■「いつも心に不発弾」……沖縄の基地問題について


●やちむんは面白い

 沖縄のフォーク・グループ「やちむん」の絶対君主・奈須重樹さんは、カメラマンである。私は95年1月に雑誌の取材で沖縄に行ったとき、彼に写真をお願いした。
 私に、奈須さんを紹介してくれたのは、那覇在住のコラムニスト鳥越一枝だった。彼女は、沖縄の編集・ライター集団“まぶい組”のヒトで、あの名著『おきなわキーワードコラムブック』の読者のみなさんなら、幼い日にアリを食べた人物だといえば、おわかりいただけるだろう。
 その鳥越に、今度の取材はカメラマンを同行するだけの経費がないので、現地のカメラマンを誰か紹介してくれないか、と頼んだのだ。そして、紹介してくれたのがヒゲの奈須さんだった。
 そのとき、彼の車で沖縄本島中南部をいろいろまわった。車の中で話をしていてビックリしたのが、私の横で、車の運転をしている人物が、なんとあのやちむんの棟梁だったという発見だ。
 私は沖縄にくるたびに、レコード屋をのぞいて、新しいオキナワン・ミュージックのCDを探す。2年ほど前のことだ。たまには、島唄系やロックではなく何か面白そうなCDを見つけたいなと思っていた。そのとき、ジャケットのイラストにひかれて2枚のCDを買った。1枚が、下地曉の『ぴいっちゃがま』、そしてもう1枚が、やちむんの『ガンバレいぼやーる』だった。
 この『ガンバレいぼやーる』。家に帰って、CDプレーヤーにかけた途端、おったまげた。スピーカーからは、回転数の早い、そうまるで懐かしの『帰ってきたヨッパライ』のような曲風の歌が流れてきた。このとき、私の頭に、やちむんというグループが鮮明に刻印されたのだ。
 そのやちむんが、私の隣に座って車を運転しているのである。人生は、これだから辞められない。
 奈須さんがいうには、『ガンバレいぼやーる』は、沖縄の『およげタイ焼き君』と呼ばれ、沖縄ローカルのNHK「みんなの歌」で大好評だったそうだ。たしかにそういわれれば、人生の応援歌という意味で『およげタイ焼き君』だナ、と納得してしまった。
「やちむん、というのは、どういう意味なんですか? まさか陶器の焼き物?」
 私は、聞いた。奈須さんは、
「やちむんには、意味はないんですよ。こっちでは焼き物のことを、そういうでょしう。その言葉をはじめて聞いたとき、日本語の言葉の並びとしては変ってると思ったわけですよ。『やちむん』というより、『やむちん』といったほうが、日本語としては自然だし、ぜんぜんいいやすいでしょう? で、これは面白い言葉だなって、ずっと思っていて、音楽をはじめたときに、その言葉をグループの名前につけたわけです」
 と、説明してくれた。
 奈須さんは、宮崎県の出身である。大学入試の共通1次試験で琉球大に振り分けられてしまって、沖縄にきた。当時、沖縄に対しては、何の思い入れも、なかったという。
「いまの沖縄フリークの人たちみたいなことは、ひとつもなかったですよ。沖縄のことは何も知りませんでしたから」
 と、奈須さんはいった。だか、彼はそのまま沖縄に居残り、ウチナーの女性と結婚してシマーナイチャーになった。
 今年(96年)の1月に取材で沖縄に行ったとき、奈須さんと久しぶりに会って、夜、少し飲んだ。いろいろ話をしていて、ふと彼らなんかは今回の沖縄の基地問題をどう捉えているか聞いてみたくなった。
 すると、奈須さんは、
「ぼくらもライブではガンガン、反基地を訴えてますよ」
 と、いった。いま、やちむんは、ライブで必ず『いつも心に不発弾』という歌をヤルのたそうだ。
 ……いつも心の中に不発弾をもっていよう。信管を抜かずに、いつでも爆発できるようにしておこう。いつも心に不発弾。信管を抜いたら、爆発はできない。あなた信管を抜きますか……
 これは、そんなメッセージ・ソングなのたという。怒るときには怒る。そのためには信管を抜かずにいつも心に不発弾を抱えていよう。その不発弾を爆発せさるときが、いま、なのかもしれない。
 事実、いま沖縄では、多くの人々が基地のある暮しに対する異議申し立ての不発弾を爆発させている。
 私は「その歌、ぜひ聴きたいな」といった。すると、彼は、
「3月に東京でライブをやりますから、そのときに歌いますよ」
 と、いう。3月のやちむんライブ。いまから楽しみだ。

