第二巻『人の書』
この書は他者との関わりについて客観的に理解するための書である。主観的な理解は終の書で行う。本書に記載されている内容は個人で考えると当てはまらない場合もでてくる。それは、客観的観察はマイノリティではなく、マジョリティにスポットが当たりやすいからである。が、マジョリティを知らずにマイノリティを理解することはできない。人類の傾向を知って、己の道を探すべきなのである。
この書には章という単位はない。なぜなら、全体が1つの塊であり、一部だけを抜きだすことは誤解を生じやすいからだ。それだけ、客観的見解というのは個々人の主観とのずれが大きいものなのである。
「学」
現在ある程度生きてきた人間は少なくとも誰かに望まれて生きている。親とは限らない。産婦人科の医師か看護士かもしれない。人は一人では育つことができない。誰かが望んで面倒を見ねばならない。己が生きることを望んで生まれるわけはない。わざわざ苦労するために生まれるなどナンセンスだ。生きることは苦痛である。だから、別の意思が働かねば生きてる意味がない。しかし、いつまでも同じ人間が望んでいるわけではない。勉学もしかりである。自分のために勉学するわけではない。それでは、何も生み出されはしない。あなたの得た知識や技術を誰かが必要としているのである。お国のために勉学をした時代は、是非はともかくそれなりの意欲を生んだ。しかし、今は誰のために生き、学ぶのかわからない時代である。少なくとも自分自身のためではない。自分のためだけに学ぶくらいならその分寝ていたほうがいいくらいだ。利用できない知識を得てなんとするのだろう。本当に生きていくためだけに必要な知識は1%とはないだろう。極端な話になるが、算数は買い物でだまされないために必要というが、生きるためだけならいらない。盗めばよいのだから。つまりは相手の権利を守るために算数が必要なのである。物々交換ではお互いのものの価値感に差があってなかなか納得のいく交換はできない。しかし、お金という共通の価値に変換することで納得しやすくなる。互いに損をしないための仕組みである。もし、あなたが漁師で魚を不平等な条件で買われたとしよう。あなたは、それで納得できたし、相手も納得したから損はないではないかと思う。しかし、漁師はあなただけだろうか。あなたには漁師仲間もいるはずである。あなたが正当な取引をしなかったために、彼らも同じ条件での取引を強いられる。あなたが、計算できなかったばかりに、周りにも迷惑をかけるのだ。あなたが、個人で生きているのなら、計算などできなくてもかまわないかもしれない。周囲のみんなもできないなら、あなたもできなくてかまわないかもしれない。しかし、あなただけができないというのは周りに迷惑をかけることになるのである。周囲と価値観があわないということは周囲にとってとても迷惑なことなのだ。
「性別と戦略」
働きありはメスである。男女に差はないというが、どう見ても女性のほうが集団生活に向いている。これは生物的戦略によるものである。男性は競うことで生物的優劣を決めてきた。競うというのは腕力とは限らない。女性の気を引ければ何でもよいわけである。であるから、当然生活力は低い。男は狩りをするから生活力があるというのは間違いである。狩猟というのはとても生産性が低い。それは人類の歴史と人口増加率から明白である。共同作業に向かないから、狩猟をしている。集団の狩りがある。これは共同作業と思うと誤りである。組織作業である。共同作業は参加者が平等でなければならない。能力に応じて助け合って生産を行う。組織作業は指示する者と指示される者に分かれる。指示される者は服従が参加条件である。つまりある目的を達成するのは効率がよいが、別の目的にはまったく役に立たない。生活という複合的な目的のためには組織集団は適していないのである。女性の生物的戦略は子供を残すことである。これは味方を増やす戦略である。であるから、子供が母親の味方であるのは当然なのだ。この戦略において移動は不利である。移動していては仲間が散り散りになるからである。であるから、女性が家庭を中心に生活しようとするのはしごく当然のことなのだ。これは差別ではない。生物的戦略傾向なのだ。もっとも個体差があるから家庭的男性がいても狩猟的女性がいてもそれは個体としては問題はないわけである。むしろこのようなバリエーションも生物的戦略では必要なことである。
