パキスタン



(中国新疆編から)

1.明るいパキちゃん(フンジュラーブ峠→パスー、10月18日)

 パキスタン領内に入るとすぐに検問があったが、山小屋のオヤジの様な中年の警官がバスの中をのぞいただけであった。
 自分達の国に戻ってホっとしたのだろうか? 乗客のほとんどを占めるパキスタン人の表情は一様に明るかった。 中国側で聞いた雪はパキスタン側国境の方に少し残っていただけで、すぐに無くなっていた。 多分融けたのだろう。
 峠からイミグレーションがあるスストの町まで100km離れているが標高4,700mから2,800mまで一気に下るので道はヘアピンカーブの連続、周囲の景色は深い谷へと変わっていった。

 次第に谷底近くへ降りて、いつ崩れてもおかしくない崖が続いた。 事実、スストまで2ヶ所崖崩れを修復中の現場があった。 カラコルム・ハイウェーはよく崖崩れで通行止めになると聞いたがこれでは無理なかろう。 ただ、パキスタン側が復旧に慣れているので2〜3日程度で開通するらしい。 日本なら崖をコンクリートでカバーするので復旧にかなりの時間を要するだろう。

 続いて二つ目の検問があったがこれも大した事無かった。 むしろトイレタイムになってしまった。 検問の役人達はヒマなのだろうか?バスが出ると全員で手を振って見送った。
 この次になぜか知らないが「国立公園入場料」として4$請求された。 パキスタン人と中国人の一部になっている香港人には請求されなかった。 噂には聞いていたが、納得できない。 とはいえ、払わないとバスは進めないので仕方なく余った人民元35元を支払った。 入場料で潤っているのか?管理事務所らしい建物は新築だった。

 さらに谷を進むとやがて谷の幅が広くなり、スストの町に着いた。 税関の検査待ちか?駐車場に仏教寺院の内装の様な派手なデザインのトラックが止まっていた。 スストのバスターミナルは敷地が舗装されてなく、「国際」という実感が無かった。 イミグレーションはトタン屋根の下に木の机という田舎の市場と変わり無かった。 ここで無事、入国審査と余った中国元の両替を済ませてもまだ時間があったので氷河トレッキングで有名なパスーの村へ向かう事にした。 ここで中国新疆のトルファンからほぼ一緒だった日本人旅行者と別れを告げた。 彼は先を急ぐらしい。

 パスーまでの乗合ジープの車窓はなかなか良かった。 この地が晩秋という事を示す黄色に染まった葉を付けた木々に左右に壁の様にそそり立ち、頂に雪を抱いた山々、青い空。 やがて空と山々は赤く染まり、薄暗くなったところでパスーの村に着いた。 村人に道を聞いて旅行者に教えてもらった宿、Village Guest House(D75Rs)に荷を置いた。

2.送ってね!(パスー、10月19日)

 パスーに着いた翌日、同じ宿にいた日本人と一緒に氷河を巡るトレッキングをする予定だったが天気がはっきりしない曇り空だったので変更してパスーから見て川の対岸、谷の向こうにかかる二つの吊り橋を渡るものに変えた。

 パスーの村人は穏やかな人が多く、道で会うと挨拶する人が結構いた。 また、彼らに道を聞くと親切丁寧に教えてくれた。 中国ではこうは行かない。
 子供達はラオスやインドネシアの田舎の子供達と同じくらい可愛かった。 人々の西洋的な顔つきや服装は中国のタシュクルガンの土地の人に似ていた。 中央アジアにも似たような人々がいるのだろう。 インドの延長と勝手にイメージしていたパキスタンと大違いである。

 村人達に道を聞きながら谷底に出た。 ある程度歩くと一本道だったので分かりやすかった。 崖にも道があった。 崖の道は春の増水期のものだろうか? しばらく谷底を歩くと最初の吊り橋が見えてきた。 吊り橋のたもとで崖の道と合流した。 木材が不足しているのか?橋は底に敷く板が少なく、間隔が広かった。 渡ってみると綱渡りはこんな感じがするのだろうか?などと思ったりした。 当然揺れるので両手で横に張ったワイヤーを触りながらということになる。 川の上に達すると高さがあって、川の流れが速いのでスリルがあった。 渡り終えると汗だくになってしまった。

 吊り橋から少し登ると氷河が作ったらしい扇状地に出た。 扇状地の奥にはモレーンと呼ばれる大きな岩石が堆積した小山があった。 モレーンの向こうには大きな谷がそびえていて、かつては氷河だったらしい。
 歩いてモレーンを過ぎると小屋があった。 この辺は平らな土地が少ないので畜産が盛んだった。 今まで歩いたところには動物の糞がたくさんあったので放牧のための作業小屋なのだろう。
 ここからトゲが多い低木が多くて歩きづらく、道がわかりづらかった。 幸い、一緒にいた人が海外トレッキングの経験が多く、カンが良かったので私は付いて行く形となった。 お陰ですぐ牧場、そして村に着いた。

