瀬棚フォルケホイスコーレ

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新しい学校の試み─瀬棚フォルケホイスコーレ


河村正人(瀬棚フォルケホイスコーレ校長)
(1995年5月20日のグルントヴィ協会総会での講演から)

青春の悩み

 6年前から北海道の瀬棚というへんぴなところで学校を、孤軍奮闘という形でやっています。河村です。今日こうしてグルントヴィ協会に寄せていただいて、仲間たちがこんなにたくさんいるんだと勇気づけられています。

 私は山口県の防府市で生まれ育ちました。17才ぐらいから、とくに青春特有の悩みといいますか、例えて申しますと地球の半分を一人でしょっているような苦悩におちいりました。断食をしたりいろいろなことをしました。でもそのとき悩みに答えでくれる大人は誰もいなかったのです。私は、大人になったら、青年の悩みに答えてあげることはできなくても、いっしょに悩むことのできる大人になりたいと思いました。

フォルケホイスコーレとの出会い

 私は北海道の江別にある酪農学園大学に入り、酪農のことを勉強しました。当時、酪農といえぱニュージーランド、アメリカのウィスコンシン、スイス、あるいは西ドイツといった国の酪農が有名でした。ところが私の母校はひとつデンマークに照準を合わせていたのです。デンマークの農村の豊かさをいつも強調していました。たしかに酪農の技術としてはアメリカのウィスコンシンやカリフォルニアの方が進んでいました。

 私は、朝晩牛舎で働きながら、日本の酪農家の場合は、女性が大変辛い状況に置かれていることに気がつきました。男が働いていないというわけではありません。しかし、女性は朝晩牛舎の世話をし、そのあと家事をするという具合に、女性に負担が大きいのです。私はその後デンマークに行き、農家の女性がたいへん人格的に尊重されているのに驚きました。男性と女性のつきあいが人格対人格なのです。デンマークのこの男女の人間関係はどこから来ているのだろうというのが私の疑問になりました。

 デンマーク滞在の二年目にグルントヴィの流れをくむ「農学校」に入学し、そこでまざまざと見たことは、デンマークの国民性を精神的に高めているのはフォルケホイスコーレであることでした。

 たとえばこういうことがありました。デンマーク各地から年頃の若者が集まるのですから、最初の内は廊下がうるさかったり、言葉が乱暴であったりします。でも2、3か月たつと、非常に心の安らぐような雰囲気が学校の中に漂ってきます。それは校長家族と同じ屋根の下で寝泊まりをするからであり、校長家族の影響力というものが大きいことに私は気づきました。これはフォルケホイスコーレの伝統だと思い、日本に帰ったらぜひこの農学校のような学校をつくりたいと思いました。

入植

 しかし、北海道に帰ってみると、もう生きることに精一杯なんですね。なにしろ道もない、家もない、水もないというところに入植したものですから。最初の3年間は牛3頭しか飼えないという開拓生活が続きました。

 でも、私がデンマークの学校で受けた教育があまりにも衝撃的であったことと、そこには苦悩する青年に十分答えてくれる大人がいるという事実のために、20年の間、学校をつくるという希望が消えなかったのだと思います。20年間もよく夢を忘れなかったなと言われますが、それはデンマークが私に与えた衝撃の大きさのゆえなのです。

 そして6年前にフォルケホイスコーレを暗中模素で始めたのです。『生のための学校・フォルケホイスコーレの世界』という書物がもし6年前に出ていたならもっと自信をもって「フォルケホイスコーレ」という名前を出せたでしょうね。当時、フォルケホイスコーレという言葉をわかってもらうのはむずかしかったのです。九州からこの本が出て、私たちはエールを贈ってもらっていると感じています。

「生きた言葉」を「生きた耳」に

 「生きた言葉」というのは何だろうとよく質問がでます。私はこのように思います。深い思索と体験を経た後に出てくる個性のにじみだす言葉。つまり語る人が自分の握力、脚力を通して感じるその人の個的な言葉であること。その人の個的な感動、それがその人の言葉になるときに、聞く人の心を打つのではないか、というふうに考えます。もちろん私たちは本を通しても、感動しますから、その体験を通して、その思いを通して語ることができれば、それは生きた言葉になりましょう。

