第四巻『天の書』
本書は人のための書ではない。よって、おそらく普通の者には正しく解釈できないだろう。この書の真意がわかるようならば、あなたの穴学は完成しているはずである。この書は哲学書ではない。しいていうなら宗教と同等である。宗教には理屈はない。個人の直感から産出されるものである。だから、解説はない。論理ではないのだから。
第一章 芯
「主」
人は世の主である。しかし世は人のすべてでもある。
信じることで人は己の世界の神になる。しかし、神は見守る存在であり、助けてはくれない。
人を助けるのは人であり、人を欺くのも人である。悪魔もまた手をだせない存在である。
心霊は人を通してのみ存在する。むしろ人の心理が心霊そのものである。
「核」
世は己の周りに形成される。己が動けば世界も揺れる。核である存在は核である存在を消すことはできない。いくら周囲を変えても核は核をやめることはない。どこへ逃げたところでやはり同じ核なのである。
「夢」
夢は現実であり、現実は夢である。見えるものすべては期待というフィルタを通している。絶望というフィルタを通した時、悲劇は起こる。どちらを使うかは決めねばならない。
第二章 時
「未来」
時は無意味である。人は時の呪縛なく生まれた。しかし、自らその呪縛を持った。呪縛はとかねばならない。未来は過去であり、現在である。10年後も今と何もかわらない。10年前と今がかわってないように。溺れまいともがいているならもがき続ける。まったく変わってない。流れに身を任せていた者は今も流されている。世の芯たるものにとって時は無意味なのだ。目も前の現実景色は移り行くが、心の風景は変わりはしない。
「悔」
悔やむとは執着。執着は推進力にもなるが、ブレーキにもなる。悔いに執着することはブレーキである。時は無意味である。過去に、もしはない。その過去をもって現在がある。もし、失敗したと思うことがあるなら、その思いこそ失敗だ。今あるのはその過去のお陰である。もっといい現在などない。その過去がなければ別の苦しい現在があるだけだ。それは100万円得たが、職を失った世界かもしれない。何かを得れば何かを得られない。悔いること自体無意味である。結局、どんな過去になっても得られなかった何かについて後悔している現在があるに過ぎない。悔いること自体は進歩を生む。しかし、執着してはならない。執着は停滞であり、その結果、過去を否定すれば後退である。それこそ勿体無い。
「空」
宗教において空間と時間は同質である。心はどのような空間も時間も自在である。無数のパラレルワールドでさえも産出すことができる。肉体も空間を移動するには時間を使う。(残念ながら逆は発生しても意識ができない)意識が時間を軸にしているからだ。空はカラではない。空とは密度の高いものである。無も同じである。未分化ゆえに何者でもないもの。そして、何にでもなれるもの。
空そのものには時はない。変化のないものに時は意味がない。分化することで時が産まれる。分化は引き返せない。時も引き返せない。意識の中の時は引き返せる。空間と時間のどちらが基軸なのかの差である。
「苦」
およそ生きている限り苦は存在する。外からと内からの苦がある。内からの苦のほうが多い。しかし、それはほとんどが無用な苦である。内なる苦のないものは幸せである。内なる苦を減らすには悟らねばならね。悟りは個々異なる。一割で満足できる人は幸せである。八割で満足する人は不幸である。が八割を目標にする人は幸せである。無知は幸せであるが、知らされないことは不幸である。
「食」
通常人には快楽である。しかし、一部の人には苦痛である。食より興味のあることがあればことさらである。その時間が勿体無い。あるいは思考を中断する。あるいは食後には胃の具合が悪いとか。万人に共通の苦痛はあっても、快楽は存在しない。酒好きは酒嫌いがいるとは夢にも思わない。たばこ好きはたばこの香りだけでもいやだという人がいるとは考えない。皆、自分が好きなものは他人も好きだと考える。一般人ほど自分が特別だと考えない。自分が特別に恵まれていると思う人は凡人にはわからぬ高尚な趣味ということでむしろ好まれないものを好んでいることを自覚している。また一部の人間は特殊であること、他人と違うことに快楽を覚える。人間にとっての快楽とは決まっていない。