インドネシア・スラウェシ2



(スラウェシ編から)

番外編1.フィリピンへの航海(ビトゥンBitung→フィリピン・ジェネラル・サントスGeneral・Santos→マナド、8月21〜23日)

 インドネシア・ビザがそろそろ切れる(ツーリスト・ビザは2ヶ月)がインドネシアは広い。 更なるインドネシアの旅のためにマナド近郊の港町ビトゥンから貨物船に乗ってフィリピン・ミンダナオ島の港町、ジェネラル・サントスまで行ってとんぼ返りする事にした。 マナドからフィリピン・ミンダナオ島の中心、ダバオまで航空路線もあるが、US$100以上する。 貨物船では片道36時間、往復で5日と時間がかかるが往復US$30で済む。
 原則的にインドネシア内ではビザの延長ができないので、この方法はスラウェシ近辺にいて2ヶ月以上インドネシアに滞在する外国人旅行者の間では一般的だ。(他にはスマトラ・メダン→航空/高速船→マレーシア・ペナン、ジャワ/スマトラ→航空/高速船→シンガポール、カリマンタン・ポンティアナ→航空/陸路・バス→東マレーシア・クチンなどのルートがある。)

 今回もほぼ同じ時期に入国したノブ君と一緒にビトゥンの船会社の事務所に行って、手続きをした。 旅行中に知り合ったスイス人のアドリアン、ハワイ出身で日本で英語講師の経験があるブナケン島の流れイントラ(旅行しながらダイビングのインストラクターをする人。 インドネシア、フィリピンに多いらしい。)のおじさんも一緒だった。

 買い出しを済ませて船を見ると船は小さくて中国人不法就労者が使うような古い船だった。 これくらいは想像がついたが、なんと!ビニールシートを張った甲板の下が客室?だった。 乗客は日本人のマサ君、トギアンで流れイントラをしているドイツ人のおじさん、イリアンで活動したひょうきんな黒人宣教師など外国人の他、インドネシア人、フィリピン人(ほとんど)がいた。
 PM10:00にワイロを請求される事無く無事、出国審査を終えた。 出港予定はPM2:00だったが、貨物の積み込みが遅れてPM11:00になった。

 翌日はインドネシア領のSangihe諸島を右手に見ながらの航海だった。 火山島が多いらしく、中には活動中か?噴煙を上げている山、溶岩の跡がある山があった。 外国人旅行者は少ないらしく、この島々で静かな時を過ごすのもいいかもしれない。 船には質素だが食事、コーヒーなど飲み物のサービスがあった。 クルーはインドネシア人らしい。
 時々、雨に降られてシートの境目からの雨漏りに難儀した。 フィリピン人たちはガムテープで補強していた。

 次の日の朝、進行方向に大きな島が見えた。 ミンダナオ島だ。 コンクリート製の立派な橋が架かっていてインドネシア(橋は鉄道の鉄橋みたいな細い橋が多い)より発展しているのがわかる。 昼前に船はジェネラル・サントスのマッカル港に接岸した。

番外編2.より日本人に近い人達(フィリピン/ジェネラル・サントス、8月23日)

 しばらく船で待たされてから入国手続きが始まった。 滞在期間と出国チケットの保持を聞かれさらに出国チケットの提示を求められた。 インドネシア滞在延長組は皆、往復チケットを持っていたので問題なかった。 フィリピン旅行組のドイツ人カップルは事前にビザを取得していたので問題なし。 しかし、どちらの手続きをしてなかったマサ君は一時入国拒否されてしまった。
 フィリピン側から船の券を購入するとインドネシアの倍(40US$)し、キャンセルできる航空券を購入を彼は考えたが、見かねた審査官が「ペナルティー」と称してP500(約13US$)で入国スタンプを押してくれた。

 出港はPM8:00予定だったのでマサ君、ノブ君と一緒にジェネラル・サントスの町に行く事にした。 中心まではタクシーを待っていたフィリピン人のおじさんとシェアして行った。 タイ同様、メーター・タクシーが一般的らしい。 道には派手な乗合ジープ、ジプニーとサイドカーに屋根を付けたものがたくさん走っていた。 そのせいか?空気が悪い。 マニラの大気汚染はかなりのものだろう。

 マナドには意外とフィリピン・ペソPを扱っている金融機関が少なかったのでマサ君は町の中心に着いてからATMを探した。 彼に付いてみて銀行に行くと、なんと!ショットガンを持ったガードマンが6人(入口の外に4人、中に2人)いた。 噂には聞いていたが、こんなに大勢とは思ってなかった。 しかし、彼らはフレンドリーでノブ君の写真撮影に笑顔でOKしてくれた。 外国人が少ないせいか?いろいろ話し掛けるガードマンもいた。 銀行の他にも宝石店やデパートの入口にも最低1人は武装したガードマンがいた。 この町はわからないが、この国はそれだけ銃犯罪が多いのだろう。
(後でフィリピンの新聞を見ると拳銃のディスカウントの宣伝があった。)