●沖縄戦をあるく

 奈須さんとのはじめの仕事というのが、戦後50周年を向かえ、改めて沖縄戦を考え直してみようというものだった。その案内をしてくれたのが、体験者である仲程シゲ子さんだ。私たちは、仲程さんと、戦跡を歩いた。
 沖縄は、50年前の無謀な戦争で、日本の国土のなかで唯一地上戦を経験した土地だ。戦争の悲惨さ、軍隊の残虐さ、権力の傲慢さ、そういったものを、沖縄の人たちはあの戦争で骨身に染みて知った。その沖縄戦とは、いったい何だったのだろうか?
 去年(95年)の1月22日。沖縄県で、6700人が参加する大規模な「県民遺骨収集」が行われた。
 沖縄戦で激戦地となった本島南部一帯を、手で草をかき分け、土を掘るという丹念な収集で、遺骨84柱、遺留品123点、不発弾61個が発見された。
 戦後50年たった現在でのことだ。これが沖縄のもうひとつの“現実”なのである。
 今年65歳になる仲程シゲ子さんも、いつものようにこの収集に参加した。
「どんなに苦しい思いでいままで土に埋もれていたのかと思うと、本当に当時のことが思い出されましてね。涙を流して、発見された遺骨にお焼香しました」
 彼女は、しみじみと語っていた。
 約3ヵ月におよぶ沖縄戦で、犠牲になった住民は15万人に達するという。これは、日本軍将兵の戦死者数を優に上まわり、なんと当時の県民の3分の1に相当する。
 沖縄戦の悲惨さは、それが住民をも巻き込んだ地上戦であったことだ。
 15歳の少女だった仲程さんも、その戦いのなかにいた。
 仲程さんの家は本島南部の大里村にあった。
 昭和19年8月。彼女が通っていた学校が日本軍の陣地構築のために接収された。
 このときから彼女の“沖縄戦”は、はじまったといっていいのだろう。
「毎日毎日、土運びと松の皮むきばかりしていました」
 壕を掘った土をザルやモッコに入れて運び、壕の補強につかう松材の皮をむく。松は皮をむかなければ白アリがつくのだそうだ。
 やがて、17歳から45歳までの健全な県民男性はほとんど召集され、学徒動員も強化されていく。
 まさに「軍民一体の総力戦」だ。
 翌20年3月には、彼女の家が第24師団の重砲隊の本部になった。納屋ばかりではなく母屋にまでも砲弾がうず高く積まれた。
「起床ラッパから消灯ラッパまで兵隊さんと一緒でした。朝、起きると、全員で並んで天照大神を拝むんです」
 そんななか、彼女たち一家は、親身に兵隊たちの世話をしたという。ドラム缶風呂に水を汲むのが、彼女の仕事だった。少しでもお風呂がわくのが遅れると、現地召集された新兵が上官にビンタをくらう。それが可哀そうで、必死で井戸から水を汲んだ。
 その日々を破ったのが、米軍の艦砲射撃だった。3月23日にはじまったそれは、沖縄戦の終了まで遠く、近く、続いていく。耳をつんざく炸裂音と不気味な地響きが、沖縄戦の通奏低音でもあった。
 3月26日。米軍は、慶良間諸島に上陸する。住民の集団自決、日本軍による住民虐殺など、沖縄の地上戦の悲劇の幕が開く。
 そして、4月1日。米軍の本島上陸が、開始された。
 その日の午前8時。米軍は嘉手納を近くに望む渡具知海岸をめざして、無数の上陸用舟艇を進撃させた。
 ところが不思議なことに、日本軍からの攻撃は一切ない。半時間もたたないうちに米軍の第1陣は、無事上陸に成功したという。
