インドネシア・カリマンタン



(東マレーシア編から)

1.あっけない入国(ポンティアナPontianak、6月26日)

 歩いてインドネシア側イミグレに向かうと大勢の男達が待っていた。 闇両替である。 事前に90,000Rp用意していたのでもちろん断るが、次から次から別の男が同じ事を聞いてくる。 ミャンマーの外国人観光客に依存している人間と同じである。 彼らを無視して入国審査に向かった。

 インドネシアのイミグレは評判が悪く、50US$を請求する輩までいる話を聞いていたので緊張して待っていた。 二つ前にいたマレー国籍の華人のおじさんがパスポートにルピア札を挟んでいたので「これはやばい!」と思った。 英語が解らない振りをしてごまかそうかなどと考えていたが役人は出入国カードの名前とパスポート番号をチェックしただけであっけなく60日有効のツーリストビザをくれた。 悪さをするのは一部なのか?ただ休日で忙しかったからか? 真相は闇である。

 それからバスが来るのを待っていると日本語で話しかけてきた人がいた。 最初は闇両替の一味かと思っていたがその人はマレーシアの日系企業のサービスエンジニア・アウンさんで名古屋近郊の高浜市で研修をしたことがあるので英語はもちろん、日本語も少し話せるらしい。 そういう人はマレーシアに多いらしい。 アウンさんの営業範囲はかなり広いらしく、カリマンタン行きも出張らしい。

 アウンさんの話によるとバスは税関の審査をしてから出発するとのこと。 バスが来てトランクが開かれた。 ただ、全部見るのではなく役人が「これだ!」と思った荷物をチェックするだけでアウンさんの話ではダンボールが狙われるらしい。 役人は私のザックに目もくれず、アウンさんの指摘通りダンボールと大きなカバン2つを見てめでたく審査終了となった。

2.予想以上に開発が進んでいるインドネシア

 インドネシア側の道は予想以上に良かった。 最初はラオスのような未舗装でガタガタ道を想像していたが完全な舗装路だった。 狭くてカーブが多いのは御愛敬だが・・・。 沿道には何も無いかと思っていたがかなり民家があった。 モスクと教会が同じ村にあるのはスハルトの政策で移住した人達なのだろう。 沿道の家々には結構パラボラアンテナが建っていた。 日本にいたとき、インドネシアは国土が広いので衛星放送が普及しているニュースを見たが本当らしい。 道行く若い女の子はタイ人と変わり無く、Tシャツ・ジーンズ姿だ。 しかし、山奥でも子供や若者が多い。 まだまだこの国は人口が増えるのだろう。

 食事休憩をしてしばらくするとヤシの木が点在する田園風景になって、小船が行き来する水路がある町、水路がドブになってしまってから右手に赤道記念碑。 ついに赤道を越え、南半球入りとなった。 それからポンティアナの市街に入った。 そこにはデパートを小さくしたようなショッピング・センターやケンタッキー・フライドチキンまであった。

 バスは町中にある事務所前で終点になってそこから歩いてガイドブックに載っていた宿に向かった。 ゴミが散在していたのは予想通りだった。 宿Wisma Patriaは住宅地の中にあってWでマンディ(シャワー・トイレ)付きで22,000Rp(税込み)=12.5RMでクチンB&Bのドミトリーより安い。

 受付でチェックインの手続きをしているとB&Bで同じ部屋だったフランス人のおじさんと再会してしまった。 この町の治安のことを聞くと「ぜんぜん大丈夫だよ!」とのこと。 宿の人はあまり英語を話せないみたいだが感じが良く、カレンさんの言う通りらしい。

 宿から外出するとガイドブックに書いてある通り、華人の姿が多い。 ジャワ島では焼き討ちに会ったり暴行されたりと散々だったがここではよその国の中国系同様何事も無かったかのように生活しているように見える。 やはりここは治安が悪くないようだ。

 この町には台湾やペナンみたいにバイクが多い。 ただ、インドネシアに工場があるのか?ベスパのスクーターがよそより多い(でもホンダ、ヤマハが圧倒的に多い)。 この町自体思ったより都会(人口20〜30万?)のせいもあるが、交通量の多い交差点(信号が無い!)ではバイクの洪水状態だ。 カリマンタンの都市でこの状態なのでジャカルタなどジャワ島の都市の大気汚染はかなり進んでいるのだろう。

 あと、シンガポールのCiti Bankに問い合わせた所、無いと言われたCirrusのATM(このATMがあればCiti Bankのカードが使える)がこの町には点在していた。 シンガポールで損を覚悟でUS$のCash、T/Cを用意したが・・・。 無いよりましだががっかりしてしまった。 一番ATMの数が多い銀行に問い合わせてみると、バンジャルマシン、バリッパバン、サマリンダといったカリマンタンの拠点都市も同じ状況らしい。

