第一巻『教の書』
本書は教育の意味を考えるための書であり、哲学の入門を目的とする。人が人たるには教育が必要である。であるから、本書が初めの書である。
第一章 教育
「義務教育」
義務教育の不要論があるが、そもそも義務教育とは帰属する集団で生活するための、共通思想の植え付けである。だから、集団が変われば教えも異なる。そのままでは話のよりどころがないため、ここでは日本の義務教育を基本にしよう。
生活するための共通思想であるであるから、必ずしも真実を教えるとは限らない。その集団に都合のよいことを教えるのはしかたがない。だから、中国が日本のことを誇張して教えたとしても、それはしかたがないことである。日本だって外国のことを正しく教えているわけではない。日本がいわゆる発展途上国から不当に(不平等ということ)搾取しているなどとは口が裂けても教えるわけがない。それは集団のエゴとして当然である。そのようなものが義務教育だと知っていれば怖いことはないが、国家が真実を教えるものだと思い込んでいるならばとてつもなく怖いことである。
では、真実は誰が教えるのか。誰も教えてはくれない。でも、真実を見わける力は育ててくれる。人は絶対的なものを知ることはできない。しかし、2つの事柄の違いを見つけることはできる。これは、ひとつの事柄について複数の意見を聞きその違いから真実と思われることを選び出すことである。義務教育は1つの見方を教えてくれる。しいていえば家庭がまた別の見方を教えてくれる。なぜ、しいてなのかというと放棄している家庭が多いからである。あとは経験である。これらを総合して真実を見つけるのである。
義務教育の役割は他にもある。生活するための共通思想を教わるということは単語に関して共通の認識が持てることである。そのことから、適切な単語を使えばわずかな語で多くの認識を共有できるのである。現代の役割としてはこちらのほうに重点がおかれる。現代は情報社会である。少ない語で多くのことを伝えねばならない。そのための基礎知識こそが教育の優先事項になった。が、このことは不幸なことである。知識を得ることが優先されたため、知識は(建前として)真実であらねば都合が悪い。そして、コミュニケーションのための知識は必ずしも生活のための知識ではないということだ。もはや後戻りはできない。生活スタイルが違うし、生活の基盤も千差万別である。共通の生活基盤がないのであるから生活の知識を教えることなどできない。もし、本気でゆとり教育という生活の知識を教えるのであれば、生活の基盤から揃える必要があるのだ。
「家庭教育」
家庭内での教育は生活基盤が共通である。では、生活の知識を教えられるであろうか。ほぼ不可能である。現代の日本では生活スタイルの基盤は家庭ではなく、個人なのである。もはやあきらめるしかないのか。実は、家庭の単位が小さくなったことで、小回りが利くのである。小回りが利きすぎて、集団としてのルールがなくてもいいくらいなのだ。人はある集団に属した時、ルールを学ぶ。そのルールが不便であっても、そこに初めて属したものにとってはごく当たり前のルールなのである。つまり、明確な家庭の生活スタイルを決めれば生活の知識を教えることができる。ではなぜ、そんなことができないのか。それは今のルールが(正確には親の古い時代のルールだが)将来通用するのか、あるいは子供たちの集団で通用するのかわからないからだ。しかも、学校が家庭のルールを認めていないことにも一端がある。
家族旅行するのに学校が休めない。家庭の手伝いで宿題ができないとなれば怒られる。必要なことをするのに犠牲が伴うが、その犠牲は学校ではなく、家庭の側に求める。家庭は生き方を教える。学校はコミュニケーションの知識を教える。どちらがその子にとって重要か。親のエゴであればともかく、親も子供のためにしていることであれば優遇されてしかるべきである。なぜなら、学校がその子の生活を保障してくれるわけもないのだから。
家庭環境は千差万別である。ゆえに、家庭ごとの教育方針も千差万別である。このことを知って教育すべきである。ルールは不変ではない。ましてや同一でもない。ルールのすり合わせは大人の仕事である。トラブルがあれば親同士がルールのすり合わせをし、解決は子供たち自身が行うべきである。でなければ親の羽の下から抜け出すことができないだろう。
「いじめ」
