第三巻『終の書』
本書は生と死の意味を考えるための書であり、哲学の最終章にあたる。
第一章 生
「育つ」
生命に関して考えるために、先ずは我々の自我意識が確立してからを起点にしよう。原則的に子供は未熟である。この未熟とは決して技量的な問題ではない。単に最適化されていないということである。よく、子供には無限の可能性があるというが、半分あたっているが半分間違っている。大人に比べればより多くの可能性がある。しかし、可能性が多いということは最適化されていない、未分化であるということである。例えば、卵子は何にでもでりうるが、心臓のようなポンプ機能もなければ、赤血球のように酸素を運ぶこともできない。が、将来いづれにでもなりうる能力を持っている。だからといって必ずなれるわけではないが。しかし、人の卵子は人の範囲から逸脱することはない。魚の卵は魚以外には進化しない。このことは多くの可能性はあっても、無限の可能性でないことを意味する。
さて、可能性はあっても、それだけでは何もできないことがわかった。何かになるにはそれ以外の可能性を切り捨てねばならない。100円でおにぎりでもパンでも買えるが、おにぎりを買ったら、パンは買えない。つまり、育つということは特化することである。なぜ、特化するのか。自然界は常に変化している。その変化に追従するには環境に適合していく必要がある。我々の環境は決して生命にやさしくはない。ゆえに効率よく適合せねばならない。効率を求めるために、可能性を捨てる。これが成長である。
「育てる」
自然界は常に変化している。これが現世の理ならば、我々も常に変化し続けねばならない。しかし、ゴムも伸びる限界があるし、傷みもする。さらに我々は多くの可能性を捨てて、特化することで成長した。よって、いつかは自然が個々の狭くなった許容範囲を超える日が来る。その日を迎えて我々は滅びるのか。生命は存続することを最優先にする。(このことを理解するにはより多くのことを知らねばならない。)個々の生命の成長を直線に例えると、自然界は波打つ曲線である。直線が曲線に追従するには、一本では無理がある。しかし、細かい直線を折り曲げていけば大きなずれがなく追従できる。生命は世代をつなぐことでこれを実現した。子供は多くの可能性を持つ。親の直線と角度の違う直線が描ける。しかも、未分化であるからとりうる角度の幅は広い。その幅の中で生まれた時点の自然界により的確に近づく角度を選ぶことができる。
さて、ここで大事なのは、始点である。肉体は遺伝子によって、親の到達点(自然界と多少のずれはあるが、よく適合している位置にあるはずである)を引き継ぐことが可能になった。ゼロリセットではないのである。誰もが生まれた時点で資源を持っているのである。
人間やいくらかの動物はさらに知識の遺伝を必要とする。人以外の動物は経験を通して知識を受け継ぐ。人は他に、書物からでも知識を受け継ぐことが可能である。
人間以外に見られる経験による知識の継承は、個の進化を目的とする。富士山に登れなければエベレストには登れないだろう。先人の到達したレベルまで追従できるものだけが、次の高みに到達できる。つまり、先人の終着点を起点とすることでより進化できるわけである。これは遺伝子の進化に通じるものがある。
書物(口伝でもよいが)による知識の継承では、誰かが富士山に登れれば別の誰かがエベレストには登れる。つまり、集団としての進化である。ただ、経験を伴わない知識の継承は能力不足の生命を保護することにもなる。虎の威を借る狐すら出現するだろう。集団の生命力は強化されても個々の生命を弱体化する。このことは人類の将来を暗示するものだが、今はまだそこまで議論を広げないでおこう。
生命が存続するために世代をつなぎ、世代を育てる必要がある。人間の子供は生物としては弱い。未熟である。これは未適合であるからだ。裏を返せば、多くの可能性を秘めているわけである。環境変化に対し強い(適合範囲が広い)ともいえる。その分、適合するまでは誰かが面倒を見なければ生存できない。
「生きる」
さて、生命は継承することで存続しており、よりよく適合するために未熟で生まれ、育てられながら成長(特化)することまでわかったと思う。死を議論する前に生きていることの意味についてより深く考えよう。生命は生き続けねばならない。この意味を理解するには比較対象となる死を議論しなければならないので先ずは真理として受け止める。空気は常に周りにあればその存在に意味を持たせることはできない。海にいる生物は海の意味を知ることはない。それは海の無い世界が周りに無いからである。