 ここの人達も西洋的な顔立ちで最初に道を聞いた男の人が連れていた若い女性は西洋人かと思ってしまった。 また、とても素朴な人達で道で会うと笑顔で挨拶してきた。 一緒にいた人がデジカメ機能付きビデオカメラを持っていたので撮ってすぐに画像を見せると皆「家に写真を送ってね!」と言った。 パスーの人はそうでもないが、ここの人は学校に行けないらしく、字が書けなかったので彼女たちから聞くしかなかった。

 村を過ぎるとすぐに2本目の吊り橋に着いた。 これも1本目と同じ綱渡り感覚で渡る橋で村人達は走るように渡っていった。 対岸の村も笑顔で「写真送ってね!」というノリだった。

3.トレッキングは楽じゃない(パスー、10月20日)

 翌日は天気がまずまずだったのでパスー氷河とバトゥーラ氷河を巡るトレッキングに出る事にした。 ある程度、ビスケットなど食料は用意していたが朝食のついでにピザの生地を焼いただけのようなナンを数枚宿の青年に注文した。 彼は言われた事を機械的にするだけの人で、ナンは一枚一枚焼くので時間がかかるということを言わない。 こちらはただ焼くだけだから時間がかかるとは思っていない。 そんなわけでつまらない事で時間がかかってしまい出発が遅れてしまった。

 村人に道を聞いて山に向かって歩くと氷河湖が見えてきた。 氷河湖と言うと澄んだ湖という勝手なイメージがあったが、氷河が運んだ土砂が堆積した泥の池だった。 ここから先の道を探すのに苦労した。 一応、整備された道らしいものがあるのだが崖崩れのため荒れていた。 ここへたどり着くまでも谷の向こうの崖から雷のような音を立ててたくさん落石していた。 ここでも、同行した人が適当な道を見つけてどんどん進み、ついにパスー氷河が良く見えるポイントにたどり着いた。 一人だったら氷河湖で引き返しただろう。
 氷河はここに来ただけでも今日のトレッキングをした甲斐があったといえるほど雄大でなものだった。 氷河自体は真っ白な氷の塊というわけでなく、少々泥がこびりついていたが奥の雪山とともに美しい景色を生み出していた。

 パスー氷河ではビデオを持参した同行した人が張り切って撮影したため滞在時間が1時間になってしまった。 私は氷河が見れればよしとしていたので展望ポイントで待っていた。 最初は心地よいと思っていた氷河からの風が次第に冷たい風に感じてきた。 天然の冷蔵庫から吹く風なので無理ない事だろう。
 そこからさらに歩いてから昼食を取った。 食事をすませると次の目的地、バトゥーラ氷河をめざして再び歩いた。 バトゥーラ氷河までの道は長い単調な上り下りが続くつまらない道だった。 朝食、パスー氷河で時間を食ったので急いで歩いた。 それが一層つまらなくさせた。

 しばらく歩くとバトゥーラ氷河の展望ポイントに出た。 噂通りで、土砂で灰色に染まった氷河というより土石流の跡と言う方が適切ではないかというものだった。 しかしかなり大規模でビル何階分あるのか見当もつかなかった。 地図を見るとこちらの方がパスー氷河よりかなり長い。 長いために押し流した土砂の量が断然多いらしい。 この氷河ももっと上流へ行けばパスー氷河に負けない白い氷の川が見えるのだろう。

 バトゥーラ氷河の展望ポイントに着いたのは3時過ぎ。 山は日が暮れるのが早い。 ここからの帰り道はかなりあわてて歩いた。 帰り道は下りで石だらけだったので道が分りづらく歩くにも難儀した。 そのうち、同行した人が私のことを放って自分のペースで歩き出した。 この時ほど悲惨な感じは無かった。 周囲は日が暮れて薄暗くなり、道が分りづらいのであちこち余計に歩いたり。 そのうち、斜面で足を滑らせて尻餅をついてしまった。
 こうなると頭の中は同行した人の悪口が占めてくる。 「こっちが遅くて道が見つけづらいのを知っていて放り出した。」とか「パスー氷河の撮影タイムを減らせばもっと余裕のある行動ができたのに。 もうビデオ持参の人とは一緒に行動しない。」と言う事を思っていた。 恐らく向こうは「こんな遅い奴と一緒に行くくらいなら一人で行った方が良かった。」と思っていたのだろう。
 しばらくするとさすがに向こうも気になったらしく待っていてくれた。 それでも、カラコルムハイウェイに出るまでお互い無言で歩きつづけた。 そのうち、車の轍がある道が見つかってその道に沿って進むとカラコルムハイウェイに出た。 幸い、少し歩くと乗合バンに乗せてもらい無事宿に着いた。
 宿に着いて食事を済ませるとお互い精神的余裕ができたのか、お互いそれとなく今日の反省をした。 向こうも大人だったらしい。 お互い悪い思い出は作りたくない。

