に直に開示しようとするからなのである。
 そのことを、〈二度読み〉の問題として見てみよう。著者は文学とは基本的に二度以上読まれるべきだと力説する。
 「あらゆる文学にとって、批評や研究は二度読むことからはじまるのだが、源氏物語は本文自体が  〈虚構〉と〈叙述〉の時間に分離することで、本文そのものが批評や研究を内在化しているので  あって、二回以上読むことを求めているのである。」(U-146)
 「最初に作品を読む行為は、単に作品の世界を体験するに過ぎない。認識とは、それ以前に体験し  たものが、もう一度くり返された時、今まではその重要性が分からなかった経験を基盤として存  立するのであって、再び時を見いださないかぎり、作品を認識することは出来ないからである。   こうして、源氏物語は生きられる時間となる。神話の現前性の世界が復活し、過去・非現実・  虚構である世界が、生きうる宇宙として私達の前に置かれるのである。」(T−80)
以上が、二回以上読まれなければならない論理なのだが、ここで注意しておきたいのは、後者の引用において、前半と後半とでは論理に飛躍があるように見えるということである。前半は、やはりロゴスの働きとしての認識の運動によって、二回以上読まれなければならないことが述べられているのだが、そう読むことによって、「源氏物語が生きられる時間」となり、「神話の現前性が復活する」というのである。この後半の主張が、近代批判であることは、次のようにロラン・バルトを引き合いに出して来ていることからも明らかだろう。
 「ロラン・バルトは『S/Z』の中で本文を一回だけ読むという神話は、近代のブルジョア社会の消費の中から生まれたものだと述べている。昔話などの場合もそうだが、繰り返して聞き・読むことが古典期の享受の方法であって、一回めの読みのみが本文を規定するという幻想は、近代の中で生じた幻想であるに相違ない。」(U−164)
確かに、ロラン・バルトは『S/Z』(P19 みすず書房)でそう言っている。しかしロラン・バルトは「読書もまた複数的なければならない。つまり入口の順序をなくさなければならない。」と言っている。あるいは、「再読とはもはや消費ではない。遊びである(差異の反復というあの遊び)。」とも言っている。つまり、同じ近代批判だとしても、著者の言う再読の論理とは微妙に違うのだ。それは、ロラン・バルトがテキスト自体を差異そのものと言い切るからであり、そのテキストの生成にロゴスの働きを認めていないからである。だから、それを読むことは、「入口の順序」を無くすことであり、差異の反復、遊びだと言い切れるのである。だが、『物語文学の方法』では、そこまで言い切れていない。それは、まず、一度めから二度めへの再読というのは、不可逆的な認識の働き、つまり、一度めはたんなる体験であるが、二度めからはその重要性を認識するといった、ロゴスの働きを担っているからである。つまり、著者の再読には入口があるし、とても遊びと言い切るには重すぎる。が、それでも、その結果、神話の現前性が復活すると考えられているところに、ロゴスの働きそのものの上にポストモダン的な方法世界を直接接木してしまう、著者独自の論理が現れていると言えるだろう。