 マサ君の宿探しに付き合って、マナド・Smiling Hostel推薦のLa Azotea Innに行ってみた。 内装は日本人の女の子好みの小奇麗な洋風で、シャワー、トイレ共同の部屋がP200だった。 フィリピン・ペソはタイ・バーツとほぼ等価なのでフィリピンの物価の高さを感じる。(タイだったらシャワー・トイレ付きダブル)

 ブナケン島で一緒だったフィリピンに行った事があるヒロさん、ゲンタ君からフィリピンは食事がまずいことを聞いていたので恐いもの見たさで挑戦することにした。 東南アジアではおかずを金属のトレーに入れたり、皿に盛ったりしたものの中から好きなものを指定して食べる食堂や屋台が多いが、ここフィリピンでは金属の鍋におかずが入っている。 フィリピンはキリスト教徒が多いので豚肉が多かった。 中国の影響か?ブタの角煮や唐揚(中華の排骨)があり、沖縄を彷彿するものがあったが、一番興味深かったのは海草の惣菜だった。 恐らく、東南アジアではフィリピンだけだろう。
 暖かかったならまずまずだろうが、どれもすでに冷えていた。 これが不味さの原因だろう。

 食堂のテレビを見るとケーブル・テレビだろうが、かなりアメリカの放送が入っていた。 店の人は英語が話せた。 これも噂通り、英語の普及率が高いのだろう。 オーストラリアのガイドブック、Lonly Planetによると、インドネシア同様ローカルな地方語の他に国語(インドネシアではインドネシア語)のタガログ語があるらしい。(どちらも戦後に独立してから制定された) この国ではさらにマレーシア同様、英語が普及しているらしい。 デパートの案内はほとんど英語だった。 本屋にはタガログ語の本より英語の本が多かった。

 現地の人の顔を見ると瞳が大きくてまつげが長く、口が大きい東南アジア顔の人の他に日本人的な顔の人が多かった。 マナドのインドネシア人から良く「フィリピン人か?」と聞かれたがこれでは仕方ないのだろう。船会社の事務のおばさんは沖縄あたりにいそうな感じだった。 
 ミンダナオはイスラム教徒が多いという噂を聞いていたがイミグレーションの審査官に被り物をしたおばさんがいたし、それらしい女の子(インドネシアにもいるベールの簡略版のネットを被った)もいた。 それでもジェネラル・サントスはキリスト教徒が多いのか?デパートにはキリスト像が多く置いてあったし、女学生の制服は白地に一昔前の日本のミッション系学校の制服の様な感じのデザインだった。

番外編3.朝から晩までコケコッコー(フィリピン・ジェネラル・サントスGeneral・Santos→マナド、8月23日〜25日)

 船に戻ってみると甲板は鶏だらけだった。 皆、朝でもないのに雄たけびを上げていた。 先が思いやられる・・・。 後でフィリピン人に聞いてみると、この鶏は闘鶏用らしい。 闘鶏はタイ、インドネシアでおなじみのギャンブルでインドネシアではフィリピンの鶏が珍重されるらしい。 鶏の売り上げで帰りはフィリピンの半額位らしい衣料品などを買ってフィリピンに戻るらしい。 国際航路にありがちな「担ぎ屋」だ。 この船はもともと貨物船だが、彼らのために副業で旅客もしているらしい。

 帰りは雨にたたられて疲れが倍増した。 マンディ(水浴び場)があまり清潔そうでなかったので使わなかったが、目にものもらいができてしまった。 やはりまめに体を洗った方がいいらしい。

 翌々日の25日に無事ビトゥンに戻り、ワイロを請求される事無く無事60日間有効のツーリスト・ビザを得る事ができた。

1.涼しい赤道直下の町(トモホンTomohon、8月28日〜31日)

 ゴロンタロから出ているトギアン行きフェリーは毎週金曜日のみで、まだ日があったので、マナドのSmiling Hostelでものもらいを直してからマナド周辺の観光ポイントで行ってなかった高原の町、トモホンへ行く事にした。

 ノブ君とはほぼ予定が一緒だったが、彼は先にトモホンに行っていた。 今回はフィリピン行きの貨物船で一緒だったアドリアンと広島の大学で6年間働いていた知日家のオーストラリアのおじいさん、ドンと一緒にトモホンに向かった。

 ドンは足が悪かったのでアドリアンと二人で荷物を運んだりした。 宿から1時間ほどでSmilingおすすめのThe Happy Flower Homestayに着いたが満室だった。 Smilingでは「大丈夫」との事だったが・・・。 やはりその辺はインドネシアだ。 考えなくて行動したのが甘かったと言う事だろう。
 そこで、アドリアンの計らいで彼の知り合いの民家に泊めてもらえる事にした。 暗黙の条件で、実際に不動産を所有している食堂で食事をして、民家を借りている人には様子を見る事にした。
 私もアドリアンもキャンプ用のマットを持っていたので、床にマットを敷いて寝袋で寝た。 昼は30℃以上とマナドと変わらないが、朝は20℃くらいと標高が高いので赤道直下にしては気温が低かった。