 それにしても、今回の件で海外トレッキングの難しさを身に染みるくらい実感した。
 1.道がわかりづらい
   日本の場合、現地の山岳会などのボランティアで道標が整備されているが今回は何も無かった。 同行し
   た人に言わせれば足跡をたどったとのことだが見えなかった。
 2.正確な地図が期待できない
   日本の場合、昭文社の地図を見れば問題ないが、海外ではそうはいかない。 ネパールでは書店に置い
   てあったが、北パキスタンではあまり見かけなかった。
 3.体力
   旅行中は病気になりがちなのと運動不足になりがちなので放置すると体力が落ちてしまう。

 単独行では自信が無い場合はガイドを雇うことになるが、最大の顧客で我々日本人よりはるかに体力がある西洋人を基準にしているので事前にその事を説明した上で計画をしてもらわなければならない。 つまり、なるべくゆっくり歩いて欲しいと。 西洋人は兵役や学校の野外教育などで鍛えられているが、日本人は問題が起こる事を嫌う学校、過保護で無理解な親のせいでなかなか野外教育できない。

4.この世の天国(カリマバード、10月21〜27日)

 カラコルムハイウェイのバスの旅、パスーでのトレッキングで疲れが溜まってきた。 そこで、日本人旅行者がのんびり滞在しているというカリマバードへ向かう事にした。 なぜこの町が日本人旅行者の間で有名かと言うとアニメーション「風の谷のナウシカ」の舞台のモデルになったかららしい。 私はそのアニメーションを見てないのでなんとも言えないが、見た事がある人は「そうだ」と言う。

 辛かった氷河トレッキングの翌朝にカリマバードへ向かった。 途中、落石で通行止めになっていた所があったが手慣れた作業員がすぐに道を通した。 乗合ワゴンはカリマバードの町の標高の低い所に止まった。 この町は山の斜面に張り付くように広がっていた。 教えてもらった宿はそこからさらに20分ほど登った所にあった。 荷物を担いでいたため着いたときはヘトヘトだった。(Old Hunza Inn、D50Rs)

 隣ほどではないが、宿には噂通り日本人が多かった。 香港以来だった。 夕食は近くに食堂が無いので宿で取るが、その時も日本人が多かったので西洋人旅行者には気の毒だった。 時折、韓国人や香港人旅行者も訪れたが、彼らとは和気藹々としたいい雰囲気で時を過ごす事ができた。 日本人ばかりというのもデメリットはあるものの、お陰でこれから向かうインドの話しを聞けて参考になった。
 昼間は部屋の前に置いてあったベットに横になって美しい山々を眺めていた。 中国から下るとここは暑くも寒くも無く、朝晩冷えるかな?という程度だった。 そんな条件だったのでベットで横になるととても気持ちが良かった。 通りかかった同じ部屋の人に「融けてますねぇ。」と言われてしまった。
 宿の経営者で故勝新太郎に似ているということで「勝新」と呼ばれていたおじさんを始め、土地の人の人柄が良いのもくつろげた要因の一つだった。
 そんないい環境だったので中国旅行での心無い一部の漢人、日本人留学生、日本人学生によって受けた精神的ダメージをかなり癒せた。

 一方、西洋人旅行者は北パキスタンというと「トレッキング」か「自転車ツーリング」が目的の人がほとんどだ。 ある日、夕食で近所になったドイツ人にここに来てから何もしてないというと「怠けているなぁ。」と呆れられてしまった。 もともと日本ではハイキングに毛が生えた程度だが登山の経験はあった。 もっと体力とテント泊登山の経験があれば私だってどんどんやってみたい。

5.何か企んでいる人の表情(カリマバード、10月21〜27日)

