■<暮し>のジャーナリズムの構想
──『暮しの手帖』にみる花森イズムと そのジャーナリズムとしての特質──


●<暮し>のジャーナリズムに向けて

 ジャーナリズムは、あらゆる権力から独立していなければならない。あらゆる権力から自由でなければならない。そして、その視点は常に民衆の中になければならないのである。
 民衆の中に足場を組み、世の中に生起する事象に対して、浮き足立つことなくそこから光を投げかけ将来に向けてのレールを敷くことが、世論の喚起機関としてのジャーナリズムの本分であるはずだ。それは常にラディカル方向性を持ち、すべての事象に対してクリティカルな姿勢を堅持するものである。そのためにも、ジャーナリズムは体制に対しても、また政府権力に対しても、大きな牽制勢力として存在しなければならない。
 ジャーナリズムの“知る権利”は、民衆一人ひとりから委譲されているのである。ジャーナリズムの“報道の自由”“言論の自由”は、民衆の“知る権利”の代理機関として賦与されているものなのだ。
 そこでは、ジャーナリズムを単に送り手だけに求めるのではなく、送り手と受け手の相互連関の中に求めるという視点が必要となる。まさに、ジャーナリズムは、社会批判のダイナミックな運動態としてこそ存在するのである。そのとき権力に対するあくなき批判精神が、ジャーナリズムの動力源となるのはいうまでもない。
 しかしながら現在のジャーナリズム状況は、われわれの期待を見事に裏切っている。われわれは、そこから独立・自主の気構えや、権力批判の姿勢を窺うことはできない。ましてや「民衆と共に立つ」の気概など感じることすらできないのである。むしろ「それら[新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画等々のメディア]の職場に属していない者は、すべてマスコミに対して受け身の立場に立たされ」(鶴見俊輔)ているとさえいえる。民衆は、そのシステムのインサイダーとして認められていないのだ。
 新聞の購読者数は飽和状態に達し、互いに他紙の読者を取ることに終始するありさまである。そのなかで、すでに編集権は不動のもとなった。テレビやラジオも“先管理・後番組”という言葉どおり、メッセージ内容よりも形式を重んじ、自ら放送コードなる規制を敷くまでになっている。
 マスコミ企業に占める広告収入の比率は半ばを越え、広告なしでは企業の運営すら危ぶまれている。マス・メディアの広告媒体としての価値は、その発行部数、視聴率の多寡によって規定される。いきおい企業としては、いかに売るか、ということに専念せざるを得なくなる。当然のごとくスポンサーや経営者の編集介入が、恒常化する。
 このように企業としてのマスコミが持つ保守性や商業主義こそ、ジャーナリズムがはらむ矛盾の根源なのである。この矛盾は、企業方針とジャーナリズムの理想との確執、企業労働者として管理されるジャーナリストの良心の葛藤となって現れる。そして、ついには、ジャーナリズムの理想も、ジャーナリストの良心も、企業利益の追及という大きな壁の前に敗退を余儀なくされる。それは、朝鮮戦争、講和問題、安保闘争などなどの日本が戦後直面した歴史的事件を経るごとに、増殖してきたのである。
 そこでは受け手──すなわち民衆は置き去られざるを得ない。民衆は消費者であって<公衆>ではない。送り手はメッセージ内容の効果を期待するのではなく、メディア購入者の増減のみを気にとめるのである。ゆえに、そこで送出されるメッセージは、民衆にいま必要な情報ではなく、いま最も売れるだろうところのもの、つまり民衆の興味を引くセンセーショナルなものとなる。
 どうやら、日高六郎のいうように「マス・メディアは民衆のあいだに“共同の態度”を作り出すことを断念して、“類似の態度”を作り出すことで満足」しているようだ。かつて、G・タルドは、民族的類似の増殖のなかで個人の特異性は埋没する、という意味のことを語り、群衆の形成要因を“類似”に求めた。同じ意味において、“類似の態度”をもって形成された集団は、没個性・没思想の集団であるといえる。それは、群衆がそうであるように、決して真の意味においての“世論”の形成集団とはなりえないのである。
 ジャーナリズムが<ジャーナリズム>であり続けようとするならば、「民衆の中に“共同の態度”という“喜ぶべき画一性”」(日高六郎)を、どうしても築かなければならない。つまり、自立した個人を前提とした思想的連帯を民衆の中に創出しなければならないのである。
 そのためには、ジャーナリズムが、そしてジャーナリスト自身が“思想”を持つことが必要なのである。自分の立場を、もう一度明確に表明することが必要なのである。新聞も、テレビも、ラジオも、雑誌も、その他諸々のメディアが民衆の中に足場を組直すことが必要なのである。
 そのとき、ジャーナリズムがもたなければならない思想とは何か。ジャーナリズムを送り手と受け手の相互連関の中に生起する社会批判の運動態と見るかぎりにおいて、その思想とは、ジャーナリストと民衆を同じ地平で結びつけるものでなければならない。また、「アクチュアリティを捉えることこそジャーナリストの使命」(戸坂潤)であるとするならば、その思想は、民衆を最も現実的なるもの、なにがあってもそれだけは放棄できないという最低部から発想されるべきものであろう。
 戸坂潤は、いう。「一体日常の茶飯が満足に行くかどうかということが、今日の大衆の日常生活に関する時事問題の最も重大なものではないか」と。この「日常の茶飯が満足に行く」こと、すなわち、食べる、寝る、着るの日々の<暮し>が満足にいくということこそ、人間が人間として生を営むうえでの最大関心事であり、最も現実的なるものであろう。<暮し>というものが、人間にとって欠くべからざるものであり、どんな人間にとっても最優先されるものであるとするなら、ここにジャーナリズムが持つべき思想の糸口も、見出だされるのではないだろうか。それは<暮し>を思想化することに他ならない。
 現代のように、極度に大衆化された社会にあっては、人々の社会に対する帰属感や連帯意識は失われ、階級意識も希薄になり、ただ中間層と称する人間たちが膨張する。このような状況にあって、民衆という不鮮明な存在に色をつけ、連帯を作りあげるためには、ジャーナリスト自身が、まず“暮しの思想”に裏付けされた“生活者”としての自覚を持つことである。そして、受け手である民衆の間に“生活者”としての自覚の輪を広げていくことである。それが“共同の態度”をもって民衆を再組織するための根っこになるのではあるまいか。
 いいかえるならば、“生活者”として送り手と受け手が強い連帯によって結びつき、社会批判のダイナミックな運動を展開していくとき、はじめてジャーナリストと民衆は同じ地平に立つことができ、ジャーナリズムはあらゆる権力から解放されるのである。まさに<暮し>のジャーナリズムの契機は、ここに存在する。

