本名=瀬戸内晴美(せとうち・はるみ)
大正11年5月15日-令和3年11月9日
享年99歳(燁文心院大僧正寂聴大法尼)
岩手県二戸市浄法寺町御山久保33 天台寺(天台宗)
小説家・僧侶。徳島県生。東京女子大学卒。東京女子大学在学中に結婚。北京に滞在。昭和21年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり離婚。丹羽文雄主宰「文学者」同人になる。35年に『田村俊子』で田村俊子賞、38年『夏の終わり』で女流文学賞授賞。48年得度受戒し、京都嵯峨野に寂庵をむすぶ。平成18年文化勲章。ほかに『美は乱調にあり』『花に問え』『場所』など多数ある。

「出家とは、生きながら死ぬことよ」
と言った時、酔っていない目でしっかりと私の目を見返して、深くうなずいた。
本郷ハウスの裏玄関に入る小路の角にあった花屋は、今もそのまま狭い店に花々の彩りをあふれさせていた。
私は広い駐車場を通り、いつもそこから出入りしていた裏玄関から入った。
広いポーチの壁際に並んだレターボックスに近づき、その頃のように自分のボックスに手を触れてみた。 ここを引き払う時、譲って出た人の姓がそのままそこにあった。
自分のいつも使っていたエレベーターに乗ってみた。玄関でも、廊下でも、エレベーターでも誰一人にも出会わなかった。
十一階を通りすぎ、屋上まで出てみた。広い屋上からは、東京じゅうが見渡せた。
工事中の鉄骨だけのこの建物に、目を据えたまま、一気に屋上まで登りつめた時の自分の姿が見えてきた。
あの得度式に出席してくれたごく少い人々でさえ、姉をはじめ、ほとんどの人がすでに他界している。
私は屋上で風に四方から包みこまれながら、十一階の窓辺に押し寄せてきた深夜の風の号泣の声を思い浮べようとしていた。
剃髪し、墨染の衣をまとった自分の現在の姿が、まるで前世からそうであったような自然な気がするのが、思えば不思議でもあった。
塀にもたれ、私は目の前に浮んだ雪の多い富士に真向っていた。
後楽園の遊園地に、人を満載したジエットコースターが、夢の中のように、妙にゆっくりと廻っていた。
ふいに近づいてきた風が私の墨染の衣の袖をなぶり、掛けた赤い輪袈裟を吹き飛ばしそうにし た。
あわててそれを両手で押えこみながら、彼等のいる場所へ、いつになったら私はたどりつけるのだろうかと、風に訊いていた。
(場所)
昭和48年11月14日、51歳で今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺で出家、晴美から寂聴になった瀬戸内寂聴は小説家でもあり、天台宗の僧侶でもあった。東京女子大学在学中に結婚した夫の教え子と不倫の末に夫と三歳の長女を棄て京都へ出奔。自ら決断したいばらの道は作家への機縁となったのだが、娘を捨てたことは生涯の傷として後々まで残ったのだった。そのことを振り切るように一心不乱に自我に目覚める女性の情念を描きに描いてきたが、晩年は腰部圧迫骨折、胆のうがん手術など病院への入退院の繰り返しで、令和3年11月9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で遷化。
〈死ぬる日もひとりがよろし陽だけ照れ〉
寂聴は天台寺で昭和62年から十八年間にわたり住職を務め、荒廃した寺の復興に尽力、青空説法を開いては毎回多くの人たちを集めてきた。この寺の霊園に、生前から分骨を望んでいた寂聴の遺骨が納骨されたのは令和4年9月15日。見晴らしの良い山腹のひな壇状墓地の上段に「愛した 書いた 祈った 寂聴」と刻まれた瀬戸内寂聴の墓碑があった。上り段をはさんだ右側には寂聴とは浅からぬ因縁のあった井上光晴の墓も見える。わずかばかりの村落を見下ろしながら、私が上京して住んだ中野本町通のアパートの近く、土蔵のある家に寂聴が移り住んでいたということを後年になって知り、覗き見根性で見に行ったことなどふと思いだしていた。
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