 国際経済評論家ではないのでなんとも言えないが、どうやらタイよりも若干遅れているだけでミャンマー・ラオスよりかなり進んでいるらしい。 30年続いたスハルト政権下で開発を進めた成果なのだろう。 ミャンマー・ラオスは長期間鎖国していたので経済的にはかなり遅れをとってしまったらしい。

3.言葉の壁

 以前から聞いていたがカリマンタンは英語が通じにくい(ラオス並み)。 若干知っている人は結構いるのだが、あまり外国人が訪れないからだろう。 実際、ポンティアナでは宿にいたフランス人のおじさんとドイツ人らしいカップル以外西洋人、日本/韓国人を見なかった。

 華人はかなりいるのだが、市場で会った華人のおじさんに漢字で筆談しようとしたが本人はわからないらしく年配のおばさんを呼んだ。 これは恐らくスハルトの政策により中国語の教育ができなかったものと思われる。 町中にあまり漢字の看板を見掛けなかった。
 もっとも、東南アジアでは華人は金持ちが多く高等教育を受けている割合が高いので英語&中国語&家族で使っている中国語方言&現地の公用語が話せる人がかなりいるらしく親し気に「中国語話せる?」と聞く人がたまにいる。

 そこで、早速本屋で英-インドネシア、インドネシア-英の辞書を買った。 シンガポールに日-インドネシアの辞書が売ってあったが現地で買った辞書は10分の1くらいの価格だった。

4.ひさびさの”Full!"(クタパンKutapang、6月30日)

 最初はポンティアナから飛行機で東カリマンタン州の拠点都市バリッパパンBalikpapanへ行く事を考えたがシンガポールで飛行機を使わずに行けた話を聞いたので挑戦してみる事にした。

 ところが、ポンティアナの代理店で聞いてみると途中の西カリマンタン州クタパンKutapangから中央カリマンタン州パンカランブンPangkalanbunまで飛行機を使わざるを得ないとのことだった。 しかも小型機が日に1〜2便なので連日満員盛況らしい。 そしてクタパン→パンカランブンのチケットはクタパンに行かないと取れないそうだ。
 それでも、西カリマンタン州のポンティアナ以外の町も行ってみたかったのでとりあえず28日に30日の15:00発のスピードボートの予約をした。(29日は満席だった) 最悪、7月9日に国営のPelni(Pelayaran Nasional Indonesia)社の船がパンカランブン方面に行く事になっていたのでまたポンティアナに戻る事にすればよい。

 代理店から事前に船会社の事務所でチェックインすることを聞いていたので、当日PM1:00に宿を出て徒歩で向かった。 ところがガイドブックの地図に書いてもらった場所に行っても看板は無く、人に聞いたらPelniのターミナルの建物を指差す。 でたらめを言っているのだろう(悪気はないが)と思いPelniのターミナルの守衛さんに聞くと「ここだ。」らしい事を言う。 果たして、事務所はそこにあった。 恐らく代理店側に事務所移転の情報が伝わってなかったのだろう。 その辺はやっぱり東南アジアである。

 船は日本の沖縄県石垣島周辺で見掛ける高速船と似たような船で(ひょっとしたらそこの中古かも)中は一度になるべく多くのお客を乗せるようにシートの前後の間隔が狭くて快適とは言えない。 ポンティアナ〜クタパン間の一般的な交通手段はこれらしく客層は普通の人と言った感じだ。 満員(定員100?)の乗客を乗せて15:00過ぎにポンティアナを出港した。

 進行方向に向かって左2、右3のシート配置で席は左の窓際だった。 隣には頭に被り物をした真面目そうな女の子が座ってきた。 なんでも彼女は小学校の先生で持っていた辞書を使いながらお互いの事を聞き合った。 学制の事を聞くとこの国では中学校までは日本と一緒だが高校は5年制で恐らく日本の高専のように専門的なこと(工業、教育、商業など)も学ぶのだろう。

 しばらくすると弁当と水が配られた。 「なかなかサービスがいいな。」などと思っていたがPM9:00過ぎから海上にうねりが出てきて船が揺れ出してきた。 小笠原航路で鍛えられて船には自信があったのだが狭い座席で座っているので辛かった。 しまいには目をつぶって深呼吸した。 周囲に「エチケット袋」を使った人が結構いた。
 いつのまにか眠ってしまったらしく、気が付いたら船は速度を落としはじめた。 それから数分で町の明かりが見えてきてクタパンに到着した。 結局PM10:30着だった。