●ジャーナリズムと戦争責任

 戦後ジャーナリズムの最大の失敗は、自らの戦争責任の追及をないがしろにしたことにある。戦争体験はジャーナリズムにとって、貴重な反面教師であった。15年におよぶ戦争下にあって、日本のジャーナリズムは、それが本来陥ってはならない最悪の形態を経験した。その過程は、言論の牙城が権力に屈する歴史に他ならなかった。
 戦争中の民衆の生活は、どうだった。人々は、自分の息子を、夫を、父を、お国のためという名目で戦争にとられ、あるかなしかの配給にも歯をくいしばって、文句のひとつもいわなかったのではないか。それもみんな、日本の勝利を信じていたからだった。たとえ空襲で家を焼かれ、肉親を失っても、人々は耐え続けていた。
 ジャーナリズムは、その人々に一体何をしたというのだ。連日、勝利勝利とはやしたてていただけではなかったのか。ジャーナリズムの、この戦意高揚報道が民衆をかりたてていたのではなかったのか。
 ジャーナリズムが、権力に身を売ったとき、その結果は悲惨なものとなって民衆を襲う。
 道路に並ぶ黒こげの死体を、老人の落ち込んだ目を、妻のやつれた姿を、子どもの飢えた表情を、ジャーナリズムはその目で見たはずだ。死にゆく人々の断末魔の声を、子どもを捜す母の叫びを、親にはぐれた子どもの泣き声を、ジャーナリズムはその耳で聞いたはずだ。それでもジャーナリズムは戦争を止めようとはしなかった。
 いや、ジャーナリスト自身、日本の勝利を,戦争の正義を信じていたのかもしれない。しかし、それがすべて虚妄であったとわかんったとき、しなければならないことがあったはずだ。
 事実、ジャーナリズムは、自らの手で独立・自由を不朽のものにしようと立ち上がった。それが、敗戦の年(1945年)の9月にはじまった第一読売争議端緒とする一連の民主化運動である。ジャーナリズムは、戦争中の行為を反省し、国民とともに歩むことを誓ったのである。これはまぎれもなく、ジャーナリズムの立場の表明であった。ジャーナリズムは民衆の中にこそ存在する、との自己規定だった。
 しかし、その10ヵ月後“民主化運動”は挫折する。その直接的な原因は、GHQの態度硬化であった。ジャーナリズムは、ふたたび権力にひざまづいたのである。ここでは当然、ジャーナリスト一人ひとりの自己の戦争責任追及のあまさが指摘される。彼らにおいて、それは、新たな権力と対抗する“武器”にまで醸成されていなかったのである。
 だが、自分の戦争責任を追及し、権力へのルサンチマンをジャーナリズムの武器に変えたジャーナリストがいた。花森安治も、そのひとりである。
 花森は、いう。
「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時はなにも知らなかった。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人を増やしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予にしてもらっている、と思っている」。
 この彼の「決意と使命感」が『暮しの手帖』の倫理となって、日本人の生活変革を指導するという方向で結晶する。『暮しの手帖』は、ジャーナリズムの方法として<暮し>をその根底にすえることの必要性を、戦争体験から学びとった。そしてこれはまぎれもなく『暮しの手帖』の武器となってきたのである。90万読者の存在が、そのことを証明している。
 戦争体験は、ジャーナリズムに権力に屈することの恐ろしさを教えた。しかし、それ以上に、民衆のもつ生きる強さというものを教えたのではないだろうか。
「戦争は、われわれの生活意識を、生活の本質そのものに、急速に復帰せしめつつある」と、大熊信行はいった。ジャーナリズムは、そのとき生活の原型というものをつぶさに見たのである。
 1945年8月15日。敗戦の日。ジャーナリズムは、その貴重な体験を自らの甦生のために生かすべきだったのではないだろうか。しかし、それうしなかったいま、われわれは『暮しの手帖』の思想と方法を批判することによって、そのエートスを共有する以外にない。『暮しの手帖』の延長線上に、<暮し>のジャーナリズムの方向を探れるのではないだろうか。

●花森安治の思想形成と戦争体験

 花森安治の戦争犯罪は、大政翼賛会の宣伝部において、幾多の戦意昂揚標語を創案したことである。これらの標語が、戦争中の民衆の生活意識を築き上げてきたことは事実であった。この意味では花森の戦争責任はジャーナリズムのそれと同質のものであり、当然、追求されてしかるべきものである。
 1940年10月、大政翼賛会が発足すると同時に、彼はパピリオの宣伝部を辞して翼賛会に奉職した。だからといって、花森を積極的な戦争肯定論者だとするのは早計である。
 当初、大政翼賛会は「既成政党とは異った国民組織、全国民の間に根を張った組織とそれの持つ政治力を背景とした政府か確立して、始めて軍部を抑へ、日中事変を解決することができる」という意図のもとに近衛文磨が構想した挙国政治体制、すなわち、“新体制”運動の結果として誕生した。つまり、すでに軍部の圧力下で力を失っていた政党政治の反抗として、翼賛会は出発したのである。
 大政翼賛会創設の模様について、杉森久英はこのように述べている。「それは『新体制』という言葉が示しているように、国民の総意に立脚した、清新な、溌剌とした政治への意欲であるという点では〔創立に参画した人々は一一筆者補〕一致していた」、花森も、この新しい政治に対する意欲に賛同して参加したのであろう。
 しかし、この翼賛会は結成時から大きな矛盾を内包していたのである。それは、政党政治の復権とそれを利用しようとする軍部の思惑である。やがて翼賛会は、国民の統制機関として戦争遂行に大きな役割をはたしていく。このとき花森は「『新体制運動』が戦争体制になだれこんでいくのを、異賛会の内部から歯ぎしつしながら眺めていた」という。
 彼はそのジレンマの中で、黙々と戦中標語を作り続けるのである。「ぜいたくは敵だ」、「ほしがりません勝つまでは」、「あの旗を撃て」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」等々、花森が創案したポスターは数多い。
 彼がこれらのものを作った理由はどこにあるのだろう。翼賛会への参加動機に照らしても、すべてが戦争遂行の意図で作られたとは考えられない。ひとつには、彼の宣伝マンとしての職業倫理にあったことは確かだ。しかし、その多くは一体どこに起因しているのであろうか。
