中国新疆



(中国西北編から)

1.中国であって中国でない(トルファン、9月21〜10月6日)

 宿でシャワーを浴びて洗濯をしてから食事を兼ねて町へ散歩に出た。
 ここにも漢人(一般に「中国人」と呼ばれる人達)はいるのだが、今まで見た事が無い西洋的な顔立ちの人達をたくさん見かけた。 看板はすべてアラビア文字と漢字の併記だった。
 VCD屋に入ると香港、インド物の中にトルコらしいものがあった。 ウイグル語はトルコ語に似ているらしいということを思い出した。 道行く人達の顔立ちも写真やテレビで見たトルコ人に似ている。
 町の中心、バスターミナルの向かいに市場があった。 中に入ると絨毯、ピザの生地のようなパン、華やかな布地とまさに中近東のバザールだった。 まさにここは「中国であって中国でない」所らしい。

 バザールの奥に案の定、食堂があった。 私が進むのを遮るように、強引に店に招く男を無視して値段が手頃な大人しい生真面目そうなおじさんがやっている店に入った。 おじさん、店の若い女店員、お客の顔はトルコ人そのものだった。 店には中華の饅頭、蒸餃子のようなものにゆでた羊肉と羊のスープがあった。 店の中のテレビにはインド映画が流れていた。 また、「新しい世界」に入った様だ。

 バザールの裏手には露店がたくさん並んでいた。 ここはコンクリートやアスファルトで舗装されているわけではなく、土がむき出しだった。 乾燥していたのでほこりっぽかった。 辺りにゴミが散乱していて中国内で今まで訪れたところの中では一番衛生環境が悪そうだった。 衛生環境では東南アジアのミャンマー、ラオス、カンボジアに似ていた。 中国内ではかなり開発が遅れた土地らしい。 それでも、西洋的な顔立ちなので人々の表情は豊かで明るかった。

2.踊りの民族(トルファン、9月22日)

 観光シーズンにはトルファン賓館で毎晩、ウイグルの踊りのショーが行われる。 宿で知り合った日本人旅行者と一緒に見に行った。

 中国旅行を始めてから、あちこちでウイグル民謡がかかっていてMTVみたいに歌と踊りのビデオが流れていたのも見た。 そんなわけでウイグルというと踊り好きな人達というイメージがあった。
 実際現地では沖縄みたいに普通の人が踊っているところにはお目にかかってないが、明るいメロディーを聞いてと笑顔で踊っているのを見るのは楽しい。

 個人的に知っている範囲では中国内の漢族を含む56民族中で踊りがすばらしいのはウイグル、朝鮮だ。 朝鮮はウイグルと対象的でどことなく物悲しいメロディーの中で熱く踊る。 チベットの踊りも評判がいいが、テレビで少しみた程度なのでなんとも言えない。 チベットは今でも遊牧民、ウイグル、朝鮮は遊牧民の流れを組むグループだ。 みんな漢民族を囲む様に居住している。

3.葡萄の町(トルファン、9月24日)

 ホテルから徒歩で行けるイスラム建築の蘇公塔を訪れる事にした。
 ホテルの前の道は鉄骨でアーケードが架けられていてそこに葡萄がつるを伸ばしていた。 ここは観光用のブドウ棚だ。 ブドウ棚の下は道が舗装されていたが、ウイグル人の住宅地の辺りでブドウ棚は切れて舗装も終わっていた。
 ウイグル人の住宅は煉瓦造りで木の扉の門が入口にあった。 さりげなく中を覗くとベットにテーブルがあった。 日陰に子供達からお年寄りまでいろんな世代の人達が同じ世代同士で集まっておしゃべりをしていたり遊んでいた。 住宅地には所々にマレーシア同様、石造りのモスクがあった。 皆、イスラム教徒なのだろうか? ここではマレーシアやインドネシアと違ってお祈りの時間を告げる大音量の放送、アザーンは無い。

 家の中には干しブドウが山積みになっていたり木材を組んでブドウをぶら下げて乾燥させていた所もあった。 干しブドウを選別していたおばさんもいた。 住宅地を抜けるとブドウ畑が広がっていた。 ここは「葡萄の町」らしい。 生でもバザールで売られていたが、ほとんどは干しブドウにされるらしく、中国のあちこちで新疆の干しブドウを見かけた。 日本のものと違って緑色の粒だ。 彼らがイスラム教徒だからだろうか?