 ですから、塾生たちにも、あるいはここで働くスタッフたちにも、できるだけたくさんいろんな体験をしてもらいたいと考えています。その中で見つめることがら、発見することからは、本に書かれた言葉ではなくて、自分が見つけた言葉、自分が見つけた感動であり、それは語るときに人のこころをきっと打つであろうと考えます。

 「生きた耳」とは何でしょうか。たとえば、フォルケホイスコーレで働くスタッフと若い人たちの間に、人格的な関係がなければ、handbell感動する言葉、重い意味をもった言葉もなかなかすんなりと入っていかないのではないか。つまり、私がいつも権威をもって押しつけがましく語る言葉であれば、生徒にはケムタイ言葉でしかないのではないか、という気がします。 私たちの間では、ですから、「先生」という呼び名は使いません。15、6才の塾生たちも頭の薄くなった私を「正人さん」と呼びます。つまり「〜さん」「〜くん」とファーストネームで呼び合うのですか、それは言葉による障壁をなくし、できるかぎり人格対人格の関係を築きたいという思いによっているからです。

 「先生と生徒」という上下の関係は今までの日本の教育では確かによく機能しました。しかし、これからの新しい教育を考えるときには、どうしてもそれに代わる人格的な関係が必要だと思います。私自身にしても塾生からたくさん学びますから、彼らが私自身の欠点、やあやまちを自由に指摘できるような雰囲気がなければなりません。そのときに必要なのは互いの人格を尊び磨き合う間柄です。そういう間柄で一年間を過ごしたいといつも願っているのです。

 瀬棚フォルケホイスコーレでは今13名の塾生がいます。全国から集まってきます。「生きた言葉と生きた耳」ということをいつも心に置きながら、スタッフと若い人が24時間ともに生活をしています。

スコーレ(学校)の意味

 フォルケホイスコーレの「スコーレ」は、もともとギリシャ語の「スコレー(余暇)」という言葉からきています。余暇といっても私たちがふつう思い浮かべる「レジャー(娯楽)」ではなく、忙しい日常から自分の身を引き離し、今までの過去をふりかえり、自分の将来を展望するといいますか、そういう時をもつ、それがスコレーの意味ではないかと思います。

 ですから私たちのフォルケホイスコーレで一年問を過ごすとき、強制というものはありません。ただひとつ約束事かありまして、「隣人に迷惑をかけない」ということです。今の社会の中で学校が規制するようなことでも、ちょっとしたことは私どものふところの中で、少々大目にみています。つまりそれもその人のひとつの自己表現と考えられるからです。人に遠惑をかけない限り、その人の自己表現としてできるかぎり尊重し、また趣味や好みも同様に尊重するという姿勢で来ました。

日本の中では

フォルケホイスコーレというのは、日本ではほんとうに理解されにくい学校です。『オチコボレ』の行く学校という見方もあります。でも『オチコボレ』という表現があるということ自体が日本の異常な状況を表しているといえます。個性をほんとうに発揮したいという若者たちは学校の規制の中で押し殺され、『オチコボレ』と見られてしまう。こうした状況が世界から見たとき、個性のないみな同じような顔をした国にしていると私は思っています。 私どもの学校に集まってくる人たちは、ほんとうに個性的で何かしようとしている人たちです。もちろん一人一人は欠点ももっているわけですが、それは一年暮らす中で、互いに磨き合い、ぶつかりあっていい感じに仕上がっていきます。

 「日本の風士にあったフォルケホイスコーレとは」と演題の中にいれておいたのですが、ここに来るまでに、むしろこうした考え方は間違っていることに気づきました。日本の風土にあう学校ではなく、むしろ日本の風上に欠けているものを、フォルケホイスコーレを通して学ぶことが大事なんだということ。日本の風土にはなくて、絶対に欲しい大事なものを学ぶことをフォルケホイスコーレに盛り込みたいのです。