 この問題意識をもって標語を見なおすとき、そこに貫かれているものは、物質的に抑圧された状況での生活を守るための方法だと気づくはずである。彼は、戦争という非常なるものが日常となってしまった時代にあって、いかに生活をまっとうさせるかに腐心していたのではあるまいか。彼がこれらの標語を作った意図はここにあったのだ。すでにこのとき、花森の思想は生活に収束していたのである。
 花森安治は、1911年神戸に生まれた。貿易商であった彼の父は、大酒飲みで家庭を顧みない人であった。花森は母の愛にはぐくまれ、少年時代を過ごす。地元の雲中小学校から、神戸第三中学校へ進み、松江高校を経て、東京帝国大学で美学を専攻する。この高校・大学時代は、彼独特の反骨精神の本領発揮の時代でもあった。東京帝大を牢業した花森は、伊藤胡蝶園に入社して、1940年10月大政輿賛会の宣伝部に奉職するまで「パピリオ」の宣伝に従事する。この間、召集を2度受け、満州・ノモンハン等を転戦するる。
 履歴書風に花森の半生を書くとこうなる。
 この29年の間に、花森はいろいろなことを体験し、それが彼の思想の土壌になってきたのである。その詳しい記述ははぶくが、青年期の花森の経験と思想のコアとなったモメントとして、3点が考えられる。その3つのモメントが、どう変化してきたか、それぞれ簡単に追ってみたい。
 まず“女性なるもへの関心”である。彼の父が放蕩者であったこともあり、母へ対する愛しみが人一倍強く少年花森の心に影をおろした。花森自身「親父が多少の放蕩をやったせいもあって、子供心に母親に味方した。そんなところから、母親を神聖視して、ママ・コンプレックスなんてものも、生まれたんだろうが、そのせいか、理屈でいわず、女性を甘やかすところがある」と語っている。
 この女性への関心が彼の思想の根になったことは疑いない。彼は中学を卒業して、1年間浪人生活を送った。その機関を通して「花森は神戸の市立図書館にあった婦人論や、婦人運動論関係の翻訳書を、読みつく」したのである。また、高校時代、母の死と前後して、もも代と早い結婚をするのもそのあらわれであろう。彼の中では、女性への関心と家庭へのあこがれが強く渦を巻いていたのである。
 次に“紳士なるものへの慣り”である。「とにかく紳士というものに対するぽくの反感が根づよいこと、フランス人がドイツ人に対する感情よりも、もっとひどいものがありますね。紳士とか先生とかいわれる人問がみんな表面だけごまかしているウソツキに見える。なんとかこのツラの皮をひんむいて、しばり首にして、なんてことを考えるんてす」と、花森は述懐している。これは、彼が小学校1年のときに、家庭訪問にきた紳士の鏡のような先生のいやらしさを見た経験に起因している。
 中学校時代までは、その憤りは表面に出ず、心の中にわだかまっていただけであったようだ。彼は、小・中学校を模範生として過ごしてきたのである。しかし、浪人時代にそれは、ふたつに分化した。ひとつは、紳±なるものに対する不信であり、もうひとつは、紳士教育の中で漠範生で、あった自分に対する嫌悪である。やがて、前者が“権威への不信”へ、また後者が“強い自省心”へと発展し、花森独特の反骨精神を形成する。
 そして3点目が“美意識”である。彼は小学生のとき、鉛筆削り器を初めて使った体験をこう書いている。「どんなに、きれいに削れるだろうか、という期待が、あまりに大きすぎたのでしょうか、削られた鉛筆を見たぽくたちは、これじゃしかたないよという、結論を出しました」。その理由は、削られた部分に「あの木の、なめたような美しさなど、どこにもなかった」からなのである。
 花森の中には、この頃から“それ本来のもつ自然な美しさこそ美である”というような美意識が生まれていた。この美意識の形成要因としては、彼が育った神戸の街が持つハイカラさと無関係ではないように思われる。ともか、この美意識が、彼の衣裳への関心を生み、美学を専攻させ「社会学的美学より見たる衣粧」という卒論を書かせるに至るのである。
 青年期の花森の思想におけるこれら3点のモメント、すなわち“女性(家庭)への関心”“紳士なるものへの憤り”“美意識”というものがたくみに混りあい、“生活に対する関心”として収束していったことは疑いない。
 事実、『暮しの手帖』のタイトルとアイデアが、すでに満州での兵隊生活の中で彼のメモ帳に何度か書きつづられていたのである。彼は、1937年のときの召集で満州へ行っている。おそらくこのメモはそのときのものであろう。とするならば、大政翼賛会以前に花森の中では、生活というものか何らかの形で思想化されていたと考えられる。
 彼が創案した戦意昴揚標語に現わされている、「ゼイタクを敵視し、工夫を奨励する実質主義」こそ、花森の生活思想で、あったのだ。しかし、これらの仕事は、戦争を遂行するためには役立ったが、民衆の生活を守るのには何の役にも立たなかった。
 なぜか。それは、この時点における花森の“暮らしの思想”が、あくまで体制内での生活擁護としてあったからである。だからこそ彼が作った標語は体制にとって、大変都合のいいものであり、戦争遂行のために利用されたのである。
 当時の花森自身はそれに気づかなかったはずである。彼は、積極的な戦争肯定者ではなかったが、同じようにまた戦争否定論者ではなかった。多くの民衆と同様、日本が戦争をしているという大状況については何ら疑問を持っていなかった。だからこそ、標語ばかりでなく、皇居に向って礼をするような国民儀礼を作ったり、女性の髪やたもとを短くさせたつしたのである。これが戦後の「だまされていた」という彼の反省につながるのだ。
 敗戦も近い1945年5月。翼賛会ではヤミ物資撲滅運動を推進していた。ある日、花森はある上司から「うまいもの、やろうか」と、当時珍重されていたブトウ糖を見せられた。彼は口もきけないほど怒りを感じ、局長に抗議をしに行った。
 花森の怒りは権力に対する憤りであった。民衆は、自分の生活を犠牲にしてまで、この非常時を乗り越えようとしている。物資が欠乏しているときに、ヤミ物資撲滅運動を推進している翼賛会の幹部がヤミ物資を手に入れ、肥っ続けている。「何という転倒だ」。花森の反骨精神は爆発した。
 この事件で彼は翼賛会をクビになる。その後、彼をまっていたのは、極度の栄 養失調と敗戦だった。
 彼は戦争犯罪者としての自分を直視した。戦争中、きりつめれるものはきりつめ、日本の勝利を信して戦ってきた民衆の生活の代償が、ガレキの山と栄養失調の身体だけだった。民衆の苦労は一体何だったんだ。花森の自省心は、権力の手先となって民衆に欠乏生活を強いた自分をさいなんだ。
 国家とは、民衆の暮らしを犠牲にしてまでも守らなければならないものなのだろうか。民衆の暮らしよりも優先されるものなのだろうか。いや、絶対に違う。