 新疆の干しブドウは日本のものと比べてベタベタしてなく、素朴な甘さだ。 日本のものはアメリカあたりからの輸入が多いのだろう。 保存のためにシロップ漬けにでもされているのだろうか? ベタベタして甘ったるい。

4.星空の下で(トルファン、9月25,26日)

 宿で同じ部屋にいた日本人旅行者と4人で車をチャーターしてトルファン近郊の観光とタクラマカン砂漠で星空を眺める事にした。
 シーズンならホテルからツアーが出ていたが、9月も終わりなのでツアー客は多いものの個人で訪れていた人は少なかったのでツアーは出てなかった。

 最初にトルファンの町の西側の観光ポイントの交河故城から訪れる事にした。
 交河故城は紀元前以来の遺跡で河に挟まれた台地上にある。 台地を掘り下げた遺跡とのことだが、地下室跡にそんな感じがするだけだった。 とはいえ、乾燥した大地に残った遺跡を見るのは初めてだったのでそれはそれで感慨深かった。 台地の下の川には例によってブドウ畑になっていた。
 続いて乾燥した大地を潤す天山からの湧き水を引いた地下水路、カレーズを観光用に開放した所を訪れた。
簡単な説明を聞いた後、実際の地下水路を歩いてみた。 日差しが強い地表から地下に入ったのと水が流れていたのでヒンヤリして涼しかった。
 昼食の後にトルファンの東の観光のポイントを3つ訪れる事にした。
最初に「西遊記」にも出たという火焔山から訪れた。 しかし、ここは木が無い赤茶けた荒山があるだけで特にすることが無かった。
 続いて3〜8世紀の墓地、アスターナ古墳を訪れた。 ここは1980年ころにNHKで放映されたドキュメンタリー「シルクロード」で敦煌の莫高窟同様耳にしたところだったが、ここの出土品もすでにトルファン博物館など中国内だけでなくインドのデリーにある国立博物館にまで持ち去られていてミイラが2体と壁画が残っていただけだった。
 最後に訪れた遺跡、高昌故城は遺跡自体はまあまあだったがウイグル人の物売りの子供達に観光ロバ車を操る自称「友達」オヤジにしらけてしまった。 新疆はNHKのドキュメンタリー「シルクロード」放映後に外国人に開放されて15年くらい経っている。 時間的にスレてしまうのには十分だ。
 結局、今日訪れたところで価値があったのは交河故城だけだった。 他は時間があればという程度だった。

 高昌故城を訪れた後にタクラマカン砂漠へ向かった。 その前に腹ごしらえをしに行った。 食事をしたのは町のほとんどがウイグル人らしいところだった。 一言にウイグル人といってもユーラシア大陸の様々な人々の血が混じっているので顔は様々だ。 食堂のおばさんは西洋人より薄い青の瞳をしていた。 もう一人のおばさんは日本人にもいそうな顔をしていた。 時間があればこんな所でのんびりするのもいいかもしれない。
 食事の後にウイグル人の農村をいくつか通って砂漠の東北端に出た。 到着は丁度日没前の北京時間午後8時で4人は好きな場所でそれぞれ横になった。 時間が経つに連れて空は暗くなり、数え切れないほどの星が見えた。 丁度新月で月が出なかったのでなおさらだ。
 眠気に襲われてうとうとしてから気が付くと星は移動している。 午前2時になって車に戻って寒さから避難した。 夕方にはかろうじてさそり座が見えたが、明け方にはオリオン座が見えた。 冬が間近に感じる。

 夜が明けてからトルファンの町へ戻った。 帰り道では外にベットを置いて寝ていたウイグル人たちが起き出したところだった。 夏のトルファンはとても暑く、50℃近くまで気温が上がることがあるらしい。 しかし、最近はそれほどでもないから毛布をかぶって寝ていた。 さすがに冬は家の中で寝るのだろうが。

5.人民大移動(トルファン、9月27日〜10月6日)