 食堂には親戚の高校生、ヴィクトル(インドネシアのクリスチャンは西洋人みたいな名前が多いらしい)が下宿していた。 彼にしてみれば外国人と接するいい機会だったので彼の友人の女子高生、ファンダとオリビアと一緒に英語でいろいろ話しをした。 彼らは以前、パレパレでお世話になった高校生達同様、中流家庭の出身らしく英語はインドネシア人の中ではかなり話せた。
 また、一度ファンダの家にお邪魔したが、大きな家でオリビア他何人か高校生を下宿させていた。 高校から親元を離れるのが珍しくないらしい。 なんだかあだち充の漫画「日当り良好」を彷彿させる。(ちなみにオリビアは中央スラウェシ州ポソの出身。 この町では今年の3月にキリスト教徒とイスラム教徒の間で殺し合いまで到らなかったものの戦闘があったらしい。 彼女はポソから逃げてきたのかも。)
 彼女の家庭は肌の色、顔つきが中国人に似ていたので中国系かと思っていたがそうではないらしい。 中国系が現地化したのか?スラウェシに多い戦時中に生まれた日本人との混血家庭か?

 お世話になった家庭はスハルトの政策で移住してきたイスラム教徒と前からいるキリスト教徒の間でほぼ毎日、殺し合いが続いているマルク州アンボンの出身だった。 お父さんと高校生の兄妹の3人だが、お母さんは医者でアンボンに残っているらしい。 お父さんは以前、日本のマグロ漁船で働いていたらしい。 そのせいかで日本人が好きなのか?帰りに私だけTシャツをもらってしまった。

 高校生たちと遊んだり、お父さんと話をしたり、近くの火山に登山に行ったり楽しかったがただで居候していた気疲れと食堂の料金が最初は一人当たり合計6,000Rpだったのがじりじり上がって9,000Rpになってしまったのでアドリアンと話をして4日目の朝に去る事にした。 ただ宿も程々にということだろう。

2.カメラがない!(トモホンTomohon、8月27日)

 登山の前日の晩にいつもカメラを入れていたディパックを見るとカメラが入ってなかった。 翌日、荷物を皆見てみたがやはり無かった。 出発の日の朝にマナドの宿の近くで撮影をしてからノータッチだった。

 アドリアンに話をしてみると「多分、ドミトリーで盗られたんだよ。」と言った。 彼も以前別のドミトリーで同じ目に会っていたらしい。 トモホンで1日、ディパックを置いていた日があったのでどうかと思ったがおじさんが1日中部屋の近くにいたし、他の2人と一緒に行動したし・・・。 結局、管理が甘かったのだ。 カメラは後日、新しいものを購入したがフィルムは帰ってこない。 それが残念だった。

3.人によってできない旅がある(マナド、9月1日)

 トモホンからマナドに戻ってからノブ君から彼と親しいガイドのポール(ただ単に遊びなのでガイド料はなし)とスラウェシ中部でマナドの南にあるルウクLuwukと言う町に遊びに行かないかと誘われた。 土地の人の案内でガイドブックにない旅をするのも面白いと思い、同行させてもらう事にした。 他にトモホンで知り合ったケベックのフランス系カナダ人、ダニエルも同行する事になった。

 9月2日の朝にマナドの海の玄関口のビトゥンから出ているペルニ船でルークに向かう事にした。 前日にビトゥンで宿泊することにしたので夕方にマナドを出た。
 ドンも同じ船に乗船するので追いてきた。 彼は前回、トモホン行きにはボストンバック2つだったが今回は大きなバックが一つ加わっていた。 糖尿病で足の悪い彼には1人で行動するのは無理があるほどの荷物だ。 私はベットに虫がいない低価格の宿に宿泊する形態の旅行をしているが、基本的に荷物は一人で運べる大きさなので(でもムダが多いので重い)一人で行動可能な体制だ。 ドンも似たような旅行をしようとしているので常に「無料のポーター」を必要としている。

 ビトゥンに着くと宿は翌日のペルニに乗船する人でほぼ満室だった。 結局一泊50,000Rpのダブル3つで妥協する事にした。 ドンは「無料ポーター」の私とシェアするつもりだったがこっちは4人で行動していたのでそれはできなかった。
 不満に思った彼は皆に悪態を吐いてしまった。 彼はすでに5月間旅行をしていたので場合によっては一泊50,000Rpは高くないと思うが・・・。

 だれでも旅行をする権利はあるが健康状態、年齢、趣味に応じて旅行の予算を考えるべきだろう。

4.ごみ箱のある町(ルウクLuwuk、9月2日〜7日)