 花森はこのとき、権力に対置するものとしての暮らしを見た。戦争体験は、花森の思想を180度転換させたのである。体制における<暮らし>擁護から、体制(権力)に対置する<暮らし>への方向に花森の思想は転換した。彼は、<暮らし>こそ何よりも最優先させるべきものだと考えるにいたった。花森にとって<暮らし>ほ、まさしくここにおいて社会批判の武器になったのである。
 彼は自分の罪を認め、「だまされない人たちをふやしていく」ことで戦後の自分を律していた。その方法が、<暮らし>を武器にした『暮しの手帖』というジャーナリズム活動なのであった。

●『暮しの手帖』における花森イズムの変遷

 戦後、花森は『暮しの手帖』を足場にし、民衆の生活改革をその使命とするようになる。それは、彼の権力に対するルサンチマンによって、推進されていくのである。
 自らの戦争責任の追及によって、体制に対置するものとして<暮らし>を設置する方向へ、彼の思想は転換される契機を得た。この思想のベクトルは、『暮しの手帖』に拠ってジヤーナリストとしての花森が、時代とかかわり合うなかで明確に固まっていくのである。
 まずそれは、民衆の暮らし軽視という傾向への反省として始まる。花森は「衣食住をかろんじることが、取りもなをさず、なにか立派なことのように考えられていたということは、その人間が、実は衣食住をいとなまないでは過ごせないだけに、ふしぎなことであった。頭の中で高いことを考え、言いもする人間が、実際に、その日その日を暮すのに、実に低いおろかなやり方をしていて、誰も不思議に思わないのが、これまでの日本の暮し方であった。暮しを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値するのである」という。
 つまり、花森にとって日本人の暮らし軽視の傾向とは、現実から遊離した観念を振り回すことであり、そしてそれを不思議とも感じない民衆の意識のことなのである。実は、その意識が戦争中の日本をして、“<くに>の中の<暮らし>”ともいうべき構図を作り出さしめるひとつの土壌となった。その結果民衆が得たものといえば、敗戦という事実に相即するところの私生活の崩壊であった。
 この反省か花森に与えたものは、民衆の中に<暮らし>を意識的に創造していこうとする姿勢を築くことの必要注だったのである。すなわち、これが“<くに>の中の<暮らし>”という構図を突きくずし、新たに“<暮らし>対<くに>”という構図を構築することだったのである。このためには、体制から私生活を独立させ、その私生活に最大価値を持たせなければならない。この独立した私生活こそ、意識的な<暮らし>の不断の創造に他ならないのである。
 1948年9月20日。「はげしい風のふく日に、その風のふく方へ、一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きてゆくのが命がけの明け暮れかつづいて」いるような社会に、「ちいさな、かすかな灯をともすこと」を目的に『暮しの手帖』は創刊された。季刊96ページ建て、定価ll0円。1万部刷り、8千部が売れた。
『暮しの手帖』が、ともそうとした灯こそ、<暮らし>を意識的に創造することによって、暮らし軽視の傾向を払拭しようとする息吹きだったのである。それは、『美しい暮しの手帖』という当時のタイトルが示すように、一方では暮らしの中に美意識を取り入れる方向で、またもう一方では暮らしを機能的に再構築するという方向で行なわれた。
 戦争は日本人の生活から美しいものを美しいと見る心のゆとりを奪った。人々は「燃えるぱかつの赤い夕焼けを美しいとみるかわりに、その夜の、大空襲は、どこへ来るのかとおもった。さわやかな月明りを美しいとみるまえに、折角の灯火管制が、何の役にも立たなくなるのを憎んだ。道端の野の花を美しいとみるよりも、食べられないだろうかと、ひき抜いてみたっした」のである。戦争によって日本人が失った、美しいものを愛でる心を、『暮しの手帖』は覚醒しようとしたのだ。
 創刊号の表紙は、瓦礫と復員服であふれる街には、そぐわないほどはなやかであった。それは、西洋風のライティング・デスクを中心とした、なにげずない日常の生活状況を活写した構図である。まさにそこには、当時の民衆の夢が描かれていたのである。花森は『暮しの手帖』を通じて、こうすればその夢を現実のものにできる、という提言をし続けたのである。
“直線裁ち”の衣裳の提唱、ガラクタを利用した西洋風炉端の作り方(2号)、竹を機能的に暮らしに取り入れるアイデア(3号)、リンゴ箱を使った家具の実用例(6〜7号)等々、それは数限りなく行なわれた。
 そして花森は、新たに9号から「風俗の手帖」を連載するようになる。「おそらく、一つの内閣を変えるよりも、一つの家のみそ汁の作り方を変えることの方カ、ずっとむつかしい」と始まるこの連載で、彼は、暮らしを変えるためには主婦の意識改草がいかに大切かを、せつせつと語ったのである。
 このように、初期の『暮しの手帖』は、新しい生活様式の創造、または、生活様式の合理的再構成といったものを目的としていた。それは、具体例の提出、意識の変革という両面で行なわれていた。
 やがて、戦後の経済復興が進み、民衆の生活レベルの向上に伴い、その生活様式が商品に規定される率がきわめて高くなってゆく。1955年の神武景気から60年の岩戸景気に至る一連の好景気を境にして、商品の氾濫化か進み、それに相即して民衆の購買能力もそなわってくる。ここでは、商品の選択ということカ、暮らしに大きな意味を持つようになってくるのである。
 ここにおいて、『暮しの手帖』の生活指導の重心が、“商品の選択”というものに 移行する。1960年春号、すなわち53号から、それまであった「日用品のテスト報告」と「買物案内」を中止し、新たに「買い物」という大きなワクを設定し、積極的に“商品テスト”を開始することになる。
 この“商品テスト”こそ、それまで<暮らし>自体の変革に終始していたところの、花森安治の飛躍の現われなのだ。花森は<暮らし>をベースにした批判を、メーカーというひとつの権力に対して行ない始めたのである。
 それは、42号の「編集者の手帖」に載った「暮しのことといえぱ、女の領分、というのがこれまでの私たちの考え方でした。そういう意味からいえば、この雑誌『女の雑誌』ということになるかもしれません。しかし、私たちは、いま暮しのことを、女だけの領分とは考えていません。男も、子供も、老人も、みんな、とにかく毎日幕しているのですから、その暮しを、すこしでもよくしてゆこうというのには、男も、子供も、老人も、女のひとと一しょに考え、一しょにやってゆかねば、なかなかうまく ゆかないものだ、とおもっています」という、『暮しの手帖』は女性の雑誌だという世間の認識からの脱皮の証明であった。