存続だけなら石でもよいわけであるが、生命はなぜ石ではないのか?ここに生命の意味がある。石との違いは何か。それは増えることと、移動できることである。この2つはほぼ同意義である。過密を避けるために移動できなばならないし、過疎を避けながら移動するには増えねばならない。色々な環境に拡散すれば、生命はどこかで存続する可能性が増える。存続のために増え広がることを戦略として選んだのである。生物は一種では進化しない。人は鳥がいたから空を飛べた。そして、宇宙までいけた。先人がいてこそ、次の段階へ進める。人間の次の生物はさらに遠く(空間なのか時間なのかはわからないが)へ行くことができるだろう。石には進化はない。(宇宙規模では元素も進化することが知られている。重金属は星が何度も誕生と消滅を繰り返して生まれたことが知られている。)が、生命は真似ることで急速に進化した。この進化がより速く増え広がることを可能にした。
図らずも、このことは旧約聖書にも見ることができる。エデンを追われた人に神が増え広がることを命ずる。話は少し脱線するが、エデンは母の胎内とも家庭とも符号する。守られていた環境を追われ厳しい世界に飛び出すことを人は課せられている。常に人は、楽園から外界へ何度も飛び出しながら成長するものなのである。
このことは死を考える上で重要なことである。すべては現在の延長にあり、人生は繰り返しなのである。世界は繰り返しながら広がっていくのである。
第二章 死
「老い」
近年物理学の世界では物質やエネルギーは紐の振動により形成されるというひも理論が盛んであるが、人生もひもに例えることができる。
人生のひもは、幼少期には親に養ってもらい、老いては子に養ってもらうという、ひも(生活)理論である。子が親に養ってもらうのは未分化であるからだが、では老人が子に養ってもらうのはなぜか。いくら、大人が変化する自然についていけなくなったとしても、急激に衰える必要はあるまい。これを理解するには、老いのない世界を想像すればよい。現代は元気な老人が増えた。養ってもらう必要のない老人。その結果が少子化である。養ってもらう必要がなければ、わざわざ子供を育てなくてもよいわけである。これは、生命の戦略としてはまずいことである。増え広がるためには、子供を育てることに必然性が必要である。老いることで、世代交代が加速されることになる。
また、自然界においてある生物は別の生物の食物でもある。狩る側は狩られる者の中で弱いものを狙う。効率よく食物を得るには当然である。大人と子供どちらが弱いかといえば子供である。強い大人しかいなければ狙われるのはいつも子供である。これでは、生命の引継ぎが進みにくい。弱い子供を守るためには、弱い大人を作ればよい。老いることは弱くなることである。つまりは弱い子供を守るために弱い大人になるのである。柔軟性のなくなった大人は次の世代のために犠牲になる道を選んだのである。
「死」
老いたものがいつまでも残っていることは若者の負担を増やすことになる。老いが進んだものは消えることで負担を減らすことができる。少子化の現代では考えにくいが、本来人口は増えるものである。増えるから老いた者は消えることができる。肉体は消えても進化は継承される。進化の継承が生きることである。生命はリレーに似ている。進化というバトンをつないで走っていく。はて、バトンを渡し終えたものはどこに行くのか。それは次の舞台へと移動する。人生は繰り返しながら世界を広げていく作業である。母の胎内にいた赤子がこの世に出てくる。家庭にいた子供は世間に出ていく。世間に出た若者は家庭を作る。家庭を作るということは家族が増え、親戚が増えることであり己を取り巻く集団が巨大化することになる。我々は常に己の周りの集団の規模を増やし続けているのである。
ここで宇宙を考えることで我々の未来を考えよう。宇宙はビッグバンによって広がりつづけると信じているであろう。しかし、生物は増え広がる傾向がある。生命が宇宙の一部であるならその傾向は宇宙にもあるはずである。マクロにある真理はミクロにもある。ミクロにある真理はマクロにもある。ビッグバンという1回だけの誕生しか考えないのは不自然である。常に生まれ続けていると考えてみよう。天文学者は星が遠ざかっているから一点から生じたと考えているが、加速し続けるロケットを順次打ち上げたとする。それぞれのロケットの間隔は広がり続ける。これを拡散しているといえるのだろうか。つまり、宇宙の中心から次々と星が生まれて広がっていると考えられるわけである。ここで、加速し続けられるのか、あるいは後発が追い越すことはないのかという点が問題である。これは産まれる場所の密度か高い、つまり重力が広がるエネルギーを打ち消しているのである。拡散すれば重力作用は小さくなる。広がるエネルギーのほうが強くなる。よって加速し続けるわけである。が、現在では銀河の衝突は広く知られている。星々は決して一定の方向や速度で移動しているわけではないのである。
