13:00成田発のEG209(日本アジア航空、政治的事情でJALは台湾に行けないためJALが作った子会社)で台湾へ、G/W初日なのでB747は満席。
15:50、定刻どうり中正国際機場に到着。 両替して、バスで台北站(站は中国語で駅のこと)に向かう。
天気は曇りでどんよりしている。 台北站で降りると例によってスクーターがたくさん走っている。
台湾に来た事を実感する。 台北站で明日の台南までの特急の切符を購入する。
例によってメモ帳に「明天 台南 自強号 9:00or9:55」と書いて意志の伝達を図る。(筆談)
結局切符は無事取れたので日本語がわかるおばさんが経営している「ホタル学生宿舎」に行ってねぐらを確保する。
それからちょっと遠いが龍山寺まで歩いていってみる。 もう日が沈んで暗くなってしまったがそれなりに楽しめるだろう。
結局道に迷い、怪しい通りを避けて1時間ほどで到着。 日本のお寺と違って蝋燭や電灯で明るい。
お祈りの仕方も日本とは違う。なんとなく落ち着いた雰囲気で、座ってしばらくお祈りを観察していた。
(1) 4月27日
今日から本格的に台湾一周が始まる。 まず最初に台湾第4の都会で古都の台南へ、9:55発の特急で向かう。
途中の新竹に着くと20代位の青年が隣の席に座った。 彼は日本のスポーツ新聞のようなものとパソコンの雑誌を持っていた。
新竹はコンピュータ関係の会社が集まるハイテクタウンで、彼もコンピュータで生活しているのだろう。
ご存知の方もいると思うが、今は台湾抜きで世界のパソコンが作れないほどで日本で見られる20万円代のパソコンはほとんどが日本のメーカーがOEMで台湾のメーカー(特にエイサー)に生産させたものである。
ちなみに私が使っているものも台湾製である。 大きな町には日本のようなパソコンショップがあり、若者でにぎわっている。
パソコン事情は日本と変わらないのでは?
車窓は南下すると同時にヤシの木が目に付いてくる南国情緒あふれる景色になってきた。
さて、12:00になったので台北站で買った弁当(当地では「便當」と書いて「ベンタン」と発音する。)を食べることにしよう。
駅弁は車内販売もしている。 内容は、ご飯の上に骨付きの鳥肉と付け合わせのキャベツの炒めたものがのっていた。
量はまあまあ、これで60元(1元=¥4.6位で¥276)だった。 台湾での食費は朝食がお粥、パンなどで50元位、昼はご飯もので50元〜70元、夕食はご飯もの70元、麺類30元またはスープ30元、飲み物(食堂では水がでないため)またはデザート30元などで計150元くらいだった。
台南に定刻どうり14:00着、とりあえず駅の案内所で地図をもらうことにする。
そこにいたのは60代くらいのおじさんで、元英語の教師だったのだろうか?英語が通じた。
意外に英語は通じるようだ。 それからねぐらの確保、とりあえず駅の西で徒歩30分のドミトリーがある台南市の宿舎に向かう。
ここまで南下するとけっこう暑く、日差しが強い。 ほとんど、夏だ。 行ってみると、今夜は空いているが明日は満室だそうだ。
連泊して洗濯をしてのんびりしようと思ったのに…。 でも動くのが面倒なのと、安い事(一泊230元)からとりあえず一泊する事にした。
この町もスクーター(「機車」と書く。 車は「汽車」)が多い。 台湾では軽自動車を見ない(1BOXはあるが)ので日本で軽自動車に乗っているような人が主なユーザーなのだろう。
若者から年配の人まで幅広い世代で利用されているらしい。 よく見ると50ccはあまりないようだ。
ほとんどが125か150といったクラスだ。 2人乗りが多い。 大人二人に子供二人の4人乗りも見かける。
一応ヘルメットをかぶる事になっているようだがほとんどノーヘルだ。 スクーターが多いので大気汚染が日本より深刻らしく、チェックなど柄ものの大きなマスクをして運転している人が目に付く。