 ここにきて、『暮しの手帖』は<暮らし>を根幹にすえたジャーナリズムとして、また花森安治の“暮らしの思想”、すなわち花森イズムも、<暮らし>を最優先し、体制に対置するものとして明確に変化する契機が現われる。
 彼にとって、暮らしへの商品流入に対する批判は、暮らし自体の創造性や自立性といったものを守っていこうとする姿勢だったのである。当然それらを阻むものは、商品に限ったことではない。そして、ついには暮らしそれ自体をおびやかすものとして、公害が現われ始めた。
 公害の元凶は、企業利益を優先する政府にあるのだ。<くに>はふたたび<暮らし>をかろんじ始めたのである。民衆の暮ふし軽視の傾向を払拭しても、結局は<くに>の暮らし軽視の傾向をなくさなければなんにもならない。
 この『暮しの手帖』の変化は、100号に近づくにつれて明確になってくる。<暮らし>をベースにした社会批判を積極的に行なうようになるのである。「テレビの放送時間を短かくしよう」(81号)、「なにもかも漫画だらけ」(83号)、「有料道路をタダにするのはもう少し先にのばして」(86号)等々である。
 そして、87号の「火事をテストする」という記事以降、94号まで引きつづいて火事に対処する企画が組まれる。この一連の企画の中であの有名な“石油ストーブの水かけ論争”が消防庁との間で起った。これは「石油ストープは水で消える」とする『暮しの手帖』側の勝利に終ったのである。また、89号ではポッカ・レモンにビタミンCが入っていないことを告発する。『暮しの手帖』は積極的に、時代とかかわり合っていくのである。
 その頃、日本経済活況のシンポルであった工場煙突は空気を汚しつづけ、工場排水も海や川を汚しつづけていた。ようやく、公害が社会問題としてクローズアップされてこようとする時代を背景にして、1968年8月1日、暮らしの手帖社は、96号r戦争中の暮しの記録』を出す。
 一冊の雑誌全体が、民衆の戦争体験手記で編集されているこの号は、戦争に対する憎悪の叫びで盆れている。編集部では、はじめて原稿用紙に字を書いたと考えられるこれらの人々の手記を、その生の感情が伝わるように、わざわざと誤字やあて字を直さず原型に近い形で掲載したのである。
 これは『暮しの手帖』にとって、暮らしを守り、よりよくしていくためには、どうしてもしなければならない仕事だった。暮らしをよくしていくためには、あの悲参な戦争中の暮らしを再認識し、語りついでいかなければならないという問題提起だったのである。
 戦後23年、確かに民衆の生活は豊かになった。しかし、一歩視点を変えれば、空気は汚れ、自然は破壊され、公害に苦しむ人々は増えつづける一方である。日本は経済的に豊かになった代わりに、何かを忘れてしまったのではないだろうか。何かを犠牲にしてきたのではないだろうか。もう一度、じっくり考えてみよう。花森は、96号で、このことを訴えようとしたのであろう。
 花森の戦争体験、自らの戦争責任の追及は、彼の中で脈々と生きつづけていたのである。『暮しの手帖』は、この96号を境に変化する。そして、l00号を迎え、第2世紀に入る。
 2世紀8号(1970年10月1日)、花森安治の大宣言が載る。「一銭五厘の旗」である。花森は、<暮らし>というものを、民主主義の基礎と考え、権力や体制に対置する民衆の砦として規定したのである。
「ばくら せいぜい 一銭五厘だった ぽくらの 命や 暮しなど 国にとっては どうでもよかったのだ そして 戦争にまけた 民主主義の<民>とは ばくらのことだと教えられた それを ぽくら うれしがって うじゃじゃけているあいだに 二五年もたって 気がついたら また ぼくら一銭五厘になりかかっている <公害>さわぎがはじまった こんどは ぽくら うじやしやけていられない こんどは ぼくら こわがらないで 困まることは 困まるとはっきり言う 七円の葉書に そのことをはっきり書く その葉書を、大臣や社長に出す こんど ぽくら だまっていたら また うやむやに なってしまう そして <ぽくら>は 滅びてしまう」。
 これは、この長い散文詩のリードである。
 戦争中、政府から1銭5厘の赤紙で集められ、虫けらのようにあつかわれた民衆が、民主主義の世の中、つまつ民衆の世の中になったいまでも、虫けらのようにあつかわれていることに対する怒りが、この詩の中に燃えたぎっている。
 花森は提言する。
「民主主義の<民>は 庶民の民だ ぽくらの暮しを なによりも第一にする ということだ ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ ぽくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ それがほんとうの<民主主義>だ」。
「ぼくらの旗は こじき旗だ ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ ぽくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる 見よ 世界ではじめての ぽくら庶民の旗だ ぼくら こんどは後へひかない」。
 <暮らし>の創造性と自主性を、まっとうするためには、<暮らし>を害するものすべてと闘わなければならない。たとえ、それが<くに>であっても、一歩も後に退くことは許されないのである。
 これが花森イズムの実践的帰結である。すなわち、それは、<暮らし>に最大価値を置き、<暮らし>を守るという方向でそのエネルギーを社会変草にまで発展させようとする思想なのである。これはまさに、われわれが構想するところの<暮らし>のジャーナリズムと重層するものである。
 ここには、花森の戦争責任に対する強い頑罪意識が、ダイレクトな形で貫かれている。“一銭五厘の精神”は、<くに>に対する<暮らし>の挑戦状であった。そして、それは1978年1月14日、その死の日まで変わらず、花森をジャーナリストとしてささえる精神になったのである。

●花森イズムの限界
────あるいはジャーナリズムとしての『暮しの手帖』の限界

『暮しの手帖』のジャーナリズムとしての特質を、花森イズムの現象過程としてみると、付図2(現在作成中)の通りになる。すなわち、花森イズムから導きだされる“機能するものこそ美しい”という美意識、<暮らし>最優先の思想、権力にたいするルサンチマンから生じるところの政治不信、という3つのモメントが、それぞれに関係し合い、新たなモメントを生起し合いながら、各特質を現象させていることがわかる。
 この花森イズムの3つのモメントの中心は、<暮らし>最優先の思想である。これが、批判精神に媒介され、次のレベルに移行する構造が、ジャーナリズムとしての『暮しの手帖』のポイントになる。