 しかし、何故直接接木出来るのか。その飛躍の論理を著者は次のように説明している。
 「源氏物語に於いては、その叙述している表面の世界では意味が隠されており、その隠された意味  を探そうとして、解釈という同化がなされる時に、虚構であり、非現実であり、過去であったも  のが事実・現実・現在として、生きられうる世界として開かれてくるのであって、そこに神話的  世界の復活が発見できるのである。」(T−72)
重要なのは「解釈という同化」という言い方である。この「解釈」は隠されたものを探る働き、認識であるから、今までの著者の論理からすればロゴスの働きそのものと考えることが出来る。ところが、ここで著者はそれを「同化」だというのである。これはどういうことだろう。著者は、結局、神話的世界の復活ということを、読み手が作品の虚構の世界の中に憑依して、その虚構が、事実・現実・現在として体験されるということと考えているようである。とすれば、「同化」とは、憑依の言い換えに過ぎない。とすると、著者の論理では、「解釈」することが憑依するということになる。こんな論理があり得るのだろうか。
 「解釈」つまりロゴスの働きとは、本来、憑依していくような意識の喪失から遠ざかろうとする意識の運動であるはずである。それは醒めることだと言ってもよいが、醒めることが読書の楽しさを奪うことは誰しも体験していることだろう。ところが、この本ではそうではない。醒めることあるいはロゴスの働きそのものが、作品の中に入り込むこと、憑依すること、同化することといったエロス的行為だと言うのである。それは、すでに、源氏物語がいや文学そのものが、ロゴスの働きそのものによって生成しているから、あるいは、ロゴスの働きそのものであるから、例えば「本文そのものが研究や批評を内在している」というように。だから、それを読むこと、つまり憑依することは、読み手のロゴスの働きによって、対象自身のロゴスの働きに同化すればよいということになる。つまり、ここで読むという行為は、ロゴスの働きとしての極めて近代的な分析や批評なのであるが、それが憑依という究極の反近代的読書行為としてそっくりそのまま肯定されていると言えるだろう。
 ポストモダンのタームでイメージされた、「網状」の「時間の循環」のそして「戯れ」の方法的世界とは、読む、憑依する、同化するという行為そのものを成立させるものとして使われている。それは、構造主義のテクスト論の単なるコピーでもないし、またロランバルトが「遊び」だと言わなければならないような、近代のデカルト的世界からなるべし極北に位置しようとする〈距離〉もそこにはない。その意味で、これらのタームが出て来る必然性があまり無いのではないかという懸念はあるのだが、ただ、読むという行為が対象と同化しようとする混沌としたエロスに支えられていることを考えると、ロゴスとしての秩序的な読む行為をどこかで無秩序な行為に転換する装置として、これらのポストモダンのタームが必要だったということは理解出来る。
 また、それらのタームは、ロゴスの働きという強烈な自意識の主体を隠すという機能を持たされていたのではないか。たぶん、テレのためか、あるいは、主体というものは、拡散され多様化されるという確信のために。確かに、主体はだいぶ拡散され多様な主体が現れた。が、隠されたわけではない。その程度で隠されるほど、この本を語る主体、あるいは、「語り」から「物語」へと文学史をひっぱっていく主体は、やわではないのである。
 著者は、
 「そうした初期物語の意味を喪失した反省意識のない虚偽への単純な没入を拒否・克服したところ に、源氏物語の出発点があり、その〈なぜ〉という疑問が物語の世界ばかりでなく、源氏物語の  表現・文章・文体の特性を形成しているところに源氏物語の方法的本質があるのである。」(U  −127)
と述べているが、ここでの「方法的本質」とは「拒否・克服」する戦闘する本質なのである。この本の中で、方法は前の方法を克服するためにいつも戦っている。戦えるのは、克服する主体というものがいつも明瞭だからだ。著者の方法によれば、以前の主体は隠され、新しい主体は拡散し多様化して現れる。しかし、いずれの主体も「拒否・克服」する戦う主体であるかぎり、隠されることはない。著者は網状の文学史と言うが、個々の網目は確かに多様で直線的でなくても、それぞれが「拒否・克服」という運動に投げ込まれることで、全体の網が一本の太い文学史の直線を形成していることは否めない。この本は、方法の闘争史観とでも言うべき様相も見せているのである。


 考えてみれば、ロゴスの働きがそのまま同化というエロス的行為に成るというのは、作品を研究・批評することと、作品を読むことがどうしてもかかえてしまうパラドックスのいかにも著者らしい解決法なのだと思える。源氏物語が本当にこのように読めるのかという問いはここではつまらない。あるいは、何のことはない、源氏物語を読むこととは解釈という認識運動に付き合うことではないかというちゃちも入れるべきではない。この本が究極のところで目指しているのは、読むこと、憑依すること、同化することというエロス的行為なのであるから。ただ、その時、自分の資質としてのロゴスの働きを決して放棄しなかっただけなのだ。この強烈な自意識を保持したまま、エロス的行為は可能なのか。可能でないはずはない。何故なら、自意識こそが源氏物語というテキストを読んでいるではないか。憑依しているではないか。それは、どうしてか、テキストの側に同じ自意識があるからである。ならば、そのロゴスの働き(自意識)という一点で、自己と他者とのエロス的行為は成立する。この本はかなり屈折した恋愛論なのである。
 それにしても、研究・批評することが、読むこと、憑依することになるはずだという思いを実現するために、文学という対象そのものをロゴスの働き(自意識)を持つ生きたもうひとりの他者(ある意味では自分)に仕立てあげたその膨大な努力には頭が下がる。時々、対自化という認識の働きを持つ源氏というテキストそのものや、紫式部が著者自身ではないかと思ったりしたのだが、それは、やはり根拠があったのだった。
  
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