しかし、宇宙は全体的には広がっている。星は生まれ広がりやがて観測の限界を超えて見えなくなる。これを人生に当てると、生まれ広がり死ぬことになる。消滅は見えなくなくなるだけで存在がなくなるわけではない。しかし、観測できない存在はないに等しいわけであるから、死なのである。死は次の世界の誕生ではなく現在の延長である。ただ、観測者から見えなくなるだけで相手からは見えているかもしれない。他人には見えているかもしれない。
「誕生」
さて、生と死を探求した結果、誕生の意味にたどり着ける。われわれが走っている道には前を走る者も後ろを追う者もいる。どんどん人類が増えて地球上にいっぱいになったら、もう増えないのだろうか。死と誕生は均衡するのだろうか。おそらくは無関係に増え続ける。通常の生物はその環境が受け入れられるキャパシティを超えて生存できない。総倒れになるからだ。人を取り巻く環境が人類を受け入れられるキャパシティはどのくらいか。おそらく無限である。われわれはすでに宇宙へいくことができるのである。(肉体の弱体化で地球へ戻ることはできないだろうが)
地上が一杯になると、あふれた人は宇宙へいくだろう。最初は100人かもしれない。しばらくして、千人。次が1万人。このように次々と地球を飛び出す。宇宙から眺めると、まさに人類が宇宙へ生まれ出ているように見えよう。では我々はどこからこの世界に生まれるのか。あなたが、東京で生まれ、やがてニューヨークで生活し、ロンドンで老後を送るとしよう。わたしはニューヨークで様子を見ている。すると、私の暮らす空間に突然あなたがやってきて、やがて忽然と消える。ニューヨークという私の現世に突然あらわれ、やがてそこから消える。私からみればあなたの前世は東京での生活であり、来世はロンドンでの生活である。しかし、あなたにしてみればどれも現実であり、現世のできごとである。このように観測する側と観測される側の認識は一致しないものである。私から見たあなたの死は必ずしもあなたにとっての死ではなく、それは誕生についても言える。わたしにとってあなたがいなくなってもあなたはあなたの世界で存続せねばならない。あなたにとって自分自身の死はないに等しい。つまり、意識がある限り生き続けているのである。それも大きな変化もなく。
ということは、死んで人生がリセットされるということはない。すべては現在の延長であり、苦労から逃げた先にはやはり苦労が待っているのである。さて、ここで、自我の意識がなくなるのが死だとしてみよう。自我の意識がないのだから確かにそこで何もかもが止まる。しかし、あなたの周りをよく見てみよう。何か止まっている物があるだろうか。すべてのものは時間とともに変化する。(時間が一定方向に進むものとして)
つまり、時間が進む限りは止まるものはない。時間とともにあなたの意識も存続しつづけることになるのだ。
「時間」
時間の概念は難しい。それはわれわれが時間を一方向にしか理解できないからだ。時間が一定で進むというのは近代の発想である。現代の物理学では時間は一定ではない。しかし、それでも逆戻りはしない。もっとも、これはお約束のようなものである。時間は前後しながら飛び飛びに発生していると考えてもなんら不都合はない。時間軸にそってプロットしたときに我々が認識しているような形態になってくれればよいのである。極端な話、老人から赤ん坊に退化しているのかもしれないのである。もっとも誰もそれを証明できないし、科学的には意味がない。時間がランダムに進んだり、止まったりしているとすると、時間が止まることは死ではない。時間が進み続け、肉体が存在していないということはあるのだろうか。それは、先ほどの例え話を思い出せばよい。東京でも、ロンドンでもあなたは生きていた。しかし、ニューヨークにいた私には死んだとしか思えない状況である。死体がなくても、荷物が残っていれば死んだと思ってもしかたがないはずである。さて、ここまで話せばもうわかるであろう。我々が死体と思っているのは実は残された荷物と考えれば、本人はどこかで生きていることになる。そう、意識はどこかで生きていても不思議はないのである。以前とそう変わらない肉体を持っていても不都合もない。もしかすると死んだという意識もないかもしれない。つまり、われわれはいつも知らぬ間に周囲に誕生と死別を繰り返しているのかもしれない。
(残念ながらこれから先の話はさらに別の知識が必要であるため、いったんここで打ち切り、最終章まで待ってもらおう)