 去年の東南アジア旅行から気づきはじめた事があった。 人間、なにかよからぬ事を考えている時にそれが表情に表れるのだ。

 去年、目の病気でマレーシアの病院に通院していた時の事だった。 その病院は私の保険会社と提携していて書類の所定の項目に記入していれば費用は保険会社が持つことになり、私には一切請求されることがないようになっている。
 ところが、最後の日に薬の受け取りで薬局側から薬代を請求された。 請求するのはおかしいということを担当のおばさんに言うと彼女はなんとも言えないゆがんだ嫌な表情で「保険の窓口へ行きなさい。」と言った。
 保険の担当の若い女性に事を説明すると彼女は担当の医師に電話をした。 どうやら医師が記入した書類に不備があったらしい。 それから彼女は私を連れてさっきの薬局へ行くと薬局側担当のおばさんと言い合いを始めた。 しばらくすると解決したのか?薬が手に入った。
 どうやら、薬局のおばさんが医師の書類の不備に気づいたが関係者に問い合わせるのが面倒で直接私に請求したらしい。 そんな企みが顔に出たらしい。 ちなみに彼女は中国系だった。(マレーシアの中国系は大陸の中国系同様、歴史的経緯から反日感情があるらしいがそれを問われた事は無かった。 この手の嫌がらせを受けたのはこれだけだった。 中国系の若者は友好的だった。)

 インドネシアのある町ではガイドに付きまとわれた事があった。 彼とは1度、宿泊していた宿のツアーでガイドをしてもらったことがあった。 しかし、去年のインドネシアは政治的に不安定な時期で外国人旅行者が減っていた。 そこで、仕事が減った彼はその宿に宿泊していた旅行者に付きまとってどんな小さな手数料でも構わないから闇両替や土産物を斡旋した。
 彼がどのようにして私に接触したかというと、仕事が無い毎日午前中に彼はある広場のどこかで宿の宿泊者が通りかかるのを待っていた。 宿泊者を見つけると小走りで近づいて接触をすると言った具合だ。 その時の彼の表情は目が血走っていて不自然な表情だった。 今から思えば「こいつからなんとか金を引き出すぞ!」とでも思っていたのだろうか? それに気が付いて午前中は別の道を歩くようになってから、と同時にカモの西洋人旅行者が見つかってから彼は私に接触してこなくなった。

 そんな事をとんと忘れてカリマバードの宿の前でのんびりしていると、珍しく西洋人が訪ねてきた。 一応、笑顔なのだが不自然ないやらしい表情だった。 「トイレを貸してくれ。」と申し出たが、近くの部屋の中にあったトイレは使わせたくなかったので(部屋の鍵などを調べる恐れがあった)2階の外から出入りできるトイレを教えた。 彼がトイレを済ませると外にいた仲間の所に戻って「なんでここに日本人が集まっているの?」とか「日本では暇が無いからここでのんびりしているの?」らしいイヤミなことを聞いてきた。 恐らく彼らは日本人が多い事が気に入らないのだろう。 自分達と同じ事を他の人種がすることが気に入らないというのは西洋人にありがちだが、とんでもない思い上がりだ。

6.肉が好き!(ギルギット、10月27〜29日)

 天国のようなカリマバードだが、
 1.両替のレートが悪い
 2.ビザの延長ができない
 ということから沈没する人はいなかった。 私もそろそろ現地通貨が少なくなってきたので首都イスラマバードの隣りにある商業都市ラワルピンディーへ向かう事にした。 とはいえ、少しずつ移動したかったので北パキスタンの玄関口、ギルギットでワンクッション置く事にした。

 ギルギットには日本人女性のケイコさんが切り盛りしている宿、Tourist Cottage(D70Rs)があり、ラワルピンディからカリマバードへ行って戻ってくる日本人旅行者が1度は立ち寄るらしい。 ケイコさんがいるから日本食が充実していて、日本人旅行者だけでなく韓国人、香港人旅行者にも人気があるらしい。

 ここの日本食が人気があるのには訳がある。 パキスタン料理は羊、牛、鶏を串焼きにしたケバブに串に刺さないで焼いたカワヒ、ハンバーグ、インド的な肉の入ったカレー、ピザパイの生地を焼いただけのナン、炊き込み御飯のブリヤーニくらいでとにかく「肉が好き!」というくらい肉を食べるらしい。 あまり野菜を食べない、乾燥に強いのでスープを飲む習慣が無いというのも日本人には辛い。 それは韓国人、香港人にも言えるらしい。

 ギルギットに着いて丁度昼になったのでカリマバードから同行した日本人旅行者3人とカワヒを食べに行った。 ナンで肉を包んで食べたがまずまずだった。 ただ、これが何日も続くと辛いかもしれない。 カワヒ屋さんは店の前に首を切って、羽をむしった鶏が何羽もずらっと並んでいるので分かりやすい。

 宿には日本食の他に日本の本もたくさんあった。 文庫本、ガイドブックに定番「ゴルゴ13」を含む漫画本もたくさんあった。 なんだか日本のユースホステルみたいだった。 ガイドブックにはインドからの旅行者が置いていったと思われる「地球の歩き方・インド編」がまるで墓場のように何冊も置いてあった。 これからインドへ向かうので渡りに船、ケイコさんに一言断って1冊分けてもらった。