 その様子を、のちに伊江島で殉職する有名な従軍記者アーニ・パイルは、
「米軍は、まるでピクニックのように靴を濡らさず沖縄に上陸できた」
 と、報じた。
 首里城の地下壕に司令部を置いた日本軍は、最初から、その地下陣地を盾に戦略的持久戦にもちこもうとしていたのである。その作戦が、住民への被害を絶大なものにした。
 日本軍の本格的な抵抗らしい抵抗もなく、米軍は占領地を拡大していった。
 4月16日には、当時、東洋一とうたわれた飛行場がある伊江島に、米軍が上陸した。ここでは、島民が守備軍に召集され、戦闘に参加させられたのである。なかには乳飲み子を背負ったままの婦人もいた。
 島全体を巻き込んだ悲惨な総力戦が展開されたのだった。
 その間も、日本軍は、ほとんど無傷で首里に息を潜めていた。
 沖縄に米軍を極力長くクギ付けにすること。これが、日本軍の至上目的だったのだろう。結局、沖縄は本土防衛の“捨て石”にされたのだった。
 米軍の本土上陸までの時間稼ぎのためには、住民への安全の配慮など些末なことでしかない。いや、軍の目的のためには、住民をも利用し、盾にする。それが、戦争であり、軍隊だということを、沖縄戦は語ってあまりある。
 開戦に先立つ2月。本島中南部の住民の北部への疎開が決定した。このときも、県内にある鉄道や自動車、船などの輸送手段は軍に接収されており、疎開は思うにまかせなかった。そのため、南部には30万人を数える住民が避難していたのである。
 4月末。ようやく米軍が首里を中心に展開していた日本軍の防衛線に近づき、本格的な激しい戦闘がはじまった。
 そして、5月22日。日本軍が南部の摩文仁に後退を決定する。
 それは、大量の住民が避難していた南部が戦場になることを意味していた。沖縄戦の悲劇の多くは、このときから起こるのだ。
 沖縄、特に本島南部には、隆起珊瑚礁でできた自然壕が無数にある。
 この壕に、兵隊や住民は身を隠した。
 沖縄の南部での戦闘は、日本兵が隠れる壕を米軍が潰していくという掃討戦となった。
 仲程さん一家も、5月になると自分の家を出ていかなければならなかった。親戚もあわせて総勢13人の逃避行だ。
 彼女たちが隠れたのは、玉城村の小高い丘にある自然壕だった。
 その場所に案内してもらった。
 細い山道を登っていくと、まるで天然の門のように左右から迫り出す大きな岩石があった。まわりは鬱蒼とした林だ。左右の岩石にも、大きなガジュマルの木が太いロープのように幹を幾重にもからませ伸びている。
 その間を抜けると洞窟が口を開けていた。
 ふつうなら足を踏み込むのに躊躇するような場所だ。
「なんだかキジムナー(木に棲むといわれる沖縄の妖怪)が出てきそうなところですね」
 と、いうと、仲程さんは、
「あの頃は、キジムナーなんかより、弾のほうが怖かったですよォ」
 と、笑った。彼女たち13人は5月28日まで、2週間ほどここに隠れていたという。
 家から持ち出した米や味噌を大事に大事に使っていた。当初は、夜、近くにあった親戚の家まで走って行って炊事をすることもできた。しかし、やがてそれも危なくてできなくなり、ついには壕自体も危険になった。米軍が近くまで進攻してきたのだ。
 米軍に追い立てられるようにして、仲程一家は、南へ南へと逃げた。与座岳、真栄平、米須、大渡、摩文仁。その行程は、南部の激戦地を結ぶ地図のようだ。