我々は一日を24時間で換算している。そして、万人みな同じ速度で時間を経過していると考える。しかし、それは近代の考え方だ。我々には肉体的時間と精神的時間が存在する。肉体的時間も同一ではないのだが、先ずは精神的時間を考えよう。我々が意識的に精神活動できる時間は同じではない。個々に睡眠時間が異なる。8時間寝る人と4時間しか寝ない人では一日に4時間の差が生じている。歳によっても違う。老人は若者に比べて動作が緩慢になる。他人と比べずとも自分の若い時と比べてもよい。普通なら子供のころのほうがよく動いていたはずだ。もっとも大人は安全性だの周囲の目だの余計なことを考えるから、子供よりも時間当たり多くの精神活動をしてはいる。しかし、それでも記憶速度や、適合能力など精神速度は大人よりもかなり速いのである。さらに個人も同様に個々に精神速度は異なる。では、どうして共通の時間認識ができるのか。それは速い速度は認識できないから合うのである。若者が一時間でこなすことにも老人は一日かかるだろう。両者が一日一緒にいたとしよう。両者は互いに一日一緒にいた実感を持つだろう。しかし、この一日は両者とも同じ長さではない。もし、日記を書けば若者のほうがはるかに長い文章になるだろう。これは、若者が老人より多くの仕事をこなしたことを意味する。老人の日記には常に若者が現れるかもしれないが、若者の日記には老人のことはほんの一部であろう。老人は若者の時間の一部だけを認識しているのだ。これが精神の速度である。若いころ同時に色々なことができたが、年とともにひとつのことしかできなったと感じるのはそういうことなのだ。これを知っていれば、老人をせかすこともないだろう。若者はその大部分の時間を別のことに当てながら老人に接すればよいのだ。平行的にいくつものことを行えば相手が遅いなどと愚痴らずにすむ。我々が24人横にならんでいても老人には隣の一人しか見えないようのものなのだ。逆に歳をとったらひとつのことに集中する。そして順番にこなしていけば相手を極度に待たせるようなこともあるまい。
第三章 心
「神」
神がいるのか、いないのか。どちらも正しい。我々は直接微生物を見ることはできない。見えないならば、いないも同然である。しかも、単に見えるだけでも同じことである。しかし、インフルエンザウィルスともなれば感染する。症状がでるから、いることになる。
そう、直接的にであろうが間接的にであろうが影響があれば存在しているとみなす必要がある。さて、神はどうか。我々に何らかの影響を与えているであろうか。信じる者には行動の規範となったり、心のよりどころになったりする。結果、人の行動に影響が発生する。これは存在していることと同じである。一方、神を意識すらしていない者にとっては影響は与えない。つまりいないのと同じである。
これはあなたの隣人についても同じである。何の影響を及ぼさない隣人は観測されないわけであるからいないのと同じである。しかし、死んでしまった隣人であってもあなたが意識をしていればあなたの行動を左右するわけだから存在していることになる。
「霊」
よく霊に取り憑かれるというが、霊を信じてなければ取り憑かれないかといえばそうではない。世界は他人との綱引きである。精神力の強い人のほうへ事象は引っ張れる。霊に意思があるとすれば、あなたと霊との意思の強さが物事を決めることになる。霊を見ることも触ることもできない人にとっては神同様いないも同然ではないかと思うだろう。しかし、神と霊の違いは霊のもととなる存在をあなたが知っていることである。平将門がいたことをあなたは知っている。であるなら、将門の存在があなたに少なからず影響を与えていることになる。その時点で霊が存在するための条件は満たされている。後はあなたがどのくらい強い意思で存在を信じるかあるいは信じないかによる。
あなたの友達に霊が憑いた場合はどうか。それは、あなたがそう思ったことで引き起こされたものかもしれない。あなたが見ている世界の中心はあなたであり、あなたの意思を中心に動いている。私の世界は無論私を中心に動いている。あなたが憑依したと強く信じたことであなたの世界に見える友達は綱引きに負けた。意識の綱引きに負けた者には他者の意識が実体化して降りかかってくる。ただ、神と違うのは神は信じない人には形が想像できないが、霊は信じない人にも形が想像できてしまう。それはかつて実体だったもしくは(狐つきなど)現在の実体と同類なものであるのだから。
「仏」