食事は夜店が集まる夜市に行った。 活気あふれる食堂、トロピカルフルーツを並べた果物屋、射的などでにぎやかだ。
昼は暑いせいだろうか、台湾の人は宵っ張りで、夜に家族そろって外出することが多いそうだ。
(2)4月28日
荷物をコインロッカーに預けに駅に向かう。 途中電話会社、中華電信のビルがあったのでテレフォンカードを購入する。
入口にいた電話会社のサービス要員らしいおばさんに英語で話し掛けると通じた。
結構通じるのである。 そこで、カードの窓口を案内してもらい日本までの通話料を聞いてみると100元で3分位らしい。
それだけあれば両親への簡単な連絡ができるので100元のカードを一枚購入した。
用件が済むと先ほどのサービス要員の女性が日本語でこちらに話し掛けてきた。
簡単な会話ならできるらしい。
両親との電話を済ませ、駅に向かって歩いたが見当違いの所を歩いたらしく街の西にある安平と言うところに向かっていた。
安平は台湾の歴史上、重要な所で17世紀にオランダ人が港や砦を作って植民地経営を開始したところだ。
その後、大陸の中国人が入植して台湾人となった。 今でも砦が残っていて公開されているというので行ってみる事にした。
さて、30度を越える強い日差しの中で1時間ほど歩くと安平の砦前に着いた。
そこは廟で、木陰には爺さんが座っていたり、横になっていたりしていた。 木陰は過ごしやすいのでしばらく休憩した。
その後、砦に行ってみたが工事中で入れないとの事。 代わりに近くにあった当時の煉瓦の壁を撮影して駅に向かう事にした。
駅の待合室で缶入りヤシのジュースを飲みながらこれからの予定を考えた。 今日中に高雄へ移動するかそのまま台南に滞在するかの二つだが、ここは噂どうり親切な人が多いのでもう少し滞在する事にした。
とりあえず、「地球の歩き方」にのっている駅に近い一泊500元の旅社に行ってみた。
ガイドブックどうり、一泊500元で部屋を見たところまあまあだったので決定した。
テレビを見てみるとケーブルテレビと契約しているらしく(ほとんどの旅社、旅館がそうだった)地上波、ケーブル専門局、ハリウッドや香港映画のチャンネルはてはNHKのBS、日本専門チャンネルと多彩であった。
一般家庭でかなりケーブルテレビが普及しているらしい。 数年前まで韓国同様、台湾も日本の番組をテレビで流すことが禁じられたが今では解禁され結構人気があるらしい。
何を基準にしたのかわからないが、ある新聞で「ドラマ」のベストテン記事があった。
内容は1〜3位が台湾のドラマで、残りは日本の「ドラマ」だった。 アニメ関係でも「ちびまるこちゃん」(現地では「小丸子」)、「一休さん」、「クレヨンしんちゃん」が人気らしくそれらのお菓子、おもちゃをよく見かけた。
私は見なかったが「志村けん」のお笑いも人気があるらしい。大抵、中国語がわからない人向けに字幕があるのでわかりやすい。
ほとんど中国語で放送されているが台湾語のニュースもある。
(3) 4月29日
居心地がよかったのでもう一泊することにした。 フロントにいたおばあさんが日本語で「トマリ?」とにこにこして言った。
今日は観光は程々にして、食べ歩きも加えてのんびりすることにした。 このまちは、人が親切なことに加えて食い道楽であることで台湾通に人気が高いところである。
まず最初に孔子廟へ。 地元の人が近くの広場で太極拳をやっていた。 あたりを歩くとどこかで見たような民家があった。
近くに来てみると日本風の瓦屋根だった。 戦時中まで日本人が住んでいたのだろうか?
台湾ではあちこちでこうした日本人がいた痕跡を見た。 民家だけではなく鉄道、公共の施設、はては政府の建物などかなり日本時代のものを使っている。
続いて昼食は名物の肉粽、担仔麺(挽肉入りのあっさりした麺)どちらもいける!