 10月1日は中国の建国記念日、国慶節だ。
 何度も中国を旅行している人は大抵、この日の1週間前に中国を出る事にしているらしい。 10月1日の前後1週間は休暇にして旅行に行く中国人が多いので混雑して、移動や宿泊は難しくなるらしい。 さらに、銀行も業務を停止するので両替もできないという噂まで聞いた。

 トルファンに2週間もいたのは連休の混雑を想定してのことだ。 5月に大連に上陸したときも連休で大変な目に会ったので懲りていた。
 ところが、トルファンに着いてから中国銀行に問い合わせてみると両替の業務は休まないらしい。 午後になると閉店したが、休んだ日は無かった。
 中国の銀行は都市部では年中無休に近いところが多いらしい。 東南アジアでは24時間使えるATMが多かった。 日本の銀行はその点では発展途上らしい。

 宿で同じ部屋だった日本人留学生から今年は10月1日から7日の1週間が連休になると聞いた。 テレビのニュースでも9月29日から毎日、連休中の主要観光地と主要都市の宿泊混雑予報を流しだした。 ニュースでは四川省の九塞溝以外特に混雑している様子はなさそうだった。
 トルファンでも10月4日に私がいた部屋が埋まったくらいであとはガラガラだった。 今年から5月の連休が始まったので分散されて混雑しなかったのだろうか? それとも沿岸部から離れた新疆だったからだろうか? 噂ほどでもなかった。

 ピークは4日で過ぎたと見越して10月6日にトルファンを発った。

6.砂漠から草原へ(トルファン→ウルムチ、10月6日)

 これからパキスタンへとさらに西へ向かうが次のポイントのクチャはトルファンから700km。 400km以上ではバスよりも鉄道を利用する方が楽なのが中国の旅。 しかも、鉄道は始発からの方が荷物を置く場所が確保できるのでトルファンからクチャへ真っ直ぐ向かうよりも一旦クチャ、カシュガル方面の鉄道の始発駅ウルムチから乗車する事にした。 新疆の中心というのもなんとなく興味があった。

 トルファンからウルムチへは高速バスで3時間、約200kmの距離なので楽な移動だ。
 当日、バスに乗ると国慶節休みなのでウイグル人の家族連れが多かった。 彼らは子供の切符を買ってないのだろうか?全席指定の高速バスなのに席がない子供が多かった。 その辺のおおらかさというかいい加減さは北京から遠く離れているからだろうか?
 バスはトルファンの町を出てからしばらく砂漠を進んだ。 トルファンからウルムチの間には天山山脈が走っている。 とはいえ丁度いい具合に高いピークがその辺には無いので低い峠越えで済む。 山を越えると草原に入った。 羊の遊牧が見えた。 山を越えると雨が多く降るところらしい。 大きな町を建設するには食糧の確保のために農地が多いところが向いている。 新疆というと砂漠とオアシス都市のイメージがあるが、草原地帯もあるらしい。 この草原はモンゴルやカザフスタンなど中央アジアへもつながっているのだろう。

 煙突が見え、高層ビルが見えたところでバスは高速道路を降りて市街地に入ってウルムチ南郊汽車站(バスターミナル)に着いた。 市バスに乗り換えて北へ向かうと大きなバザールに出た。 そこから火車站行きのバスに乗り換えた。 車窓は都会の町並みだった。 広州以来の大都市だ。

 火車站の手前で降りて新疆飯店(D17元)に宿泊する事にした。 6人ベットの部屋には先客は1人だけだった。 夜に部屋に戻ると日本人女性がいた。 2晩部屋を一人占めしていたらしい。 もう旅のシーズンは過ぎたのだろう。
 翌朝早く、パキスタンの男性二人が入ってきた。 正直なところ、不安だったが定期的にお祈りをしたり笑顔で挨拶したり意外にまじめな良い人達で不安に思った自分が恥ずかしかった。

7.高原の大都会に冬が来た(ウルムチ、10月6〜8日)