 ペルニ船は予定より1時間遅れてルウクに到着した。 小さい湾の周りにココナッツを植えた山があると言った感じでこじんまりとした町だった。 

 ポールから彼の家に泊まってもいいと言われたが、多分久しぶりに家族と会う事だろうし船旅で疲れていたので断った。 その代わりに港に迎えに来てくれたポールのお兄さんからホテル(Ramayana Beach Hotel、W20,000Rp〜)を教えてもらってそこに行く事にした。 ベモに乗って町の様子を見ると、この地域の中心だけって小さいスーパーマーケットやCitiバンクのカードが使える銀行など必要なものはそろっていた。

 ホテルにチェックインしてから昼寝していた2人を置いて町を散策してみた。 インドネシアの町にしてはゴミが少ないなと思っていたら、町のあちこちにごみ箱が置いてあるのが気が付いた。 道行く人に伝統的な回教徒の服を着た人が目に付いたのでまじめな人が多いのか?と思った。

 後でダニエルと町を歩くとあちこちから「Hello Mr.!」などど声がかかった。 西洋人はよほどの観光地でない限り珍しがられて声を掛けられるが、町の人間はよほど珍しかったのか?いつもよりすごかった。 人によってはさらに「どこから来た?」、「どこへ行く?」とどうでもいい事を聞いてくる。 また、馴れ馴れしく人の体に触ることも珍しくない。 東南アジアではこのインドネシアだけの特殊な習慣らしい。 恐らく、みんな友達と思っているのだろう。 それを我慢すれば、ただの気の良いおしゃべりが好きな人達だということがわかってくる。

 町の近くのきれいなビーチで泳ぐ事が目的だったが翌日に熱を出してしまった。 ノブ君もすでに寝込んでいたので2日ほど何もしないで宿で休養した。 その後、回復が遅れたノブ君を置いて3人で1日だけビーチに行ってみた。 そこは珊瑚のかけらが砕けた白い砂のきれいな浜だった。
 私だけ泳がなかったが、その代わりに浜を散策した。 珊瑚のかけらがあるので珊瑚礁があることがわかる。 また、少しだが星砂もあった。 日本の海岸に見られるペットボトルなどのゴミの類は少なかった。 それは、土地の人が空のペットボトルを入れ物にするなど色んな事に再利用しているかららしい。 いかに日本が物があふれているかがわかる。

5.インドネシアの渡世人(アンパナAmpana、9月7,8日)

 ルウクの次は4人でスラウェシ島で有数の観光地、トギアン諸島へ行く事にした。 しかし、出発の当日になってノブ君が体の不調を訴えて1日休養して翌日に向かうことにしたので彼を除く3人で出発した。

 まず、トギアンへの船が出るアンパナに向かった。 バスの運賃の事で揉めて以来5週間ぶりに再訪することになる。 また、無駄な事だがトミニ湾を1周したことになる。
 アンパナへの道は例によって無数にあるココナッツの村を通って行った。 途中、カリマンタンで見たような木材の乱伐で草だけになった山があった。

 例によってデコボコ道の辛い道中を進んで夜9:00にアンパナに着いた。 宿探しはガイドのポールがいたので至って簡単だった。 彼は目星を付けた宿に行って部屋を見せてもらい、自分が納得してから「どうだ?」と聞いてきた。(Family Losmen、T30,000Rp) 以前、私が宿泊したことのある所より新しくてきれいだったので当然Okとなった。

 そこにはポールと同業のフリーのガイド達がいた。 彼らは適当な宿で(例えばある観光地への玄関口の町にある宿)お客を待ち構えたり、気に入った宿で居候しながら仕事があればすると言った感じだ。
 積極的に話し掛けて来たりするので用の無い旅行者にとってはうっとうしい存在だが、宿側にしてみれば雑用を手伝ってくれたり、宴会をして宿の雰囲気を良くしてくれたり(静けさを求める人にはこれもうっとうしいが・・・。)宿の宣伝をしてくれたりでありがたい存在らしい。
 お互いのためと言う事もあるだろうが、彼らは横のつながりが密で結束力が強いという所がある。 彼らはあちこちに仲間がいるらしく、再会を喜ぶ場面を何度か見た。 なんだか「フーテンの寅さん」を代表とする渡世人みたいだ。

 その夜、ポールは私たちを置いてガイド達と飲みに出てしまった。 

6.ビーチリゾートでの贅沢な日々(トギアンTogian諸島カディディリKadidiri島、9月8日〜14日)

 アンパナに到着した翌日、いよいよトギアン諸島へ向かった。 トミニ湾に浮かぶトギアン諸島は人口3万人ほどでシージブシーのバジャウもいるらしい。 そのうちのポールお勧めの宿Wakai Cottage Kadidiri(W30,000Rp〜、3食付き)があるカディディリ島に向かった。

