■Macがわが家にやってきた……新しい生活のはじまり


●愛機カラクラ1号

 私の愛機は、マッキントッシュの初代カラー・クラシックである。
 9インチモニターのカラクラは、可愛いフェイスのMacとして圧倒的ファンを持つ機械でもある。わが家では、この機械のことを、先代の持ち主(そう、これはセコハンなのである)からの慣例で“カラクラ1号”と愛称で呼んでいる。
 カラクラ1号が、わが家にきたのは、1994年の9月のことだった。
 それまで私は富士通のワープロ、オアシスで仕事を続けてきた。とりあえずワープロ機能さえあれば、いい。パソコンなんてディープな世界に足を踏みいれないほうか身のためだと、固く信じていた。
 だが、しかし、その信念(マッチ棒より折れ易い信念だったという話もありますが……)を曲げて、カラクラ1号を迎えたことで、私は、二つの感動を覚えた。
 それは、まず第一に、おッ画面がカラーやないかぁ! 色っぽいなぁ、という感動だった。
 そして、第二が、カラクラ1号に登載した「QuickSearch」というソフトの検索機能だ。カラクラ1号のハードディスクに、私の書いた原稿を保存しておくだけで、この検索機能を使えば、いつでもキーワードで自分の書いた過去の原稿が呼び出せるのだな、という発見である。
 たとえば、チャーチルについて過去に何か書いたという記憶があったとしよう。そのときに、QuickSearchに「チャーチル」と打込んで検索すれば、その原稿が飛び出てくる。ウーム。まさに、私家版データベースが簡単にできてしまうではないか。このときほど、なんでもっと早くMacを導入しなかったのかと、悔いたことはない。
 さらに、いま、私は9インチのモニターで、このホームページを立ち上げるまでになった。これが第三の感動である。
 何を隠そう(別に隠すことないのですが)、私は、カラクラのマニアルも読んだことがない。Macを使っていることは確かだけど、Macについて何も知ってはいないのだ。それでも、使えてしまう。そこにMacの凄さがあるのだろう。
 それには大きく二つの理由が考えられる。
 一つは、Macという機械が、すぐれて使い勝手がいい機械であるということだ。これに対して異論をはさむ人は、おそらくいないだろう。
 そしてもう一つは、Macな人々の、まるで宗教の伝導師のような親切さである。
 なぜか一度でもMacを使ったことのある人たちは、他人に情熱的にMacを勧めようとする。しかも、いたれり尽くせりの親切さをもって。このことに助けられたMac初心者は多いに違いない。
 私のまわりにも、そんなMacな人がいた。しかも、二人もである。
 私は、そんな善意の二人に支えられ、引き上げられ、ここまでくることができた。自分では何の苦労もしないで、である。困ったときの電話1本。本当にそれだけのアクションだった。
 カラクラを導入したことで、私の人生は大きく変った。こうして、自前のメディアを持つことができたのだから。
 誰でも自前のメディアが、かくも簡単に持てるのだ。
 そのことを、私は、私のMac暦を綴ることによって、これから語っていこうと思う。