女性が長電話をしたりよく喋るのは味方を増やそうとする戦略にはとても有効に働く。哺乳動物の多くに母系社会が多いのも当然なのだ。女性が子育てするのは労働ではなく、仲間を増やす行為として捕らえるとわかりやすい。労働として子育てするのではなく、戦略として子育てするのである。男性は労働としての子育てはしても戦略としての子育てはしない。唯一の例外が跡継ぎである。跡継ぎの制度は男性が戦略として子育てを行う仕組みだった。これは生物として非常に特異なことである。しかし、これによって父親と子供の関係が強化されていた。現代では望めないことだが、もし家庭安定を望むなら、男性は子育てできなくてもしかたがないとあきらめるか、子育てに何らかの戦略的目的をもつべきなのである。どちらにするかは各家庭で決めればよいこと。もっともここまで極端でなくてもバランスを保ってくれればよい。
「生きがい」
よく、子供が生きがいなどという親がいるが、誰かのために生きているというのは間違いではない。しかし、問題はその子を失った場合(死別とは限らない)、生きがいも失うことである。物(者も同じ)に生きがいをもつことは問題があるわけである。たどりつくことのないところに目標を持たねばならない。だどりつけないというのはやたら手の届かない遠いところということではない。自分が一歩進めば目標も一歩遠ざかればたどりつくことはない。つまり、自分が進歩するとともに目標も進歩してくれればよいわけである。企業などの売り上げ目標が前年比の何倍というのはまさに自分の成長とともに目標も成長する典型である。人生の目標は単純に数値化できるものではない。であるから、健康でいつづけるとか家庭円満でありつづけるとかごく身近なものであっても、意識しなければ崩れてしまうような事柄でもよいのである。目標で重要なのは何かを新しく得ることよりも幸せと感じていることがあればそれを維持することである。無論それでは進歩がない。現状維持をベースにしてそこからプラスがあればとても幸せなことである。現状維持できなかったから不幸というものではない。かなりの労力なくして現状維持はないのだから。
他人は敵なのか味方なのか。単純には敵である。それは何もないときである。味方というのは利害が一致しなければならない。共通の敵がいるとか、共同利益があるとか。
心の問題は終の書にまわす。ここではまだ、精神と肉体の区別がついていないからだ。人の書はあくまで集団生活の中における個人を客観的にみるだけに留める。そして、主観的な見解は物事を客観的に見ることができて、初めて踏み込める分野である。また、客観的な価値観が確立していないと危険すぎる内容でもある。
「物質と精神」
健康と時間と金に悩まされなければいかに幸せかと思うだろう。悩まないとは自由に使えるということではない。およそ不自由しないということでもない。不自由を感じないということだ。だれにも制約はある。しかし、困窮しさえしなければ思い悩むこともあるまい。健康はいかに望んでも自由にはならない。時間は意外と思い込みで規制していることが多い。本当に間に合わなければならないことなのか。その期限は本当に重要なのか。時間と引き換えに失うものがどのくらいなものなのか。それはあなたがしなければ駄目なことなのか。意外と自分の意地だったり、名誉のためだったりしないだろうか。本当に重要な時間というのは極めて少ない。しかも、見方をかえると気にするほどでないことも多い。川を渡るのに橋に気付かず、いきなり泳ごうとすれば時間がかかるだろう。すこし、遠回りでも橋を渡れば余裕だったりする。なまじ泳げたりすると他の方法を考えないものだ。金の苦労はほとんど借金である。借金がなく食に困るようなら現代では誰かが手を差し伸べてくれる。国かもしれぬし、個人かもしれぬ。しかし、借金のために困っているようでは助けてくれないだろう。(身内はともかく。)借金の原因をとやかく言うつもりはないが、その借金は重要なものだったろうか。おだてられて買い物をした、友達を失いたくなくて連帯保証人になった、自慢したくて高価なものを買った、誰かの気を引くため、まあ理由はいろいろあろう。問題は理由ではない。その借金の結果あなたは何を手に入れたか、あるいは失ったかである。すくなくとも悩んでる人は損失のほうが大きかったのだろう。