 桟橋で荷物が船から出されるのを待っているとヘルメットを被ったおじさんが「Muruni?」と宿泊するつもりだった宿の名前を言った。 聞いてみると10,000Rpで宿までバイクで送ってくれるらしい。 10,000Rpは高く感じたが(船の運賃が50,000Rp)、隣の席の先生が言っていた事と一致するし時間が遅かったので手を打つことにした。

 港から20分でMuruniに着いた。 やはり乗って正解だった様だ。 だが、意外な事に宿の人は「満室だから別の宿に行きなさい。」と言った。 またおじさんのバイクに乗って紹介された宿に行くとまた「満室!」そこで紹介されたところも同じだった。
 結局、AM0:00前にやっと部屋を見つけて荷物を置く事ができた。 宿の人は遅い時間にもかかわらず新しいシーツを敷いてくれた。(Wisma Pemda TK [II]、W15,000Rp AC付き) 10,000Rpは高くなかったらしい。(しかし、ぼられた)

 ポンティアナの宿から感じていたが、客層は仕事で宿泊しているらしい人が多いようだ。 カリマンタンは海外からの観光客に依存してないので宿の客層はそうなるのだろう。 以前、日本の南西諸島を旅行したときも観光客の多い八重山諸島(石垣島周辺)を除くと宿は公共事業の宿舎みたいになっていた事を思い出した。

5.つらい航海(クタパンKetapang→パンカランブンPangkalanbun、7月2日〜4日)

 宿泊した宿と町の雰囲気が良かったのでもう一日いても良かったが、これから先どうなるかわからなかったので先を急ぐ事にした。 なんだか下川裕治の世界である。 クタパンでは代理店の人からの未確認情報で

1.クタパン→クンダワンガンKendawangan・・・・・バス2時間、クンダワンガンで宿泊。
2.クンダワンガン→スカマラSukamara・・・・・・・・スピードボート5時間、スカマラで宿泊。
3.スカマラ→コタ・ワリンギンKota・Waringin・・・乗合タクシー1時間?
4.コタ・ワリンギン→パンカランブン・・・・・・・・・・スピードボート1時間?

というのを聞いた。 2泊3日らしい。

 クンダワンガンまではクタパンのバスターミナルでバスを確認したので問題なかった。 道は舗装されていたが穴だらけのでこぼこ道だった。 途中の景色は入植者の村と開発か自然かわからないが山林火災の跡地、荒れ地である。

 クンダワンガンに着いてから船会社のオフィスを探したが、昼休み中だった。 近くにいた人に聞くと「今日はもう出てしまった。 明日の朝までない。」 それを信じて宿にチェックインしたが、あとで事務所に行くと「毎晩21:30出港。」と真相は違っていた。 翌日の船の切符を手に入れ、翌日はのんびりすることにした。

 ところが、夕方に宿の前でのんびりしているとそこにたむろしていた連中が突然騒ぎ出して「今夜の船に乗れ!」と言い出した。 拒否していると切符売りを連れてきて切符を取り上げて切符の日付を今日に替えてしまった。 切符売りに聞いても「明日はない。」と昼間とは言っている事が違う。 挙げ句の果てに無理矢理チェックインさせられて、宿泊費10,000Rpがパーになってしまった。
(後日談・・・この船にはスケジュールがあってない状態らしいです。おそらく、土地の人はその日を逃すといつ出るかわからないから早く乗れと言いたかったみたいです。)

 納得できなかったが、あきらめて乗船した。 その日のうちはなんともなかったが、翌朝からうねりがひどく近くにいた子供が戻してしまった。 予定到着時刻7:00(事務所)を大幅に過ぎた昼にはスカマラを流れる川の河口に着いた。 川の景色はいかにこの島が木材に依存しているかがわかる。 木材船、大きな製材所、焼け跡などが見えた。 ここにもあちこちにパラボラアンテナがある。 結局、スカマラに着いたのは夕方5:00前だった。 この船は木造の小型船で無線が無い代物だ。 後で気が付いたが海上で事故があったらそれまでだ。 この船が今までの乗り物のなかで一番きつかった。 でも船のクルーは親切だった。

 スカマラまでたどりつければパンカランブンは近い。 古いトヨタ・ハイラックス(現地名キジャンKijang)の乗合タクシー(これもKijangと呼ばれる)と地域の足である乗合モーターボート(土地の人はスピード・ボートと呼ぶ)に乗ってパンカランブンに着いたのは3日後だった。