●親指シフターの決断

 1994年秋。私は失恋を経験した。20年前には、毎日のように新しい恋(といっても片思いですが)と失恋を繰り返していた。だが、今回の恋は、いわば10年に1度の恋という計算になる。その衝撃は、はかりがたく大きいものだった。
 そんなとき、私の仕事上の静かなパートナーであったオアシス30SXというワープロの印字機能の調子がおかしくなった。FAXで原稿を流している以上、原稿の印字ができなくなるのは、非常に困った問題だった。
 失恋で大きな心の穴を抱えていた私は、印字の調子がおかしいのを口実に、新しいワープロを買おう! と決意した。そうすれば、心の穴が少しは埋るかもしれない。現代人の生活意識は、そういうふうにモノによって充足されてしまうぐらいに底が浅い。ごたぶんにもれず、私も、そんな現代人のひとりだった。
 私は、情熱的に妻の説得にかかった。いかにワープロの調子が悪いのか。それは仕事を続けていく上で、どんな障害をもたらすのか。しかし、その障害は、新しいワープロを買えばたちまち霧散してしまう障害である……と。
 4日後。妻は、とうとう私に説得された。それほど仕事に支障があるのなら仕方ない。大きな出費だけど認めよう、彼女は高らかに、そう宣言した。
 よし! じゃ、いますぐワープロを買にいこう。
 私たちは車で電気屋街に出かけることにした。そして、その途中、私は、
「ついでだから、N村のとこにでもよっていこか」
 と、車をN村の家の前に着けた。N村は、在野の社会学者である。最近、耳の立たないウサギ(つまり、いつも耳がたれてるわけですね)を飼はじめたから1度見においで、と誘われていたのだ。
 そのウサギは、たしかにウサギらしくなく。そのウサギらしくないところが妙に可愛いウサギだった。ウサギとじゃれながら、これからワープロを買にいくという話をしたら、N村は、
「そんなもったいないッ」
 と、いいだした。彼は、自分が使っているMacをグレードアップするために、以前からそれを私に買わないかといっていた。それはとても魅力的な話だったのだが、私はキーポードがJIS規格のうちはMacには転向できないと思っていた。だから、その気はまったくなかったのだ。
 私と親指シフトの出会いは古い。まだ多くのライターが手書き原稿だった時代。オアシス・ライトという携帯型のワープロが富士通から出た。当時で220000円。私はそれを丸井の月賦で買った。それ以来のつきあいである。
 オアシス・ライトの液晶の文字表示は、なんと8字だった。取り扱い説明書には、「日本語をタイピングするためには、私たちは8字表示できれば十分だと判断しました」とかなんとか、液晶表示の説明があったことを覚えている。
 フーン、そんなものなのか。と、実際に使ってみたら、8字ではいかんともしがたい。これでは文章の流れがぜんぜんつかまえられない。な、な、なんということだ! と憤慨しかけたら、オアシス・ライトには「同時印字」という機能があることを発見した。タイピングしながら、同時にそれをプリントで見れるという機能だ。おそらくこの機能をつけたということは、これを開発したスタッフも、液晶表示8字じゃな、という思いがあったのだろう。しかし、22万円で商品化するには、これがせいいっぱいだったに違いない。
 ま、それはともかく、オアシス・ライトで親指シフト入門をしてから、私は、オアシスを6台も買い替えていた。
 恐るべし親指シフト。まさに、これはアリ地獄である。原稿の締切は、ある意味で、時間との競争である。そこでは、キー入力の早さこそ命なのだ。日本語入力(ローマ字入力ではなく、日本語は日本語で入力すべきだと私は頑なに信じているのです)する上では、親指シフトはたしかに早く、合理的である。それを体得してしまった私には、入力の速度を犠牲にしてまでキーボードを変える気持ちはサラサラなかった(単に、新しいキーボードを練習するのが面倒なだけなのですが……)。それで、7台目のオアシスを買うつもりになっていたのだ。
 ところが、「そんなもったいないッ」といったN村の言葉に、私の妻が敏感に反応した。彼女は、N村に、その“もったいない”という根拠をねほりはほり聞き出したのだ。
 N村は、妻に、いかにMacが使い勝手のいいパソコンであるのかを説明した。そして、最後に、4万5千円という希望下取り価格を表示するのだ。
 その途端に、妻は、私に向かって、
「トリカイさん(私の妻は私のことを、いまでも、そう呼ぶ)。キーボードの練習をはじめたら」
 と、いった。そして、N村のMacを買い、いまのワープロは修理に出す。少なくとも、それが修理から戻ってくるまでの間は、ローマ字入力でお茶を濁せるだろう、と、彼女は自分の考えを表明した。
 しかし、私は、二の足を踏むばかりだ。
「いまさらJISのキーボードを練習するのかぁ。そんなんカッタルいわ」
 大阪弁と東京弁(カッタルいというのが東京弁です。為念)のチャンプルー言葉で応戦していた。そのとき、N村が、私に、
「トリさん。Macにつなげる親指シフトのキーボードがあるよ」
 と、耳打ちするのだ。
 Macで親指シフトが使えるのなら、話はガ然変ってくる。私もMacの魅力は聞き及んでいる。できればワープロ単機能の機械より、いろいろ楽しめるパソコンのほうがいいに決まっている。その瞬間、私は自分のヘソクリの計算を頭ではじめていた。
 わが家の経済は、妻が握っている。N村のMac本体は家計から出るにしても、キーボードまでは出ないだろう。その金は自分でなんとかするしかない。N村の話だと、3万くらいで、そのDIGITAL WAVEk のDボードは手に入るだろうということだ。それくらいなら、なんとかなるかぁ!?
 私は、N村のMac、つまりカラークラシックを引き取ることにした。
 そのためには、まずDボードだ。秋葉原に買にいくと、3万5千円であった。5千円のオーバーだ。だが、5千円くらい、この際仕方ないだろう。それを買うことにする。店員に、その旨を伝えると、Dボードはパイナップルというソフトをつなげないと稼働しないという。ン!? パイナップル? それは1万8千円もする品物だった。
 結局、私のMacは、本体よりもキーボードのほうが高いというシステムになってしまったのだ。