 まず、民主主義の根としての<暮らし>一→<暮らし>変革を指導する使命一→蓄積必要性─→ムック形式に至る流れである。
 これは、『暮しの手帖』の主調音を規定しているものである。それが目指す“暮らしの変革”という意識が、読者の日々の生活体験の中で、徐々に醸成されるという性格上、この雑誌か蓄積されざるを得ない必腰庄生が生まれる。
 しかし、われわれが『暮しの手帖』を止揚し、その上に<暮らし>のジャーナャーナリズムという、新たなジャーナリズムの地平を構想するとき、真に批判の対象となるのは、以下のふたつの流れなのである。
 1.経済権力からの自立一→メーカー批判─→スポンサーからの自立─→無広告・商品テスト。
 2.スポンサーからの自立(−→無広告)─→径済的足かせ一→読者との強いパイプの必要性─→読者参加。
『暮しの手帖』のジ+一ナリズムとしての方法は、このふたつの流れによって規定されている。1・2の流れを見たとき、それぞれ“経済権力からの自立”は、無広告という『暮しの手帖』最大の特質によってささえられていることがわかる。『暮しの手帖』のジャーナリズムとしての基礎は、ここに存在するのである。
 花森は、自社広告以外の広告をなぜ載せないのか、ふたつの理由をあげて説明する。
 ひとつは「編集技術の点からである。グラビア頁など、ああでもない、こうでもないと、写真の1センチ、5ミリの大きさまで気にして割りつけても、もしドカドカと広告に割っ込まれたのでは、苦労の仕甲斐がない」ことである。
 そして、最大の理由は、ふたつめの「広告を載せると、商品の正しい批判や紹介が、全然できないとはいえないまでも、非常にやりにくくなるということ」にある。
 花森にとって「『暮し』を主題とする雑誌が、どうしてもしなくてはならない仕事」として存在する商品テストは、『暮しの手帖』が無広告メディアであったからこそできたわけである。
 商品テストは、「消費者のためにあるのではない」。メーカーにもっといい商品を作れという抗議として始まった。この仕事の底流にあるものは、メーカーや政府に対する批判なのである。「人命に危険があるという場合でも、業者が困る場合は、だまって売るにまかせている」政府や、「『なにごとも消費者のおんために』などと、いっばし気がきいたようなコロモの下から、『売るためには何でもしてやろう』というョロイをチラチラ」させているメーカーに対する、花森の挑戦でもあったのだ。
 だから、その目的は、単に欠陥商品を摘発することにあるのではない。この報告を通して、メーカーの、そして消費者の意識を変革することにある。そのためには、テスターの商品に対する目の深さ、社会に対する考えのひろさが、要求される。「<商品テスト>は、単に商品についての批判ではなくて、じつは社会批判であり、文明批判であるf)という花森の言葉は、ここにある。商品テストをするテスターの目は、まさしくジャーナリストの目なのである。
 この商品テストという一連の作業は、社会に対する受け手として存在する生活者に、彼の受動的な活動範囲の中でもちうるぎりぎりの積極性を引き出そうとした点、評価されよう。だがしかし、それには、生活者を“商品の購入者=消費者”というカテゴリーに、ますますおし込めてしまうというメダルの裏があったのである。
 また、広告収入がなく、経済的に<自立>しなければならない『暮しの手帖』は、必然的に企業としての存続を、読者にたよらなければならない。一人でも多くの読者を得るということが『暮しの手帖』にとっては切実な問題となる。したがって、広告収入のある他のメディアよりも、読者とのパイプを重要視せざるを得ない。
 読者はいま何を必要としているのか。読者は、いま何を考え、何を悩んでいるのか。『暮しの手帖』の仕事は真剣である。読者から遊離したとき、『暮しの手帖』はつぶれる。これは、広告を載せないと決めたときに課せられた宿命である。
 この<自律>こそ、ジャーナリズムを送り手と受け手の相互連関の中に生しる運動として規定するときに必要になってくるモメントである。
『暮しの手帖』は、<暮らし>を見すえ、それを思想化していくことと、読者との連帯を深めることて、この<自律>をまっとうしてきた。まさにこれは、送り手と受け手を同じ地平で結びつける思想としての“暮らしの思想”の有効性と、その上に展開される<暮らし>のジャーナリズムの可能性を証明している。
『暮しの手帖』は、読者との連帯を非常に大事にしたのである。「この雑誌は、全部読者が作ったっていいんだ」、「一歩上から暮しを見るのではなく、中の一人はぼくにして、中の一人は君なるぞ』という精神が大事なのだ」という花森の言葉からも、このことは窺える。
 しかし、それにしては、花森が生前行なった社会に対する幾多の提言が、どれひとつ読者の間で<運動>として具体化されなかったのはどうしてなのか。ここに花森イズム、ひいてはジャーナリズムとしての『暮しの手帖』の限界が潜むように思われる。
『暮しの手帖』のジャーナリズムの方法は、われわれの構想する<暮らし>のジャーナリズムと同志向のものであった。そして、花森イズムの実践的帰結であるところの“一銭五厘の精神”こそ、まさに、<暮らし>のジャーナリズムの到達すべきところなのである。だとすれば、送り手としての『暮しの手帖』には、問題がないといえよう。ならば、読者にこそ問題があったのではないか。『暮しの手帖』の読者とは、一体何者なのだろうか。
 すでに述べたように『暮しの手帖』は、<暮らし>の変革誌として出発し、現在に至っている。その変革の方向は、<美しい暮らし>という言葉であらわされるものであった。そして、その根底にあるのは、<暮らし>最優先の思想を核とした花森イズムである。この花森イズムから導き出される3つのモメントが、相互に関係し合い、幾多のモメントに変質し、メッセージ内容の特質になっているのである。
 つまり『暮しの手帖』の読者は、こうした<美しい暮らし>志向と、<暮らし>最優先の思想というものに、共鳴しやすい意識をもった層としてとらえられる。
 まず、<美しい暮らし>志向という点を考えてみよう。これは、いまある暮らしに機能性を与え、ゆとりを作り出し、暮らしの在り方というものを再検討しようという訴えであった。すなわち、新しい生活様式や文化というものを、創出しようとする方向をもつものなのであった。
 当然、このような方向性を持つメッセージは、すでに生活様式が固定化されている家庭には、効力をもたない。これに共鳴し得る層は、まず一定限の生活の安定か保障されており、いまの生活をより向上させようとする意識、いわば上昇志向をもっている層であると考えられる。この上昇志向というものは、自分の生活に対して、合理精神に裏付けされた批判精神を伴うのである。