 なるべく飛行機を使いたくなかったので(飛行機はチケットが取れない)このコースに挑戦したが、もう同じコースをたどりたくない。 あまりおすすめできないコースである。

6.また南京虫(パンカランブン、7月4,5日)

 パンカランブンではスタッフが若い青年ばかりの宿に宿泊した。 スタッフは東南アジアに多い人のよさそうな連中だったので第一印象は良かった。 ところが、夜中に寝ているとかゆくて目が覚めてしまった。 ベットには、湧いてしまうと眠れない恐怖の南京虫がいた。 一応、ロビーでテレビを見ていたスタッフに殺虫剤をまいてもらったが寝ているとどこからともなく湧いてきた。 仕方ないので、床に持参したキャンプ用のマットを敷いて寝た。

 今まで同じケースで共通点は・・・「男が掃除をしている所」・・・である。 だからと言って「男が掃除をしている所」全てがだめと言う事ではないと思う。 しかし、今まで宿泊した所でマットがボロボロとか日当たりが悪いとか湿度が高いといったあやしそうなベットでも女の人がマネージャーの所では遭遇したことがなかった。

 もし、「男が掃除をしている所」だけに南京虫が湧くならば「女の人は掃除に向いている」いや、「女の人に掃除をしてもらいたい」と言いたい。 女性の重要さを感じた。

7.タンジュン・プティンへの道(パンカランブン、7月5日)

 カリマンタン西部の観光のハイライトはタンジュン・プティン国立公園である。 そこにはマレーシア・バコ国立公園同様、オランウータン、テングサルなどたくさんの動物がいるらしい。 また、カリマンタンは東マレーシアほど外国からの旅行者が訪れないのでより自然な状態を期待した。

 持参のガイドブックには具体的な事が書かれてなかったのでパンカランブンの宿でタンジュン・プティンへの行き方を聞いた。 宿の人の話ではとりあえずパスポートのコピー(インドネシアビザも)を持参してパンカランブンの警察署に行ってパーミッション「Selat Jalan」を取ってから隣町のクマイKumaiに行ってそこから行くらしい。

 コピーを取ってからバイクタクシーで警察署に行くと、英語があまり話せない警官が対応した。 そこでは職業、滞在日数(2日のつもりだが念のため3日で申請)を聞かれ、書類にサインをして手数料5,000Rpを払って完了した。 そこで公園への行き方、宿情報を教えてもらった。 どうも公園内の宿はとても高いらしく、彼らはしきりにその場にいた公園へのツアーを企画している町のホテルの人のツアーすすめた。 一応、最寄りのツーリスト・オフィスの場所を教えてもらってから食事をして宿に戻った。

 宿に戻ると、幸運な事についさっき、タンジュン・プティンから戻ってきた所だというイギリス人のおじさん二人がいた。 彼らの話によると公園へは船を1泊2日でチャーターするのが一般的で、船を確保するのに時間がかかるのですぐにでもクマイに行った方がいいとアドバイスしてくれた。

 彼らのアドバイスに従ってすぐ宿をチェックアウトしてクマイへ向かった。 クマイに到着するととりあえず宿を捜してチェックインしてそれからイギリスのおじさんからもらった彼らが乗ったボートの人の所に行ってみた。 その人は若干英語が話せたが、「残念だけど明日から1週間の予約が入っている。」と断られてしまった。 代わりに、彼のおとうさんに案内してもらって3軒目でやっとボートが見つかった。 選択の余地が無いと思いそこにお願いする事にした。

 料金は1日150,000Rp、2日で300,000Rp。 食材費は低予算でお願いして20,000Rpだった。 合計で320,000Rp、約\5,800とインドネシアの物価では清水の舞台から飛び降りた感じである。 なかなかしっかりしたおばさんで、キャンセルされないように前金で100,000Rp請求してきた。 そこのひとは英語が話せないが私自身英語があまりしゃべれないので専門的な解説を聞いても一緒だろうと思った。 でも、値引の交渉ができたかも・・・。

8.イブラヒム家にホームステイ(クマイ、7月5,7,8日)

 船の交渉が終わるとおばさんは親切にも、「今夜はうちに泊まってきなさい。 ただでいいよ。」と言ってくれた。 ホームステイできるとは願ったりかなったりである。 

 おばさん、イブラヒムさんの家は通りに面した所は食料品中心の雑貨屋で、母屋につながっている。 裏には炊事場+マンディ(トイレ+シャワー)と船用の物置があって、その裏にはさらに後で建て増ししたらしい2階建ての子供達の部屋がある建物があった。 
 おばさんの一家はジャワ島からの移住者らしく(この町自体)、最初は母屋、子供達が大きくなったら子供部屋の建物を建てたのだろう。 
 その又裏は川で、明日乗るボートやモーターボートが係留されていた。 川から見ると東京から横浜にかけてはしる首都高横羽線からよく見られる小さい船が係留されている民家に似ている。

