中国華北



(中国東北編から)

1.意外な首都(北京、5月9〜20日)

 旅行人のガイドブック「シルクロード」を手に旅行者が多いらしい「京華飯店」に向かった。

 北京火車站から地下鉄に乗り、和平門站で降りてバスを待った。 どのバスに乗るか様子を見ているうちに朝のラッシュが始まったのか?バス待ちの人が増えた。 意外な事に、今でも自転車を足にしている人が多いのだ。 南部の広西壮族自治区の中心、南寧市ではすでにバイクが普及していてどこも同じだろうと思っていた。 そういえば大連でもあまりバイクを見なかった。 どうも北京ではバイク乗り入れが規制されているらしい。

 14番のバスに乗れば宿の最寄りの「洋橋」に向かうらしいが、二両の大型バスは寿司詰め状態だった。 ミニバスはあまり人が乗ってなく、同じ14番のミニバスには「洋橋」が行先に含まれていたので、車掌のおばちゃんに聞いてみると向かうらしいので乗る事にした。 大型バスは均一1元、ミニバスは2元。 この差が大きいらしい。

 宿に着いて聞いてみるとあっさりベットが取れた。(D35元)

 宿に荷物を置いて、シャワーを浴びてから散歩がてらに買い物をした。 15分ほどの所に大きな市場があって、衣類を中心にいろんな物が売っていた。 サンダルが置いてある所で値段を聞くと同じ物が所によって「5元」「10元」「15元」と言い値が違っていた。 高い所では店員に背を向けるとすぐに「6元」に下がった。
 ここでは東南アジアの市場同様、交渉制なのだ。 さらに、この辺は北京でも下町らしく早口で発音があまりきれいとは言えない。 大連で見かけたおしゃれな人達はほとんど見なかった。 どうやら本当の「人民ワールド」があるらしい。
 もちろん、復興路から天安門、建国門大街にかけての大通りなどのようにに大連の中心のような新しいビルが多いところもある。

 インドネシアなどの開発援助国では大多数の庶民層と極一部の富裕層に別れていて中層階級は少なかったが、この国では中層階級の割合が高いらしい。 これは解放政策の成果だろうか?

 着いたその日は雨だったので気が付かなかったが、晴天の翌日はこの町がいかに汚染されているか思い知らされた。 空気が霞んでいて、宿の近くの川は真っ黒で悪臭が立ち込めた。 風が吹くと宿の部屋にまでにおいが入ってくる。

2.たん唾吐いて四千年(北京、5月9〜20日)

 口の悪い旅行者から良く聞く中国人の悪口に「中国人はすぐに唾を吐く」ということを良く聞く。 エスカレートして「たん唾吐いて四千年」という人もいる。 大連では時々見掛けて本当らしいと思ったが北京では頻繁に見かけた。 オーストラリアのガイドブックLonly Planetでは「チャイナ・シンドローム」として「中国にいると喉に炎症を起こす人が多い」という旨の話を載せている。 実際、私も同じ部屋のオランダ人のユーカも喉をやられてかぜ気味になってしまった。 他にもかぜ気味の人は旅行者、従業員ともに多かった。

 おそらく、大気汚染によるものだろう。 大気汚染で悪名高いタイのバンコクやインドネシアのジャカルタはここまでひどくなかった。 家庭では練炭の使用が一般的らしく、リヤカーに乗せているのをよく見かけた。 鉄道で移動中に石炭を運搬しているのも見かけた。 この国は石炭の産出が多いので石油よりも石炭を使う政策なのだろう。 石炭の方が不純物が多いのだろうか?