 トルファンでは昼間はTシャツの上に長袖を着ると暑く感じたが、ウルムチは日が射していても長袖の上に1枚羽織らないと寒かった。 町行く人達も着込んでいる。 年配のウイグル人男性は暖かそうな帽子をかぶっている。 トルファンが海抜0mでウルムチが海抜900mということもあるが、緯度では北海道と同じくらいで、しかも内陸なので寒くて当たり前だろう。
 天気予報によれば気温が10℃を切っているらしい。 ウルムチを出た日の予報は-5〜6℃でチベットのラサ、東北のハルビンよりも寒いらしい。 その翌日にはウルムチに雪が降った。
 ここでは既に冬に入ったらしい。

 中国では「暖房」というものがあまり無い、もしくは真冬でないと使わないらしい。 宿ではお湯を使ったセントラルヒーティングの装置があったが使ってない。 一般の中国人家庭でも同じらしい。
 では、どのようにして寒さを凌いでいるかというとひたすら「着込む」らしい。 近頃のテレビのCMには「これを着れば大丈夫!」と言いたいらしい長袖、股引の上下の肌着の宣伝が多い。 つい20年前まで、エアコンが普及する前の日本もそうだった。
 今まで荷物になっていた冬物衣料がここでようやく役に立った。

 ウルムチは旅行者の間では「ただの大都市」と評判が良くない。
しかし、この町は予想外にウイグル人が多く町の中心部にあるウイグル人のバザールは活気があった。 ウイグル民謡のカセットなどウイグル・グッズはここなら品揃えがいいだろう。
 この町は漢人、ウイグル人の他に見た事が無い風貌の人達を見かけた。 両替に行った中国銀行にはロシア人らしい人達やパキスタンから来たビジネスマン風の男性もいた。 ここからモスクワ、カザフスタンのアルマティ、ウズベキスタンのタシケント、パキスタンのイスラマバードへの国際線が出ているらしい。
 現代の民族の十字路と言った感じの国際都市だ。

8.寒くて涼しい新型空調車(ウルムチ→クチャ、10月8,9日)

 10月6日にウルムチに着いたその日のうちに10月8日発のクチャまでの切符をダフ屋の割り込みをかわしつつ入手できた。 火車站の切符売場で買えたのは今回で3度目だ。 すでに国慶節休みが終わりつつあったし下りなので有利だったのだろう。

 当日の発車時刻の1時間前の14時に火車站に着いて待合室へ向かった。 ウルムチ火車站の待合室は今まで訪れた火車站の中では一番と思えるくらい狭かった。 さらに、いつもは発車の45分前に乗車できるが今回は30分前を切ったところで改札が始まった。 そのため、ただでさえ狭い待合室がとても混み合って混乱していた。

 乗車してなぜ遅くなったかわかった。 電気系統の一部が故障したのか?洗面所のお湯が出ないし、車内の照明は蛍光燈の半分だけ点灯されていた。
 暖房も入ってなかったので寒かった。 去年の年末に乗車したベトナムのハノイから北京までの国際列車で中国側の軟臥には暖房が入って快適だったので通常は暖かいのだろう。 しかし、天井の通気孔からは送風なのだろうか?冷たい風が吹いていた。 これでは真夏の冷房車と変りない。
 とはいえ、ここは中国。 我慢するしかない。
 国慶節休みの終盤だろう。 お客は子連れが目に付いた。 列車内で子供を見たのは8月以来だった。

 定刻の15時にウルムチ火車站を出るとトルファンまでは行きの高速バスとほぼ同じ車窓だった。 天気は今日の方が曇っていたので視界はイマイチだった。

 ウルムチだけが寒いのでは?と思っていたが大きな間違いだった。 トルファン火車站に着いても寒々とした曇り空で火車站のホームの物売りのおばさん達は発車時刻の前にワゴンを押して建物の中に入ってしまった。 風が吹いて寒かったみたいだ。

 トルファンを発つと砂漠の中を進んだ。 相変わらずの曇り空で、砂漠に曇り空という私の勝手なイメージから外れた車窓だった。
 そのうち、雨が降り出した。 雨はすぐ止んだが、砂漠の上に白い物が見えた。 よく見るとそれは氷だった。 雨水が砂に染み込む前に凍ってしまったのだ。 外は氷点下なのだろう。