 与座岳の壕では、間近に迫る敵の戦車を見た。同行している叔父さんが、「彼らに殺られるよりは、自分たちの手で死のう」と、手榴弾を取り出した。そのとき、
「『どうしてこんな小さな子どもを殺すことができるネ』と、母さんが止めなければ、いまの私もいなかったでしょうね」
 と、仲程さんはいう。
 みんなで息を潜めるようにして戦車をやり過ごし、夜、壕を出た。途端、ドカンという轟音に振り返ると隣の壕に直撃弾が当たった。そこには彼女の知り合いが入っていた。
 砲弾は、昼も夜もなく撃ち込まれる。昼は暗い壕に身を潜め、夜、移動を開始する。暗闇こそが、日常だった。
 与座岳で手榴弾を取り出した叔父さんは、真栄平で砲弾にふくらはぎをえぐり取られて動けなくなった。大渡では、兵隊に食糧を入れたリュックを強奪された。ようやく摩文仁の村にたどり着き草むらに隠れているとき、近くに砲弾が落ちた。破片が眉間を割り、血が吹き出た。
 それでも摩文仁の丘を目指して歩いた。いまの展望台の場所にきたとき、6月23日の夜が明けた。丘の上は、死体だらけだった。
 その状況のなかで、ある住民が、
「米軍の捕虜になりましょう」
 と、叫んだ。瞬間、2人の日本兵が走りより、その人の首を切り落とした。
「こんなバカがいるから日本は負けるんだ」
 鮮血が、バッと噴き出した。
 仲程さんは、いまでもその血の色を覚えているという。
 その日。牛島司令官、長参謀長が自決し、日本軍の組織的な抵抗は終った。しかし、戦争が終ったわけではない。
 仲程さんたちは、摩文仁の崖を降り、海岸沿いの壕に身を隠していた。もう食べるものもない。米軍に発見されると殺されるという恐怖感だけが支えだった。
 5日目。同じ壕にいた日本兵が、「捕虜になった方がいいよ。捕虜になろう」といった。その一言が、仲程さんたちの生命を救った。
 仲程さんの話を聞いていると、沖縄戦を特徴づける集団自決や住民虐殺などの行為が決して特殊な事件ではなかったことがわかる。
 彼女の上に降りかかっていたとしても不思議なことではなかった。
 手榴弾で死に切れなかった者は、カマや剃刀、はてはこん棒や石で、年老いた親を妻を、子どもを殺した。それを集団的狂気と片付けるのは簡単だ。方言を使ったり、捕虜になることを勧めただけで、スパイとして殺す。これを極限での疑心暗鬼に帰するのも簡単だ。
 しかし、それだけでは説明できない何か他の要因があったのではないか。
「みんな軍国主義の教育の結果だと思います」
 と、仲程さんはいう。天皇のための死、国家のための死こそ美しいと教えられた。確かにその教育の結果こそが、悲惨きわまりない沖縄戦だったと考えるしかない。  古くから沖縄には“命どう宝(生命こそ宝)”という素敵な言葉がある。生命尊重の思想が根づいていたのだ。その伝統的な思想をも変えてしまう。教育の力は、やはり強い。
「私の眉間を触ってみませんか? まだ砲弾の破片が入ってますよ」
 と、仲程さんはいった。指先に当たるコリコリとした感触は、50年の時間を一瞬に遡行させた。
 悲惨な沖縄戦は、この“命どう宝(生命こそ宝)”という言葉の重みをさらに沖縄の人たちに実感させたにちがいない。私は、仲程さんと沖縄戦をあるきながら、そう思っていた。