7.いつでもお待ちしてます(ギルギット→ラワルピンディー、10月29,30日)

 29日の夕方、北パキスタンに別れを告げて首都イスラマバードの隣りの商業都市ラワルピンディーへ夜行バスで向かった。 この区間は特に見所がないので大抵の旅行者はノンストップでラワルピンディーへ向かう。

 前日に予約したが出発時点で座席は満席、乗客は私とオランダ人旅行者以外皆パキスタンの人だった。 噂通り、女性は少なく、一人だけだった。 隣りの席の若者はこれからパキスタン一の都会で商業都市のカラチへ向かうらしい。 カラチの大学の学生とのこと。 翌日、ラワルピンディーに着いてから鉄道に乗り換え。 これもかなり時間がかかるらしい。

 バスは日没前に一旦停車した。 お祈りの時間だ。 マレーシアやインドネシアではそんなことはなかったがこの辺はさすがとしか言いようが無い。 それからバスは食事休憩までノンストップだった。 予想通り、カーブの多い山道で先が思いやられる。
 食事休憩の後、しばらく移動すると隣近所の人が戻しだした。 皮肉な事に土地の人ほど普段、乗り物を使わないので酔いやすい。 酔いやすい女子供がほとんどいないにもかかわらずである。

 夜中に1回休憩があった。 名も知らない宿場町みたいな所で一応宿が何軒かあった。 食料品店が何軒か開いていた。 これは別に珍しくないが、よそではあまりお目にかかれない店が開いていた。 銃砲店である。 しかも1軒ではない。 4〜5軒はあっただろうか? 店の中には拳銃、ライフル、ショットガンと様々な銃が売っていた。 こんな夜更けに誰が買うのだろうか? 24時間営業で「いつでもお待ちしてます」状態なのだろうか? それとも夜間こっそり売っているのだろうか?

 明るくなるとバスは片側2車線のカーブが少ない快適な道を進んでいた。 沿道には大勢の通勤通学に向かう人達がバスを待っていた。 ラワルピンディーに近づいているらしい。 途中排気ガスで空気が霞んでいる所で渋滞したが、予定より1時間早い7時にラワルピンディーのバスターミナルに着いた。 近くで朝食後、真っ直ぐタクシーでここも日本人始め外国人旅行者にはおなじみのPopular Inn(D125Rs)へ行った。

8.塩分をとりましょう!(ラワルピンディー、11月2〜6日)

 ラワルピンディーでの目的は次の訪問国インドのビザを取得することだった。 写真撮影、イスラマバードのインド大使館でのビザ申請を終えた翌日、急に腹の調子が悪くなった。 どうやら水に当たったらしい。
 症状は今までで最悪の下痢らしい。 ほとんど寝込んだ状態で、1時間に何回かトイレに行った。 相部屋とはいえ部屋にトイレが付いていて良かった。
 この手の旅行をしていると必ず問題になるのが「水」である。 細菌に汚染されている場合だけではない。 ここパキスタンの水は「硬水」と言ってカルシウムやマグネシウムといったものが一般の水より多く含まれている。 汚染されてない硬水を飲んでも慣れてないと当たってしまう。 たとえ生水を直接飲まなくても食堂の皿に付いた水、お茶屋のコップに付いた水などの経路から生水が体内に入ってくる。
 対策はとにかく慣れる事。 具体的には薬を飲んで一旦治して、また下痢しても薬を飲んで治すことを繰り返すことだ。 私の場合、期間にして1ヶ月、3回繰り返して慣れる場合が多い。

 初日に薬局で薬を処方してもらったが、タイの薬局で売っている薬ほど効果がないらしい。 翌日には宿の人から公立病院を教えてもらった。 入口の受付でどこが悪いか説明して2Rs払って指定の所で待つ。 パキスタンの人は外国人には大変親切で、優先的に診察してもらった。(混み合っていたので気が引けたが・・・。) 診察していただいたのはなんと!ベテランの女医さん2人だった。 パスー近くの村以外でパキスタンで女性と面と向かって会話したのはこの後に1回あっただけだった。 当然彼女たちは英語が話せるが、訛りが強く、専門的な言葉も出てくるので辞書片手に経過と症状を説明し、それに対して医師側からいくつか質問がありすぐに処置を説明した。 飲み物は一旦沸騰させた暖かいお湯だけ(幸い、悪くなる前に携帯に便利な小型電気湯沸かし器(コイル・ヒーター)を購入していた)、食べ物はバナナとヨーグルトだけ。 さらに薬を処方してもらって薬局でそれを受け取り終了。 費用は受け付けで払った2Rsだけだった。 パキスタンの公立病院はどこも2Rsらしい。