 まず、アンパナから定期船に乗ってBatudaka島Wakaiに向かった。 船は既にインドネシア人乗客で一杯で他に数人の西洋人ツーリストがいた。 場所が決まって出港するとダニエルは近くにいたWakaiの女の子と話しをしていた。 彼はインドネシア入りしてから2週間くらいしか経ってないのに既に土地の人といろいろ会話ができるようになっていた。 インドネシア語自体、誰でも憶えやすいように作られた言語で、ダニエルがおしゃべりと言う事もあるが、彼は記憶力が良いのではないだろうか? ちなみに彼はインドネシア語の会話集、辞書の類は持ってなく、人から教えてもらった単語をメモしているだけだった。

 船はAM10時過ぎに出港してPM3:00にWakaiに到着した。 木造家屋が多く、海沿いらしく銀色の塔が屋根に乗ったモスクがあった。 桟橋では子供達が泳いでいるというインドネシアでは平均的な漁村だ。 そこからカディディリへは宿の送迎船に乗って30分くらいだ。 宿は今までに無い、現地人の集落から隔離された状態で浜はプライベートビーチ状態だった。 泳いで少し沖に出ると、珊瑚や魚で一杯だった。 とても静かで、夜には星がたくさん見えた。
 ただ、水の確保が大変らしく段々水が使いづらい状態になってしまったのは残念だったが・・・。

 宿のスタッフはインドネシアらしく気取った感じがなく、いつも外国人と接しているのでうるさく話し掛ける事無くほどほどの距離で接していた。 翌日に無事到着したノブ君を加え、4人と宿のスタッフと一緒に英語とインドネシア語でちょっとエッチな話をしたり、ビリヤードをしたり、泳いだりの毎日だった。

7.どこにでも子供がいる(トギアンTogian諸島カディディリKadidiri島)

 既に触れているが、インドネシアは日本では過疎で年寄りだけでもおかしくない田舎でも子供が多い。 このカディディリのリゾートにも3歳の女の子がいた。 名前はヤユ。 顔がなんとなく女優の中島朋子に似ていて天然パーマの少しカールがかかっていた髪だった。 人見知りの強い子だったが子供好きのノブ君だけにはなついていた。

 彼女のお母さんは宿で働いている。 家はWakaiにあるのだが、ヤユはまだ小さいので連れてきたらしい。 お母さんは37歳で17歳で結婚/出産してからヤユで6人目の子供らしい。 インドネシアでは10代後半の早婚、出産が珍しくないらしい。
 また、宗教が違う未婚のカップルで子供ができてしまったものの結婚できずに未婚の母となってしまう例も多いそうだ。

 この国では一応、性教育のプログラムは用意されているそうだが日本のように学校で教えているレベルではなく日本より消極的らしい。 その結果、人口が急増してジャワ島など過密地帯からカリマンタン、イリアン・ジャヤ(ニューギニアのインドネシア領)に移民を送っている。 その移民と昔からそこにいる住民との間で今年の3月にあちこちで殺し合いにまで到った事件が続発した。 スラウェシとイリアンの間にあるマルク州アンボンでは未だに続いている。 また、9月4日に独立が決まってから戦闘状態が続いている東チモールでも数十万の移民が逃げた。

 不十分な性教育による人口増。 政府も無知なので強引に移住を進めた結果、お互いの習慣の違いによる移民と現地人との対立。 とにかく、この国は教育制度を改善する必要があるのでは?

8.反アメリカ同盟(トギアンTogian諸島カディディリKadidiri島)

 2週間も一緒に行動した西洋人はダニエルが初めてだった。 ダニエルみたいに日本人に理解のある西洋人は珍しい。 大抵、言葉が壁になってお互い付き合うのが面倒になったり西洋人、日本人で固まってしまう事が多いからだろう。

 ダニエルもノブ君同様オーストラリアのワーキングホリデー帰りで実はノブ君とはオーストラリアで会っていて、トモホンで再会した。 彼は他にもオーストラリアで日本人と数週間一緒に行動した事があって、日本人の相手をするのに慣れていて彼の英語はとてもわかりやすかった。

 彼は事前に知っていたとは思うが、何人も日本人と接していて日本人がアメリカに対してあまりいい印象を持ってない事を知っていて結構アメリカのことが話題になった。 彼ら、カナダ人もアメリカに対して良くないと思っているそうだ。 カナダはアメリカとは隣同士で日本は距離があるものの、軍事的/経済的に依存している(させられていると言う噂もあるが・・・)。 まあ、アメリカと言う国はなにかにつけて仕切ろうとする町内ではどこにでもいるうるさいおばさんみたいなものだろう。 縁を切る事ができないのでなおさらいやな感じがするのだろう。

9.子連れ旅(トギアンTogian諸島カディディリKadidiri島)