特に担仔麺は台湾のあちこちで「台南担仔麺」の看板を見たので有名らしい。
どちらも「地球の歩き方」にでていた有名な店に行ったが地図の位置が若干ずれていたので大体の目安にして行くといいだろう。
次は赤嵌楼へ。 ここも安平と同じくオランダ人が17世紀初頭に建てた屋敷だったのだが、40年後に清との抗争で大陸から追い出された明の鄭成功によってオランダ人が追い出された際に鄭成功の本拠地となったところだ。
鄭成功は母親が日本人で、母親と日本人の両親(鄭成功の祖父母)との別れが近松門左衛門の「国性爺合戦」で描かれている。(ちなみに私は佐渡でこの人形浄瑠璃をみた。)
近代の歴史が始まってからすでに日本と縁があったらしい。(興味のある方は司馬遼太郎の「街道をゆく四十
台湾紀行」をみてほしい)
(1) 4月30日
今日は台南から更に南下して台湾最南端の地、墾丁に向かう。 駅で高雄までの特急の切符を購入してプラットホームへ。
すると列車の電光掲示板に「…遅59分」と表示していたので近くにいた青年に話し掛けてみた。
ところが彼は台湾人でなく日本人で、しかもよくよく話をしてみると旅行作家の大倉
直氏だった。 取材を兼ねた台湾旅行中で、大きな荷物は台南在住の日本人の友人の所に預けてとりあえず南の方を1週間ほど旅行するとの事。
それにしても荷物の少ない事! 日帰りで高雄あたりに遊びに行く雰囲気である。
これだとあとで説明するタクシーの運ちゃんも声をかけてこないだろう。 彼の作品に「メキシコホテル」(旅行人)がある。
内容はメキシコシティーの安宿にいる日本人旅行者たちの話である。 彼の次の作品はこの取材をもとにした台湾の話になるらしい。
楽しみである。
さて、約1時間遅れで列車が到着した。 大倉氏とは車両と目的地(彼はとりあえず高雄の先までの切符を買っていた)が違うのでここで別れた。
車窓の風景は相変わらず田んぼとヤシの木である。 1時間ほどすると高層マンションが目に付くようになり、高雄に到着する。
下車する際におじいさんに道を譲ろうとしたが向こうが笑顔で先にいってと手招きしたので遠慮なく先に行くと彼が「日本人?」と聞いてきた。
顔でわかるとの事。 高雄站から出るとおじさんが「日本人?」と話し掛けてきた。
彼は戦時中、神奈川県内の軍需工場で働いていたらしい。 戦時中、神奈川県内の軍需工場に台湾人学生がかなり働いていたらしい話を聞いた事があるが本物にお目にかかるとは思わなかった。
お名前を聞くと「豊田徳夫」さんと日本名で自己紹介した。 豊田さんは親切な方で、頼りない日本人旅行者の私に「タクシーに乗らずにバスにしなさい。
部屋を決める時は事前に値段を聞きなさい。」とアドバイスをしてくれた。 墾丁に行く旨を伝えると「あそこは台湾人があまり行かない高いホテルの多いところだ。」とのことだった。
さらに駅前のバスターミナルでどのバスに乗れば良いかを窓口に行って調べてくれた。
墾丁にいくには恒春までバスでいってそこで乗り換えになるらしい。 それから豊田さんは本来の用事である工場へ向かった。
日本で言えば自営業の社長さんかもしれない。 バスターミナルに入るとタクシーの客引きらしいおじさん、おばさんが声をかけてきた。
日本語が話せる人もいて、何人か話し掛けてきたがしばらくするとあきらめてどこかへ行ってしまった。
午後のバスで恒春へ向かう。 高雄は台湾第2の都会である。 例によってスクーターであふれる町を抜けると東京湾岸のように化学プラント、貨物コンテナの山が見られる。高雄の港湾地区を抜けると田んぼやヤシの木が見られる田舎となった。
他に浜名湖近辺でよく見られるウナギの養殖池も見た。 次第に左手に山が見え始め、2時間後に恒春に到着。
「墾丁に行くバスはない。」とうそを言うタクシーの運ちゃんを尻目にバスを乗り換え墾丁へ。
着いてみると観光客を当て込んだ店がごちゃ!と並んでいる町だった。 浜に行ってみると案外薄汚れていて沖縄の方がいいかな?などと思ってしまった。
それから日が沈むとどうでもいい音楽が流れてきた。 個人的に見るとなんか不釣り合いのことばかりのまちだなと思ってしまった。
(2) 5月1日
今日は台湾最南端の岬、ガランビに行って台東まで移動することにした。 スクーターを借りるより墾丁→ガランビ→恒春をバスで移動した方が帰りのバスの事が気にならないと思うのでバスでガランビに向かう事にした。