仏と神の違いは何かと言えば、ある集団の神は別の集団の悪魔に成りうるが仏は誰に対しても仏であるということだ。これは神は自然であり、人にとって恵みももたらすが被害ももたらす。しかし、仏は自然を司るものではない。よって、助けもしなければ脅威にもならない。居るだけなのである。「ほっとけ」状態なのだ。人を救うのは菩薩である。釈迦は仏になったが、キリストは神にはなっていない。これはしごく当然なのである。ヒンズー教には神がいる。そして、その下に仏がいる。これもしごく当然な構造である。後発の宗教ほど先発のものを飲み込むことで成長する。キリスト教やイスラム教は攻めの宗教であり、仏教は守りの宗教である。キリスト教やイスラム教を支えるものは移住者である。仏教は土着のものを対象にする。移動して生活するものにとって移動先に宗教は都合が悪い。土着のものにとって怖いのは侵略者よりも内紛である。キリスト教で右の頬を打たれたら・・・のくだりは暴力を禁止するものではなく、自分たちは敵ではないということを示す行為である。頬を打つというのは命に差し障りがない。もし、右目を失ってもおとなしくしているだろうか。一方仏教の慈悲は仲間内だからできることである。もし、侵略者に慈悲の心で接していたら今頃中国もインドもなかっただろう。かれらとて侵略者とは容赦なく戦ったのである。過ちを悟るということは仲間になるということであり、仲間には慈悲の心で接しなさいというのである。力での抑圧は内紛を生むからである。
「宗教」
世界がなぜ、平和にならないのか。この原因は一神教に顕著にみることができる。かれらの世界は神とその仲間である精霊と人、それに対抗する悪魔とその仲間でできている。要は敵と味方しかいないのである。これが悲劇のもとである。思い通りにならない存在は敵になるわけである。
では多神教はどうかというと、これも教義しだいである。
海には海の掟があり、山には山の掟がある。これが教義の統一を妨げている。環境が違えば生きる術も変わる。教義の統一は非効率である。統一宗教はできないのか。教義に関しては無理である。しかし、その基礎においては統一とみなせる宗教は可能である。それは、それぞれの土地の宗教を容認できるだけの広い度量を持っているものでなければならない。原始宗教にはそのような可能性を持ったものもあるが、宗教も進化する。進化するとは柔軟性を犠牲にする行為である。柔軟性を失った宗教には、もはや他の宗教を抱擁するだけの度量はなくなっている。では柔軟な宗教とは何かといえば未分化の宗教である。成熟していない宗教にこそ希望がある。成熟してないということは決して稚拙なことではない。守りに入っていないことである。集団を維持するためではなく、集団を取り込むための宗教である。仏教においてもキリスト教においても発生時には異端だった。それゆえ、拡大する必要があった。そのために多くの集団を飲み込んでいった。そのときにはとても寛容だった。しかし、いまや成熟したために他を排除し始めた。
さて、世界宗教がいかなるものかを想像するのはやさしい。これは何の制約もないものでなければならない。制約があることは排除されるものがでてくるからだ。では制約がなければ戦争はなくなるかといえば、戦争をおこしても制裁はできない。そのような制約もないわけである。すべてを許容できるということは何でもありということである。よって、毒にも薬のもならない存在である。そのようなものを誰が信じよう。つまりは統一宗教などというものは存在する価値がないのである。
ある集団の利益は他の集団の不利益によって成り立つ。つまり、集団が利益のみを追求するならば争いはなくならないわけである。社会主義がすたれ、資本主義が残ったのは社会主義が我慢社会であったからだ。我慢するということは不平不満が溜まり、爆発する。これが崩壊につながる。資本主義は誰かの失敗は誰かの成功をもたらす。その結果、バランスがとれ崩壊を免れている。
「サンタクロース」
無宗教だという人がいるが、そのわりにはちゃかりクリスマスや初詣をおこなっていたり、厄年を気にしたりしている。しかし、人前ではサンタクロースなんていないと言い放つ。サンタクロースが実在するかしないか。ほぼ実在する。では何人か。非常に多く存在する。何千万か何億人か。それはサンタクロースは人ではないからだ。親が子供想い、隣人をいたわるその心こそがサンタクロースの精神であり、サンタクロースの精神を持つものがすべてその時サンタクロースであるからだ。つまり、われわれは実在というものを物質的に捕らえているが、精神的な存在もまた実在なのである。まさに神や霊がそうであるように。鳥は一羽で飛べるようになったのではない、飛びたいという多くの同胞と飛べるようになったものたちへのあこがれがあって数多くの鳥が生まれた。人もまた同じように真似ながら集団的進化をしてきた。しかし、われわれのおそらく唯一の欠点であろうところは努力を嫌うことである。楽をしようとする。できないからできるようにするのではなく、多くの者はできないのは誰かのせいにしようとする。そして、誰かに助けてもらおうとする。それが無償であれば好都合だ。かくして人はもろもろのことに依存する。つまりは、ひも(生活)理論である。