 まさにこれは、中流志向に他ならない。中流志向とは、戦前の民衆がもった「せめてなりたや中産階級」という意識と同質のものである。いい変えるなら、それは最低限の衣食住に、何か付加された豊かさを求める庶民の欲求なのだ。
 次に、<暮らし>最優先の思想である。花森の意図がなんであったにせよ、現実にこれを享受し得るのほ、私生活主義を有する層であろう。私生活主義とは、「即自的な意味での私人の生活と利益を優先しようというささやかな生活倫理」に他ならない。これは、現代的都市型人間の共通意識である。
 つまり『暮しの手帖』は、中流志向と私生活主義を合わせもった層に、非常にアピールしたメディアだったのである。こうした人々は、戦後拡大の一途をたどっている。それは、今日では、新中間層であるとか、マイホーム主義であるとかいわれるように、一般的になっているのである。
『暮しの手帖』の部数は、1951一58年の問に飛躍的に増加している。この期問は、1950年の朝鮮政争勃発を契機とした、日本経済復興の急転回の時期にあたる。それに相即して、人々は収入も豊かになり、生活に安定とゆとりをもてるようになってゆくのである。これは、民衆の中流志向の顕在化の過程であり、中流志向と私生活主義を特質とする大衆、すなわち“新中問層”の増大過程であったと考えられる。事実、1958年には、自分の生活状態を中流だとする者が、全体の72パーセントにも達している。『暮しの手帖』は、新中問層と呼ばれる人々を読者にし、それが増大するなかで部数を伸ばしてきたわけだ。
 これは『暮しの手帖』が、その読者としてあるところの新中問層がもつ<暮らし>の保守性の上に、部数を伸ぱしてきたことを意味する。ここに、『暮しの手帖』がジャーナリズムとして、送り手と受け手の相互連関の中に生じる社会批判のダイナミックな運動を展開できなかった原因があったと考えられる。
 それはひとえに、<暮らし>というものがもつ自己矛盾に帰因する。<暮らし>は、それが人間の生存を規定するものであるという点、非常に強大なエネルギ一を潜在させている。ひとたび、それが顕在化すると、手をつけられない程の威力を発揮する。住民運動のあの根強さは、まさにそれなのである。<暮らし>のジャーナリズムの武器は、これである。だがしかし、<暮らし>は本源的に保守性を秘めている。ここに、それを変革の原動力とすることの難しさがある。この保守性のために、<暮らし>のエネルギーは、直接それをおびやかすもの以外に対しては、顕在化させにくいのである。
 ゆえに<暮らし>の保守性に忠実な読者は、『暮しの手帖』から、自分の暮らしに役立つメッセージのみを読みとろうとする。そのような読者の前では“商品テスト”も科学的な商品カタログとしてでしか機能しない。同じように、花森の社会に対する批判も、それが直接自分の暮らしに影響をもたない限り、読者の中では運動とはなっ得ないのである。
『暮しの手帖』の目指した<暮らし>変革は、個々の暮らしの充実、つまり、<暮らし>の内部への方向としてあったわけだ。実に、これが『暮しの手帖』が社会変革を目指したときの障害となったのである。
 この教訓は、いま、われわれが構想する<暮らし>のジャーナリズムが、<暮らし>を外部に向けて開いていこうとする方向性をもつ<暮らし>変革の思想に、立脚したものでなければならないということを物語っている。
 それは、生きるものすべて同し生活チヤンスの中にあるという認識に立ち、他者の<暮らし>のリアリティを、進んで自ら共有するという行為の中でのみ培われていく思想であると考えられる。その思想をジャーナリズムという運動の中で展開するためには、ジャーナリスト自身がまず、民衆の<暮らし>のいたみを自分の<暮らし>のいたみと重層させ、彼らとの問に<暮らし>のリアリティという太いパイプを通す作業を敢行することが必要なのである。
 <暮らし>のジャーナリズムとは、<暮らし>のリアリティという太いパイブを、送り手と受け手の間に築き、そこに送り手・受け手相互の生活実感としてのメッセージを往復させる中で、その連帯を強めていく作業を単位とするものなのである。またそれは、送り手と受け手の単位が、同しパイプで幾重にも重層し締結されてゆくことで、社会批判の勢力として強大化していくものである。
 まず、ジャーナリストが、自分の生活実感を込めて「ぽくらは、みんな同じ生活チヤンスの中に生きているんだ。スモンも、イタイイタイ病も、成田も、ロッキードやグラマンも、有事立法も、そしてカンボジアやベトナム(現在でいえば、HIVも、沖縄も、神戸淡路も、雲南省も、ボスニアも……ということになるのでしょう)も、すべて人ごとではないんだ。ばくらの暮らしは、それらを包み込んだ状況の上にしか存在しえないんだ」と、受け手に向って叫ばなければならない。それが、受け手の意識を、私生活主義というエゴイステックな“暮らし防衛思想”から、みんなで共同しなけれぱ暮らしはよくならないという“共戦的暮らし変革思想”へと変える契機になるのだ。このとき<暮らし>のジャーナリズムは、その動きを開始する。
 花森はいった。「ぽくは編集者である。ばくには一本のペンがある。ぼくは、デモにも加わらない。ばくは坐りこみもしない。ばくには一本のペンがある」と。
 しかし、いま、ジャーナリストは、受け手の意識を変革し、彼らとの連帯を強め、彼らと生活実感を共有するために、一本のペンを耳にはさみ、メモ帳をポケットに入れ、デモにも坐りこみにも参加し、民衆と共にしやぺり、行動し、訴えつづけていかなければならないのではあるまいか。
 ジャーナリズムの原点がここにある。


第I章
(1)『朝日新聞』1945年11月7日「宣言」。
(2)鶴見俊輔編『ジャーナリズムの思想』現代日本思想大系12(筑摩書房1965)8頁。
(3)たとえば講和問題である。新聞各紙は当初全面講和を主張した。しかし、政府の方針が単独講和と決まるや、新聞社の経営陣は、自社の論調を単独講和にするように指示してきた。結局、各紙の論調は、『北海道新聞』ら数紙を残し、単独講和に傾いいていく。その中で、良心的ジャーナリストの数人は、その良心のあまり社をやめざるを得なくなるのである。
(4)G.タルド、稲葉三千男訳『世論と群集』(未来社1964)で展開される「純粋に精神的な集合体で、肉体的には分離し心理的にだけ結合している個人たちの散乱分布」(12頁)として存在し、世論の担い手として考えられる諸者という意味で使用した。しかし、ここではタルドか規定するところの公衆の意味そのままで、はなく、それに“送り手としての機能”をもたせた。すなわち、メディアに対するフィードバックのチャンズを有する読者として考えている。
(5)清水幾太郎・南博・城戸又一・日高六郎編『現代社会とマス・コミュニケーション』マス・コミユニケーション講座第5巻(河出書房1955)252頁。