手持ちのものを失っただけですんだ人はまだよいほうだろう。いづれにしても何かを得たい、あるいは守りたいとしたら代償が必要なことは多い。しかし代償が自分の背丈より大きくなると悲劇である。なぜそれほどまでするのか。なにか欲望があったのではないだろうか。それは物質的なものではない。精神的欲望である。物質のための代償というのはさして大きくはない。しかし、精神的な欲望を満足させるために物質を用いるのは非常に効率が悪い。そのことを知らねば思わぬ損害を背負うことになる。物質で精神を埋めようとしてもそれも非効率である。マリーアントワネットは物質には恵まれたが、精神的に恵まれていただろうか。おそらく、精神的には疲弊しきっていただろう。精神を物質に変換した結果である。しかし、それでは精神的満足や物質的満足は得られない。われわれは一人で生きているわけではない。それこそが効率のよい変換システムを作っている。物質を必要としている人はいる。物質を持っている人が、それを分け与える。かれはとても感謝するだろう。すると精神的満足が返ってくる。物と精神的満足度を直接変換するわけではない。これは循環である。物の流れと逆に精神の流れが発生しているのである。しかし、これだけでは変換効率はあまりちがわない。実は逆流している精神エネルギーは物に対してではない。人は物とともに思いやりという精神エネルギーを与えているのである。精神エネルギーというのは増幅する。わらしべ長者という昔話がある。物々交換によって長者になる物語であるが、もし、彼が物だけを交換していたら長者にはなれなかったか、長者になっても恨まれていたろう。実は物ではなく思いやりという精神エネルギーによって長者になったのである。精神エネルギーは人に与えると増幅して返ってくるのである。だから、憎悪や欲望といったものも増幅して返ってきてしてしまう。とくに欲望は意識してなくても物についていく危険性がある。
生まれながらにして物質的にめぐまれてない人がある。その結果、精神的にも恵まれなくなる。しかし、これはしかたのないことである。もっともこれは生まれながらの環境というよりも、親からよからぬエネルギーを与えられているところが大きい。うまれながらにして人は平等というのは嘘である。これは終の書を読めばわかるだろう。人の書の目的は他人とのかかわり方が重要である。精神的な飢えを満足させるのは精神的なエネルギーを増幅してもらうしかないことを知っていることが重要なのである。
「共生」
人との関わり以外にも、自然との関わりもある。自然に手を加えるべきではないという人と自然は人の手で安定させなければならないという人がいる。森は人が手を加えることで健やかになったり、棚田によって治水されていたりもする。しかし、山を崩し鉄砲水や土砂災害に怯えている事実もある。植物と昆虫は共生している。もし、人間が自然に手を加えるなら、それはやはり共生でなければならない。自然破壊の多くは価値のないものを排除してしまう行為にある。共生とは邪魔物は排除するが無害なものは残さねばならない。必要なものも不要なものも根こそぎ奪ってはならないのである。では棚田は悪であろうか。確かに、山の斜面全体を根こそぎ削っている。もし、それが十年や二十年でできたものなら危険だろう。しかし、何百年とかけてゆっくり開拓されたものであり、何度も失敗しながら現在の形になったのだろう。これは長い時をかけて自然と対話しながら作り上げたものといえる。互いに譲り合いながら調和させたのであろう。それは破壊ではなく新しい秩序の構築だ。そのために多くの犠牲を払ったに違いない。しかし、今の破壊は犠牲を望まない。その代償を払うのがいやで、さらに自然をいじる。だから、代償が大きくなる。いつか抵抗しきれずに莫大な犠牲を支払わされる。古代の人たちは自然を傷つければ代償を支払わされることを熟知していた。そしてそれに逆らわなかった。現代人は犠牲を自分が払うのがいやだから、後の者に払わせようとする。ダムを造って業者は儲け、そのつけは住民が払うのである。自分で犠牲を払わないから犠牲がどんなに大きくてもかまわないのである。現代人は人類という種族のためではなく、個人のために生きている。これを愚かというか知恵を呼ぶかは個人の意識の問題である。

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