 開発援助国でも道端で唾を吐く人を見かけたが、教育によるマナー向上や法律による規制が無い国で多いらしい。 北京の場合はたんが出やすい環境にあるようだ。

3.権力の象徴(北京、5月10日)

 5月10日に故宮、天安門を訪れた。 宿の近くからバスに乗って天安門からそれほど離れてない前門に向かった。

 北京の市バスはタイなどほとんどの東南アジアの町同様、車掌が乗っていて切符を売ったり定期券の所持を確認したりしている。 2両編成の大型バスでは前後それぞれに車掌がいる。 他の国では車掌は車内が込んでいても絶えず動きまわって切符を売っているがこちらでは切符の販売所のような金属製の高いテーブルといすがあって普段、車掌はいすに座っている。 車内が混雑すると鉄パイプで区切られた車掌用通路を使って隅々まで切符を売っていた。
 おそらく、改革解放前はミニバスは無くバスの本数が少なく需要と供給のバランスがとれてなかったと思う。 昔は東南アジアみたいに車掌が動き回っていたのだがとてつもなく混雑したのでラッシュ時に無賃乗車が多発したので車掌が仕事をしやすいように今のしくみにしたのだろう。

 前門は今まで見た中華式の門の中で一番大きいものだろう。 そこから故宮にかけて大きな空間が広がっていた。 道行く人はほとんどがよそから観光に来た中国人で外国人もちらほらいた。
 芝生で囲まれた塔があって当然、芝生は立ち入り禁止だが中国人のおばさんが一人侵入して記念撮影しようとした。 少し離れた所に公安(警官)がいて、当然大声でおばさんを追い出そうとしたがおばさんは全く意に介さずで撮影が終わるとおばさんはそのまま立ち去り、公安も元の持ち場に戻って何事も無かったかのようになった。

 前門よりさらに大きい天安門を過ぎた所に故宮がある。 と言っても結構空間があって、土産物屋や清朝時代のコスチュームで記念撮影をする写真屋、清朝時代の処刑写真を展示した見世物小屋のような博物館など観光地していた。
 故宮は明朝が建てたものだが、清朝も改築して使ったらしい。 いつ現在の規模になったかわからないが今まで訪れた公開されている王宮(王宮だったものも含む)のなかでは最も大きい部類になる。 一つの建物ではアンコールワットだが、宮殿の敷地ではフランスのベルサイユ宮殿とどっちが大きいのだろうか?
 人民のおばさんグループのなかの一人が倒れて後でおばさん二人に支えられたのを見た。 天気が良く、暑かったので観光するのに体力を使ってしまった。 それだけ広いのである。
 まさに権力の象徴だ。

4.世界最大の遺跡(万里の長城、5月11日)

 11日に宿のツアーバスを使って万里の長城の観光ポイントの一つ、司馬台を訪れた。

 司馬台は一応北京市だが、市街から110km離れていて片道3時間かかる。 普段は9時に起きるというだらしない生活だが8時発なので7時前に起きて準備した。
 北京市には東京みたいに町中に高架の高速道路はないが、大通りは名古屋よりに広く他の道との交差は平面交差が多いが立体交差も多く、スピードが出しやすい。 それでも朝夕は渋滞することもある。 将来、交通量が増えたら高架の高速道路もできるのだろうか?
 3つある市街の環状道路もそんな感じで宿の前の環状道路を通って市街を抜けた。 沿道には高層アパート、高層ビルなどどこの大都市とも変わらない景色だった。

 1時間ほどで市街を抜けると農村になった。 市街では見かけなかったバイクがちらほらと走っていた。 2時間を過ぎるとには韓国を出て以来久しぶりに山が見えてきて、3時間より少し経ってから司馬台に到着した。

 万里の長城というと、写真では山肌に沿っているもの砂漠のなかに建っているものの二つがある。 司馬台は山肌というより稜線に沿っているもので急斜面に無理矢理建てたと言う感じだ。 高い所から眺めると当然だがはるか彼方の山々にも伸びていた。 これを日本で建てたらただのばかだろう。 これだけのものを建ててもモンゴルや満州などに征服されたのだから大陸で生きるというのは厳しいことらしい。

 3時間ほどの自由時間を使って長城に登ってハイキングを楽しむというお手軽ツアーだ。 上り1時間くらいの所まで登れるが、他は整備されてなく将来資金が集まったら整備するのだろうか? 維持するのも大変な話だ。 いい運動とはいえ、久々に体を動かしたので体を冷やしたので翌日はかぜをひいてしまった。

5.限りなく本物に近いニセモノ(北京、5月17日)