いじめはなくならない。なぜなら本能的に快感が得られる可能性が高いからだ。では、いじめは誰の責任か。必然である以上、責任を問うてもしかたがない。問題はいじめではない。いじめの放置である。放置の責任は誰にあるのか。これは一も二もなく親の責任である。(ここでは保護者をあえて親と呼ぶ。なぜならかれらには保護ではなく養育の責任があるからだ。)相談のできない家庭、あるいは役にたたない家庭を築いた親の責任である。なぜ、相談できないのか。それは頼りにならないからである。昔の親なら相手の家であろうが学校であろうが乗り込んでいった。自分の子が悪くても先ずは子供の側にいてくれた。双方の意見を聞いてからお前が悪いといわれれば、信頼もできよう。さらに明確なルールが存在した。やられたら、やりかえせという。今の学校はやり返しは悪いことであり、親も褒めない。結局、大人のルールで泣き寝入りになるくらいなら、相談しないで泣き寝入りの方が被害が軽いのである。子供も馬鹿ではない。その集団でしばらく生活するとなればいかに軽い被害でやり過ごすかを考えるのである。親が出たほうが被害が軽いと考えれば相談する。子供がいじめにあえば、会社を休んででも乗り込む気迫は欲しいものである。ただ、親が手を出さないのは、昔からのルールだ。それは、当事者同士が互いに相手の存在を同等に認めるような解決の手助けをしているに過ぎない。いじめの本質は相手を格下にみることから始まる。相手を同等に認知すれば喧嘩であって、いじめではない。喧嘩は理由がある(覚悟がいる)。いじめは快楽(八つ当たり)である。最近は喧嘩といじめの区別がない。それはいじめにしたほうが学校や相手のせいにできるからである。さらに現代は子供たちも賢くなっており、喧嘩の手段としていじめを行うことがある。タイマンであればしかけるほうにも覚悟がいる。しかし、集団でいじめの手法を使えば被害が少ない上、首謀者もわかりにくい。さらに集団であることから数は正義であると思い込むことができる。
いじめ手法の喧嘩の厄介な点は相手にも言い分があることだ。いわゆる天誅である。これは手を貸す側にも大義名分を与える。昔であれば無理やりタイマン勝負をさせたであろうが、現在では怪我をさせでもしたら問題がこじれる。が、親が解決を急いではいけない。時間がかかろうが子供たちのルールで解決させるのがよい。(若干の助言は必要であろうが)
第二章 学ぶ
「教わる」
教えることと教わることは反対ではない。教えることは伝えることである。しかし、教わることは伝えてもらうことではない。より能動的な行為である。学ぼうとする意思が必要である。教えると教わるは対である。教える人と教わる人はどちらが欠けても成立しないのである。が、これは以前のこと。口伝の時代のことである。文字ができてからは、必ずしも対ではなくなった。教える人は情報を提供する人であり、教わる人は情報を入手しようとする人である。これはインターネット社会でますます顕著になった。教える人は情報を公開しておけば、いつかその情報を利用する人が現れるであろう。もし、誰も利用しなくても、公開したことで、教えるという行為は全うしたことになる。仮想の相手に教えたわけである。教わるほうは仮想の相手に教わるのである。もっともこちらの仮想はどこかに実在する(あるいはした)のだが。このように教わるとは自分から情報を引き込んでこねばならない。教育とは教え育てるなのか、教わり育つものなのか。教育はあくまで教え育てるという押し付けであることは確かだろう。では、教わる意思はどこから発生するのか。教わりたいという意思は興味であり、意欲である。なんらかの満足感である。褒められるから、知ることができるから、利用したいからなど色々な思惑はあるだろう。しかし、本人の意思なくして教わるということはないのだ。聞く耳を持たぬものに説法は伝わらない。教わる意思のないものに教えることはできない。(脅して詰め込むことはできようが)
知識を詰め込むより、教わりたいと思う心を育てることが大事である。
「教える」
教えることは伝えることであるが、それだけではない。伝えるためには整理せねばならない。すると、思い込みから間違った解釈をしていたことに気づかされることもある。教えることで教わることもあるのだ。相手が理解しないことで矛盾点が見えることがある。もっともそれ以上に教わることがある。それは伝える難しさだ。教える側と教わる側には知識差がある。それぞれのレベルで話をしたらまるで中国語と日本語で話しているようにほとんど伝わらないだろう。自分が当たり前と思っていた前提が実は相手には当然でなかったりする。教える行為を通して師は弟子の人生を伝えてもらっているのである。ここにギブアンドテイクが成り立ってるのである。もっともそれは等価とはいかないだろうが。つまり、教える側にも教わる心がなければいけないのである。では、インターネットはどうか。仮想の弟子は何も教えてはくれない。それは己の影でしかないからだ。つまり、教える側にとって得るものがない。フィードバックのない情報というのはとても怖い。それは、偏った経験からしか生まれていないからだ。残念ながら本書も然りである。だが、すでに読者はそのことを知って読んでいる。よって、思う存分偏った経験を披露することができるのである。
「気付き」