 宿のお客に幼稚園くらいの男の子を連れたオランダ人のカップルがいた。 彼らとはあまり話をしなかったので詳しい事はわからないが、私同様数ヶ月旅行していたようだ。 以前、ブナケンで似たようなドイツ人の家族連れを見たのでヨーロッパの旅行者では珍しくないようだ。

 ある日、両親はダイビングに行って男の子は最初は一人で遊んでいたがそのうち誰かに相手をしてもらいたくなったらしく騒ぎ出した。 無理も無い。 旅行前は近所の友達と遊んでいたのに両親の旅行で友達から切り離されたのだ。 かといって、両親はどこかに腰を落ち着けるわけでもなく(長くて1ヶ月だろう)常に移動しているので新しい友達ができない。 しかもまだ小さいので英語教育を受けておらず、オランダ語だけ話せる。 大人にも話し相手がいない。

 彼はカディディリを去る数日前からヤユと仲良くなったようだが、そうなると両親が移動してしまう。 あまり長い子連れ旅は子供のためにならないだろう。

10.南へ西へ(ポソ、9月14,15日)

 宿はほぼ満室状態だったが14日に我ら4人と子連れのオランダ人、フィリピン行きの船以来あちこちで会っているカナダ人の「柴田さん」(彼女の名前は知らないが、メガネと口元がワハハ本舗の柴田理恵?に似ているのでノブ君との間で勝手にそう言っている。)、などかなりチェックアウトした。 隣りの宿もスイス人のアドリアンなどチェックアウトした客が多かったらしい。 Wakaiの桟橋に着いてアンパナ行きの船に乗ると行きより外国人が多かった。

 アンパナに着いて船から降りると外国人のほとんどがポソ行きのバスに乗った。 普通の路線バスだがあたかもツーリストバスみたいになってしまった。
 ポソに着いたのがPM9:00過ぎだったので前回宿泊したLosmen Alugoroはすでにインドネシア人ビジネスマンで一杯だったが、今回もポールがいたので宿探しは簡単だった。 Losmen Alugoroから徒歩数分のHotel Alamanda(T27,500Rpをポールとシェアした。 ポールが値切って20,000Rpになった。)に空き部屋が結構あって10人近くいたのに全員収容できた。

 翌日、同行したほとんどの旅行者はポソの南のポソ湖に向かう事にしていたが私は既に訪れたしこれ以上スラウェシのバスに乗って功徳のない苦行をしてもしょうがないと思っていた。 そこで、もう少し我慢して西のパルまで行ってそこからペルニ船に乗ってスラウェシを出て次の目的地、フローレス島に向かう事を考えた。 さらに、パルの近郊のタンジュン・カランにポールが居候している宿があるのでポールと一緒にそこまで行って船待ちすることにした。

 何週間もほぼ一緒だったダニエル、アドリアン、「柴田さん」とはここでお別れだ。 ノブ君は一旦、ポソ湖の町に行ってからタンジュン・カランに向かうらしい。

11.どこにでもいる変な旅行者(タンジュン・カランTanjung・Karang、9月16〜19日)

 パルに着いたのがPM6:00と少し遅かったし、ポールの体調が良くなかったのでパルで1泊してからタンジュン・カランに向かった。 ポールが居候しているHarmoni Cottage(W35,000Rp、3食付き)はパルから2時間くらいの所でココナッツ林があるスラウェシではよく見かける農漁村にあった。

 すでにポソで聞いていたが、ポール達3人がトモホンで会った(宿が満室で宿泊できなかったので私は知らない)自転車に乗った変わったアメリカ人旅行者がいるらしい。 宿に着くと以前、ゴロンタロの宿で会ったアメリカ人のおじさんリッチーだった。 その時は「自転車が1台余分にあるから一緒にサイクリングに行かないか?」と誘われたが、マナドに向かうところだったので丁重にお断りした。 その時はちょっと妙に思ったが単なる自転車好きなおじさんくらいにしか思ってなかった。 再びサイクリングのお誘いがあったが、疲れていたのでまたお断りした。 後で聞いたが、彼はゲイという噂があった。

 食事は宿の食堂で宿泊者が一緒に食べる様になっている。 昼食時に彼は日本に行ったときの話をしてから「Japanese Style」と言って底にコショウが溜まったカレー風のスープを一気飲みしてむせ返っていたが、彼が本領を発揮したのは夕食後だった。 ポールを含む宿のスタッフが食堂でギターを弾いてみんなで歌を歌ったり(当然英語の歌がメインなので聞いているだけだった)聞いたりしていた時、リッチーがギターを弾いてきた。 まあまあ上手だったがだんだん調子に乗ってほとんど彼のオンステージになってしまった。 さらに、歌っているとむせて外にツバを吐いたりしてひんしゅくを買っていた。