入学の年齢は

 現在、私どもの学校では、下は15才から上は33才(上限はありません)までの青年を迎えておりますが、15、6才くらいで、たとえば遠い九州からいきなり北海道のへんぴなところで共同生活を始めるとパニックに陥りがちなんですね。

 入学する際には、三泊四日の体験入学を義務づけておりまして、親が強制的に入れるというようなことは避け、本人が自分の中にあるものを見いだしたい、磨き上げたいという形で、どうしても入りたいということを確認するために、いろいろとじっくりお話したりします。それでも最初のひと月、ふた月はいろいろと大変です。本人の甘えやそれまでの生活習慣が出てしまい、ペースをつかむのが大変です。

 それゆえ、私どもは、入学年齢を18才に引き上げようかと何度も話し合いました。それでも自分たちの体験やデンマークのエフタースコーレでの実践などを考えると、16才で家からいったん離れ、自分で生活してみることの教育的な意味は大きく、そのままにしました。

 15、6才になりますと、すくすくと育ってきたそれまでと違い、世の中の矛盾や親の欠点、も見えてきます。人間関係のうえでどうしてもぎくしゃくしたものが吹き出してくるんですね。学校は学校で今のこのような状況ですから、青年らしい純枠さを全うするような環境はどこにもないのですね。こういう中にあって鬱屈してしまった年頃が15、16,17才ころの青年なのです。

 こう若い人の中で、北海道のへんぴな所に行って、牛と一緒に生活しながら、じっくり人生を考えてみたいという人がいるなら、よろこんで迎えたいと思っています。自分の寄るべき所を捨て、その上で新しい場所をつくろうとするのですから、かなりぶれても当然です。それでも、その青年が必ず見つけてくれるであろう将来の展望とか、生きがいとかを考えるなら、私どもの少々の困難は大したことではないのです。そんなわけで、これからも15、6才の若者を迎え人れようと思っています。farm

新しい広がりと将来の夢

 将来の展望ということでいえば、私は、老いゆく人たちのためのホイスコーレが絶対に必要だと考えるようになりました。今、デンマークでは3校ほど高齢者のためのホイスコーレがあると聞いています。老いゆく人が最後に自分の人生の輝きを見いだせる場所として、この老いゆく人のためのホイスコーレをつくりたいと考えています。

 しかし、これを単独につくっても意味が薄いと思います。若い人のホイスコーレと歩いて10分くらいにこの学校があって、老いた人と若い人かお互いに行き来できる距離にあるということが大事です。老いた人が唯一財産にしている人生のキャリア、人生の先敗、さまざまな経験を語る土俵を用意してあげて、若い人たちがそれを聞き、宝として蓄えていく。同時に若い人たちはありあまる力を老いゆく人たちのため、彼らの生活環境のために費やしてあげるという、そういう助け合いの形、これをぜひしてみたいという思いがあります。

 そしてまた、現在社会に出て一生懸命働いている人たちのためのショート・コースもしてみたいと思いますし、40代を中心にした女性のコース、子育てを終えて、もう一度人生を考えてみたいという女性のためのコースもやりたいものです。この女性のためのコースは一度3年前にやりましたところ非常に好評だったんですね。そのときには受け入れるスペースがなくて困ったんですが、今回は山岸さんというスタッフのご両親が神戸から引っ越して、ここに移り住み、全財産をなげうって民宿のようなものをお作りになったので、いわぱりっぱな家庭寮ができ、ここを利用してできるのではないかと思います。

 若者のためのホイスコーレから出発したんですが、老いゆく人のためのホイスコーレ、そして社会を支え無我夢中で走っている人のためのホイスコーレ、あるいは子育てを終えてこれからの人生をゆっくり考えるためのホイスコーレも、あるととても楽しくなります。

 よく人から、実際やっててほんとうに大変でしょうと言われますが、もちろん大変なこともあります。これは九州でつくるときに参考にしていただきたいのですが、一番の問題はスタッフのプライベートな時間と空間をどのように確保するかということです。