 借りた部屋は恐らく娘さんが以前使っていた部屋らしく、家具が若干残ってあるだけだった。 壁には彼女の写真が貼ってあった。 隣の部屋はおばさんの娘さんがいて、壁が薄いので音はほとんど筒抜けだ。 時折、壁に掛けてあるらしい時計からの音がした。

 食事はそこにいる全員ではなかったが、一緒にさせてもらった。 複数の人と同じ食事を取るのは久しぶりだった。 家事は主に娘さんたちが交代してやっているようだった。 おばさんには7人の子供がいて、そのうち2〜3人は結婚しているらしい。 末っ子は近くの高校に通っているらしく、朝早く被り物をして出ていった。 まだ小さいお孫さんもいた。 みんな笑顔で応対してくれた。 恐らく30〜40年前の高度経済成長期に入る前の日本もこんな感じだったのでは?と思わせた。

 一般にマレー、インドネシアの人は私には無関心かうっとうしいくらい話し掛けようとするのだが、ここの人は「近からず、遠からず」で適当な距離を保ってくれた。 会話はほとんどインドネシア語だったが、おばさんが外国人慣れしているのか?わかりやすかった。

9.サルの王国タンジュン・プティン(タンジュン・プティンTanjun−puting国立公園、7月6,7日)

 公園内に入るにはパーミットだけでは入れない。 クマイにあるPPAという役所に行ってパーミットとパスポートコピーを渡して入場料1日につき4,000Rpを払う。 PPAで受付をしてからAM10:00におばさんの家から出港した。 操船はだんなさん、おばさんは賄いである。

 大きな川、クマイ川からSokonyar川に入る。 右手はすでに国立公園内である。 川の景色は最初は木がほとんど無く、モーターボートや手こぎの小船が川を行き来していた。 国立公園でない反対側には所々水道や電気の無い村があった。 

 それでもだんだんと木が目立ち、川幅が狭くなり一本の水は褐色だが透明な支流に入ると赤毛のサルがいた。 さらに奥へ行くと湿原があって岸にはワニが浮かんでいた。 野生のワニを見るのは初めてである。 そこからすぐに、オランウータンがいるCamp LeakyにPM2:00に着いた。 すでに他の船が停泊していて、西洋人のお客が川で泳いでいた。 久々に大勢の西洋人を見た。
 そこではPM3:00にオランウータンに餌をやることになっているのだが、当日は係員が不在だった。 それでも32歳で大きいほおをした大きな老ウータンやかわいい子供がいた。 マレーシアのセマンゴークみたいにおりには入れてなかった。

 PM5:00頃にそこで久々に川で体を洗った。 石鹸を付けて川に飛び込むと簡単に石鹸が取れた。 それから日暮れ前に出港してワニがいた湿原近くに停泊した。 夜は空に無数の星が見えた。 それ以外することがなかったのでPM8:00には寝てしまった。

 翌日はAM5:00に起きてしまった。 それから食事をしてから出港した。 最初はテングザル研究施設のある所に行った。 係員がいれば森の中を案内してもらえるようだがここも不在だった。 次のポイントもオランウータンの餌の時間でなかったので特に何も無かった。

 最後のポイント、Tanjung Harapanは充実していた。 そこの桟橋に着くと早速やんちゃな子供のオランウータンがやってきた。 少し離れた所には生まれたばかりらしい子供のオランウータンが3匹お互いにくっついていた。 彼らは森の中に1匹でいた所を発見されたらしい。 さらに、写真が展示してある建物があって若い係員にいろいろ解説してもらった。 そのうち、桟橋に機関銃を持った兵士の集団がやってきた。 時々監視に来るそうだ。 武装しなければならないとは、物騒だ。

 そこをPM3:00に出て、PM5:00にはおばさんの家に着いた。 お金がかかってしまったが、それなりの価値があった。 それよりも、穏やかなおじさん、明るくやさしいおばさんと家族の人達に会えた事がなによりも収穫だった。

10.中央カリマンタン州縦断(パンカランブン→バンジャルマシン、7月8,9日)

 おばさんの勧めでAM8:00パンカランブン発のパランカラヤ行きバスに乗るために朝早くクマイを出たが、欲の固まりの乗合バンの運転手を避けたりまた、運悪くその日にジャワ行きの船が出港するのでクマイの町は道が渋滞してしまった。 おかげで朝のバスに乗り遅れ、夕方4:00発の夜行便でパランカラヤに向かう事にした。 そこから5時間でバンジャルマシンに行けるそうなので一気に移動する事にした。