 食事中はリッチーがなにやら難しい英語を話していたので最初は疎外感があったが、どうやらしょうもない俗語ばかり使って冗談を言っているらしい。 時々、夫婦で来ていたイギリス人のおじさんが突っ込みを入れて皆が笑っているようだった。 我慢できなくなった人が一人抜け、二人抜けしまいには誰もいなくなった。
 社会人時代に国内旅行をしていた時、やっている事は違うが他の旅行者のひんしゅくを買っている人間を見たが、西洋人でもいるんだなと思ってしまった。

 変なのはリッチー一人だけでタンジュン・カランは白い砂のきれいなビーチがある所で、沖に出ると珊瑚がたくさんあった。 宿のスタッフは例によってフレンドリーでのんびりするには良いところだ。

12.ペルニの航海2(パルからウジュンパンダンへのペルニ船内にて、9月19〜21日)

 いよいよ、タンジュン・カランを去る日が来た。 ポールとノブ君とはここでお別れだ。 ポールはオーストラリアに婚約者がいて、現在渡航するためのビザ待ちらしい。 どこでも同じだが、発展途上国(現在は開発援助国?)の人間が先進国へ渡航するのは難しく、600万Rpとたくさんの書類が必要だったそうだ。 それでもビザがとれるか?入国できるか?わからないらしい。
 ノブ君は月末にペルニ船を乗り継いでスマトラのメダンまで行ってそこから高速船でマレーシアのペナンに渡ってバンコクから帰国するそうだ。
 彼らとは再会を誓ってHarmoni Cottageを後にした。

 パルからフローレス島まで直行する船はなかったので、まずウジュンパンダンまで行って着いたその日にウジュンパンダンを出港してフローレスに向かう船に乗り換えることにした。
 今回のペルニ船はマナド近郊のビトゥンからパル、カリマンタンのバリッパパン、スラウェシに戻ってウジュンパンダン、ジャワのスラバヤ、ジャカルタさらにスマトラのパダンまで行く幹線を航行するもので定員2,000人のペルニ船にしては大型の部類だった。 前々回、カリマンタンからスラウェシに渡る時に乗船した船もほぼ同じ大きさだったが、今回の船はエコノミークラの割り当てが少なく、乗船したときは既に通路まで人で一杯だった。
 ペルニの大型船は古い船は1等から4等とエコノミーの5つのクラス、新しい船は1〜3等とエコノミーの4つのクラスに別れている。(その他の船は1,2等とエコノミーの3つのクラス) 今回はウジュンパンダンまで2泊3日するので3等か4等にしたかったがすでに満席でエコノミーにせざるをえなかった。 エコノミーは定員があってない状態なので船に乗れない事はない。

 空いていた通路に無理矢理持参したキャンプ用マットを敷くと近所から例によって「どこにいくの?どこからきたの?」と聞かれた。 日本人と言う事がわかると質問攻めになってしまった。 彼らはマナドからジャカルタに向かうどういう関係かわからないが同じファミリーと、マナドからジャワへ就職活動に向かう学生グループだった。 インドネシア人は親切で、おしゃべり好きなので「儀式」を辛抱すると後は船の事を教えてくれたり暇な時は相手をしてくれるのでそれはそれで助かる。

 当然なのだが、船が次の寄港地に着くと下船する人がいる。 翌日の昼前に船はカリマンタンのバリッパパンに到着した。 その前に降りる人を見つけて無事、ベット(といっても広い板の上に何枚かマットを敷いただけ)を確保した。 そうするか、乗船前に場所取屋を雇わないと通路か甲板で寝ることになる。

13.憧れの日本(パルからウジュンパンダンへのペルニ船内にて、9月19〜21日)

 マナドのファミリーの内、若い女の子2人は父親が日本人らしい。 もともとマナドの人は混血が多く、日本人や中国人に似ているもののそうでないマナド人が多いらしい。 彼女たちも言葉がなんとかなれば日本に行って「日本人だ!」と言えば誰もが信じるだろう。

 どういうわけか?そのうちの一人が私に気があるらしい。 最初は冗談かと思っていたが、ウジュンパンダンに着く前夜になってもいろいろ言ってきた。 こっちはその気が無いのでとりあえず、インドネシアに移住する気が無い事と、ポールのことを例にインドネシア人が日本に渡航するのが難しいことを話した。 すると、懲りずに「隣りで寝てもいい?」と聞いてきた。 当然、「ダメ!」と言って断った。

 性教育の事と同様、この国の平均的な人間は知識が我々に比べて少ない。 恐らく、日本人と結婚すれば贅沢で快適な暮らしができると勘違いしているのだろう。 インドネシアでは常に誰かと一緒というライフスタイルだ。 もし、結婚して日本に連れて帰っても彼女が日本に渡航したら言葉が通じず昼間は孤独になる。 結局、「孤独」に耐え兼ねて逃げてしまうのがオチだろう。