 北京市街の東側にアウトドアなどブランド物のニセモノが安く売っている所があると宿の同室のオランダ人カップルから聞いたので試しに行ってみた。

 そこは入口が大通りに面しているが狭く、ただの市場の感じだ。 中に入ると結構奥行きがあって、噂通りのものを売っている露店が所狭しとあった。 お客は外国人観光客が多く、ツアー客までいた。 人民客は中産階級らしく、大連の勝利広場で見たモデル体型の女の子も結構いた。

 例のオランダ人が買ってきたものを見ると外見はほとんど日本で売っているブランド物と差が無く、フリース付きのゴアッテックス・マウンテンパーカーが20US$くらいまで値切ったらしい。 おそらく、ブランド物を作っている工場が、メーカーに収める分以外にも生産してこの市場に売って副収入にしているのだろう。

 オランダ人カップルは北京滞在のほとんどをショッピングに費やし、北京を発つ前に郵便局で戦利品を家に送った。 西洋人の間では有名らしく私が持っていたバックパックを見て「これ、北京で買ったの?」と良く聞かれた。

6.負の遺産(北京、5月18日)

 18日に宿で同室だった村井君と一緒に日中戦争の火ぶたが切られた北京南西の芦溝橋を訪れた。

 前日、村井君が宿の人から聞いたバス乗り場に向かったが、その場所付近の人達に聞いて大体ここらしいというバス停に着いてバスの運転手や車掌に聞いても誰も「そうだ」とは言わなかった。 途方に暮れていた所、西洋人の年配の男性を連れた中国人らしい中年の女性がいたので聞いてみると彼らも同じ場所に向かう所らしい。 渡りに船と、彼らに付いて行く事にした。 どうやら宿の人が教えてくれた情報が古くなってしまったらしい。 変化が激しい国ならではの話だ。

 バスは市街を西に向かった。 香港回帰に間に合わせて作った巨大な建物の北京西站を右手に見たあたりから南に向かい、高速道路に入った。 高速道路を降りた所でバスを乗り換え再び高速道路に入ってしばらく進むと川に出た。 この川の北に芦溝橋があるらしい。

 バスを降りて20分ほど歩くと小さな橋と土産物屋が並んだ一角があった。 問題の芦溝橋だ。 史跡なので保存という名目だろう。 料金所で料金を払って橋を渡る。 村井君は学生なので一応学生料金があるか聞いてみるとあるそうだ。 なぜか私まで学生料金になってしまった。

 橋は元々由緒ある所らしく、橋の真ん中にある復元前からあった古い石畳には轍の跡があってデコボコしていた。 欄干には獅子の像がたくさん並んでいた。

 橋を渡って少し歩くと日中戦争関係の展示がある博物館がある。 そこでは学生証の提示を求められたが、村井君のものを見ただけで私まで学生料金だった。 少し見ただけなのでバンコク名物偽学生証も使えるかも?

 ここでは明治維新後の朝鮮に対する軍事行動から始まって日露戦争までの簡単な説明、満州事変、そして1937年の芦溝橋事件に始まり南京大虐殺、重慶での空襲など各地で日本軍が行った軍事行動とそれに対する延安の八路軍と民衆の抵抗の展示があった。 最後に日中国交回復で締めくくられていた。 日本との友好は進めるが過去の出来事は忘れないという中国側の意志だろう。

 背景など難しい問題は専門家に委ねるとして、過去日本と中国は反目して互いに多くの犠牲者が出た(もちろん中国側がはるかに多い)。 幸い現在は問題はあるものの、友好関係にある。 過去のマイナスのエネルギーをプラスに転じて友好関係を一層進めたいところだ。(もちろん、言うべき事は言わなければならないが。)

7.パワフル・コリアン(北京、5月9〜20日)

 北京の町を歩いて意外だったのは韓国・朝鮮料理のお店があちこちにあったことだ。 しかも日本料理のように高級化してなく、都市に住む庶民も利用できる値段で楽しめる。 日本の中華料理屋程ではないが近いものがあるかもしれない。