 バスは定刻より1時間遅れのPM5:00にバスターミナルを出発した。 道路は明るいうちはほとんど舗装されていた。 景色は北海道の田園地帯のように丘が続くタバコやシュロなどの農園だった。 暗くなると森林が多くなった。 道は未舗装の赤土だった。 幸い、乾燥していたのでデコボコしている一部のところ以外はバスは飛ばしていた。 これは、暑くても昼間移動した方がよかったかも。 しかしどこに行っても電気や水道は無さそうだが民家があった。 製材所もボチボチあった。

 食事休憩のあと、しばらく寝ていると道が舗装路に戻った。 あとは舗装路でバスはかなり飛ばしていた。 これでもこの道は中央カリマンタン州の幹線道路である。 5年以内に全て快適な舗装路になると思われるが、主要な輸送手段は船だろう。
 さらに進むと民家が増えてきて、AM4:00前にパンカランブンのターミナルに到着した。 ターミナルと言っても住宅地にあって、民家を改造したものだ。

 パランカラヤからバンジャルマシンまではスピードボートで行く事にした。 親切なバスの運転手に桟橋まで送ってもらってAM5:30発の船に乗る事にした。
 以前、タイで購入したNelles社の東南アジア地図ではパランカラヤ→バンジャルマシンは一旦海上に出なければ行けない様だったので屋根付きの外部から密閉された船を予想したが乗船時に船を見て目が点になってしまった。 なんと、屋根が幌の大型モーターボートだった。 でもほとんどの乗客は特に防水対策をしてなかったのでどうかなと、不安ながら乗船した。

 船は出港するとしばらく水上に建てられた民家が多い町中を通ったが、次第に森林になった。 朝早かったので風が冷たい。 雨合羽を着るべきだったがもう遅い。 船は途中、給油したり食事休憩を取ってたくさんの川や運河を通った。 しばらくすると行き交う船が増えてきた。 それとともに民家の数が増えてきた。 あちこちにバス停のように船着き場があって、そこでは水浴び、洗濯など土地の人の生活が見えてくる。 民家だけでなく、店も水路に面していた。 ボートはスローボートや小船を蹴散らすように運河を進んだ。 さらに運河を進むと大きな川に出た。 この地域の大河、バリトー川だろう。 岸には大規模な製材所があって丸太が山積みされていた。 さらに運河に入って昼前にバンジャルマシンの桟橋に着いた。 

 宿は桟橋近くでガイドブックに紹介されていたBorneo Homestay(S16,500Rp)にした。 受付が女性で部屋はベニヤ板張りだったがベットを見たらシーツや枕カバーがきれいだったのでOKした。 他にも明るくてきれいな部屋があったが値段を取った。 予想通り、南京虫は出ず良く眠れた。

11.水上都市バンジャルマシン(バンジャルマシン、7月11日)

 宿が経営している旅行代理店でフローティング・マーケットや運河などバンジャルマシンの水上都市らしいところを訪れる日帰りツアーを前日に申し込んだ。 市場を訪れるので出発は朝6:30で少々早い。 しかしそのころになると運河や川沿いに住んでいる人達が水浴びをしたり洗濯をしたり1日の行動を開始するので好都合だ。

 ツアーには英語がまずまずできるガイド付きだ。 この人はダヤク人の男性で顔つきが沖縄あたりにいそうな感じだ。 爪にオレンジ色の染料を着けていて、なんでも既婚の印らしい。 船は屋根無しの小型船でクロトと呼ばれる水上タクシーだ。

 船は出発するとすぐに幅の狭い川、クイン川に入った。 行き交う船、川沿いに住む人達の生活を眺めながら進んで再び大河、バリトー川に出た。 クイン川とバリトー川の交わる所にフローティング・マーケットがあった。 マーケットと言っても建物があるわけではなく、近郊から野菜や果物などを積んだ船が集まって船でやってきたお客に売っているのだ。 中にはお茶と菓子パンなどスナックを売っている船もある。

 続いて、船はバリトー川の船大工の集落がある中州を訪れた。 カリマンタンでは今でも木造船が主流で、ここでも木造船が作られていた。 丸太から作ったくり船を底ににしてその上に木の板を積み上げて塗装をして出来上がりだ。 この集落にはあまり外国人が訪れてないらしく、子供達が長い間ついてきた。
 最後にサルがいる中州を訪れて予定より一時間半遅れの10:30にツアーは終了した。