ガランビは日本の観光地の岬を少し地味にしたようなところでおばちゃんが貝殻細工など、どうでもいいものを露店で売っていた。
ただし、海はきれいでいい釣り場なのか?釣りをしている人が結構いた。 200kmほど南下するとフィリピンである。
やはり見えないからか?あまり実感は湧かなかった。 高雄で豊田さんに言われたほど物価が高くなく、台湾人観光客を結構見かけたが1回行けばいいかな?と言うのが実感だった。
バスで再び恒春へ。 高雄には昼に着いた。 なんとか夕方に台東に着く特急に乗れそうだ。
切符もあっさり取れた。 14:55、定刻どうり高雄を出発。 1時間ほど田んぼ、サトウキビ畑、バナナ、パパイヤ、ヤシの木と南国情緒あふれる農村を列車は進んだ。
その後、海沿いの斜面を走り、山のなかに入った。 台湾の背骨、3000m級の山々が連なる中央山脈の末端の山々を縦断する。
いくつか駅を通過するが、民家はほとんど見られない。 高雄から2時間で東海岸、太平洋に出た。
なにもない砂利の浜が広がっていた。 見た事のない底が平らな船がいくつか見えた。
東海岸には17世紀より前から台湾に住んでいる先住民族が多いらしい。 あの船はその人たちのものだろうか?
台湾には大きく分けて3種類の人がいるそうだ。 一番多いのは17世紀から第二次大戦頃までに大陸から移住した本省人、戦後大陸から渡ってきた外省人、そして先住民族である。
彼らは日本で古事記、日本書紀で薩摩隼人と呼ばれた人たちと同じフィリピン、ポリネシア系の民族といわれている。
ルックスは彫りが深く色黒らしい。 東海岸は西海岸と打って変わって断崖絶壁が多いようだ。
台東までトンネルが多かった。
18:18、定刻どうり台東站に到着。 翌日の花蓮までの自強号の切符を購入し駅前の宿に宿泊する事にして荷物を置いて食事に行く。
この町は小さいが通りが規則的なのでなんとなく北海道みたいな感じがした。
でもここの名物か?果物の夜市をみるとやはりここは台湾である。
(1) 5月2日
花蓮までの自強号まで時間があったので、駅に近い台東県立文化中心(日本で言えば文化センター)内にある先住民族の展示がある「山地文物陳列室」に行ってみる事にした。
開館時間(9:00)に少し早かったが、受付のおばさんの好意で入れてもらう事ができた。
彼女は私を一目で日本人と分かったらしく「日本からいらしたの?」と田園調布か成城のお屋敷でないと聞けないような奥様言葉で聞いてきた。
展示物の数はそれほど多くなかったものの、面白い民芸品や写真が展示されていた。
なかでも、ヤミ族の写真が面白かった。 それはお祭りの写真で、伝統衣装である「ふんどし」のようなものをまとった男達が海に船を繰り出す瞬間を撮影したものだ。
なんとなく、日本の裸祭を思わせる。 また、タイヤル族は成人になるとアイヌみたいに顔に刺青をするそうだ。
先住民族は性格も日本人と似ていると指摘する人もいる。
9:45、自強号は台東を出発した。 花蓮に向かって北上するにつれて雲が増えてきた。
旅行前にインターネットで台湾の天気を見ていたが、東部の天気はあまり良くない傾向だった。
地形が険しい、天気が良くないからか?東部の車窓は山と田畑が多い。 人口のほとんどが西部に集中していることになる。
12:34、花蓮着。 駅を降りると観光地ならではのタクシーの運ちゃんの客引きが始まった。
バスで太魯閣の入口にあるビジターセンターに行って時間をつぶし、夕方太魯閣に行って宿泊することにした。太魯閣(タロコ)とは簡単に言えば大理石の峡谷である。
そこを戦後にたくさんの犠牲者を出しながら道を作ったのだ。 バスで通過してみると見事な峡谷だった。
川に転がる白い大理石が美しい。 しかし、狭くてカーブが多いので歩いていくには一苦労が予想される。
終点について薄暗い中、宿探しである。 とぼとぼ歩いていると教会に着いてしまった。
「地球の歩き方」によるとここはドミトリーがあるらしい。 入ってみると人の良さそうな日本語が少しできるおじさん、おばさんがいた。
部屋はあるのでここに決定した。 部屋に通してもらうとなんと、畳部屋だった。
噂には聞いていたがまさか宿泊できるとは思わなかった。 しばらくするとおじさん(あとでわかったことだが、ここはキリスト教の一派、長老教会で「おじさん」は牧師にあたる長老らしい)が食事に誘ってくれた。
食堂で待っているとまるいまな板のうえで大きな包丁をつかって瓜を切っていた。