●沖縄は安保を問い直す

 ところが、沖縄の悲劇は、戦後も続くことになった。
 沖縄は、米軍の戦略的なキー・ポイントという思惑だけで、軍事基地化されていく。そして、日本政府も、あの戦争で沖縄を“捨て石”にしたのと同じく、戦後も沖縄をアメリカの“質”に入れた形で、本土の経済成長と平和を獲得していった。
 ある意味で、日本の沖縄を見る目は、15世紀の島津藩による琉球入り以来、なんら変っていなのかもしれない。そこにはまるで、植民地に対する宗主国のような傲慢さしか感じられない。明治の近代化のなかで、本土人以上に模範的な“皇国の民”となろうと努力し、実際にそうなった(だからこそ、沖縄戦の悲劇はあったのだろう)沖縄の人たちの思いを、日本は、戦後も、そしていままでも踏み着けにしてきたのだ。そのことに対する、異議申し立てが、いま起こっているのである。
 1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した。それから今日までに米兵が起こした犯罪は4700件以上にものぼるという。復帰後でさえ、そんな現実があった。そのなかには、殺人事件が12件もふくまれている。
 単純計算しても、3日に2件の事件が起きている勘定になる。
 去年の9月4日。米兵による少女レイプという衝撃的な事件が起きた。事件の報道に接したとき、多くの沖縄の人々は「またか」という印象を持ったという。それはそうした日常のなかでの反応だった。しかし、今回は、すぐにそれが「もう、がまんできない」という怒りに変った。
 まず声を上げたのは、北京で開かれていた世界女性会議のNGOフォーラムに参加して帰ってきたばかりの女性グループだった。彼女たちは北京で、軍隊による性暴力と女性の人権問題を語り合ってきた。その矢先、自分たちの地元で凶悪な事件が起きたのだ。
「これ以上、基地から派生する性暴力は許されない。軍隊が駐留するかぎり、悲劇は起きる」
 彼女たちの叫びをきっかけに、沖縄全土に事件への抗議や、基地の整理・縮小を求める声がひろがった。
 去年、沖縄では、復帰後4回目の米軍用地強制使用手続きが進められていた。
 戦後の米軍占領下時代の沖縄は、“基地の島”だった。広大な基地は米軍の“銃剣とブルドーザ”によって強制的に取り上げられた土地だ。自分の意志に関わらず、自分の農地が軍用に使われる。人々はひたすら復帰を願った。
 そして、復帰。だが、日米安保条約の名の下で、基地はそのまま残った。沖縄は“安保の島”になった。
 今度は、日本の政府が基地の地主と賃貸契約を結んで米軍に土地を提供するようになったのだ。しかし、契約を拒否する地主(反戦地主)が現われた。政府は「沖縄公用地暫定使用法」や「駐留軍用地特別措置法」などの法律を作り、反戦地主に代って自治体の首長が代行業務(土地・物件調書の代理署名など)をすることで土地を強制使用してきた。
 去年の5月。村山首相(当時)は、那覇防衛施設局から出ていた未契約地主(反戦地主)に対する強制使用申請を認定した。今年3月と来年5月に使用期限が切れる反戦地主の土地分だ。彼らが属する市町村のうち那覇市、沖縄市、読谷村の首長が代理署名を拒否したことで、その3市村の地主35人の調書への代理署名を県知事が要請されていたのだ。
 大田昌秀沖縄県知事は、事件発生当初から、容疑者の身柄の拘束を日本側ができないことをはじめ日米安保条約に付帯する地位協定全般の見直しを主張していた。そしてついに9月26日。日本政府の不誠実な態度と、高まる民衆の反基地の意識のなかで、代理署名拒否を決めた。
 この瞬間、沖縄は、安保条約の根底を揺さぶる存在になった。
 戦後50年、沖縄はずっと軍隊と共存する生活を強いられてきた。復帰前も復帰後も、軍隊が身近にあるからこその事件にみまわれてきた。
 その民衆の怒りが爆発したのだった。それは、10月21日の県民総決起大会への8万人を越える参加者の数を見てもわかる。一人ひとりが二度と凶悪な事件を起こさないためにも、基地のない沖縄を願った。
 怒りのうねりは日本全国に波及し、さらに11月に予定されていたクリントン大統領の訪日延期で、村山政権が目論んでいた日米安保条約の再定義(強化・拡大)がとりあえずは流れた。あの事件がなければ、国民的論議もなしに安保の再定義は終っていたことだろう。
 そしていま、国の提訴を受けた大田知事は、多くの人々の支持を受けながら法廷を舞台に“沖縄の怒り”を訴える闘いを続けている。それは、日米安保条約と地方自治のあり方、もっといえば日本の民主主義を根底から問い直す闘いでもある。
 今回の一連の沖縄のムーブメントの報道のなかで、私には、次の二人の言葉が印象に残った。
 ひとつは、県民集会での、大田知事の、
「行政の責任者として、大切な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることができなかったことを、まずはじめにおわびします」
 という言葉と、テレビのイタビューに答えていった桃原宜野湾市長の、
「民意と官意が対立したときには、民意の側に立つのが政治家のつとめです」
 という言葉だった。その思いこそ、民主主義国家の政治家としての当たり前の思いではないかと思うのだ。

