お金なんかはちょっとでいいのだ

今の日本は不景気だ。日本経済は「不景気→収入が減る→支出を減らす→更に不景気」というデフレ・スパイラルに突入しているようだが、20世紀後半の日本経済は(長期的に見れば)ずっと拡大していた。「好景気→収入が増える→支出を増やす→更に好景気」というサイクルだから、いわばインフレ・スパイラルだったわけだ。その時代に何に支出を増やしたかというと、三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ)やら3C(カー、クーラー、カラーテレビ)やらを買ったのだった。(僕が物心ついた頃、家には冷蔵庫があったが、冷凍室は無かった。洗濯機には脱水機の代わりにローラーが付いていた。白黒テレビにはガチャガチャと回すチャンネルが付いていた。パブリカという車があったが、クーラーは無かった。)

我々はいろんなモノやサービスを効率よく大量生産するための仕事をして、大量生産されたモノやサービスを買ってきた。しかし、ステレオを買い、ビデオを買い、パソコンを買ったらもう切実に欲しいモノはない。それに、生産の効率化が進んだおかげで最近の製品は収入に対して昔より安い。つまり、もうお金の使い道が無くなったということだ。日本経済の供給能力に対して需要が少ないのである。それがデフレ・スパイラルの根本的な原因だ。つまり「支出が減る→不景気→収入が減る→もっと支出を減らす」という順序である。

我々は「モノや情報やサービスを大量生産するシステム」から収入を得て、そのシステムに対して支出していた。そういう我々の生活は「みんなが欲しがるものを効率良く作る仕事をして、みんなと同じものを手に入れる」という生活である。そういう生活をしていると「自分って何?」という疑問が生まれる。それは、自分について考えられる「生活のゆとり」が生まれたということであって、「みんなと同じような生活をするようになったから、自分というものがぼやけてしまった」というわけではない。我々のような一般庶民が自分について考えるようになったのは、多分有史以来初めてのことなのではないだろうか。昔、「自分」について考えることができたのは貴族だけだろう。

何にせよ、収入が減るのは嬉しいことではない。収入が減ったらあまりお金を使えなくなる。今までお金を払って他人にやってもらっていたことを、自分で何とかする必要がある。そうなると、自分について考えるための生活のゆとりがなくなるような気がする。しかし、「自分で何とかする」というのは、最初は面倒だが慣れると面白いし、自分が本当に欲しいものは自分で創り出すしかないのである。創り出すとまではいかなくても、探し出すくらいの手間は必要だ。そういう作業に集中していると、金銭的なゆとりは無くても「自分とは何か」についての答えに近づくこともできる。

いろんなことを自分で何とかするようになると、頭で考えたとおりにはいかないということが身にしみてわかる。そういう時代になれば、身体で考えるということの価値が共有される。僕が思うに、それは落ち着いた時代になるという意味だから、すごくいいことである。経済が縮小すると貧乏な時代に逆戻りするような気がするが、別に冷蔵庫やテレビが無い時代に戻るわけではない。それどころか、インターネットなどというすごく便利なものもある。お金が必要以上にグルグル回ることがなくなるだけのことである。経済用語に翻訳すると「GDPがマイナス成長」ということになるが、それはもうどうしようもなく、そうなるしかないのだと思う。逆らおうとするとバブル経済になるだけだ。

だとすると、これから先は「何をやっても儲からない」ということになる。確実に高収入が保証されるような道はもうないのだ。ところで、ちょっと前までは、何か自分のやりたいことをやって生きていこうとすると「そんなことをして、食べていけるのか?」という不安があった。これから先も多分それは同じだ。しかし、今や何をやっても食べていけるかどうかわからなくなってしまったのだから、「自分のやりたいことをあきらめて堅実な道を行く」という選択肢がない。だったら、やりたいことをやるしかない。...という時代が来てしまったのだ。

表題「お金なんかはちょっとでいいのだ」は、奥田民生が単身赴任を命じられたサラリーマンの悲哀を歌った名曲「大迷惑」(ユニコーン、1989)より。

2001.12.30

 → 資本主義の終焉