 夕方には別の運河を訪れるツアーがあって、どうしようかな?と代理店で考えていたら代理店のお姉さんに「運河ツアーに行かない?」と言われてしまった。 インドネシアの女性は商売上手であなどれない。 可愛いからとうっかりしていると散財してしまう。 結局参加する事にしたのだが・・・。

 夕方5:00に船は出発した。 メンバーは同じである。 今度はクロトがやっとすれ違える位の幅の狭い運河だった。 すぐ近くで土地の人が例によって水浴びや夕食の準備をしていた。 最初はいいのかな?と思っていたが、水浴びをしていた女の人達(体に布を巻いて水浴びをする)は一様に歓迎してくれた。 多分、ツアーのメンバーにイタリア人の女性がいたからだと思うが、おおらかなところもあるのだろう。

 そのうち、子供達がなにやら言って来た。 ガイドによると「外人さん」と言ったらしい。 多民族国家インドネシアでもそんな言葉があるのは意外だった。 同じ東南アジアでもタイ人とは対象的でとにかく、声をかけずにはいられないのがインドネシア人である。 どこに行っても興味本位でいろいろ聞かれる。(もちろんインドネシア語で)

12.カリマンタンは宝の島(マルタプラMartapura、7月13日)

 バンジャルマシンから日帰りできるマルタプラという所でダイヤモンドの露天掘りをしているそうなので行ってみた。 この町には南カリマンタン州の州立博物館があり、昼過ぎに閉館してしまうのでそちらを先にした。

 バンジャルマシンからは乗合ワゴンで行くのだが、博物館の前を通りすぎてしまった。 中国系らしい若いカップルが気を使ってくれて、博物館まで案内して、さらに英語の話せる博物館の人にガイドをお願いしてくれた。 足代は彼らが払ってくれた。 シンガポール、マレーシアでは戦争の影響で明らかに日本人を嫌っている中国系の人達がいたが、インドネシアではかなり好意的らしい。

 博物館の人がわかりやすい英語で案内してくれた事もあるが、この博物館はなかなか面白かった。 先住民族ダヤクの伝統的な習慣で沖縄同様風葬があったり(彼らは今はほとんどクリスチャンなので奥地だけらしい。)台湾同様ビンロウをたしなんだりするらしい。 楽器はミャンマーに似ていて博物館の人によるとインドの影響らしい。 他にもインドネシア各地の織物、バタックの展示が良かった。
 自然科学の展示はあまりなかったが、南カリマンタン州で取れる鉱物の展示があった。 ボルネオ/カリマンタンは木材だけでなく、地下資源が豊富らしい。 ブルネイ近辺では石油が有名で他にも金や様々な金属が採れるらしい。 ダイヤモンドはオランダ統治以前から採掘してきたらしい。

 続いて昼食を兼ねてマルタプラの市場に行ってみた。 以外と大きな市場で近郊で採れた野菜、果物、川魚に鶏肉、衣類が売られていた。 その一角に大きな宝石店があって、中にダイヤモンドの研磨場があった。 残念ながらその日(火曜日)は職人さんたちが休みで作業は見られなかった。 各地からバイヤーが訪れるらしく、店の人は英語が話せた。 一番小さいものが言い値で450万Rp(\8〜9万)らしい。

 昼過ぎにマルタプラ近郊のダイヤモンド採掘場に行ってみた。 乗合タクシーを降りると早速ガイドらしい青年がついて来た。 恐らく最後に金を要求するので「お金は払わないよ。」と言っておいた。 そのうち、宝石を見せて売ってきたのでそれが目的らしい。 彼の案内で2〜3現場を見てきた。 地下数メートルから泥水を地上の池に汲み上げて砂金の要領で見つけるらしい。 作業は年配の人から小学生くらいの子供まで様々な人がやっていた。 みんなブラジルのガリンペイロのように泥だらけになっていた。 思ったより閑散としていたが2,000人が働いているらしい。
 一通り見てから帰ろうとすると例の青年が予想通りお金を要求してきたが通じない振りをしてとぼけたら諦めた。

13.たまには休養も(サマリンダSamarinda、7月15日〜23日)

 サマリンダに行こうとした日に久々にかぜをひてしまった事に気がついた。 原因は移動移動で疲れていたからだろう。 チケットを買ってしまったので、サマリンダまで行って休養する事にした。

 所用時間が14時間と聞いたので今回も夜行バスにした。 南カリマンタン州はカリマンタンの中で人口密度が高い(といっても州人口はカリマンタン全人口900万中300万)らしく、農村が続いた。 道は舗装されていたものの、山間部ではカーブが多くて車に弱い私には辛かった。 途中、油田に石油プラントがある石油の町バリッパパンにAM8:00に着いてサマリンダにはAM10:30着だった。 バンジャルマシンには前日のPM5:00に出たので18時間近くかかった事になる。 やはりインドネシアだ。