依存は悪いことではない。しかし、それは代償があってのこと。間接的にでも相互依存関係になくてはならない。が、現代の人間関系の多くは不平等な依存関係によって成り立つ。人は生まれながらにしていろいろなハンデを背負っている。身体的、精神的、金銭的、家族的なものなど千差万別である。みんなが何らかのハンデを持つのだから、ことさら肉体的なハンデを持つものだけを優遇するなどというのはいささか行き過ぎである。差別のない世界というのはいたわりあう世界ではなく能力に応じた参加をしてもらう社会であろう。能力に無関係なことで差をつけることが差別なのである。例えば、肌が白いことが役に立つ場所なら白い肌であることが優遇されるが、意味がないのであれば肌の色で区別されることは差別といえよう。
「知恵」
生物学の世界では、人間は弱者ゆえに知恵を持ったとされる。その知恵を広げることで、進化してきた。であるならば、ますます弱者になっているはずである。
さて、自然界ではどうか。やはり弱者が強者と渡り合うために、多くの知恵がある。蟻は集団化し、鳥は空へと移動した。己が体を変化させるだけでなく、生活スタイルの変化によって生き延びてきた。これは人間も同様である。ただ、人は生活スタイルの変化とともに生活環境も変化させた。これは生活スタイルのみを変化させた生物より一段高みへの進化をしたことを意味する。よって、人はさらに弱者になったといえる。人はこれからも知恵を探求する。であるなら、人類の体は極端に弱体化する。つまり、ドームのようなものの中に隔離されるか、宇宙服のようなものを身にまとうか、いづれにしても、人工的な環境の中でのみ生きる存在になるだろう。そして、誰も手をつけることのなくなった自然には人間に代わる存在が誕生することになろう。いってみればこれは、現在の人間が霊のような存在になるということだ。悲しいかな人は楽をしたい生き物である。楽を好むということは己を周囲に適合させることを避け、周囲を己に適合させることになるのだ。やがてその知恵によって人類の進化は終焉を迎えることになる。だが、嘆くことはない。知恵は世代や種を超えて継承される。人類の後の生物がその知恵を活用し続けてくれるだろう。
「恋」
恋はままならないというが、人生は他人との綱引きであるなら、意思が強ければぶ男でもモテモテになるのだろうか。残念ながら意思の強さだけでは他人を支配できない。それは意思の差ではない。どんなに強い磁石でも同じ極はくっつかない。しかし、極が違えば簡単にくっつく。意思にも方向がある。方向が適切でなければ逆効果でさえある。しかし、その方向は万人共通ではない。同じところに光をあてるのに同じ角度を向けても無理である。なにせ立ち位置がみな違うのだから。容姿を磨くもの、プレゼントを用意するのも、知識を身につけるもの、あるいは腕力を鍛えるもの、みな個人ごとに方向が異なるのである。他人との相互関係には位置が重要ファクタである。これは残念ながら目的ごとに生まれ持った個体差があるということだ。おかげで、全員が同じ目標を狙わないのであるが。ギャップはその内容を理解し、それを埋めるための労力を惜しまなければ克服できるだろう。だが、好きな相手と暮らすことが生物的人生の目的ではない。よって、そのために使える労力も限られるのである。ましてや、価値観が異なれば、恋の成就の重要度も変わってくるのである。おそらく、どの人間でも絶対好きになれないということはない。ただし、容姿を変えねばならないかもしれない、財力を蓄えねばならないかもしれない。これまでは自分が相手に近づくことだけを見てきたが、相手もまた変化する。相手を自分に近づければギャップは小さくなる。恋に敗れるパターンの多くは相手を変えることに力を使う場合であろう。自分は変わらず、相手の近くに誘い込むことはうまくいけば簡単だが、大抵は失敗するのである。ホストやホステスたちは、やきもちという劇薬を使って、誘い込む。あるいは現実に対する不満を表面化させ、より居心地のいい空間を演出する。しかし、それは大抵一時の夢でしかない。引き込んだ相手にはいつもご馳走を与えねば逃げていくからだ。綱引きは綱を緩めれば相手が離れてしまうのと同じである。どちらが歩み寄るにしろ、気を緩めれば離れてしまう。結婚は墓場というが、それは綱を引き続けねばならないからだ。つまりは制約が生じるのである。引く力に差があれば一方は天国で他方が地獄になるのかもしれない。結婚が幸せというのは確かに変である。結婚によって何かをしてもらえるとか、何かを得たとかいうことが幸せなのである。それは物質とは限らない。心の平穏なのかもしれない。あるいは存在意義なのかもしれない。恋と愛の差は何かを得ることとと何かを与える(その結果何かを得るかもしれないが)ことである。恋は長続きしない。それは相手から得られるものは限られているからだ。しかし、愛は現在与えられるものは有限でも、未来には増えているのである。もらえるもの(与えられるものではない)は現状以上にはならないが、与えるものは増やそうとするからだ。できることなら互いに与え合おう。そうすることで互いに与えれれるものが増幅する。一方的に与え続けるだけではやがて疲弊してしまうから。
