村上春樹の文章論

村上春樹はデビュー作「風の歌を聴け」の冒頭にこう書いている。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

なぜ完璧な文章は存在しないのだろうか。「完璧な絶望が存在しないのと同じように」だから、文章と絶望には共通点があるということになる。そこで、まず絶望について考えてみる。絶望は「可能性が実現されないという認識」だと考えると、絶望の裏側には必ず可能性の認識がある。「完璧な絶望」とは「可能性を認識していながら、それが全く実現されないであろうという認識」である。いくら絶望しようと可能性の認識だけはあるわけだ。

逆に「可能性が実現される」場合でも、最終的な実現に至るまでの過渡的な状態では、可能性は可能性のまま保たれている。「実現」ということを「可能性の現実化の過程全体」ととらえれば、「可能性の認識」というのは「実現」の一部だということになる。「完璧な絶望」においても、「可能性の認識」だけはあるのだから「実現」の一部が存在する。つまり、完璧な絶望というものは存在しえないということになる。完璧な(最終的な)実現にこだわることが絶望を生むわけだが、完璧に絶望することはできないのだ。

次に、文章とは何か。「風の歌を聴け」を20行ほど読み進むと、「文章を書くことは...自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」と書いてある。「療養」というのは絶望からの脱出である。絶望からの脱出とは「可能性が実現されるという認識」に至ることである。しかし、そういう認識に至ったとしても、可能性が実現されたわけではなく「可能性の認識」だけがあるという点は絶望した状態と変わっていない。可能性の実現が文章だけでできるわけではない、ということだ。絶望も文章も頭の中だけで起こっていることだから、完璧ではありえないのである。

村上春樹は最初のエッセイ集「村上朝日堂」の「文章の書き方」という節で、「どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ」と書いている。女の子を口説くとか、喧嘩をするとか、寿司屋で何を食べるかとか、ひととおりそういうことをやってみて、文章を書く必要もないと思えれば、それはそれでハッピーだ、と。自己療養の必要がないからハッピー、ということだろう。

文章を書くというのは「書く」だけのことだが、書くだけのことであるがゆえに想像力と方向性を必要とする。我々がどのように生きるかというのも、想像力と方向性の問題である。だから文章を書くことは生きることとだいたい同じなのだろう。つまり、頭で考えただけの文章を書いてもしょうがないということでもある。

「文章の書き方」には、「文章を書くコツは書き過ぎないことだ」とも書かれている。これは僕の考えた芸術の価値に関する公式『美=暗黙の情報量/意識される情報量』にも一致する。「風の歌を聴け」という小説は、書かれている情報量が少なく暗示されている情報が多いので、この公式で言うところの価値が高いといえるのだ。

 → 村上春樹の文章論 2