■日本最南端の“詩人”…………平田大一も面白い


 九五年の六月。那覇で、南島詩人・平田大一の舞台を観た。三線を弾き、横笛を吹き、唄い踊り、そして自作の詩を朗読した。「島の道」という新作だ。この若い詩人は、よく通る太い声でゆっくりと詩を読んだ。「島の道は思索の道だ」と。彼の住む、その島の道を歩いてみたくなった。詩人にとって島とは一体なんなのだろう──

 人の背丈ほどに育ったサトウキビは、まるで手招きするように緑の長い葉を風に揺らしていた。その中を通る真っ直ぐな一本の道。詩人が「思索の道」と名づけた道だ。
 風に鳴る葉音が、たえまない波のように聞こえてくる。 ほかに耳に入る音はない。
 詩人は、この道を独り真夜中に歩く。目に映るものは月と群星だけだ。詩人は、そのとき宇宙に溶け込むのだろう。
 そして昼間。太陽の光に変化する海の色、ごんごんと動く雲、輝く夕陽の赤、島の一瞬一瞬の表情に生き返るような感動を覚える。 島の凄さを感じる瞬間だという。
“島に生まれたことは、自分にとって鎖ではなく、根っこなんだ”
 そう思ったとき、詩人は島に戻ってきた。
 平田大一が生まれ育った島・小浜島は、沖縄の八重山に浮かぶ周囲一六キロほどの小さな島だ。人口五○○人、その世帯の八割がサトウキビ栽培に従事する農業の島でもある。
 農作業の中で生まれた芸能が盛んで、彼は幼いときから八重山独得の唄や踊りに包まれて育ってきた。
 詩作をはじめたのは、東京での大学時代だった。詩は、最初、彼にとって自分を励ますためにあったという。
 何かに感動した日、何かにうちひしがれた日、眠れない夜に、喜びや悲しみ、迷い、嘆き、希望といった自分の感情を正直に大学ノートに記していった。そんなノートが二○数册になった。自分に正直になろうとすればするほど、小浜の方言がノートに踊った。
 島を出るとき、大好きだったおばあが、こんな話をしてくれた。
 島には伝説の蝶がいる。夏が終ると北風に乗って海を渡っていく。しかし、次の春にはまた海を渡って戻ってくる。体はボロボロだけど、たくさんの幸せを運んでくる──。
「大一。ハピル(蝶)になれ」
 おばあは、最後にポツンといった。大学時代、いつもその言葉が頭の片隅にあった。
「なぜ自分は島で生まれたのか。その理由をずっと探していた時期が、ぼくにとっては東京での日々だったんでしょうね」
 彼は、ほんの三年前までの東京時代を振り返って、そういう。
 大学を卒業する年(一九九二年)の春。父親が胆石で倒れて石垣島の病院に入院した。看病にあたる母親の代りに誰もいない家を守るため、一時、島に戻った。その夜、隣のおじいが訪ねてきた。
「わしは今年一一三トンのキビを採った」
 おじいは、ニヤリとつぶやいた。しかし、彼にはその数字の大変さが実感できない。
「若い連中には何いっても通じんさぁ」
 おじいは、泡盛を飲んで寂しげにいった。
「その言葉を聞いたとき、ぼくはこの島のことを一体どれだけ語ることができるのだろうかと、自分の根っこの部分が枯れかかっている気がして、無性に泣きたくなったんです」
 何日か後、夕暮れの農道を車で走っているとき、広大なキビ畑で働くそのおじいの姿が目に入った。一人黙々とキビを刈るおじいの背中には、たくましい生命力が感じられた。
 その瞬間、“島に帰ろう!”と、決めた。
 父親の病気の回復を待って東京に戻った詩人は、大学を卒業するとすぐ、就職がきまっていた東京の出版社の内定を捨てて、本当に島に帰ってきた。
 詩人は、家業の民宿を手伝うかたわら、農地を借り、サトウキビの栽培をはじめた。そこに島の原点があると考えたからだ。
 さらに、老人が一人死ぬと島唄がひとつ消えるといわれる島で、一人ひとり古老を訪ね島唄の収集もはじめた。マイクロバスを運転しながらの島内観光案内も日課になった。
「小浜島は周囲一六キロの小さな島です。見るところはひとつもありません」
 という前フリで、島唯一のカーブミラーや小中学校、駐在所などの“名所”を案内する。それは彼の島へのまなざしの表出だ。その観光は、いまや島の名物になった。
 書きためた詩を選り小浜島限定販売の『南島詩人』という詩集を出版し、地元・琉球放送でレギュラーのラジオ番組も持つ。詩の朗読を中心とした舞台活動を続ける一方、月に二回は紙芝居三太郎の名で島の子どもたちに紙芝居を語っている。
 島という根っこを自覚したことで、詩人のフィールドは多彩に広がった。
 自作の詩「島の道」で、詩人は語る。

 ……あのむるくんも
 この森も
 木一本、まずは
 それからはじまるということさぁ
 その木一本になれるか
 大海の水一滴になれるか
 群星その一つになれるか
 そして優しき島人
 その一人になれるか
 ぴとぅるぴき むーるぴき
 まずは一人から
 はじまるということさぁ……

“島おこし”は“人おこし”だという詩人は、「優しい島人(シマンチュ)」の一人になろうとしているのだった。
「障子に針を刺して穴を開けますよね。その穴からのぞくと広い世界が見えるけど、遠くからはその穴は見えないでしょう。ぼくにとって島は、まさにこの穴なんです」
 島からこそ世界は見える。島を囲む海は、島を隔てるものではなく、世界に広がる道だと、詩人は誇ってやまない。その島・小浜を、詩人は“てんぷす・おぶ・あじあ(アジアのへそ=中心)”と呼ぶ。

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