●「市民・大学人の会」に入ろう

 私は、自分も“基地のない沖縄”を実現するために何かできることはないかと考えていた。そんなとき、沖縄国際大学の石原昌家さんから、大田知事の代理署名拒否裁判を支援するための市民団体が作られているという話をうかがった。
「沖縄県知事の『代理署名拒否』裁判を支援する市民・大学人の会」。略して「市民・大学人の会」という。
 いま「市民・大学人の会」が、直接的に知事の代理署名拒否を支援するという意味では唯一の団体なのだそうだ。会の趣旨に賛同してくれる人を、県外にも、そして海外にも拡大し、多くの人々の意志の糾合で大田知事の裁判をサポートし、“基地のない沖縄”に向けての息の長い闘いを続けていこうとしている。
 私も、すぐにメンバーになった。
 会の設立趣意書を下記に引用します。この趣旨に賛同される方は、「市民・大学人の会」に入りませんか?

「市民・大学人の会」設立趣意書

 “私たち若い世代に新しい沖縄のスタートをさせてほしい。沖縄を本島の意味で平和な島にしてほしい”“私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください。”(10・21総決起大会高校生代表仲村清子)。
 この高校生の心の奥底からの叫びは、いま、軍事基地の重圧に苦しんできたウチナーンチュ(沖縄県人)の魂を揺さぶっています。
 米軍人の忌まわしい「事件」を契機に、沖縄は平和な島を取り戻すため、静かな怒りをこめ、「島ぐるみの闘い」に立ち上がりました。「島ぐるみの闘い」とは、沖縄県人がウチナーンチュとして心を共鳴しあっている“時”のことです。40年ぶりのこの“時”の共有の中で大田知事は21世紀の沖縄社会のありようを日本社会に提示しました。
   しかし、日本政府は強権を発動して、それをねじ伏せようとしています。平和な島を取り返すためち沖縄が“うまんちゅぬすくぢから”(民衆の底力)を示すのは、今をおいてありません。
 私たちも、いまが平和な島を取り戻すか否かの歴史的転換の決定的瞬間だという認識のもとに、それに応えるべき具体的行動をすぐに起こさなければならないと考えます。
 11月4日の大田知事と村山首相の「歴史的会談」に呼応した形となった「緊急フォーラム 沖縄、いまを考える」もそのひとつでした。そのフォーラムる参集した学生・市民・教員の熱い思いをうけ、沖縄県大田知事の「代理署名拒否」に対して、政府が提訴する裁判闘争をいかに支援していくかという気持ちに駆り立てられております。それが、私たちの次なる行動だと考えます。
 私たちは、この平和な島を取り戻す法廷闘争で、多くの人たちがこれまで培ってきた知識などをさまざまな分野から話し合い、戦後50年の沖縄を総括し、日米安保条約を含む諸問題を検討し、明るい未来を展望できるビジョンまで示していきたいと考えます。私たちは、“沖縄県知事の『代理署名拒否』裁判を支援する市民・大学人の会”(略称「市民・大学人の会」)を結成して、そこで検討していきたいと思います。そうすることによって、沖縄県知事の弁護団を応援していこうではありませんか。
 こき「短期決戦型」の裁判で国の論理を圧倒するために、みなさんの知識・見解の総意を結集しようではありませんか。そこでみなさんがこの会へのご参加または支持表明を下さり、さらに、会を全国・外国にまで拡大するため、財政的援助もしていただくよう心から訴えます。
 つきましては、“沖縄県知事の『代理署名拒否』裁判を支援する市民・大学人の会”にご賛同いただけますならば、会規約に基づき会費(一口以上)をお払いこみ下さいますようお願いいたします。
 
1995年12月10日

“沖縄県知事の『代理署名拒否』裁判を支援する市民・大学人の会”
                代表 米盛裕二(琉球大学教授)

 ……という趣旨だ。本当に賛同いただけるなら、手続きは簡単。郵便局へ行き、備え付けの郵便振替の用紙に、口座番号02020−3−38036、加入者名「市民・大学人の会」を書き、あなたの住所・氏名・電話番号などを記入。2000円と手数料を振り込めば、その場であなたも「市民・大学人の会」の会員です。
 さらに、この趣意書をプリント・アウトして、友人、知人、親族、家族のみなさんに連帯と賛同の輪を広げてくだされば、なをありがたし、です。

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