 今回は乗車前にピザパイの生地を焼いた感じのナンを2枚買っておいて夕食にした。 暖房の無い状態ではとても寒々しい食事になってしまった。 カップラーメンでも買っておくべきだった。
 すでに日が暮れていたので食事が終わるとすぐに寝た。 日が暮れていたといっても時刻は午後8時。 しかし、ここは新疆。 事実上北京とは2時間時差があってもおかしくないが政治的な事情か?中国内はすべて北京時間が公式になっている。 新疆ではやはり北京時間に合わせると無理があるらしく、2時間遅れの新疆時間が存在する。 とはいえ、鉄道は北京時間。 クチャ到着は翌朝7時だ。 日の出は1時間後の8時。 早朝の到着と言っても良い。

 翌朝、6時過ぎに目が覚めたのでそのまま起きて昨日のナンの残りを食べた。 クチャ到着前に降りる支度をしていたのは私の他に女性が一人だけだった。 まだまだ寝台は埋まっていたのでほとんどの人は終点のカシュガルあたりまで行くのだろう。

 火車站から出るとミニバスとタクシーがたくさん止まっていた。 ミニバスはいつ出るのかわからなかったので横着をしてタクシーに乗った。 目的の宿があるバスターミナルまでは10分近くかかった。 道は暗かったし歩いては無理だったろう。
 外が明るくなるまでバスターミナルの宿は玄関が開かなかった。 開門してから宿の部屋を見せてもらったが、服務員の態度が悪かったのでここはパス。 3分くらい歩いたところにあった通達賓館(D18,30元)で部屋を見せてもらった。 応対した服務員のお姉さんがホテルの服務員の中では今まで見た事無いほど陽気な人だったので宿はここにする事にした。 彼女以外の服務員の皆が感じが良くて中国では一番快適な宿だった。
 蘭州からここまでほとんど部屋を一人占だったので、ここではツインでシャワー・トイレが付いた部屋を相部屋にするということで1泊30元になっていたので高い部屋にした。
 予想通り、最後まで部屋を一人占めしてしまった。

9.のどかな新興都市(クチャ、10月9〜14日)

 クチャはもともとはオアシスの一大都市国家だったところで約2,000年前の亀茲国が有名らしい。
博物館の展示には漢族、インド、中央アジア、アフガニスタンの影響が伺えた。
 「西遊記」にも記述があるくらいだったが今はウイグル人の小さな町の旧市街に新中国建国後に入植した漢人が多い新市街がくっついた小さな町だった。

 漢人というとせっかちで愛想が悪いと評判が良くないが(そんな人ばかりではないが)、この町の漢人は穏やかで広東人みたいに笑顔でいるときが多い。 新市街はなんとなく日本の北海道の小さな町に雰囲気が似ていた。 この町だけでなく、今まで宿泊した新疆内のホテルの服務員は感じの良い人が多かった。 彼らはウイグル人に影響されて穏やかになってしまったのだろうか?

 旧市街はロバ車が走るこれまたのどかな所だった。 煉瓦に土を塗った土塀のような家が多く、風情があった。 トルファンのウイグル人の集落にも言えるのだが、未舗装の道が多く泥だらけになっている所もあった。 漢人が住んでいる所にはそんな所は無い。 この格差は今年から始まった「西部大開発」プロジェクトで是正されるのだろうか?
 外国人が珍しいのか?昼過ぎに町を歩くと学校から家に帰る小中学生たちがじーっと私の顔を見る。

 この町には金曜日にはバザールがあり、周囲の農村からウイグル人達が集まり賑やかになった。 この町の中心に常にトラックが行き来するウルムチからの幹線道路国道314号線が貫いているが、国道の両側に露店が立ち遊牧民が羊の群れを引き連れていたのでさらに混乱していた。
 それ以外は穏やかな人達の静かな町だった。

10.中国最後の鉄路の旅(クチャ→カシュガル、10月15日)

 今回の旅行で中国最後の町になるカシュガルへ向かうために火車站へ切符を買いに行った。 ところが、火車站の服務員は「列車に乗れ」らしき事を紙に書いて渡した。 念のため市街地にある窓口に行っても同じだった。 どうやら車内で買えということらしい。

 これには2つの解釈ができる。
(1)座席が満席
(2)空いているから予約の必要が無い

 不安に思いつつ、当日にウルムチからクチャへ向かうのと同じ列車に乗ると座席で横になっている人ばかりで正解は(2)だった。 最後まで油断できないので座席に座るとほっとした。