お祈りの後に食事が始まった。 話題がおかずの鶏になり、おじさんは「台湾では鶏の足は元気のもと」との事で日本人になじみのない足を食べた。
台湾は鳥肉がおいしかった。 列車の車窓で鳥を囲いの中で放し飼いにしたり、ビニールハウスの中で放し飼いにして飼育していたのを見た。
もしかして、ブロイラーがないのかもしれない。
(2) 5月3日
翌朝、朝食をごちそうになった。 週末、おじさんは台北の大学に先住民族の勉強にいくらしい。
おじさんのルックスからこの人は先住民族では?と思った。 昨日のビジターセンターの展示では元来、シャーマニズムを信仰していた先住民族は今ではほとんどキリスト教に改宗したらしい。
日本人で時々色黒で彫りの深い日本人ばなれした顔の人がいるが、先住民の人はそんな感じの顔である。(例えば後藤久美子)
いろいろ部族があるが部族が違うと言葉が通じないため年配の人は今でも日本語を使っているらしい。
おじさん、おばさんは戦後世代の人らしいが、周囲の影響で日本語が話せるのでは?と思った。
食後に荷物をまとめ、あいさつをしてバス停に向かった。 「地球の歩き方」通りに太魯閣を歩いてみる事にした。
強い日差し、通過する車に気を付けながら4時間(休憩含む)かかった。 白くかがやく大理石が印象的だった。
その後、バスで花蓮に向かう。 花蓮の町は所々に先住民族の一つ、アミ族の食品を扱う店があった。
15:46の特急に何とか間に合った。 これで、19:00前には台北に着くだろう。
お隣りの座席は化粧品の会社に勤めていて、息子さんが中京大学に留学されている林さんだった。
ビジネスで日本語を使われているだけあってとても上手だ。 話題はやはり日本の景気やビジネスのことだった。
思い切って中国語で「私は日本人です。」をどういうのか聞いてみた。
日本語 「私は日本人です。」
中国語 「我 是 日本人」
読み 中国語 「ウォ スー ズーベンレン」
台湾語 「ウォ シー ジップンナ」
との事だった。 たしか、普通語(大陸の中国語)では「ウォ シー リーベンレン」だったと思うのだが…。
以前、北京で語学留学した事がある人が「台湾はなまっている、通じにくい」と言ったがどうやら「台湾の中国語=大陸の普通語」とは限らないらしい。
また、林さんによると昔は中国語は小学校から勉強したそうだが今は赤ん坊のうちから自然に覚えるらしい。
とにかく、ほとんどの台湾の人は中国語、台湾語のバイリンガルである。 さらに、若い人は英語が話せる人が少なくなく、日本語が話せる人はもっと多い。
ヨーロッパでいえば北欧、オランダに相当する語学レベルのようだ。
18:56、定刻どうり台北站に着き、台湾一周が達成された。 さっそく両替のため駅前の三越に行ってみた。
トラベラーズチェックを出したが「Cash Only!」といわれてしまった。 幸い1万円札を持っていたので事無きを得た。
台湾のデパートは地下にレストラン街がある。 オープンな店がいくつも並び、意外に安いので入りやすい。
今日の夕食はそこで済まして、まっすぐホタルに行った。
(1) 5月4日
今日は宿で知り合った大阪の大石君と一緒に以下のコースをまわる事にした。
台北→基隆→野柳→淡水→新北投温泉→台北
まず最初に、基隆へバスで向かった。 台北から1時間程で着いた。 ここは日本時代は本土からの玄関だったのだろう。
今でもここから石垣、那覇に向かう船が不定期だが出ている。 港には日本時代のものらしいの建物が多く残っていた。
続いて野柳へ。 どのバスで行くかわからなかったので港に近い基隆站のあたりで何人かの人に聞いてみた。
30代の女の人に聞いてみたらバスに乗るまで面倒を見てもらった。 最初から期待しているわけではないのだが、台湾では良くある事みたいだ。全く恐縮である。
バスはいくつか坂を越えて野柳に着いた。 野柳は風景特定区となっていて、波の侵食でできた奇岩の海岸である。
台北の人がすぐに行ける観光地らしく、家族連れでにぎわっていた。 「地球の歩き方」には淡水はおしゃれな観光地という書き方をしているが、4月に開通した台北站近くまでいく地下鉄のせいか?混雑していてゴミゴミしていた。
少し幻滅。 さらに新北投温泉へ。 そこも地下鉄で行ける。 着いてみると普通の住宅地だった。
站からしばらく歩くと共同浴場、瀧乃湯があった。 番台でお金を払って中に入ってみると、日本では東北か九州でたまに見かける更衣室がないタイプの浴場だった。昔は日本でもほとんどがそうだったのでは?