 病院で診察してもらってから3日くらいで体が良くなった。 そこで歩いて数分のインターネットカフェでメールのチェックに行くとその最中に急にめまいがして具合が悪くなってしまった。 店のベンチで少し横にさせてもらってから宿に戻って宿の電話からシンガポールの保険会社の連絡先に電話をした。
 ところが、そこの電話はプリペイドのテレフォンカードで保険会社側がのんびりしているので途中で切れてしまった。 あちこちの国際電話ができる電話屋に行って保険会社と連絡を取ろうとしたがどこも「ユニットシステム」というプリペイド式で、1分いくらかと言う質問をすると長々と複雑な「ユニットシステム」の説明を始めようとした。 最後にオート3輪で電話局に行って電話してみたが回線が混雑しているのか?障害があるのか?つながらないらしい。 とにかくパキスタンは通信事情が悪いらしい。 結局、保険会社から宿に翌々日になってから電話があったらしい。

 事の次第を知っていた宿の人達が心配してくれて、「イスラマバードに費用はかかるけど評判のいい病院がある。 そこに行ってみるか、日本大使館に問い合わせて病院を紹介してもらうのもいいんじゃないかな?」とアドバイスしてくれた。
 幸い食欲があったのでその日の夕食は思い切って中国新疆のウイグル人が経営しているレストランで取る事にした。 そこの料理は日本人好みの味付けでお茶おかわり自由のパキスタンでは珍しいサービスがあることも引き付けているのかもしれない。 ウイグル料理の目玉は何と言っても「ラグメン」。 皿に釜揚げしたうどん状の麺をのせ、その上にトマトベースの肉や野菜が入った具を乗っけると言うものだ。

 ラグメンを食べた翌日、不思議と具合が良くなった。 ある日本人旅行者からこんなアドバイスを聞いた。「ここやインドの食べ物は香辛料が入っているけど塩分が少ない。 塩分をとってみては?」 恐らく下痢をしてから塩分は排出されただけでバナナ、ヨーグルトには塩分がかなり少ないだろうからほとんど吸収してなかったのだろう。 ラグメンには具ばかりでなく麺自体にも塩分がある。 ラグメンから塩分を吸収して復活したらしい。

 そう言えば以前、ミャンマーを旅行中に体調を崩して医師からORSというポカリスエットの素のような粉が入ったパックを処方してもらった事がある。 一袋1リットルの飲み水に溶かして24時間以内に飲みきってしまうというものだ。 これには塩分が入っている。 どうやら公立病院の医師が処方をするのを忘れたか?パキスタンの人には必要ないから処方しなかったからか?ということらしい。

 とにかく、南アジアで下痢になったら「ORS」は欠かせないらしい。

9.お隣りさんとの関係(イスラマバード、10月31日、11月7日)

 大抵、国境を挟んでお隣りの国とは領土問題など政治的問題、経済格差など経済的問題から摩擦があってあまり良好とは言えない。(例外もあるが)
 パキスタンとインドも領土問題で過去何度か戦闘を交えており、特に一昨年は核実験合戦で緊張がピークに達した。 現在でも何かの拍子で一層緊張するかもしれない。
 とはいえ、両国は一応国交があり、それぞれの首都に大使館を置いているので私のような一旅行者でも両国間を行き来できる。

 ラワルピンディー到着の翌日に隣町の首都イスラマバードにあるインド大使館を訪れた。 ラワルピンディーからのバスは客を乗せたり降ろしたりしながらのんびり進んだ。 そのうち、町がとぎれてあるインターチェンジで止まって緑の中の整備された幅の広い道を進んだ。 数分進むと団地のような町並みが見えてきた。 イスラマバードの町らしい。 噂通り広いだけで特徴の無い町だった。
 バスを降りて日本大使館の近くを通るミニバスに乗り換える。 ここ、パキスタンで「インド大使館」とは言いづらい。 インド大使館近くに日本大使館があるのは幸いだった。

 歩いて10分以上たっただろうか? インド大使館が見つかり、職員に聞くと「裏へまわって」と言われた。 ビザの申請が別の場所というのは良くある事。 さらに5分以上歩いて裏へまわるとビックリ! 数えきれないパキスタンの人達が並んでいた。 ウロウロしていると警備主任か?伝統的なパキスタンの服を着たおじさんが手招きしてビザ申請用紙を渡してくれた。 この人は親切な人でわからないところがあると丁寧に教えてくれた。