「心」
古代人々は万物に心があると信じていた。現代人は高等な生物には心があると思っている。では本当に物に心がないのか。子供たちは人形やぬいぐるみと話をする。アニメのキャラクタに涙する。大人は映画やドラマの主人公と共に一喜一憂する。どれも造られた存在である。役者は生きている。しかし、我々が知るのは彼らの本当の心ではない。さて、人は他人の心を正確に知ることができるだろうか。我々は虹を見て七色に認識する。しかし、国によっては五色にしか見えない者もいる。我々は誰一人として同じものを見ていないし、同じ認識もしていない。ならば相手の心などどんなに言葉を尽くしても知ることはできない。相手の心と思っているものはすべて自分の心に映った幻影にしかすぎない。ならば、あなたが物の気持ちを感じたらそれはその物の心と言えないだろうか。あなたの世界での中心はあなたである。が、あなたはあなた以外のものを知ることはできない。だから、あなたが思ったことが唯一の現実であり、真実であるのだ。だから、あなたが、万物に心を感じることができればそれがそのものの心である。もし、どうしても物自体に心を感じることができなければそのものを造った者の心を感じればよい。それを造った人、考えた人、運んだ人、見つけた人。あなたの身の回りのほとんどの物は多くの人の手がかかわっている。彼らのほとんどは個々の物には気を配ってないにしても少しは心がこもっているだろう。どんな形であれ心を感じればそれがそのものの心であると解釈することができる。
第四章 光
「観」
我々は光でもって物を見ているが、見ているものが本当のものかは定かではない。片目を少しだけあけて物を見てみる。建物や道など直線が多いから、比較的距離感はあるはずだ。次に両目を普通にあけて同じところを見る。片目のときより近くに感じるはずである。我々の眼は中心のものをクローズアップする。だから意識の中心は近くに見えるはずなのである。これは光が曲がったわけではない。我々の頭が曲げているのだ。見るだけならよいが、本質を観ようとするとこの湾曲は邪魔になる。100人いれば皆意識が違う。だから、見え方も100通りあるわけだ。主観的世界論が終の書でなければならないわけである。さて、どうしたら正しく物事を観ることができるか。すべてを表す言葉はない。同様にすべてを見ることもできない。だから今見えているものを受け入れるのである。それがあなたの世界なのだ。隣の人生を眺めてもあなたの人生は見えない。人は比較でしか物を捕らえることができない。今日と明日、明日と明後日、同じものを見ると変化しているはずだ。何が変化したかを知ればそれらが変化しない時があることもわかる。変化する項目を捕まえれば、構成要素が明らかになる。変化しない構成要素は重要ではない。それはその世界では不変であったからだ。異なる点を拾うことで真実が見えてくるはずである。大切なのは同じことではない。異なることを知ることなのだ。そうすれば、他人と自分の違いもわかり、やがては自分が見えてくるのである。
「穴」
我々は眼や耳など小さな穴を通して世界を見ている。口も鼻も。触覚なども皮膚表面のたくさんの小さな穴に例えることができる。我々の脳は洞窟の暗闇の中でそれらの穴から入ってくる情報だけを頼りに観察している。そして推測する。これぞ穴学である。部屋の中を鍵穴から覗いたようなもので、すべてを見渡すことなどできないし、ドアが違えば見える景色も異なる。だから穴学は個人の哲学である。この個人というのが重要である。個人が異なる穴学を持っていることを認識し、認めることである。万人共通の真理を目指す哲学は個々の真理の個人における重要度の違いを無視している。だから総論賛成、各論反対というどこかの政治みたいなものになる。わたしの目指す穴学はここの見ている景色が違うのだから世界観も違って当然であり、それが個性とわりきることで個々の精神的進化を進めるものなのだ。そして、穴学は日々変化する。昨日の穴学は昨日までのあなたの環境にマッチしていた。しかし、今日の穴学は今日という環境にマッチしているのである。時間的に不変である真理を導こうとする哲学とは根本的に異なる。時間の経過ととともに変化点は増える。だから穴学の要因も増えるから変化するのだ。そして個人の人生とともにあるから決まった始点もなければ終点もないのだ。永遠に完結することのない学問であり、最初から完結している学問であるともいえる。つまり、解がないことが解であるからだ。統一宗教にもこういった要素が必要なはずである。一人一人が己の宗教を持ち極め続けることだけを目指すもの。つまり、教義などまったく存在しないものこそが真の統一性であろう。だから、毒にも薬にもならない。だから穴学の本質も役に立たない。ただ、他人の穴学を知ることによって自分の穴学を成長させることはできる。そのようにして人真似ではないオリジナルを構築することが穴学の目的なのだ。そうあなたの五感という穴から見える世界を知る学問なのだ。