(6)G.タルド、稲葉三千男訳前掲書24頁。
(7)清水・南・城戸・日高編前褐書252頁。
(8)戸坂澗「ジャーナリスト論」『戸坂潤全集』第4巻(勤草書房1966)156頁。 (9)戸坂潤「日常性について」同上書138頁。
(l0)戦争中のジヤーナリズムは、「ファシズムのプロパガンダ.メディア」(城戸又一他編『現代ジャーナリズム講座I歴史た時事通信社1974年138頁)として、内閣情報局の手によって、国家総動員法の名の下に再組織されていた。事前検閲による発禁処分、用紙割当、マスコミ企業の整理・統合等々、あらゆる側面から言論統制は 周到に行なわれていた。
(11)読売新聞では第1次・第2次争議が起こる。朝日新聞は己れを罰し、国民と共に立つことを宣言した。毎日新聞は、戦争責任をもっと明確にし社内機構の刷新をと叫んだ。「この“民主化運動”の特徴は、それが単に企業内での戦犯追放とか、企業内の民主化とかに止らず、■新聞制作のイニシアチブを従業員の手に収め、■その従業員は民衆の側に常に立つべきこと、を明確に主張したことである」(新井直之『新聞戦後史』栗田出版会1972年8頁)。
(12)民主化運動が挫折に至る要因に関しては、新井直之「ジャーナリズム思想論一一ジャーナリズムとは“場”である一一」『総合ジャーナリズム研究』(社団法人東京社1969夏季号)56一57頁に、要を得て書かれている。
(13)「花森安治における“一銭五厘”の精神」『週刊朝日』1971年11月19日号21頁。
(l4)大熊信行『家庭論』(潮出版社1971)22頁
第2章
(1)岡義武『近衛文麿』(岩波新書1972)114頁。
(2)杉森久英「花森安治における青春と戦争」『中央公論』1978年6月号213頁。
(3)杉森は自分が翼賛会に入った動機を次のように説明する。「民間にくらべて、給与か格段にいいこと」(同上書212頁)。「大政翼賛会というものに対する多少の期待と好奇JL、というものが大きく働いていた」(同)。「激しく動く歴史の断面を現場で見ようという好奇心〔これは文学者が従軍報道員になったときと同質の好奇蹄しであるとも説明する一一筆者補〕」(同上書213頁)。そして、花森の動機もにかよったものであろうと推測している。
(4)大輪盛登『巷説出版会』(日本エディタースクール出版部1977)24頁。
(5)「彼は一人の宣伝マンとして、自分の技術とセンスと精魂を傾けて、立派なポスターを作製することに情熱を抱いていた」(杉森久英前掲書214頁)。
(6)丸山邦男「花森安治」『人物昭和史4マスコミの旗手』(筑摩書房1978)235−272頁を参考にした。
(7)「花森安治の思想と生活」『サンデー毎日』1954年7月25日号12頁。
(8)大輪盛登前掲書28頁。
(9)徳川夢声対談「問答有用花森安治」『週刊朝日』1953年5月10日号24頁。
(10)同上書同頁。
(l1)花森は、高校時代の暴れん坊振っを「中学校て漠範生になりすましとった自分自身に対するいやさ」の反動だったという。同上書29頁。
(12)(13)花森安治「人間の手について」『暮しの手帖』II一52号1978年2月106頁。
(14)『サンデー毎日』(前掲書)では、<衣裳>になっている。しかし、大輪盛登は<衣粧>だとし、それは衣裳と化粧を合わせた花森の造語だとする(前掲書)。これがあまっにも花森らしいので、大輪の意見を採用した。
(15)大輪盛登前掲書25二26頁。(16松本市毒「暮しの手帖論」『思想の科学』1965年2月号59頁。
(17)『サンデー毎日』前掲書10頁。
(18)大輪盛登前掲書29頁。
(19)同上書24頁。
(20)戦中の花森を知っている人の中には、戦後の彼の変身を見て「最近、昔の同僚が集まって会をやろうとか、いっしょに飯を食おうなんていう時も、彼は一度も出てきたことがない。とにかくあいつは利口な奴ですよ」(『サンデー毎日』前褐書10頁)と、苦言を呈する者もいる。
第3章
(1)花森安治『服飾の読本』衣裳研究所(ただし、松本市毒、前掲書59頁に引用されていたものを再引用した)。
(2)(3)「あとがき」『美しい暮しの手帖』1号96頁。
(4)茨木のり子「暮しめ手帖の発想と方法」江藤文夫・鶴見俊輔・山本明編r講座・コミユニケーション4大衆文化の創造』(研究社1973)41頁。
(5)このタイトルは、創刊号から26号までつづく。1955年の神武景気によっ、経済回復が急ピッチで、進むにつれ、民衆の生活も向上する。このような時代状況の中で『暮しの手帖』も変化していったのである。そのひとつの現われが、タイトルから“美しい”という形容詞をとることであった。
(6)花森安治「なんにもないあの頃」『暮しの手帖』100号7頁。
(7)花森安治「風俗の手帖」『美しい暮しの手帖』9号140頁。
(8)「編集者の手帖」『暮しの手帖』42号222頁。
(9)「もしも石油ストーブから火が出たら」『暮しの手帖』93号22一37頁。
(10)「あとがき」『暮しの手帖』96号250頁。(!D『暮しの手帖』は!00号をひとつの区切りと考え、l01号は『暮しの手帖』第2世紀の「1号」として発行された。これは、マンネリになることを恐れ、初心に帰ることを期して行なわれた(花森安治「編集者の手帖」r暮しの手帖』100号229頁)。この第2世紀1号から、誌面か変形A4判へと変わつ、年5回刊から隔月刊へと移行する。
(12)花森安治「見よぼくら一銭五厘の旗f暮しの手帖』・II−8号5頁。
(13)同上書18頁。
(14)同上書19頁。
第4章
(1)花森安治「編集者の手帖」『暮しの手帖』31号”7頁。
(2)(3)同上書同頁。
(4)花森安治「商品テスト入門」『暮しの手帖』100号86頁。
(5)花森安治「風の吹く町でt『暮しの手帖』56号79頁。
(6)花森安治「お茶でも入れて・4」『暮しの手帖』73号1∞頁。
(7)花森安治「商品テスト入門」前掲書87頁。
(8)(9)r暮しの手帖』編集部中上緑さん直話。(現在は退職されている)
(l0)田中義久『私生活主義批判』(筑摩書房1974)53頁。
(11)発行部数は、2号(創刊号販売の苦労話しを中心にしてその売り上げ部数が記載されている)、5号(1948年=5万部)、18号(1951年=10万部)、46号(1958年=73万部)、71号(1963年=80万部)の、「編集者の手帖」に記載されていた部数に準拠し、かつ現在は90万部と考えた。
(12)経済企面庁『52年度国民生活白書』80頁。
(13)花森安治「わが思索わが風土」『朝日新聞』1972年6月17日(タ刊)。

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