 申請用紙に書いている途中で今度は大使館の役人に呼ばれた。 外国人は優先的にしてもらえるらしい。 役人は持参のディパックを見ると「荷物は外に置いて!」と冷たく言った。 「中には貴重なものが入ってます。」と粘ったら仕方ないと言った感じで荷物を持って入れてくれた。 それから荷物を預けてボディーチェックと物々しい感じがした。 恐らく爆弾テロを恐れてのことだろう。 中はパキスタン国籍所持者が陸路組と空路組に窓口が別れていた。 その他の外国人は1つの窓口が割り当てられていた。 そちらは20人も待ってなかった。 その時すでに11時をまわっていた。 大抵の大使館、領事館ではこの辺でビザ申請受付を止めてしまうのだが、それではとても処理できない。 そこで外国人ものんびり申請ができるのだ。 初日は申請用紙を受け取り、本国(私の場合、日本政府)へ問い合わせるらしく「テレックス代」を請求された。 領収書を受け取り8日後にまた来いと言われた。(普通、7日らしいが?)

 指定された日にまた行くと今度はえらく警備が厳しく横柄だった。 「荷物は絶対外に置け!」 中に入ると「たばこ、ライターは没収後投棄! 電卓、携帯電話は外に置け!」 カシミールでは携帯電話や電卓、たばこ、100円ライターが爆発するのだろうか? でライターと電卓を持っていた私は外に持っていくというと何を考えたのか?役人がライターと電卓を外に放り投げようとした。 本当に腹が立つ! 結局、持ち込み禁止のものは外に置いたディパックの中に入れた。 それなら最初っからX線透視装置で中身を改め、それから荷物を預ける場所を作ればいいのに。 装置が高くて予算が組めなければまじめなインド人に中身を改めさせればいいのだ。 どうせ人が余って困っている国だから。
 今度は前回もらったテレックス代の領収書を役人に渡してパスポートを渡してビザ申請代を払ってからその日の夕方4時にまた来いと言われた。 指定された時間に行くと外で窓口からパスポートを受け取った。 両国関係を感じさせるうっとうしい事がいろいろあったがあっさり6ヶ月のマルチビザがもらえた。

10.最後まで面倒見ます!(ラホール、11月9日)

 体調が良くなったし、インド・ビザが無事受け取れたのでインドへ向かう事にした。
 出発の当日、宿のおやじさんが心配して「大丈夫か?」と聞いた。 とにかく、この宿の人達にはお世話になった。 ラワルピンディーに足を向けて眠れない身となってしまった。

 宿の人から教えてもらったバスターミナルから国境の町でパキスタン第二の都会のラホールへ向かった。
 バスは大型バス、マイクロバスの2種類が待機していたがちょっと安かったマイクロバスにした。 小さいということもあったかもしれないが、こちらの方が早々と席が埋まって出発となった。
 最初はラワルピンディーのゴチャゴチャした下町を通ったがすぐに整備された国道に入った。 沿道には時々町が現れたが麦畑らしい平地と小山といった「乾燥した茨城県?」とでもいえそうな風景だった。 客の乗り降りと1回の食事休憩以外はノンストップだった。
 食事休憩の後、出発してから2時間後に急に路面状態が悪くなった。 アスファルトの所々に穴やひびが入っていた。 これでは乗り心地が悪いしスピードが出せない。 ラワルピンディーへ向かう反対車線は補修が終わったところらしく路面は平らだった。 こちら側はこれから補修するのだろうか?
 日が傾いた頃に沿道に工場がいくつか見えた。 それから次第に交通量が増え、住宅が密集してきた。 ラホールに近づいているらしい。 それからしばらくしてラホール・フォート近くのバスターミナルにバスは止まった。

 ラホールでの宿はYWCAが外国人旅行者には一般的だが、快適さは無いらしい。 中国新疆で知り合ったイギリス人女性から教えてもらったところへ向かう事にした。 夕方で宿の近くへ向かうミニバスはどれも人が満載で荷物の多い私は乗れなかった。 諦めかけたところでそれほど込んでないミニバスが来た。 荷物は車内に持ち込めたが2人分の運賃を請求された。 日本のバスと違って1台1台独立採算で補助金はもらっていそうにない。 そうなると一人でも多くの乗客を乗せたいのでこれは仕方なかろう。

 ミニバスが宿の最寄りの場所に着いた時にはすでに日が暮れていた。 持参の宿のパンフレットを見ても要領を得ないので土地の人に聞いてみた。 意外にも聞いた人は知らなくて、とりあえずそこの青年が運転のバイクに乗せてもらってパンフレットの住所へ向かった。
 青年はあちこちで聞いてから住所の場所にたどり着いた。 土地の人もわからないはずである。 一見すると中流家庭の住宅で特に宿の看板が出ているわけではなかった。 呼び鈴を鳴らすと中から奥さんらしい女性と子供達がやってきた。 聞いてみるとパンフレットに書いてある通りの宿らしい。 バイクの青年にお礼を言ってから中に入った。