 車窓は最初は畑が広がっていたがひたすら乾燥した草原地帯と草木がない赤茶けた山が続いた。 嘉峪関から敦煌へのバスの車窓同様時々オアシスを見掛けた砂漠の単調な風景だった。
 時折、風が吹くと車内に砂が入ってきた。 その辺は砂漠でないと味わえないだろう。 そのため、車内は砂だらけになってしまった。

 公式の時刻表ではカシュガル着は北京時間で20:30だったが列車は2時間早い18時に着いてしまった。 この路線は開通してから1年たってない新しいもので開通時にかなり余裕を持たせたダイヤを組んでいたのだろう。

 火車站からバスに乗って市街地まで出て基尼瓦克賓館(D20元)で落ち着いた。 途中歩いた道は今までの新疆の町よりさらに中近東に雰囲気が近かった。 人の顔つきも濃くなってきた。

11.一足先に中近東(カシュガル、10月14〜17日)

 クチャの金曜バザールに続き、この町の日曜バザールを見に行った。
 町の大きさが違うせいか?バザールの規模は比べ物にならないくらいこちらの方が大きかった。 扱われていた商品も食材、衣類、雑貨の他にビデオ、音楽テープ、映画ビデオテープ、中古の家電、何に使うのかわからない基板まであった。
 食べ物の屋台もヨーグルト、羊だろうか?動物の腸にご飯を詰めた物の煮込みと珍しいものがあった。 また、肌寒い野外で食べる甘いメロン(ハミウリ)も不思議な感じがした。
 バザールの外れに牛、ロバなど家畜を扱うマーケットがあった。 どんなものかのぞきたかったが、狭い敷地に家畜が密集、しかも糞だらけでいつ自分の足にかかるかわからない状況だったので早々に退散した。

 バザールを後にしてウイグル人の下町を歩いた。 金属の食器など雑貨を作っている工房が多く、金属の板を打つ音が聞こえてきた。 細い路地を見ると子供達の遊び場になっていた。 以前見たイラン映画の下町を彷彿させ、これから向かう中近東的な雰囲気だった。 道は舗装されていたが、漢人地区とくらべて埃っぽい町だった。 それでも再開発された町と比べて生活臭があってのんびり散歩するにはいい所だった。

 ここは事実上、中国で最後に滞在する町だったのでホームページの更新をすることに挑戦してみた。 ところが、電話局やホテルの電話がモジュラージャックでなかったり、回線自体対応できなかったりで接続するところが見つからなかった。 最後の挑戦は無駄足になってしまった。 この町にもインターネットができる所があるのでどこかにあるのだろうが・・・。

12.さらば中国(カシュガル→フンジュラーブ峠、10月17,18日)

 カシュガルは噂通り新疆で一番民族色の濃い所で観光にはいい所だ。 それでも土地の人々はのんびりしていて数日滞在して町を歩くにはいい所だった。
 しかし、次の訪問国パキスタンとの国境フンジュラーブ峠の降雪の噂を聞いていたので道を急ぐ事にした。

 出発の前日にトルファンからほぼ一緒の日本人旅行者と一緒に市街の北にある国際バスターミナルへチケットを買いに行った。 ここからはパキスタン側国境の町スストとキルギスタンの首都ビシュケク(中国、キルギスタン籍の人だけ乗車できる)へ向かう2つの国際路線が出ていた。 宿泊していた宿にはパキスタンの他にウイグル人風の人達がいた。 キルギスタンなど中央アジアから来た人達なのだろうか? この町も政治的環境が変わったので人々の往来が増え、かつての交易の町に戻りつつあるらしい。
 チケットはパスポートを提示することなく手に入った。 特に座席は指定されてないらしい。

 当日、指定された北京時間12時、新疆時間10時より30分前にバスターミナルに着くとバスの周囲にはこれでもかというくらい荷物が置いてあった。 指定された時間は出発時間ではなかったらしい。 指定された時間より少し遅れてバスの扉が開いて席取り合戦が始まった。 しかし、意外と乗客は少なく空席が後ろに目立った。 それから1時間後にすべての荷物がバスの屋根に乗って出発となった。