「道標」
ここでの光は希望ではない。人生の道標となる光である。重要なのは、どう生きるかである。人によってはどう死ぬかかもしれない。これは同じである。死は生の延長線であるからだ。現世の生の先に死(後)の線がつながっているのであるから。
われわれは自分のごく近い周りしか見えない。しかし、先人の多くの知識を継承しているため、頭でっかちになった。でかい頭を暗闇で壁にこすりつけながら進んでいる。痛みと苦痛に耐え、つっかえてしまう恐怖と戦いながら。しかし、各々がそれぞれの道標となる光を見ることができたならば、そこに希望が産まれる。そう、希望とは与えられものではなく、内より沸くものである。希望を引き出す鍵が光であり、光は意識である。部屋の中の蛍光灯の光に何かを見出すことは難しいが、トンネルの出口の光には何か感じるものがあるだろう。周囲は望んでも変わらない。(変える方法はあるが、それには強い意志が必要である。)しかし、見方は比較的容易に変えることができる。己が影に怯えることも、友達にすることも思うがままである。我々はそれが自分にとっての光とは気づいていない。しかし、光と気づいた時に現在に希望が持てるのである。希望は未来に対して持つのではない。未来が明るいのではなく、明るい未来を持つことが可能な現在に希望があり、道があるのだ。
「世」
いよいよ、今一度生前と死後を含め、人生を再度考える時がきた。人間という集団はこの世に継承し続ける。しかし、個人はそのつなぎ役だけなのだろうか。現世だけを考えればそうであろう。では、前世や来世というのはないのだろうか。われわれはこの世界しか見ることはできない。しかし、この世界の多くの事象を知っている。もし我々が継承のつなぎでしかないのなら、生物は何を目的に生き続けるのか。いつかは滅びる世界であればまったく意味をなさない。この世界が山頂ではなく山腹ならどうだろう。山頂も麓もあってわれわれはその間のどこかにいる。同じ場所かもしれないし、個々に違う場所かもしれない。それは全体を見渡さなければわからない。さて、途中にいるならば、前も後もあるはずである。これはリレーに似ている。バトンをつなぐのは短い距離だがその前後の膨大な人生があってそのうちの一瞬しかバトンを握ってはいないのだ。この世の前後はどこにあるのか。おそらくわれわれのそばにある。しかし、どのようなものかは個人で異なろう。たくさんの道のなかで我々はたまたま近くにいただけなのだ。その道が離れるときが別離である。それは距離なのか次元なのか、より広い時空の違いなのかもしれない。これを理解するのは時空を移動するしかない。もっとも我々は多くの時空を横切りながら生きてはいる。しかし残念なことにわれわれは一本の線としかとらえられない。それは蟻が木の枝を進む時、木全体を見渡せないのと同じだ。木から落ちた蟻はどこにいるのか。同じ木の戻るかもしれない。そうすれば仲間に会うことができる。九死に一生を得た感がある。また、運よく隣の木に登れるかもしれない。しかし、仲間にはもう会えない。かれは死んだに等しい存在になったのだ。我々にとって人の死は肉体的死滅ではなく、存在の消滅である。
人生は山登りに似ている。我々は世という壁を何枚も貫く旅をしてる。例えば今5合目の山小屋にいるとしよう。山小屋には見ず知らずのハイカーがたくさんいる。そこで彼らと意気投合して一夜を過ごす。これが現世だ。夜が明ければ散り散りになる。われわれも6合目のある山小屋を目指す。6合目の山小屋に着いたとき再びおおくのハイカーに囲まれる。これが来世だ。このように多くの山小屋を渡り歩き山頂に到達する。では、われわれは現世で何をしているのか。山小屋で楽しく語らっていればよいのか。現世は冬山登山である。多くの人が力を合わせても山頂にたどりつけるのはほんの一部の人間である。多くのものが縁の下の力持ちで終わる。しかし、かれらがいなければその誰も登頂はおろか、一合上にすら登れないのである。人間という種の登山が現世であり、われわれは多くの世を渡り歩きながらその手助けをしているのだ。