 どうやらここは御主人が副収入ということで家の空いた部屋を外国人旅行者に提供している「民宿」らしい。(Afzaal Guest House、D100Rs) 一応イギリスのガイドブック「Foot Print」のパキスタン編やチェコのガイドブックにのみ紹介されていて、大御所Lonly Planetには紹介されてない事と場所が不便な事からそれほど利用されているわけではないらしい。 部屋が二つで一つは長期らしい西洋人が使っていたので大々的に宣伝してもすぐに埋まってしまい、「あそこは混む。」と言う評判が立って結果的には同じだろう。 なにはともあれ、清潔で静かなので快適だった。 

 外出して食事をすることにしたが、バイクで送ってもらったので食堂がありそうなミニバス乗り場付近まで行って帰ってこれるか不安だった。 とりあえず、ミニバス乗り場から少し歩いた所にあると言う案内図付き看板に向かって歩く事にした。
 やはり日没後だったので方向感覚が無くなってわからなかったので案内図の近くにある郵便局への道を通り掛かりの青年に聞いた。 「一緒に行こう」らしい事を彼は言った。 最初は彼は知っていたのかと思ったが、最近よそから進学のために越してきたらしく土地の地理は良くわかってなかった。 あちこちで聞いて調べてくれた。 そのうち、大通りの電柱に例の宿の看板が見つかった。 これで私の目標は達成できた。
 目標が達成した事を彼に説明したが、私の英語力の無さから伝わらなかった。 彼も自信が無かったのか?通り掛かりの人を通して聞いてみた。 私が事の次第を二人に説明すると通り掛かりの人が彼に説明してこれで理解してもらったらしい。 彼は私が例の宿を探していると思ったらしい。 無理からぬ事だ。

 パキスタンの人は道を聞かれたら自分が知らなくても最後まで(相手が納得するまで)付き合うのが礼儀らしい。 我々日本人には難しいかもしれないが気持ちだけでも見習いたいものである。

11.静かな国境(ラホール→パキスタン−インド(ワガ)国境、11月10日)

 ラホール到着の翌日、インドへ向かって宿を出た。 最初はラホールjunction stationから国境のバスに乗ろうとしたが、ミニバスがどれも人で満載状態だったので諦めて宿の御主人に教えてもらったjunction stationを経由しないルートにする事にした。
 もう一つのルートは歩いて別のバス路線に乗る事から始まる。 東京では成城あたりだろうか?日本でもなかなか見かけない高級住宅地を通ってバス通りに出たが、ここでもなかなかバスが拾えなかった。 諦めかけていた頃にようやく1台のバスに乗れた。 ラホールはパキスタン第二の都会だけあって町を抜けるのに時間がかかった。 町を抜けるとひたすら農村と言った感じののどかな風景だった。 1時間ほど経っただろうか?バスは馬車が待つのどかな田舎で終点となった。
 次はその乗合馬車に乗り換え、終点まで向かう。 のんびりしているようだが距離が短かったのか?すぐに終点に着いた。 そこで再びバスに乗り換え、国境へ向かった。 バスは乗車位置が男女別か?車体の真中に壁があった。 ちなみに私は後ろに座った。
 のどかな田園風景をしばらく走るとバスはターンできるくらいの広場に止まった。 ここが終点、国境らしい。

 バスを降りてから少し歩くとイミグレーションがあった。 よほど仕事が無いのか?役人はしばらく待ってから現れた。 大抵の人は飛行機で往来するのだろう。 ここでも入国時同様、台帳に記入して出国スタンプをパスポートに押してもらって終わりだった。 次の税関ものんびりしていた。 検査場らしい所でしばらく待たされた。 床にはノライヌが昼寝をしていた。 私の他には愚痴の多いスウェーデンの青年、イスラム教の聖職者だろうか?アルジェリア、イラン、インドネシア、スーダン、マレーシアとイスラム教徒が多い国の多国籍のグループが待っていた。
 散々待たされてから一人一人役人に呼ばれてパスポートと荷物(外見だけ)を見せてこれで出国手続きは全て終了した。

 インド側へは徒歩で向かった。 途中検問でパスポートを見せただけで大した事はなかった。 面白かったのは荷物を運ぶポーターが国境ラインで荷物を手渡しているのである。 政治的事情でトラックは通過できないのだろうか? 国境ラインにいたパキスタンの兵士に笑顔で「またね!」と言って手を振ると彼も笑顔で手を振った。 これでパキスタンとは来年3月ごろまでお別れになる。 国境ラインを越えてインド領へ入った。

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