必要がなくて、何かを気付くことなどはない。では、その必然性はどこからもたらされたか。それは大人の思惑である。無理やり追い込むことでやらざるを得なくしているだけである。本人は気付いたつもりでも、大人の手の上にいるだけである。子供は何が善で何が悪かなど知らない。しいて言えば、自分にとって都合のよいことが善で都合のわるいことが悪である。家庭の道徳が共通であれば善と悪も似てくる。家庭で善悪を教わるからである。だから学校で教えなくてすむ。むしろ共通の善悪が家庭の善悪と矛盾しかねない。しかし、現代は家庭の善悪は必ずしも集団に対して配慮されているとはいいがたい。それは核家族によって集団(家庭)の利益と個人の利益が矛盾しなくなったからだ。だからこそ、集団の利益が個人の不利益をもたらすことがあることを学ばねばならない。しかし、そのままでは集団の利益を優先する発想はでない。これは誰かが何らかの形で教えているのである。基本ルールのないところに気付きはありえない。基本ルールは個々の事象の対応方法ではなく、考え方である。思考原則がそろっていれば誰かが気付くことで広まる。無から気付くことは困難である。普通、気付くとは真似る対象を選択しているだけのことである。
第三章 考える
「考える力」
考えるというのは実に難しい。多くの人の行為は考えたつもりになっているだけである。それは知識の引き出しの中のあったものを出しているだけに過ぎない。だが、多くの場面ではそれで十分である。考えるということはまったく新しい知識をつむぐことではなく、断片的な知識を組みあわせる積み木のような作業である。積み木には元になる素材も必要だ。より多くの素材とその組み合わせ方の見本を手に入れるために我々は学ぶのである。学んだことや方法を元に新しいことを推測する。これが考えることなのだ。検証することは考えることではない。確認なのだ。考えることは真理を見極めることではない。可能性を探ることだ。考えたことが真理かどうかは検証すればよいのだ。考えることが苦手なのは、真実を求めるからだ。100の可能性を考えて、その1つに真理があればよいではないか。四角の上に三角を乗せることはたやすい。しかし、三角の上に四角は乗らない。しかし、乗らないと思い込んでないだろうか。乗せる方法はある。支えをつけるとか釣るとか。知識という足かせの中で生きるのは楽である。しかし、周囲が変われば知識も変えねばならない。そのときに必要となるのが、(知識という足かせを越える)考える力だ。
「才能」
天才とは才能だろうか。周囲が天才だと認めることを望むなら運がいるだろう。しかし、個々の環境に適応して生きていることは十分天才的である。才能がないということはない。生かしていない、または選択ミスはあろう。もし、適切な能力を選ぶ力があることが天才というならそれは才能かもしれない。走るべきところで歩いたら遅れるだろう。泳ぐところで浮かんでたらどこかへ流されてしまうだろう。泳げない人は服で浮き袋を作ってもよいかもしれないし、流木を拾ってもよいだろう。方法は色々ある。しかし、適切な方法を選べるかどうかは問題である。泳げないのに泳ごうとするのは無謀である。泳げないことを知っていれば別の方法を考える。つまり、自分の能力や知識の限界を知っていることが重要なのだ。これに考える力が加われば才能は開花しよう。
第四章 悟る
「割り切り」
悟るとは真実を知ることではない。自己解決することである。自己解決であるから、個人によって悟りは違う。であるから、誰も悟りを教えることはできない。悟りは導くものである。これは知識の伝承ではない。経験の伝承なのだ。であるから、悟りの結論を議論することは誤誘導になりかねない。多くの宗教書が結論ではなく、教祖の行動や比喩に終始するのは経験の伝承のためである。人は幸いにも他人の経験を推測することができる。単なる知識ではなく、経験を知識として伝承できることが精神的進化を助ける。悟りに終点はない。ある悟りはある疑問を導く。また、悟ったつもりになっても、視界が広がれば不十分であることを知る。しかし、日々悟ることは重要である。それが、人生のよりどころとなるからだ。悟りと割り切りは似ている。しかし、差はある。それは悟りは完結しているのに対し、割り切りは未完結である。割り切りとは不都合な部分は存在しないものとしている。悟りは不都合があってもそれを不都合とわかった上での理解である。物理学は100%の説明を求める。しかし、できないから50%を説明する。これは割り切りである。残りの50%は無視するのである。悟りは10%を網羅するだけでもかまわない。残り90%はそこから派生したものであると見なす。10%を核として残りが存在する。だから、その10%がどこの部分かによって悟りは異なる。しかも、あえて残りの90%を無理に含めようとしない。それは残りが自分の生活に重要ではないからだ。個々の生活には100%の真理など必要ないのである。
「真理」
この世界に真理があるのか。答えは決まってない。すべてを表せることは何も伝えることができない。何の制約もないということは何も表せないからだ。では真理などないかといえば、そんなことはない。表現できないだけなのだ。必要な真理は人の数だけあるといってよい。個人に必要な真理は全体の一部なのであるから。そして、一部であるから、表現することができるのだ。100人の真理からあなたはあなた自身に必要な真理を決めればよい。あなたを取り巻く環境は変わる。わたしの環境とは異なる。だから優先される真理は異なる。すべての真理を語ることはできない。そして必要な真理は個人で見出さねばならない。1つの素材として「終の書」を読むのもよいだろう。