 家庭寮というスタイルをとっていますと、これはときおりそこになじんだ塾生たちが、彼らスタッフのプライベートな時間と空間を侵害することもあります。もちろん普段はそんなことはないのですが、スタッフは一週間に一日先全休養日をとっています。そのときはスタッフだけの家族で過ごす空間が用意されているのですが、塾生たちは家族同然になじんでいるので、そこの線引きがむずかしいわけです。これはスタッフだけの十分な空間を確保するという経済的な間題でもあります。もうすこしスタッフのための空間、居間とか保証できれば解決できる問題だとは思いますが。

 こういう学校はスタッフが疲れると立ち行かななくなります。スタッフがいかに生き生きしているかが大事です。それはスタッフがいかに快適にプライベートな時間を過ごすかにかかっていまして、その点北欧のホイスコーレはこの問題を解決していると思います。私のいました農学校でも、校長夫婦が休みを取るときは、別のスタッフ家族が代わりに来て、対応していました。

 私どもの学校では、正直申し上げて、経済的にはみなボランティアみたいな仕事をしてますね。この点が問題です。みなそこにおもしろさや生きがいを感じている今はいいんですが、このままとてもつづくとは思えません。たとえば、さっき申し上げた短いコースなど人れて、経済的にもう少し何とかしたいとも考えています。

 スタッフたちが働き、正当な対価としての報酬を得るということはとても大事なことです。今10名のスタッフがいるのですが、退職金とあらゆる年金制度には入っています。でも八割程も国からの援助があるデンマークに比べると、私たちは孤軍奮闘というところでしょうか。

希望を育てる

 最後に、瀬棚フォルケホイスコーレが農業を基盤にしていることについてお話します。これから日本でいろいろな形のホイスコーレが出てきて欲しいと思いますが、私たちのホイスコーレか農業、酪農に固執しているのは、何よりも、食べるためという問題があったんですね。最初は私と妻と子ども6人、小さな家族が食べるための酪農という農家形態をとっていました。どうにか一家族は食べていけるんです。あと塾生のみなさんからいただく年間の授業科、教育費、生活費合わせて120万円。これもデンマークやノルウェーのことを思うとこれ以上上げられないと思います。お金が高いから行けないということだけは避けたいという思いがありまして、押さえていますので、そのためにも農業が必要なのです。

 しかしそれだけではありません。農業という営みは、来年も必ず芽が出て、育ち、収穫に至るというということを完全に信じている業(わざ)であること。たとえば木を植えます。トドマツは大きくなるまで50年かかりますし、木々の成長はだいたい30年から50年かかるのが当たり前です。

 今、私たちの国を震撼さぜています新輿宗教団体にしましても、彼らの主張は「明日がない」ということです。しかし、農業に携わっている者は「明日がない」ではやっていけません。いえ、明日こそ夢をもって「今日、リンゴの木を植えよう」という思いでいます。またこれが農業をする者の特権であり、心の健康さではないかなと思っています。

 ですから九州でホイスコーレをつくるときは、少しでもいいですから農地を手に入れて、土と触れるという機会をもってもらいたいと願います。大地は、私たちの出自、どういう身分でどのくらい財産をもっでいるかということで判断いたしません。そうではなく、どのくらい大地に尽くしたかで、私たちに命の糧を恵んでくれます。ですから、それがあるかぎりどんな学校の形をとっても、命を慈しむという教育を支えてくれる役割をもってくれましょう。

 さきほど「今日、リンゴの木を植えよう」と申しましたが、マルチン・ルーテルという宗教改革をした神学者の言葉です。「世界が明日破減に向かおうとも、今日私はリンゴの木を植える」。21世紀という暗い森に足を踏み入れる若い人たちを励ますために教育に携わる者には非常に励まされる言葉でもあります。

連絡先はここ!

参考:清水 満「牧場の丘から夕日を見てきました-瀬棚フォルケホイスコーレ報告記」
後藤詩子「大きく広がる樹となるために - 瀬棚フォルケホイスコーレでの6年間をふり返って」

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