サラエボ・モスタルの近況

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦地だったサラエボとモスタル(旧ユーゴスラビア、現在ではボスニア・ヘルツェゴビナ)を2000年3月に訪問された田島光梨(ひかり)さんが写真を見せて下さいました。非常に貴重なものではないかと思いましたので、光梨さんのお許しを得てご紹介させていただきます。なお、写真に上書きされたコメントは光梨さんご自身によるものです。

光梨さんは、イタリアのスロベニア(旧ユーゴスラビア)国境近くに位置するトリエステ近郊ドイノ村にある 「United World College of Adriatic」に2年間の予定で留学されている17歳のお嬢さんです。両都市を訪問したのは、授業の一環で、参加者は、香港人、イタリア人、スロベニア人、ドイツ人と光梨さんを含めた5人の生徒で、そのほかに、モスタル出身の2人の上級生がスーパーバイザー(引率者)として同行したそうです。

説明文:(左上)モスタールの中で一番古い地区。今では人気のない土産物屋が並んでいるばかり。
UN(国連)関係でない"外国人"は相当まれらしく、終始凝視され続けていた・・・
(中央)一番の観光名所だった橋は内戦で半壊、さらに洪水があり、今はあとかたもない。

2003年7月22日追記・・・「遺物の記憶」というサイト(http://www.edit.ne.jp/~guro/kuroji/index.html )「モスタール」というページ(http://www.edit.ne.jp/~guro/kuroji/mostar.html )に、壊される前のこの橋の写真が載っていました。管理者の「くろじ」さん(ハンドルネームだそうです)が、そのページからこのページにリンクを張ってくださいました。どうもありがとうございました(2000年7月16日)。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とは


旧ユーゴスラビアの分裂は91年に、スロベニアとクロアチアが独立を宣言したのがきっかけとなり、内戦に発展しましたが、両国は92年に独立を達成しました。両国の独立直後に内戦はボスニア・ヘルツェゴビナに飛び火し、95年12月に和平協定が成立するまでに、10万人以上の死者と約344万人の難民・避難民を生む結果となりました。その後、紛争はユーゴスラビア内のコソボ自治区に移り、昨年のNATO軍駐留で一応の平静は保たれていますが、不安定な情勢は続いているようです。左の地図と上記の戦争の歴史については、「旧ユーゴスラビア」(http://www.geocities.com/Vienna/Opera/4668/MOD/Kosovo/Kosovo.html )から引用させていただきました。また、サラエボはボスニアの首都ですが、モスタルはサラエボとアドリア海の海岸の中間くらいに位置する町です。

説明文:サラエボで最初に出迎えるのは損壊したビル群。これは前、官公舎だったので最初に攻撃を受けた。


説明文:ちょうどこのペンキの位置に爆弾が落ちた。復興後に舗装されたあと、歴史を忘れないためにこういうサインが数カ所にある。これは青果市場で、当時多くの人が買い出しに来ていたため、犠牲者が多数出たという・・・

説明文:(左側)こっちがオーストリア(バロック)建築のエリア。向こうはオスマントルコ時代の古い街、下町。
(下側)メインストリートは、朝昼、平日、休日を問わず人がいっぱい。

説明文:空港周辺地域はこのように全壊状態

説明文:(上)トルコ式の伝統的家屋。男性の家、女性の家には回転箱以外何もつながりがない。あと敷き布団!

(下)雪まで積もっていた。赤いコートはホストのdzaraに貸してもらった

引用者注:赤いコートを着ているのが光梨さんです。

補足説明(この部分だけ7月29日に追記しました)・・・上の説明によく分からない部分がありましたので、光梨さんにメールでお伺いしました。光梨さんから、お忙しい中、お返事をいただくことができましたので、以下にそのメールの一部を引用させていただきます。

(質問1.男性の家、女性の家と分かれているのですか。 写真の正面と右手に二つの建物がありますが、このうちどちらかが男性の家で、もう 一方が女性の家なのでしょうか)
(光梨さんのお答え)
写真で見えている部分は、全て男性の家です。どうしてわかるかというと、これは入り口付近からとった写真で、道に面したところだからです。女性の家は、道からは全く見えない「大奥」にあります。ですから、この写真からは想像できないくらい中はひろい。面白いのは、写真上部に見えるテラスのようなところが、男性が行き交う人々を眺めながら瞑想したり、月を見ながら思索にふけるため専用の場所だったということでした。

(質問2)この2軒の家をつないでいる、回転箱というもののイメージが浮かばないのですが、簡単に分かりますでしょうか。日本に似たものがありますでしょうか。たとえば、回転 ドアとか)
(光梨さんのお答え)回転箱は、大体、人の上半身ぐらいの大きさで、人が行き交うためではなく、お互いに顔を合わせずに物を交換するため、箱だけが中で回る仕組みになっていました。また、「あと、敷布団!」という部分は単に、外国でベッドしか見ていない私に、トルコの刺繍がまばゆい敷布団が、とても新鮮に感じられたため書いてみただけです。

説明文:ホストファミリーの家に近い川のほとり。
このような"穴"がそこら中にあって、最初はぞっとしまくりだった。

モスタール市内にある旧前線(ボスニア側、つまりイスラム教徒側)
(説明は次の写真にあります)。

説明文:モスタール市内にある旧前線。左側(引用者注:ここでは上の写真)がボスニア、右(引用者注:この写真)がクロアチア側。

今でも左右の差は歴然としている。クロアチア側の方が経済力のせいか復興が断然はやくみえる。私達はボスニア側の人たちに連れられていたが、クロアチア側に入ることにあまりいい顔はしなかった。

(下)ファシストじみた落書きが。

説明文:内戦直前にできあがったホテルは穴だらけ、落書きだらけで荒廃の一途。













説明文:どこに行くか話し合っている4人。1週間もすると崩れかけた建物に囲まれていることも気にならなくなってくるのは不思議というか恐ろしい。

説明文:(左側)サラエボ郊外。中心街から離れるにしたがい復興の度合いは低くなる。特にひどいのはユダヤ人地区だった。

(右側)白く見えるのは墓地。街のところどころに広がる。名前のない墓が多い。

(2000年7月16日)

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