 バスは道路上の電線を注意しながらカシュガルの町を抜けた。 漢人が多い隣町を抜けると高原と白い山々の美しい景色となった。 ここで一緒にいた日本人のアドバイスにより時計をパキスタン時間に合わせた。

 昼過ぎに途中の町で食事休憩となった。 ここはウイグル人の町ではないらしく、公衆トイレの番をしていた人はウイグル語が通じなかった。
 乗客の大部分を占めるパキスタンの人達がこの町でスイカを大量に買ってきた。 そのうちの一人がかなり遅れて来たのでウイグル人の運転手と言い合いになった。 さらにスイカが車内の通路を転がったのでまた言い争いになり、車内に緊張した雰囲気が広がった。 結局、スイカを袋詰めにすることで問題は収まった。 彼らを見ているとこの先の旅が不安になった。

 一方、車窓は相変わらずの美しいものだった。 道沿いには中国側から「タジク人」と呼ばれる人達の放牧地が広がっていた。 モンゴル的なテントもあった。 山からの雪解け水で大地は潤されていた。 とはいえ、標高2,000〜4,000mなので農耕には向いてないだろう。
 大きな湖を通過した後にもう一つ美しい湖が現れた。 宿泊施設の前にバスは止まった。 カラクリ湖だ。 宿には西洋人旅行者が何人かいた。 ここで時々携帯電話で話しをしていた西洋人と香港人の女性の二人が降りた。 湖の向こうには大草原が広がっていた。 雪をかぶった7,000m級のピークを左に見ながらバスは進んだ。 4,000mの峠を越える前に山に大きな氷河が3つあることがわかった。 日が傾くと白い山は赤く染まった。
 この後で隣にいたパキスタン人が話しかけてきた。 持っていた食べ物をもらったり、話せばいい奴らしい。

 日が沈んでしばらくした北京時間9時、新疆時間7時にバスは国境の町タシュクルガンに着いた。 ここで1泊して翌朝、パキスタンへ向かう事になっている。 タシュクルガンは何も無い町で食事に出た後に宿に戻って寝る支度をした。 とても寒いと聞いていたので上はTシャツ、長袖シャツ、フリース、下はパンツ、股引、ズボンの各3枚でシュラフカバーに潜りその上に布団をかけてみたが、部屋に私と一緒にいた日本人旅行者、カナダ人の3人がいたので思ったより暖かかった。

 翌朝、外を見ると白く美しい山々が西に連なっていた。 アフガニスタンとキルギスタン国境の山々だ。
 7時ごろから宿の服務員がまだいるのか?とでもいいたげに部屋を覗きに来た。
 昨日、8時に来いと言われていたので外に出たがバスは無かった。 パキスタンの人達が歩いていたので付いて行くとレストランに入っていった。 彼らに聞くとバスはイミグレーションにいるらしい。 それから両替の場所を聞くとパキスタン側に行かないと無いらしい。 彼らと一緒に行動した方が得らしいのでレストランでお茶でもしながら待つ事にした。 店はパキスタンの人の経営でメニューにミルクティー、チャイに丸くて薄いパン、チャパティと既にパキスタン入りしたかのような雰囲気だった。

 時間になったらしく、パキスタンの人達は一斉に店を出た。 イミグレーションに行ってみるとバスが止まっていた。 ここですべての荷物を検査するらしく、積み上げた荷物を地面に降ろしていた。 やはりここでも時間がかかり、バス出発は9時を過ぎていた。 イミグレーションの建物から出てすぐにゲートがあった。 ここから先は中国領だが緩衝地帯らしく、もう中国ではない雰囲気だった。 それでも解放軍兵士や公安など制服を見かけた。 それ以外はタシュクルガン同様遊牧民の部落が多かった。

 ほとんど西に山が連なる風景だったが次第に山を登るスイッチバックの道になってきた。 そして昼過ぎに標高4,700mの中国−パキスタン国境フンジュラーブ峠に着いた。
 ここで休憩となった。 ここは国境を示す石碑が立っていて、やはり外国人は写真を、パキスタンとウイグルの人達はトイレタイムだった。 休憩の後、バスは左側通行に変えパキスタンへと入った。

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