恐らく日本人が建ててそのままなのだろう。 お湯は熱めなので浴槽からあがってくつろいでいる人が多い。
また地下鉄に乗って台北站に戻った。 台北站の手前の站まで終わっているという中途半端な路線である。
現在、台北はあちこちで地下鉄工事をしているが至る所で御祓いしているのでなかなかはかどらないらしい。
さて、今日の観光の最後は三越が入っている新光ビルにある展望台から夕暮れの台北を見る事だった。
道路を見るとスクーターと思われるライトが多かった。 テレビが置いてあってなにやらデモの生中継をしていた。
台北站の南にある政府関係の建物が多い地域を見ると、そこで大勢の人が集まっていた。
その脇を警察のバスが警備をしているのか?赤灯を点燈していた。 多分、最大野党民進党だろうと思い近くでその様子を望遠鏡で見ていた20代くらいの青年に「民進党?」と書いたメモを見せた。
すると、彼は「姉が日本語を話せるので連れてくる。」と言った。 しばらくすると彼がお姉さんを連れて戻ってきた。
筆談を交えながら聞いたところによると現在、副総統兼行政院院長(日本語では副大統領兼首相)の連戦(人名)の行政院院長をやめさせる抗議デモとの事。
後でわかった事だが例の台湾をにぎわせた梶原一騎と女優白泳泳の娘、白暁燕誘拐殺人事件によるもので、数万人がデモに参加したらしい。
去年の防犯キャンペーン以来、桃園県長(県知事にあたる)暗殺、民進党女性議員殺人と政治がらみの事件が頻発しているらしい。
(2)5月5日
台湾最後の観光はパパイヤミルクで有名な店、「高雄牛乳大王」(台湾では店の名前に「〜大王」と付けるのが多い)でパパイヤミルクを飲む事だった。
私を含めて宿で知り合った日本人4人でゾロゾロと行くことになった。 そうなると元々緊張する事があまりないところなのでますます緊張しない。
「地球の歩き方」によると台北站から歩いて行けるところに2軒あることになっていたが、実際は1軒だった。
それから空港に行き、EG204で成田へ。
親切な台湾の方々のお陰で楽しい旅行になった。 台湾の人は語学に堪能なので意志の疎通に苦労しなかった(筆談できることも)。
誘拐殺人事件で犯人のポスター貼りまくりだったが観光してみて恐い思いはしなかった。
ただ、タクシーの運ちゃんはうっとうしかった。 ほとんどのタクシーの運転手は日本と同じような人と思うがたまに危ないのがいるらしい。
最後に持っていて良かったもの、反省点を挙げてみよう。
・マグライト…田舎に行くと街灯がないので必要だ(太魯閣で)。
・ 蚊取り線香…宿にあまり置いていない。 台湾の蚊は音もなく近づく。
・ 現金…あまり持たない方がいいといわれるがある程度は持っていた方がいい。
・ CITY BANKのカード…他の日本人旅行者が使っていたのを見たが、日本のキャッシュコーナーと大差ない手間で現地の通貨を得る事ができる。
ただし、 行き先の国の銀行がCITY BANKと提携してなければならないが。
・ 荷物を少なくして身軽になりたい。 毎日洗濯をして、洗剤は液体にすれば省スペースできると思う。