●Macがわが家にやってきた

 N村は、几帳面である。カラクラのダンボール箱をきちんと取ってあった。その几帳面さに驚いていると、それはMacユーザーの常識なのだという。自分の機械を下取りに出すとき、箱のあるなしで値段が変ってしまうのだそうだ。
 私はそんなことすら知らないMac初心者であった。
 N村家の押し入れをムダに占領し続けていたダンボール箱に収められたカラクラは、1994年9月20日に、わが家にきた。
 セッチングはN村がすべてやってくれた。彼は、このカラクラに、彼が私に必要と考えたソフトをあらかじめ入れてくれていた。いまでいえば、私家版パフォーマーというところだろうか。そして、その説明を「カラクラ概論」という約14Kバイトの書類にして登載してくれてもいた。なんと親切なヤツなんだろう。
 しかも驚いたことには、N村から、簡単なレクチャーを受けただけで、マニアルなど1ページも読まずに(いまだにマニュアルは読んだことがない)、文章を打ち出すことができた。
 帰り際、N村は、DTALKERというアプリケーションに「自己紹介」のドキュメントをドラッグしろと、いった。
 私は、DTALKERを立ち上げ、その言葉とおり、「自己紹介」をドラッグした。すると、カラクラがヘンな英語なまりの日本語でしゃべりだした。

「ワガハイはMacintosh カラークラシック。名前はまだない。1993年2月25日、あきはばらから、こがねいにきた。どうぞよろしく。なお、ワガハイのご主人は、社会学者である。名前はあるが、定職は、ない。
 ワガハイはMacintosh カラークラシック。名前はまだない。通称はカラクラ1号。1994年9月、N村家から、トリカイ家に来た。どうぞよろしく。なお、ワガハイの、新しいご主人は、ルボライターである。たくさんの本を書いているが、ベストセラーはまだ、ない。あんまりタバコをふきかけないでください、ね。」

 私は、その声を聞きながら、ワープロを買い換えず、Macにしていてよかったと、しみじみ思った。自分の前にある9インチモニターの機械が、なんだか無限の可能性を秘めているように思えたのである。
 ひょっとすると、私の心のポッカリあいた哀しみの大きな穴を埋めてくれるかもしれない(ま、結果的にはMacでも埋らないほどの穴だったのだが……)。
 そんな希望を抱いて、私も私の機械をその通称である「カラクラ1号」と呼ぶようになった。そして、妻にいわれるままに、その夜、私はカラクラ1号が入っていたダンポール箱を解体し、ゴミの日にだせるようにヒモでいわいた。わが家の押し入れには、ダンボール箱を置いておくだけの空間的余裕がなかったのだ。 

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