 この町も宿は商用の人が多いためか?宿代が手ごろな所を3軒まわったがだめで、時間を置いて昼前にもう一度まわってみてHotel AIDA(S30,000Rp)に空きがあったので部屋を見てからチェックインした。
 かぜは大した事はなかったが、しばらく様子を見て休養することにした。 カリマンタン中央部から流れているマハカムという川がこの町にも流れている。 船で上流にさかのぼり、少数民族の村でも訪れたかった。 恐らく村の人はTシャツにズボンといった普通の格好をして町の人と同じ衛星放送受信用のパラボラアンテナがある家に住んでいるのだろうが、医療機関が十分でないだろうと思う。 たかがかぜでも完治してから行きたかった。

 しかし、薬を飲みながら静養して1週間近くたってもかぜは良くも悪くもならなかった。 典型的ないやな夏かぜだ。 おまけに2日ほど気温が25℃で一定だった寒い日(30℃以上の気温に慣れると寒く感じる。 そんなときは気を付けないとかぜをひく)があった。 異常気象なのか? 仕方ないので、マハカム川の村々を訪ねるのは止めにしてスラウェシ島に向かう事にした。

14.スラウェシへ(サマリンダ、バリッパパン、7月23日)

 石油の町、バリッパパンからは隣のスラウェシ、ジャワへ週数便船が出ている。 この国の長距離貨客船はペルニ(PELNI、Pelayaran Nasional Indonesia)という国営船会社が仕切っている。 事前にポンティアナでペルニのスケジュール表を手に入れていたので大体の目星を付けてサマリンダにあるペルニの事務所に行ってバリッパパン発の当日のチケットを購入した。 一晩だけなので1番安くて一番キツイエコノミークラスにした。 外国人旅行者の間では一晩だけならエコノミー、それ以上はセカンドクラスと言われている。(1st、2nd、3rd、4th、エコノミーの5つのクラスがある。船によっては3rd、4thがない)

 宿に戻ってからとりあえずチェックアウトしてバリッパパンの桟橋に向かう事にした。 途中、例によってバス会社の職員のうそで1時間ロスしたため(この国ではよくあること)桟橋にはチケットに書かれた出港時間の1時間前のPM3:00に着いた。 しかし、そこには船はなかった。 遅れているらしい。 日本の長距離フェリーでもよくあることだが、ペルニ船は更に長距離を航行している。(ジャワ島からイリアン・ジャヤ(インドネシア領ニューギニア)、スマトラ島からスラウェシ島) 路線によっては時間単位ではなく、日がずれることも多々あるそうだ。 

 結局、2時間半遅れで到着した。 船からは何百人いるかわからないくらい大勢の人がたくさん荷物をかかえて降りてきた。 日本ではこれでこの船の一航海は終わるのだが、インドネシアではまだまだ続く。 下船する人がある程度減ったのを確認してから、これから乗る人の乗船が始まった。 ほとんど「戦闘開始!」と言った感じだ。 
 乗船してエコノミーの船室を2〜3見るとベットはすでに埋まっていた(日本と違って座敷ではない)あらかじめエコノミーは定員があってないものと聞いていたので早めに通路の空いた場所を見つけて持参したキャンプ用マットを敷いて寝る事にした。 通路には乗客以外に物売りも行き来して騒然としていた。 ほとんどコジキのようである。 それから、食事の配給があって食べ終わったくらいに船はスラウェシ、パレパレParepareに向かって出港した。

15.カリマンタンの感想

 実際に入国するまで、「危険、ワイルド」と言ったことを予想したがどちらもハズレだった。 西カリマンタンでは観光地ずれしてない(観光する所が無い)ため、親切な人が多かった。 全土で治安の問題はなかった。 

 ただ、パンカランブン、バンジャルマシンといった観光地になると値段交渉をしていると近くにいる関係の無いチンピラが大声で嘘の値段を言ったりして不快だった。 他にも、外国人を馬鹿にして大声で何か言ったり、通じないのを知って一方的に何かを言っている輩(中年の男、オヤジが多い)もいた。 なにかにつけて、「日本人は金持ち」とイヤミな事を言う人間もいた。 普通の人が多いと思うが、今まで旅行した地域の中で一番品が無い人間が多い気がする。

 それを我慢すればおしゃべりが好きな人懐っこくておおらかな人と接する事ができる。

(スラウェシ編に続く)

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