お金について

我々は何らかの利他的行為をし、その見返りとしてお金を得ます。しかし、利他的行為の相手と自分が信頼しあっている関係ならば、その場で精算しなくても相手が覚えていて次の機会に何かの行為を返してくれることが期待できます。あるいは、相手が自分と関係の深い人であれば、感謝の気持ちだけで十分であってお金はいらないということもあります。親密な人どうしの間ではお金と関係なく利他的行為のやりとりができるということです。つまり親密な少人数の集団で暮らしていればお金は必要ないのかもしれません。

ところが、我々は大きくて複雑社会に暮らしていて、全然知らない人から利他的行為を受けなければなりません。そのためには全然知らない人に信頼してもらう必要があります。全然知らない人との間に信頼関係を築くことができれば、その人は全然知らない人ではなくなってお金を介さずに利他的行為を受けることができるようになります。しかし、複雑な社会で暮らすために、関係する人間全てとの間でいちいち信頼関係を築くのは時間もかかるし大変です。そこでお金が登場します。お金というのは利他的行為引換券なわけです。あなたの行為の証明としてこの券を渡しますから、あなたは別の人のところへ持っていって利他的行為を受けて下さい、ということです。

そこでは、お互いを信頼するのではなく利他的行為引換券としてのお金を信頼するわけです。その信頼とは「他の人もお金を信頼するだろう」という意味です。すると、お金を通じて一つの社会が想定されることになります。そのお金を信頼する人々からなる社会です。お金への信頼は社会への信頼です。ところで、お金のいらない小さな社会では、人々は信頼で結ばれていることになりますが、それはある意味では束縛であり面倒だともいえます。一方、お金を介した関係というのは、お金さえあれば信頼は問われません。お互いに全然知らない人のままで済みます。そこには匿名であることの「自由」があるように見えます。それは大きな社会のもたらす価値だと思われているのではないでしょうか。

お金を信頼する社会においては、お金を持っていれば、信頼を問われることなく利他的行為を受けることができます。信頼というのは一種の束縛ですから、お金は束縛からの解放をもたらします。また、利他的行為を受けられるということは何かが思い通りになることを意味します。「束縛からの解放」も「思い通り」も自由という価値に結び付いているように見えます。

利他的行為によってお金をもらうということは、感謝や信頼による無償の関係を拒否することだともいえます。お金によって他人から利他的行為を受ける場合も、感謝や信頼による無償の関係を拒否されていることになります。それがお金のもたらす匿名性です。「他人の中に記憶として存在するとともに、他人の外に肉体として存在すること」がだとすると、お金がもたらす匿名の関係においては生は不十分なものとなります。我々は誰でもない人間でいることには耐えられません。

我々の生のうち「他人の中に記憶として存在する」という部分は、他人との関係において愛情や信頼によって満足されます。愛情や信頼は特定の個人としての記憶によって支えられるので、匿名性をもたらすお金では得られないのです。一方、お金の適度なやりとりは利他的行為の交換ですから社会の安定につながります。「他人の外に肉体として存在すること」という部分は、お金を介した利他的行為によっても満足されますが、お金に偏った価値観は個人にとっても社会にとっても良いことではないと考えられます。それは特定の個人としての自分や他人を軽視することだからです。