 大抵、看板にチマ・チョゴリを着た女性の写真があって、入口にはチマ・チョゴリを着た女の子がお客を待ち構えている。 中に入るとメニューはすべて中国語なので誰がお客か良く分かる。 宿の近所にも1軒あって、ルームメイト達と2〜3回食べに行った。 初めて村井君たちと言った時は村井君が「ビビンバ」を注文しようとしたが、韓国語で注文しても店の女の子たちは通じなくて、紙に「韓国語が話せる人はいますか?」と書くと奥から女性があらわれて事無きを得た。 ちなみに中国語では「砂鍋拌飯」の簡体字になる。 漢人経営の店もあるだろうが韓国・朝鮮人経営がほとんどだろう。

 ここでもコリアの力強さを感じる事になった。

8.中原へ(北京→西安、5月20、21日)

 北京は1週間で出るつもりだったが、体調を崩した事から少し長く居てしまった。 日本人旅行者に顔見知りが増えて宿の代理店の人達に掃除のおばちゃん連中まで顔見知りになってきた。 北京は歴史的遺産が多いだけでなく、食事や市場の雰囲気、小奇麗な地区など都会ならではの多様な面を持っている。
 そういう所を訪れたりするなど1個所に落ち着くのもいいかもしれないが、欲張りな私は中国各地のいろんな所をできるだけ見てみたい。 1個所に落ち着く「沈没」状態になる前に北京を去る事にした。

 最初の計画では南下して上海を中心にした「江南」次は「福建」と考えたがビザの延長が上海付近では難しいという噂があった。 また、上海は地元の新潟からも直行便が出ていて5日くらいあれば行けてしまいそうなので残念だが次の機会にすることにした。 そうなると、北京が都になる前に3〜4,000年都があった中原の中心都市西安に行く事にした。
 ここも新潟から直行便があるものの、歴史的遺産が途方も無くあるので時間をかけたい事と中国発祥の地と言っても過言ではない所なのでぜひとも行きたかった。

 3日前に北京站の外国人用窓口で2等寝台、硬臥の切符を取りに行った時に「上だけある」といわれたので3段ベットかと思ったが、站で車両を見るとなんと2階建て車両上層の上段ベットの事だった。 座席の2階建て車両は日本でも珍しくないが、寝台車とは珍しい。 しかし、1層3段ベットよりも実質1つのフロアの人の数が少なく2段ベットなのでこちらの方が快適だ。 難を言えば1両当たりの乗客数が多いので朝のトイレ、洗面所が混み合うことだが・・・。

 場所が決まって荷物も片づけて落ち着いた所で通路側にある折り畳み椅子に座って外を見ていると中国人男性に話し掛けられた。 私が外国人である事に気が付くと「日本人?」と日本語に切り替わった。 この人、董さんは西安にある代理店の日本部長さんで、JTBのツアーの現地対応をされているらしい。 北京のJTBに出張の帰りだそうだ。 '93〜'95の2年間、京都で留学していたので日常会話は問題なかった。

 仕事の上での悩みは日本からのお客が中高年が多くて若年層が少ないことと、中国から日本へのツアーを組むのが難しい事らしい。
 現在、日本の外務省は中国国籍の人に観光ビザを出しにくくしているらしい。 理由はやはり不法就労対策らしい。 去年訪れた東南アジアの各地で中国からのツアー客をたくさん見た(特にバンコク)。 大連や北京で小奇麗な服装をして自家用車を運転している中層階級の間で旅行がブームになっているようだ。 30年前の日本人同様、生活に余裕が出ると旅行がしたくなるらしい。 問題は問題を起こす人間とそれ以外の人との区別をどう取るかということだ。 日本人にそっぽを向かれた景気の悪い日本の観光地にとって近隣諸国からの旅行者は願ってもないことだと思うが。

 他にも董さんからは日本と中国の違い、中国国内の事に西安の観光名所、中国旅行に欠かせないレストラン情報を教えてもらった。 海外旅行を楽しむ秘訣の一つはその国にいる賢くていい人と知り合いになっていろいろ教えてもらう事だ。 董さんと話をしてあっという間に夜がふけてしまった。 西安には朝着くので寝てしまえばすぐだ。
 翌朝、6時半に定刻通り列車は到着した。

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