 もっとも、インドネシア人でも中流や上流階級では仕事で日本に係わっているひとは少なくないのでそれなりに日本の事は知っているだろう。 彼らは平均的な日本人よりお金持ちなので結婚してもお金のトラブルは平均的なインドネシア人と結婚したケースより少ないだろう。 それでも、この国は東南アジアの中でも一番日本と習慣が違うので結婚後に多くのトラブルが待ち構えていると思う。
 結婚はそれなりの覚悟が必要だろう。

 あとで知り合ったドイツ人が「こっちの子は突然、結婚して!と迫ってくるけど彼女がいると言うとすぐ諦めてどこかに行ってしまうよ。」とあきれながら話していた。 次回はその手を使おう。

14.強い軍部(ウジュンパンダン、9月21,22日)

 ウジュンパンダンに着くと、私が乗る予定だったフローレス行きの船は前日に出港してしまったらしい。 港のインフォメーションでは翌日にフローレス行きの船が出港するとのことだが、スケジュールの確認とチケットの購入のためペルニの事務所へ向かった。

 ペルニの事務所でも同じスケジュールだったのでチケットを購入して、新しい船の運航スケジュールのコピーをもらった。 イリアンなど長距離航路で遅れるのはわかるが、ジャワ、カリマンタン、スラウェシを結ぶ比較的近距離の路線の船まで大幅に予定が変更されていた。 後で知り合ったガイドによると、9月4日に独立した東チモールの避難民の移動のためにペルニ船が駆り出されたらしい。

 とにかく出港は明日なので外国人旅行者が多いLegend Hostel(D9,500Rp)にチェックインした。 特にすることがなかったので午後は日本領事館を訪れてインドネシアの治安情報を調べる事にした。。
 日本語が達者な守衛さんに案内されてロビーに入ってしばらくすると外務省の20代半ばくらいの若い男性が応対してくれた。
 危険度はシンガポールの大使館で調べた時は
アンボン周辺・・・・・危険度3
バリ、ビンタン島・・・危険度0
その他・・・・・・・・・・危険度2
となっており、対応が後手かな?と思っていたが、今回は
東チモール・・・・・・・危険度5(退避勧告)
アンボン周辺・・・・・・危険度4
東チモール以外のチモール島・・・危険度3
バリ、ビンタン島・・・危険度0
その他・・・・・・・・・・危険度2
と大幅に変わっていた。 これで東チモールは最悪の事態になっていることを知った。

 オーストラリアを中心に「国連軍」と言う事でアセアン諸国などが出兵している事は知っていたが「念のため」程度かと思っていた。 インドネシア人ビジネスマンの利用が多いLosmenは大概ロビーにテレビが置いてあるのだが、外国人旅行者むけの宿には置いてない場合が多い。 
 そのため、浦島太郎にならないよう短波ラジオを持ち歩いている旅行者がたまにいる。 荷物になると思って用意しなかったが、インドネシアのような不安定な国では必要になるようだ。

 また、テレビを見ていてもあくまでもインドネシアは「被害者」といった報道ばかりだ。 おそらく、軍部がマスコミを未だに支配していて自分達の都合の良い様に報道させているのだろう。 軍部の報道では「せっかくインドネシアが東チモールを「解放」したのに「オーストラリアが中心の国連軍」が侵略しに来た。 そのため、大勢のインドネシア人が逃げなければならなくなった。」ということになっているらしい。 インドネシア以外のマスコミは「東チモールは'75にインドネシアが侵略して以来、軍部が虐殺を繰り返した。」となっている。 一番悪いのは軍部だが、彼らは矛先を外国人に向ける事でごまかしている。 今後の政局は軍部に有利に動くだろう。

 以前、ポールとパルの町を夜に出歩いていると突然土地の青年が「オーストラリアか?」と聞いてきた。 後でポールが「インドネシア人はテレビの報道を鵜呑みしている。 もしオーストラリアから来たと言えばトラブルになっただろう。」 酔っ払いのたわ言程度に思っていたが、この事を領事館の人に話すと「個人的なコメントですけど、今はオーストラリアだけが標的になってますが外国人全部が標的になる可能性があるので十分に気を付けて下さい。」と忠告してくれた。
 事実、ウジュンパンダンの町でおじさんからいきなり「タイ人か?」と聞かれたし、別のアメリカ人は「アメリカだ」と言っても「うそつけ!」と言われたそうだ。
 ちなみにこの国の平均的な人間は平均的な日本人、欧米人より地理の知識がないらしい。 自分達と違う外国人というと欧米人くらいしか思い付かない人が多い。 そこで、私ですら「ドイツ人か?」、「オランダ人か?」、「フランス人か?」と聞かれる事が珍しくなかった。

 そんな状況なので外国人旅行者の中にバリから出国してジャワには行かない、もしくはインドネシアでの旅を切り上げて出国する旅行者もいた。 フローレスは田舎だし、バリ/ロンボクは観光に依存しているので問題が発生する確率は低いだろうが注意が必要だ。 翌日、無事ペルニ船に乗って約2ヶ月いたスラウェシに別れを告げた。

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